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或いは夢のようなはじまり
10 マンション崩壊
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(かっ、かづき……っ!!)
考えるよりも先に、階段を駆け上がっていた。
マンションに近付いた際に火の粉を被ったせいか、制服のそこかしこに小さな焦げ跡が出来てしまっていたが、そんな些事に気を向ける余裕はない。
我先にマンションから逃げ出そうと、転がるように階段を駆け下りてくる住人とぶつかりそうになりながらも全速力で階上へと向かう。
6階に到達する頃には、周囲に人の気配は感じられなくなっていた。
最初に感じた通りに在宅者はなかったという事か。さもなくば、とうに逃げ出したか、それとも爆発に巻き込まれたか。そのいずれかであったとしても、それこそ直樹にとってはどうでもよい事だ。
「く…っそう!!」
もどかしさをぶつけるように、香月宅のドアを力いっぱい引く。爆圧で蝶番は壊れており、施錠されていた筈の鉄扉は、意外な程にあっさりと引き倒された。その衝撃を受け、耳障りな音と共に細かな破片と灰が舞った。
歪んだ鉄扉の内側を一瞥しただけで、爆発の凄まじさを嫌という程に理解してしまう。
あの爆発に巻き込まれれば、どんな屈強な者とて物言わぬ肉塊と化すに違いない。
爆風によって室内に火種は残されていなかったが、それは楽観するための要素には遠く及ばない。
「香月……香月いいいいいっ!!!」
喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
最悪の事態が両肩に圧し掛かってきていたが、それでも一縷の望みを捨て切れない。ほんの10分前には小奇麗な部屋だった瓦礫の山に踏み入った。
迂闊にも瀕死状態の香月を踏んでしまう可能性も考えられたが、端から瓦礫を片付けていく余裕などない。なるべく足場が見えている部分を選び、足を運んでゆく。
(…………ぃ)
部屋に踏み入って10秒も経たないうちに、か細い声が直樹の耳に届いた……ような気がした。
「香月っ!?」
その場に踏み止まり聴覚に意識を集中させるも、心臓の鼓動と建物のそこかしこが発する軋みばかりが耳に届く。
(どこだ……、どこだ?)
広くはない筈の部屋が茫漠にさえ感じられる。叫びたくなる気持ちを抑え付け、部屋の間取りを思い浮かべながら呼び掛けを待った。
先程の声が期待から生まれた幻聴でないのを祈るばかりだ。
(……直…兄ぃ……)
聞こえた!
脳裏に開いた間取り図と、照らし合わせるだけの時間も惜しかった。
反射的に瓦礫の山を飛び越え、半壊している木製の扉を蹴り砕く。
「香月っ!」
飛び込んだ先は脱衣場だった。
(直兄ぃ~~)
さらに隣の部屋……浴室から、ちゃぷちゃぷとした水音に混じり、切望した香月の声が聞こえてきた。
声がくぐもって聞こえたのは、天井裏から落下してきた建材が浴槽を押さえ込んでいたからだ。
「待ってろ!」
中央に陣取っていた大きな木材を蹴り砕くと、細かな破片が散乱した浴槽の外蓋が現れた。
障害物の排除を感じ取ったのか、直樹が手を出すよりも早く外蓋が持ち上がる。
「ちょっと見ないでよね!」
外蓋はそのまま直樹の前に立ち塞がり、香月の裸体を隠す衝立となる。
身長差があるので直樹からは胸元まで丸見えではあったのだが、そこにはあえて触れずに背を向けた。
「いいから早く着替えろ。とっとと逃げるぞ」
爆発のあった建物内部にいた当事者たる香月だが、どこまで状況を理解しているものか。香月の無事に安堵しつつも、周囲を包む状況が悪くなっている事は確実であり、悠長に構えてはいられない。
香月を急かしつつ、脱衣場の出入り口で外を向いて待つ直樹。
「いやあ、なんかいきなり凄い音と振動が来てさぁ。天井が崩れそうだったから、とっさに蓋をして隠れたんだけど」
濡れた全身を手早く拭きながらも、香月の口調はどことなく間延びしていた。爆発を客観的に見ていないために、対岸の火事的な感覚なのだろう。
