めぐり、つむぎ

竜田彦十郎

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はじまり

008 金髪の女

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 圭の住む町は都心から離れているとはいえ、駅前商店街はそれなりの賑わいを見せている。もっとも、朝から営業している店は数える程しかない。
 商店街としては目覚めきっていない時間帯だが、圭達のような学生以外にも通勤目的の社会人も足繁く通う区域であり、粛々とした喧噪に満ちていた。

 実際のところ、電車を利用するのは背広姿のサラリーマンが大多数を占めている。学生服姿もちらほらと見る事ができるが、一駅分だけとあっては自転車利用の方が多いのも頷ける話だ。
 入学当時は圭も自転車通学を考えたものだったが、眞尋の強い反対によって電車通学となっている。
 思うように会話のできない自転車通学などつまらないとの主張であり、お喋り好きの一樹も概ね賛同した結果である。


「…お、おおぅ」

 駅構内に差し掛ろうとした時だった。何かを発見した一樹が小さく口笛を吹いた。
 圭は自然とその視線の先を追うが、こういう時は女性絡みだろうと、これまでの経験則により察している。
 それでもつい反応してしまうのは、異性に対する情熱が人並み以上に激しい一樹の目に留まった相手がどのような者なのかという興味も少なからずあったからだ。

 そして予想通りというべきか、視線の先には一人の女性の姿があったのだが。彼女から放たれる存在感は不特定の異性に対する興味が薄い圭ですら目を瞠る思いがした。
 鮮やかなまでの赤で統一された服は脚や腰の流麗なラインを惜しげもなく晒し、短く刈り込まれた青みの強い金髪が炎のように揺らめく様は、まるでそこに広告用の等身大モニターが設置してあるのかと錯覚してしまいそうになる。

 古臭い表現をすれば、銀幕から抜け出してきた……だろうか。
 薄錆の浮く街灯に背を預け、駅構内へと吸い込まれてゆく人の流れを追う瞳は深く澄んだ群青色をしていたが、どこか刃物の如き鋭利さを想起させる眼差しが通行人を遠巻きにさせているようにも見える。
 同じ時間帯に駅前を利用しているが、少なくとも圭には見覚えのない人物だった。こんなにも目立つ女性ならば、一度見れば忘れよう筈がないからだ。

(だけど、何をしているんだろうな)

 圭は少しばかりの違和感を覚えた。
 見る者によっては扇情的とも受け取られかねない服装は職場勤めにはおよそ似つかわしくないものであったし、この朝のラッシュ時に駅前で誰かと待ち合わせだとも考え難い。
 しかし、視線を忙しなく左右に動かす様はいかにも何者かを探している風であり、重ねて目当ての人物が現れていない事を示している。

(なぁなぁ、圭。俺、あの女性ヒトとお近付きになりたいなぁ)

 一樹が圭の耳元で囁いた。
 悪い癖が出たと思いながらも圭は黙認した。ここで一樹を無理にでも引っ張っていけば、むこう三日は顔を会わせる度に愚痴を言われ続ける事になるからだ。

 一樹が圭だけに伝えたのは、眞尋に気付かれないようにサポートさせるためだ。
 ナンパ目的のために学校に遅刻……場合によっては欠席する事になる愚行を黙って見過ごさないのが眞尋である。その憤慨する様子を知っている圭から見れば、真面目というよりも熱血漢に近いイメージではあるが。
 そして困った事に、一樹のナンパ成功率はなかなかに高い。同性の圭からみてもルックスは文句なく他の男子生徒より抜きん出ており、話題豊富で笑顔も絶やさない。最後に、なんといっても異性に対する情熱に溢れている。

『多くの女性と知り合いになれれば毎日が楽しいじゃないか』とは一樹本人の弁だが、相手の女性も常に一樹と同じく友達感覚で接してくれるとは限らないだろうに。
 これまでのナンパ相手の女性か、或いは見た事のない男相手か、いずれ痛い目に遭わなければその性格は直りそうにない。

(ようし、いくぜ!)

 一樹の表情が引き締まる。
 幸いにして視線の位置が低い眞尋は人混みの中に埋もれてしまっているので、一樹が目指す女性の存在に気付いていない。
 圭の腕にしがみつかせたまま別方向へと歩み出す一樹の姿を死角にしておけば問題ないだろう。
 あとは電車に乗ったところで、適当な理由をでっち上げればいい。

(さすがの一樹も、あんなモデル張りの外人さん相手じゃ軽くあしらわれるかもしれないしな)

 そうなれば電車一本程度の遅れで追い付いてくるやもしれない。
 とりあえずは一樹が話し掛けた時の相手の反応だけでも見ておきたいと思い、圭は身体の向きを変える前に当の女性に視線を移してみた。

「――!」

 視線がぶつかり、圭は息を呑んだ。
 単に目が合っただけではない。女は圭が顔を向ける前からこちらを注視していたのだ。

 女が蠱惑的な笑みを浮かべる。それは、彼女が探していた対象が圭自身である事を如実に語っていた。
 そうだと身体で認識した途端、圭は下肢が硬直するのを感じた。まるで凍り付いたかのように固まった両脚は、圭の意思を無視し微動だにしない。
 次第に腕と背中の感覚もが消えゆき、受け身も取れずに倒れ込んだとしても痛みすら感じなかったろう。
 右腕に体重を預けているはずの眞尋の存在も空気のように希薄になり、周囲を往く人の波さえも視界から消え、圭の目の前にはこちらを見据えてゆっくりと近付いてくる女の姿だけが残る。

