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はじまり
019 デート・接触編
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「その……さっきは格好悪いところを見せちゃったわね」
好意的に解釈すれば『感受性が強い』とするところだが、穂自身はそうではないと考えているようだった。
「いい歳してあんなに泣いちゃうなんてね。自分でも驚いてるくらいよ」
圭と目を合わせる事によって思い出してしまうのか、穂は先程から照れたように視線を逸らしてばかりいる。
今も次第に小さくなるシティの街並みへと顔を向けたままの穂に合わせるように、圭もまた眼下に広がる光景に視線を移す。
コーヒーショップで軽い昼食を摂った後、二人はゴンドラに揺られていた。
最大到達地点が地上180メートルにも及ぶという大観覧車だ。世界記録にこそ足りないが、それでも十分に技術の高さというものを知らしめる数字だ。
数字だけで見れば登山に興じた方が広大な景色を眺める事ができるのだが、足元から地表までの間に何も無いという眺めは山の頂とは全く異なる興奮を覚えさせる。
「わっ、わっ、凄ぉい。あんな遠くまで……ほら、学校も見えるわよ!」
想像以上の展望に興奮した様子を隠し切れなくなっている穂の横顔を見ながら、圭は自然と微笑んでいた。
さっきまで泣いていたと思えば、こうも子供のようにはしゃぐ。
教室で見る委員長の姿からは想像もつかない。
明るく振る舞っていながらも、どこかクールに見えていた委員長としてのスタイルは意識的に作り上げているものなのかもしれない。
「ん? どうかしたの?」
そんな圭の視線を感じたのか、穂が振り向いた。
突然に合わせられた視線に、今度は圭が顔を背ける形になってしまう。
「ん~? もしかして、私の横顔に見惚れてた?」
言いにくそうな事をごく自然に出す穂。
大袈裟な程に上体を倒し、下から覗き込む目は思いきり笑っている。
余程自信があるのか、それともからかっているだけなのか、心の機微に疎い圭ではそこまで推し量る事はできない。
「ね、次はあれに乗りましょうよ」
顔を赤くした圭に満足したのか、穂は眼下に見えるジェットコースターを指さした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その後も二人は色々と遊んで回った。
実力が拮抗していたボウリングでは思いのほか白熱し、水族館では大ジャンプを見せたイルカに豪快な水飛沫を浴びせられ、プラネタリウムではカップルシートに案内されたのを良い事に必要以上に密着してくる穂に終始緊張を強いられ……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「…ふふ。こんなに遊んだのって初めてかも」
オープンカフェの一角で、興奮冷めやらぬ様子の穂だった。
興奮のあまり手にしたカップを砕いたりはしないだろうと思いながらも、ありえない事ではないと心配してしまう程に力が入っているようにも見える。
「俺だって、遊園地自体が久し振りだったしなぁ」
遊園地に最後に行ったのは小学生の低学年の頃だったろうか。
まさか久し振りに来る事となったのが、クラス委員長とのデートだとは夢にも思わなかったが。
日も傾き周囲が徐々に朱に染まりつつある中、向かい合う二人は言葉も少なくなっていた。
「……ねぇ、圭くん」
呼び掛けた穂の声は、今し方までの楽しげにしていたものとは違っていた。
その変わり様に引き込まれるように圭は自然と視線を向ける――そこには優しく微笑みながらも真摯に見つめてくる黒い瞳があった。
「私と一緒にいて、楽しかった?」