脱衣場にまで炎は届いておらず、そしてここにあったのが制服であったのは運が良かったと直樹は思った。制服があれば、学校はもとより大抵の場所へ行くのに困る事はない。
「その隠れた蓋で閉じ込められてちゃ世話ないな」
香月の語った顛末を鼻で笑ってみせたが、その判断は結果的に正しかったのだ。位置的に見ても、浴室はもっとも被害の少なかった場所である。
「ふーんだ、神的判断と言って欲しいものね。……っと、あれ?」
ホックを留めたスカートのポケットの内地折れを直そうと手を差し入れた香月だったが、その指先に触れるものがあった。
触り慣れた生地とは明らかに違う感触に何かと思って取り出してみると、小さな巾着袋が姿を見せた。
制服全体のラインが崩れる事を嫌う香月は、基本的にスカートのポケットは使用していない。むしろ制服のスカートにポケットなど不要だと考えているくらいだ。
まさか体育授業の前後で誰かのスカートと履き間違えてしまったかと思ったが、香月本人のもので合っている。
「……?」
ポーチを持っていない時など一時的にポケットを使用する事はあるが、まるで見覚えのない巾着袋に香月は首を傾げる。
高級そうな錦が使われているのは分かるのだが、くすんだその風合いは随分と年季の入ったものだと伺える。
「どうかしたか?」
香月の動きが止まったのを察した直樹が声を掛ける。どうしても振り返りたくなる衝動をぐっと堪えながら。
「うっ、ううんっ。なんでもないから! ……よし、お待たせっ!」
直樹の言葉に手早く着替え終えた香月が、背を向けたままの直樹の尻を叩いた。
巾着袋はそのままポケットに戻した。掌で握り込めるようなサイズであったし、誰の所有物かなど後でゆっくり調べればよい。
「よし、急ぐぞ」
直樹としては着替えさせる時間すら惜しかったが、着替えない事には香月は移動する事を拒否するだろうし、その裸体を衆目に晒すような真似は直樹自身が我慢できなかった。
みっともなく生き延びるくらいならば、きちんとした身形で死にたいという青臭い潔癖さが勝った形だ。
「で……結局、何があったの?」
散乱する瓦礫と無数の亀裂が走る廊下を抜け、階段を駆け降りながら香月は周囲の様子に目を丸くする。
直樹の想像した通り、浴室に閉じ篭っていた香月は状況を理解できていない。その瞬間を見ていた直樹にしてみても確定的な原因は分からないのだから、そこは笑ってやる事はできない。
「さあな。とにかく今は逃げる事だけ考えろ」
足元の感触を確認しながら、可能な限り迅速に歩を進める。
数時間後は分からないが、今すぐに足元のコンクリートが瓦解するような事はないだろう。あまり信憑性のない直感ではあるが、後ろ向きな思考が悪い状況を呼び寄せやすい事を直樹は知っている。
「うん……」
直樹の言葉に背を押されるように進む香月。時折振り返ろうとする仕草は、やはり住み慣れた部屋を後にする事の寂しさか。
無理もないとは思う。長年……と言うほどの歳月を経た訳ではないにせよ、このマンションは間違いなく香月の帰る地だったのだから。
仮に部屋そのものに愛着は湧いていなかったとしても、お気に入りだったろう服や雑貨類が壊滅的被害を受けた痛手は相当のものに違いない。
強いて幸運だったと言える事柄を挙げるならば、現金・資産扱いされるような重要書類は貸金庫に預けてある事か。
今日明日は身ひとつでの避難生活になってしまうが、生活を立て直すに困る程ではない筈だ。
「……!?」
香月の背を追っていた直樹だったが、不意に何者かの視線を背に感じた。
自分達が最後の避難者だと思っていたが、それ以上に時間を掛けている者がいようとは。
もしも自力で脱出できないような状態であれば、無視して進む事もできないだろう。香月の身が何よりも大事ではあるが、その香月も五体満足で合流できたのだ。ここで命運を左右するような状況の者に手を貸さなかったとあれば、寝覚めが悪いどころの話ではない。
「おい――!」
早く逃げろと言おうとしたが、振り返った先には誰も居なかった。
「…………」