 圭を見据えたまま、女の瞳が確かな圧力をもって近付いてくる。
 蛇に睨まれた蛙か、それともこれが魅了されるという事なのか。
 今、己の裡に発生している感情が恐怖なのか、もっと違う何かなのか、圭の思考は穴が開いてしまったかのようにどこかへ漏れ続けるばかりだったが、女の歩みが止まると同時に凍っていた圭の時間が融解した。

 無駄に力の入った四肢の震えも、心配そうに腕を引く眞尋の重みも確かに感じる。女の存在を一瞬のうちに見失ってしまっていた一樹がこちらに気付いて戻ってくる姿も見えた。
 改めて見れば女性の瞳はどこか面白そうな色を湛えるばかりで、たった今まで感じていた挑みかかってくるような圧力は微塵も感じられない。

 そして女が口を開いた。

「ザナルスィバ?」

「は?」

 一瞬、何を言ったのか理解できなかった。
 羅列された文字のひとつひとつははっきりと聞こえはしたが、それが何を意味する言葉なのか。圭の知識の中に、それに近い単語は存在しない。

「彼女の母国語の挨拶じゃないか? ザナルスィバ~」

 困惑する圭の隣にまで戻ってきた一樹がにこやかに片手を上げる。事の成り行きが理解できていない眞尋は眉根を寄せながら三人の顔を見比べるばかりだ。
 そんなやり取りを見て、女の笑顔が微かに崩れた。

「挨拶なんかじゃないわよ」

 形の良い唇から紡ぎ出されたのは、流麗な日本語だった。
 発音もしっかりしたその言葉から、女が日本語を正しく理解しているのだと認識できた。少なくとも昨日今日、日本にやってきた者ではないだろう。
 自身の発した単語だけでは圭に理解されなかった事が余程心外だったのだろう。落胆した表情を隠そうともしないまま、女は言葉を続ける。

「ザナルスィバ、って知ってる? って、聞いたのよ」

 女は言葉を区切るようにしながら、改めて聞き慣れない単語を発した。
 もちろん、そんなものは知らない。
 もしかしたらどこかで聞いた事があるのだろうかと思い記憶の底を探るも、やはり聞き覚えのない単語だった。

「まぁ、そう言うと思ったわよ」

 期待する答えではなかった筈なのに、どこか達観したように嘆息しただけの女。
 そのあっさりした反応が却って気にはなったが、ここで無駄に足踏みしていれば一樹に付き合う形で遅刻確定だ。
 眞尋を促して早々にこの場を離れようと、圭は口を開く――

「私の、目を、見て」

 開きかけた顎を掴まれ、女の方に向かされた。あまりに突然の事に眞尋に向けようとした言葉も喉の奥で掻き消える。
 女の暴挙ともいえる行動に眞尋が抗議しようと身を乗り出したが、その眼前に突き出された女の掌がまるで魔法をかけたかのように眞尋を黙り込ませた。

「……ねぇ?」

 女と視線の絡んだ圭は、先程と同じ圧迫感に包まれていた。
 自分の顎を掴んでいる細い指は既に添えられているだけになっているにもかかわらず、圭は顔を背けるどころか指先一本動かせずにいた。
 むしろ甘い痺れにも似た感覚に囚われた肉体は、この状態を悦んでいるのだと錯覚してしまいそうだ。

「私の、質問に、正直に、答えて、欲しいの」

 女の視線と言葉に、圭は得体の知れない力を感じた。

 たった今会ったばかりの女に対して、従順になりたいと焦がれ始める。女に質問されれば、誰にも打ち明けた事のない個人的な秘密でさえも、余すところなく告白したいという欲求に駆られる。
 そう、この女の前ではどんな些細な隠し事でさえ、この上ない不実な行為となるのだ。その罪悪感に苛まれるくらいならば、自ら命を絶つ事にさえ躊躇いは無いだろう。

「ザナルスィバ……知っているわよね?」

 女の口から三度みたび発せられる謎の単語。その単語が圭の頭の中をぐるぐると回り……そしてゆっくりと口が開かれた。

「……知ら…ない」

 言い切ると同時に、圭の全身から一気に力が抜けた。膝を折って倒れ込みそうになるが、なんとか尻餅をつく事もなく踏み止まった。

「あ~あ、絶対に当たりだと思ったんだけどなぁ。ごめんね、時間とらせちゃって。もう行っていいわよ?」

 興を殺がれたように女は背を向け、元居た場所へと戻るべく脚を動かす。彼女にとって期待外れの展開であったのだとしても、その挙動が優雅に見えるのは強がりなのか、それとも身に付いた習性というものか。
 たった今まで圭の身体を支配していた感覚も綺麗に消え失せ、どんな気持ちであったのか片鱗すら思い出せない。狐につままれるというのはこんな感覚なのだろうか。

 暫し茫然としていた圭だったが、身じろぎする眞尋の重みを腕に感じて我に返る。
 不思議な気持ちだったのは眞尋も同じだったようで、一樹が女の後を追って姿を消していた事にも気付かず、圭に促されるまま言葉少なに駅構内へと移動するのだった。
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