今まで笑い合っていた筈なのに何を今さら聞いてくるのだと圭は眉を寄せ、それをどう受け止めたのか、穂の表情に不安の色が浮かぶ。
微かに良心が痛むのを感じた圭は目を逸らしかけたが、なんとか踏み止まり穂の視線を正面から見据える。
「逆に、聞きたい」
ここで『恋人っぽい』返答をするのはいかにも簡単だったろう。
そしてそうすれば、今暫くは心浮き立つような気持ちを味わえたに違いない。帰宅を促すにはまだ少し早い時間帯だ。
しかし、圭はそうしなかった。
穂相手のデートに不満があった訳ではない。
教室でしか見た事のない……『委員長』ではない姿は新鮮なものであり、決して悪い気はしていなかった。
否、正直に言えば楽しかった。
異性とこうして遊ぶ事が、これほどまでに楽しく時間を過ごせるものだとは思ってもいなかった。
だが、それでも圭は釈然としないものを心のどこかで感じ続けており、その疑問を今ぶつけるべきだと考えたのだ。
「どうして、俺にここまでしてくれる?」
それは教室でデートの誘いを受けた時から、ずっと疑問に感じていた事だった。
最初は、クラス委員長としての責務なのだろうと考えていた。
しかし当日になって一樹らを遠ざけてみたり、積極的に寄り添ってみたりと、なにか別の意図があるように思えてならないのだ。
圭自身、自分がそんなにも異性の関心を引く男だとは思ってはいない。
眞尋という、圭にべったりの存在もある以上、及第点には達しているという証にもなるのだろうが、それでも客観的に見るに、例えば一樹の方が女性受けする事は明白なのだ。
他にも探せば圭よりもランクの高い男など数多くいるだろう。
「どうして…って、理由が欲しいの?」
本当に意外だと言わんばかりの穂に無言で返す。
理由が欲しい訳ではなく、理由があると思ったからだ。
確固たる意志を決めたつもりだったが、次の瞬間にはそれが足下から揺らぐ音が聞こえた気がした。
「……大なり小なり女ってのはね、強い男に興味を持つものなのよ」
その瞳に宿った妖艶さを秘めた光に射竦められた。
その光がどういった感情からくるものなのか、圭には分からない。
そして一瞬ではあったが、その瞳に心を奪われた隙に重ねられた指先の感触に『捕まった』という感覚に囚われた。
「体術の時間、見ていたわ」
圭は息を呑んだ。
具体的な名称は出さずとも、それが何を指しているのかなど考えるまでもない。
女子は体育館での授業だった筈だが、偶然にも穂がその瞬間を目撃していたという事も圭にとっては衝撃的だった。
「あれは……ほんの偶然で……」
今でも原因は判明していない。
むしろ一樹が無事だった事もあり、忘れ去ろうとさえしていた件だ。
圭は言葉を濁す事しか出来なかった。
「そうね。確かに偶然だったろうけれど、圭くんの手に因る結果だという事は間違いないわ」
その場に居た継島でさえも認め難かった事を、穂はいとも簡単に断定した。
下手な先入観など持たず、目の前の出来事をありのまま受け止めた穂こそがこの場合は正しかった。
「ついでに言えば、そんな力を心のどこかで恐れているというのも悪くないところだわ。友達を病院送りにするような力、無闇に誇示するようでは人として最低だもの」
穂の優しい微笑みが、圭の心の奥へと染み込んでくる。
あの力の起因が何であれ、忌み嫌われるものであろう事は想像に難くない。
それを目の前の少女は極めて好意的に受け止めてくれている。
「穂……」
知らず、その名を呟いていた。
そしてそれに呼応するかのように穂が小首を傾げるように微笑んだ。
どうして穂との距離が縮まっているのか。
薄く開いた色艶の良い唇に吸い寄せられているのは何故か。
今の圭には全てがどうでもよくなっていた。
そう、今の圭の瞳に映るのは今にも目を閉じようとしている穂と、その背後に立つ憤怒の形相の眞尋だけ――
(……え?)