直樹の視線の先には、揺らめくひとつの影。開け放たれたドアの奥から漏れた光が、直樹の見る壁に人影のような陰影を作り出していたのだ。
視界の隅で捉えれば、たしかに人影に見えなくもない。日常的に遭遇するような現象ではあるが、直樹はなぜかその影から視線を外せなかった。
揺らめく影は何かを伝えようとしている。そんな気がしてならない。そしてそのイメージを肯定するかのように、直樹の瞳に映る影は人間を模った立体的な姿を示しはじめる。
なんとも薄気味悪い話ではあるが、この感覚は初めてのものでもない。
「……直樹?」
先行していた香月だったが、直樹の足が止まっている事に気付いて振り返った。
訝る香月の声も耳に入らず、直樹の意識は目の前の人影に集中している。香月から見れば、何も存在しない壁を凝視するばかりの直樹だ。
『…………』
影が口を動かし、言葉を紡ごうとする。
もう少しで何かが聞ける。そう感じた直樹だったが、足の裏に響いてきた重い振動が影に対する注意を引き剥がした。
――香月を助けろ。崩れるぞ。
「ひゃ……!」
踊り場で直樹を見上げていた香月が短い悲鳴を上げた。唐突に、足下のコンクリートが崩壊したのだ。
反射的に跳びあがった香月だったが、十分な高さを得られなかった上に着地点となるべき場は瓦解し、闇に包まれた口を大きく開けて香月を呑み込もうと待ち構えている。
慌てて腕を伸ばすも、指先に触れる物は何もない。本来ならば尻餅をついて背から転がった筈のコンクリートの床。そのラインを過ぎ、地の底に向かって身体が回転を始める。
景色がゆっくりと流れ過ぎ、宙を掻く自身の腕さえも水中にあるかのように思い通りに動かない。どこか遠くで名を呼ぶ直樹の声だけが明瞭に耳に届く。
「……え?」
だが、落下感はそれ以上続かなかった。全身を襲うと思われた衝撃もいつまで経ってもやってこない。
おそるおそる目を開くと、階段を降りきったエントランスホールで直樹の両腕に抱きかかえられていた。
「あれ……あれれ?」
瞬間的に幻覚を視たのかと思った。しかし見上げれば、上階へと続く階段が寸断されている様子がはっきりと見えている。
「ねぇ、今……」
直樹が伸ばされた香月の腕を掴み、腰を抱え、階段の壁を駆けたように感じたのだ。
崩れた階段。直樹の腕の中。こうして到達しているエントランスホール。状況だけを考えれば、直樹が落ちる自分を助けてくれた事は疑いようもない。
(今、壁を走った? なんて聞くのもなぁ……)
どう考えたところで、人ひとりを抱えて壁を走るだなどと夢想じみている。あまりに特殊な状況下だけに、自分が体験した出来事が本当かどうかも疑わしい。
結果として、理解しがたい部分は考えない事に決めた。
夢でないのであれば、いずれまた同様の場面を目撃する事もあるだろう。その時にこそ、疑問があれば投げ掛けてみよう。
「………」
一人で大いに悩む香月をよそに、直樹は香月を抱えたままの姿勢で先程と同じ場所を見上げていた。
フロアをひとつ分降りたのだ。既に影があった場所は見えない位置となってしまっているが、それでも直樹は視線を外す事が出来ずにいた。
確かに、声を聞いた。
それがなければ、発生した振動に対して自分自身が倒れないようにする事に終始しただろう。
あの声のおかげで、落ちそうになる香月を引き上げる事に間に合った。壁を走った事も一瞬だけのものではあるが、その程度の事はできるという自負もある。吹聴するようなものでもないので黙っている事ではあるが、そんな鍛え方をしているのだから。
直樹を呆然とさせているのは、最後に見えた影だ。
凝視していた時には大雑把な人の形でしか見えていなかったが、視界から外れる最後の瞬間に見えた影は確かな表情をこちらへと向けていた。
(あの顔は……)
幼かった頃の話ではあるが、その顔には見覚えがあった。しかし同時に、疑問符ばかりが脳裏に浮かぶ。
影の正体に見当はつくし、そうである可能性も高いが、現状では想像でしかない。
少なくとも直樹は正しい答えを持っている者を知らないし、幼少の記憶もおぼろげでしかないのだ。
それにあの影は、直樹に害を為すだけの存在ではなかったのか?
かつては両親に助けられて乗り切ったが、今回もまた同様の難事が発生するのだろうか。
多少強引に状況をこじつけてみても、納得いく説明をつけるための糸口は見えはしない。
「な……直樹」
胸元を小さく叩かれ、香月を抱えたままの姿で突っ立っている自分に気付く。
「わ、悪い。大丈夫だったか?」
慌てて爪先を地に下ろすと、香月は跳ねるようにして直樹から離れた。
「大丈夫…。あ、ありがと……」
なんとも形容しがたい照れ臭さに頬を染める香月。普通に振舞おうとしても、この場を取り繕う適当な言葉が出てこない。
そんな香月の様子に気付いた訳でもなかったが、直樹は顔を隠すように向けられた背を叩いて先を促す。
直樹自身が無駄な時間を費やしてしまった感は否めないが、それを差し引いてもマンションの崩壊が早すぎる。落とし穴程度ならともかく、頭上から避けきれない程の瓦礫が降ってきたら一巻の終わりだ。
様々な事に思考を巡らせたいという思いは強かったが、今夜はそんな暇は無さそうだ。
「行こう」
改めて言葉にし、マンションの敷地外へと足を向けた。
考えるよりも先に、階段を駆け上がっていた。
マンションに近付いた際に火の粉を被ったせいか、制服のそこかしこに小さな焦げ跡が出来てしまっていたが、そんな些事に気を向ける余裕はない。
我先にマンションから逃げ出そうと、転がるように階段を駆け下りてくる住人とぶつかりそうになりながらも全速力で階上へと向かう。
6階に到達する頃には、周囲に人の気配は感じられなくなっていた。
最初に感じた通りに在宅者はなかったという事か。さもなくば、とうに逃げ出したか、それとも爆発に巻き込まれたか。そのいずれかであったとしても、それこそ直樹にとってはどうでもよい事だ。
「く…っそう!!」
もどかしさをぶつけるように、香月宅のドアを力いっぱい引く。爆圧で蝶番は壊れており、施錠されていた筈の鉄扉は、意外な程にあっさりと引き倒された。その衝撃を受け、耳障りな音と共に細かな破片と灰が舞った。
歪んだ鉄扉の内側を一瞥しただけで、爆発の凄まじさを嫌という程に理解してしまう。
あの爆発に巻き込まれれば、どんな屈強な者とて物言わぬ肉塊と化すに違いない。
爆風によって室内に火種は残されていなかったが、それは楽観するための要素には遠く及ばない。
「香月……香月いいいいいっ!!!」
喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
最悪の事態が両肩に圧し掛かってきていたが、それでも一縷の望みを捨て切れない。ほんの10分前には小奇麗な部屋だった瓦礫の山に踏み入った。
迂闊にも瀕死状態の香月を踏んでしまう可能性も考えられたが、端から瓦礫を片付けていく余裕などない。なるべく足場が見えている部分を選び、足を運んでゆく。
(…………ぃ)
部屋に踏み入って10秒も経たないうちに、か細い声が直樹の耳に届いた……ような気がした。
「香月っ!?」
その場に踏み止まり聴覚に意識を集中させるも、心臓の鼓動と建物のそこかしこが発する軋みばかりが耳に届く。
(どこだ……、どこだ?)