突如として我に返った。
何故、この二人の事を忘れていたのか。
反射的に立ち上がろうとしたが、それよりも早く眞尋の指先が到達していた。
「んがっ!?」
一旦は浮かせた腰が押し返されるように椅子へと逆戻りし、目の前が真っ暗になっているのは眞尋に顔を掴まれたからだと一呼吸遅れて理解する。
そして、続いてやってきたのは締め付けられるような痛み。
「いだだだだだっ!!」
非力な筈のその細い指先が、圭のこめかみを握り潰さんばかりに圧迫する。
視界は完全に塞がれているにもかかわらず、不思議と眞尋の表情が目に見えるようだった。
「圭ちゃんの……っ、浮気者おっ!!」
あまりの激痛に抵抗も出来ないままに意識が遠のきかけたが、もう一人の存在が眞尋を押し止めた。
「そのくらいにしとけ。圭の奴、指先が痙攣し始めてるぞ」
半ば強引に眞尋の身体を引き剥がす一樹だったが、その表情もどこか精彩に欠けていた。
穂に出し抜かれた事に気付いてからこっち、圭達の姿を探してシティ中を駆けずり回っていた結果だ。
「お前らときたら、携帯の電源も落としていたろ?」
言われて圭は胸ポケットに入れてあった携帯電話を確認してみる。
映画を観た時は確かに電源を切っていたが、その後はマナーモードにしてあった筈だ。充電も十分であり、電池切れという事も考えにくいのだが。
「…あれ?」
胸ポケットには何も入っていなかった。
慌てて全てのポケットを叩いてみるが、それと思しき硬い感触には当たらない。
「ごめんなさいね。ちょっと預からせて貰っていたのよ」
悪戯を見咎められたような表情で、ハンドバッグから電源の落ちている携帯電話を取り出す穂。
早速電源を入れて確認する。
間違いなく圭の持ち物だが、サービスセンター預かりの留守番電話が34件、そして今まさに溢れんばかりの着信を示す25通のメールが問題だった。
「あらあら…」
携帯電話を隠した張本人が、他人事のような声を洩らす。
これはすべて削除するだけでも結構な手間になりそうだ。
しかし、携帯電話の紛失にすら気付かない程にデートに夢中になっていたという事が圭にとっては驚きだった。
「さて、俺達も何か買ってくるとするよ。昼飯も抜きで振り回されっぱなしだったからな」
圭と穂の表情から大体の事情を察した一樹は、眞尋を抱えたまま周囲を見回して行列の短い売店を探し始める。
夕食には早い時間ではあったが、空の色が朱に染まるこの時間帯、圭達と同じようにひと息入れようと考える者は多いらしい。
どの売店に向かおうとも、多少の時間は浪費してしまうだろう。
「やだやだやだ! 今度は私が圭ちゃんと一緒に居るぅ!」
ジタバタと暴れる眞尋の意見を無視し、一樹は圭と穂に改めて向き直る。
「そこでもう少し愛の語らいをしてていいから、今度はちゃんと待ってろよ?」
一樹らにしてみれば、ここで圭達を捕まえる事が出来たのは本当に偶然に過ぎない。
限られた空間とはいえ、この広い敷地内を本気で逃げ回られたら探しようなどなくなるし、横で騒ぎ続ける眞尋の相手もさせられるのは苦行そのものだった。
昨夜、穂からの待ち合わせ時間変更の電話が、圭と二人きりになりたいがための方便だと気付いた時点で潔く諦めようと思ったものだが、眞尋が頑として聞き入れなかったために半日もの間、足を動かし続ける羽目になっている。
一樹としても二人にこれ以上逃げられるのは勘弁願いたいところだった。
「大丈夫よ。ここで見つかっちゃった以上、もう余計な事はしないわ」
穂の返答を聞くと、一樹はひとつ頷いて売店へと足を向けた。
「愛の語らいは私がーっ!」
騒ぐ眞尋は黙殺した。
ここから先は四人で行動をする事になるが、既に夕刻である。
穂の想像以上の行動力に敬意を表し、残り少ない今日という時間、あまり野暮な事はすまいと達観した気分の一樹だった。
好意的に解釈すれば『感受性が強い』とするところだが、穂自身はそうではないと考えているようだった。
「いい歳してあんなに泣いちゃうなんてね。自分でも驚いてるくらいよ」
圭と目を合わせる事によって思い出してしまうのか、穂は先程から照れたように視線を逸らしてばかりいる。