広くはない筈の部屋が茫漠にさえ感じられる。叫びたくなる気持ちを抑え付け、部屋の間取りを思い浮かべながら呼び掛けを待った。
先程の声が期待から生まれた幻聴でないのを祈るばかりだ。
(……直…兄ぃ……)
聞こえた!
脳裏に開いた間取り図と、照らし合わせるだけの時間も惜しかった。
反射的に瓦礫の山を飛び越え、半壊している木製の扉を蹴り砕く。
「香月っ!」
飛び込んだ先は脱衣場だった。
(直兄ぃ~~)
さらに隣の部屋……浴室から、ちゃぷちゃぷとした水音に混じり、切望した香月の声が聞こえてきた。
声がくぐもって聞こえたのは、天井裏から落下してきた建材が浴槽を押さえ込んでいたからだ。
「待ってろ!」
中央に陣取っていた大きな木材を蹴り砕くと、細かな破片が散乱した浴槽の外蓋が現れた。
障害物の排除を感じ取ったのか、直樹が手を出すよりも早く外蓋が持ち上がる。
「ちょっと見ないでよね!」
外蓋はそのまま直樹の前に立ち塞がり、香月の裸体を隠す衝立となる。
身長差があるので直樹からは胸元まで丸見えではあったのだが、そこにはあえて触れずに背を向けた。
「いいから早く着替えろ。とっとと逃げるぞ」
爆発のあった建物内部にいた当事者たる香月だが、どこまで状況を理解しているものか。香月の無事に安堵しつつも、周囲を包む状況が悪くなっている事は確実であり、悠長に構えてはいられない。
香月を急かしつつ、脱衣場の出入り口で外を向いて待つ直樹。
「いやあ、なんかいきなり凄い音と振動が来てさぁ。天井が崩れそうだったから、とっさに蓋をして隠れたんだけど」
濡れた全身を手早く拭きながらも、香月の口調はどことなく間延びしていた。爆発を客観的に見ていないために、対岸の火事的な感覚なのだろう。
脱衣場にまで炎は届いておらず、そしてここにあったのが制服であったのは運が良かったと直樹は思った。制服があれば、学校はもとより大抵の場所へ行くのに困る事はない。
「その隠れた蓋で閉じ込められてちゃ世話ないな」
香月の語った顛末を鼻で笑ってみせたが、その判断は結果的に正しかったのだ。位置的に見ても、浴室はもっとも被害の少なかった場所である。
「ふーんだ、神的判断と言って欲しいものね。……っと、あれ?」
ホックを留めたスカートのポケットの内地折れを直そうと手を差し入れた香月だったが、その指先に触れるものがあった。
触り慣れた生地とは明らかに違う感触に何かと思って取り出してみると、小さな巾着袋が姿を見せた。
制服全体のラインが崩れる事を嫌う香月は、基本的にスカートのポケットは使用していない。むしろ制服のスカートにポケットなど不要だと考えているくらいだ。
まさか体育授業の前後で誰かのスカートと履き間違えてしまったかと思ったが、香月本人のもので合っている。
「……?」
ポーチを持っていない時など一時的にポケットを使用する事はあるが、まるで見覚えのない巾着袋に香月は首を傾げる。
高級そうな錦が使われているのは分かるのだが、くすんだその風合いは随分と年季の入ったものだと伺える。
「どうかしたか?」
香月の動きが止まったのを察した直樹が声を掛ける。どうしても振り返りたくなる衝動をぐっと堪えながら。
「うっ、ううんっ。なんでもないから! ……よし、お待たせっ!」
直樹の言葉に手早く着替え終えた香月が、背を向けたままの直樹の尻を叩いた。
巾着袋はそのままポケットに戻した。掌で握り込めるようなサイズであったし、誰の所有物かなど後でゆっくり調べればよい。
「よし、急ぐぞ」
直樹としては着替えさせる時間すら惜しかったが、着替えない事には香月は移動する事を拒否するだろうし、その裸体を衆目に晒すような真似は直樹自身が我慢できなかった。
みっともなく生き延びるくらいならば、きちんとした身形で死にたいという青臭い潔癖さが勝った形だ。
「で……結局、何があったの?」
散乱する瓦礫と無数の亀裂が走る廊下を抜け、階段を駆け降りながら香月は周囲の様子に目を丸くする。
直樹の想像した通り、浴室に閉じ篭っていた香月は状況を理解できていない。その瞬間を見ていた直樹にしてみても確定的な原因は分からないのだから、そこは笑ってやる事はできない。
「さあな。とにかく今は逃げる事だけ考えろ」
足元の感触を確認しながら、可能な限り迅速に歩を進める。
数時間後は分からないが、今すぐに足元のコンクリートが瓦解するような事はないだろう。あまり信憑性のない直感ではあるが、後ろ向きな思考が悪い状況を呼び寄せやすい事を直樹は知っている。
「うん……」
直樹の言葉に背を押されるように進む香月。時折振り返ろうとする仕草は、やはり住み慣れた部屋を後にする事の寂しさか。
無理もないとは思う。長年……と言うほどの歳月を経た訳ではないにせよ、このマンションは間違いなく香月の帰る地だったのだから。
仮に部屋そのものに愛着は湧いていなかったとしても、お気に入りだったろう服や雑貨類が壊滅的被害を受けた痛手は相当のものに違いない。
強いて幸運だったと言える事柄を挙げるならば、現金・資産扱いされるような重要書類は貸金庫に預けてある事か。
今日明日は身ひとつでの避難生活になってしまうが、生活を立て直すに困る程ではない筈だ。
「……!?」
香月の背を追っていた直樹だったが、不意に何者かの視線を背に感じた。
自分達が最後の避難者だと思っていたが、それ以上に時間を掛けている者がいようとは。
もしも自力で脱出できないような状態であれば、無視して進む事もできないだろう。香月の身が何よりも大事ではあるが、その香月も五体満足で合流できたのだ。ここで命運を左右するような状況の者に手を貸さなかったとあれば、寝覚めが悪いどころの話ではない。
「おい――!」
早く逃げろと言おうとしたが、振り返った先には誰も居なかった。
「…………」
直樹の視線の先には、揺らめくひとつの影。開け放たれたドアの奥から漏れた光が、直樹の見る壁に人影のような陰影を作り出していたのだ。
視界の隅で捉えれば、たしかに人影に見えなくもない。日常的に遭遇するような現象ではあるが、直樹はなぜかその影から視線を外せなかった。
揺らめく影は何かを伝えようとしている。そんな気がしてならない。そしてそのイメージを肯定するかのように、直樹の瞳に映る影は人間を模った立体的な姿を示しはじめる。
なんとも薄気味悪い話ではあるが、この感覚は初めてのものでもない。
「……直樹?」
先行していた香月だったが、直樹の足が止まっている事に気付いて振り返った。
訝る香月の声も耳に入らず、直樹の意識は目の前の人影に集中している。香月から見れば、何も存在しない壁を凝視するばかりの直樹だ。
『…………』
影が口を動かし、言葉を紡ごうとする。
もう少しで何かが聞ける。そう感じた直樹だったが、足の裏に響いてきた重い振動が影に対する注意を引き剥がした。
――香月を助けろ。崩れるぞ。
「ひゃ……!」
踊り場で直樹を見上げていた香月が短い悲鳴を上げた。唐突に、足下のコンクリートが崩壊したのだ。
反射的に跳びあがった香月だったが、十分な高さを得られなかった上に着地点となるべき場は瓦解し、闇に包まれた口を大きく開けて香月を呑み込もうと待ち構えている。
慌てて腕を伸ばすも、指先に触れる物は何もない。本来ならば尻餅をついて背から転がった筈のコンクリートの床。そのラインを過ぎ、地の底に向かって身体が回転を始める。
景色がゆっくりと流れ過ぎ、宙を掻く自身の腕さえも水中にあるかのように思い通りに動かない。どこか遠くで名を呼ぶ直樹の声だけが明瞭に耳に届く。
「……え?」
だが、落下感はそれ以上続かなかった。全身を襲うと思われた衝撃もいつまで経ってもやってこない。
おそるおそる目を開くと、階段を降りきったエントランスホールで直樹の両腕に抱きかかえられていた。
「あれ……あれれ?」
瞬間的に幻覚を視たのかと思った。しかし見上げれば、上階へと続く階段が寸断されている様子がはっきりと見えている。
「ねぇ、今……」
直樹が伸ばされた香月の腕を掴み、腰を抱え、階段の壁を駆けたように感じたのだ。
崩れた階段。直樹の腕の中。こうして到達しているエントランスホール。状況だけを考えれば、直樹が落ちる自分を助けてくれた事は疑いようもない。
(今、壁を走った? なんて聞くのもなぁ……)
どう考えたところで、人ひとりを抱えて壁を走るだなどと夢想じみている。あまりに特殊な状況下だけに、自分が体験した出来事が本当かどうかも疑わしい。
結果として、理解しがたい部分は考えない事に決めた。
夢でないのであれば、いずれまた同様の場面を目撃する事もあるだろう。その時にこそ、疑問があれば投げ掛けてみよう。
「………」
一人で大いに悩む香月をよそに、直樹は香月を抱えたままの姿勢で先程と同じ場所を見上げていた。
フロアをひとつ分降りたのだ。既に影があった場所は見えない位置となってしまっているが、それでも直樹は視線を外す事が出来ずにいた。
確かに、声を聞いた。
それがなければ、発生した振動に対して自分自身が倒れないようにする事に終始しただろう。
あの声のおかげで、落ちそうになる香月を引き上げる事に間に合った。壁を走った事も一瞬だけのものではあるが、その程度の事はできるという自負もある。吹聴するようなものでもないので黙っている事ではあるが、そんな鍛え方をしているのだから。
直樹を呆然とさせているのは、最後に見えた影だ。
凝視していた時には大雑把な人の形でしか見えていなかったが、視界から外れる最後の瞬間に見えた影は確かな表情をこちらへと向けていた。
(あの顔は……)
幼かった頃の話ではあるが、その顔には見覚えがあった。しかし同時に、疑問符ばかりが脳裏に浮かぶ。
影の正体に見当はつくし、そうである可能性も高いが、現状では想像でしかない。
少なくとも直樹は正しい答えを持っている者を知らないし、幼少の記憶もおぼろげでしかないのだ。
それにあの影は、直樹に害を為すだけの存在ではなかったのか?
かつては両親に助けられて乗り切ったが、今回もまた同様の難事が発生するのだろうか。
多少強引に状況をこじつけてみても、納得いく説明をつけるための糸口は見えはしない。
「な……直樹」
胸元を小さく叩かれ、香月を抱えたままの姿で突っ立っている自分に気付く。
「わ、悪い。大丈夫だったか?」
慌てて爪先を地に下ろすと、香月は跳ねるようにして直樹から離れた。
「大丈夫…。あ、ありがと……」
なんとも形容しがたい照れ臭さに頬を染める香月。普通に振舞おうとしても、この場を取り繕う適当な言葉が出てこない。
そんな香月の様子に気付いた訳でもなかったが、直樹は顔を隠すように向けられた背を叩いて先を促す。
直樹自身が無駄な時間を費やしてしまった感は否めないが、それを差し引いてもマンションの崩壊が早すぎる。落とし穴程度ならともかく、頭上から避けきれない程の瓦礫が降ってきたら一巻の終わりだ。
様々な事に思考を巡らせたいという思いは強かったが、今夜はそんな暇は無さそうだ。
「行こう」
改めて言葉にし、マンションの敷地外へと足を向けた。
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