今も次第に小さくなるシティの街並みへと顔を向けたままの穂に合わせるように、圭もまた眼下に広がる光景に視線を移す。
コーヒーショップで軽い昼食を摂った後、二人はゴンドラに揺られていた。
最大到達地点が地上180メートルにも及ぶという大観覧車だ。世界記録にこそ足りないが、それでも十分に技術の高さというものを知らしめる数字だ。
数字だけで見れば登山に興じた方が広大な景色を眺める事ができるのだが、足元から地表までの間に何も無いという眺めは山の頂とは全く異なる興奮を覚えさせる。
「わっ、わっ、凄ぉい。あんな遠くまで……ほら、学校も見えるわよ!」
想像以上の展望に興奮した様子を隠し切れなくなっている穂の横顔を見ながら、圭は自然と微笑んでいた。
さっきまで泣いていたと思えば、こうも子供のようにはしゃぐ。
教室で見る委員長の姿からは想像もつかない。
明るく振る舞っていながらも、どこかクールに見えていた委員長としてのスタイルは意識的に作り上げているものなのかもしれない。
「ん? どうかしたの?」
そんな圭の視線を感じたのか、穂が振り向いた。
突然に合わせられた視線に、今度は圭が顔を背ける形になってしまう。
「ん~? もしかして、私の横顔に見惚れてた?」
言いにくそうな事をごく自然に出す穂。
大袈裟な程に上体を倒し、下から覗き込む目は思いきり笑っている。
余程自信があるのか、それともからかっているだけなのか、心の機微に疎い圭ではそこまで推し量る事はできない。
「ね、次はあれに乗りましょうよ」
顔を赤くした圭に満足したのか、穂は眼下に見えるジェットコースターを指さした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その後も二人は色々と遊んで回った。
実力が拮抗していたボウリングでは思いのほか白熱し、水族館では大ジャンプを見せたイルカに豪快な水飛沫を浴びせられ、プラネタリウムではカップルシートに案内されたのを良い事に必要以上に密着してくる穂に終始緊張を強いられ……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「…ふふ。こんなに遊んだのって初めてかも」
オープンカフェの一角で、興奮冷めやらぬ様子の穂だった。
興奮のあまり手にしたカップを砕いたりはしないだろうと思いながらも、ありえない事ではないと心配してしまう程に力が入っているようにも見える。
「俺だって、遊園地自体が久し振りだったしなぁ」
遊園地に最後に行ったのは小学生の低学年の頃だったろうか。
まさか久し振りに来る事となったのが、クラス委員長とのデートだとは夢にも思わなかったが。
日も傾き周囲が徐々に朱に染まりつつある中、向かい合う二人は言葉も少なくなっていた。
「……ねぇ、圭くん」
呼び掛けた穂の声は、今し方までの楽しげにしていたものとは違っていた。
その変わり様に引き込まれるように圭は自然と視線を向ける――そこには優しく微笑みながらも真摯に見つめてくる黒い瞳があった。
「私と一緒にいて、楽しかった?」
今まで笑い合っていた筈なのに何を今さら聞いてくるのだと圭は眉を寄せ、それをどう受け止めたのか、穂の表情に不安の色が浮かぶ。
微かに良心が痛むのを感じた圭は目を逸らしかけたが、なんとか踏み止まり穂の視線を正面から見据える。
「逆に、聞きたい」
ここで『恋人っぽい』返答をするのはいかにも簡単だったろう。
そしてそうすれば、今暫くは心浮き立つような気持ちを味わえたに違いない。帰宅を促すにはまだ少し早い時間帯だ。
しかし、圭はそうしなかった。
穂相手のデートに不満があった訳ではない。
教室でしか見た事のない……『委員長』ではない姿は新鮮なものであり、決して悪い気はしていなかった。
否、正直に言えば楽しかった。
異性とこうして遊ぶ事が、これほどまでに楽しく時間を過ごせるものだとは思ってもいなかった。
だが、それでも圭は釈然としないものを心のどこかで感じ続けており、その疑問を今ぶつけるべきだと考えたのだ。
「どうして、俺にここまでしてくれる?」
それは教室でデートの誘いを受けた時から、ずっと疑問に感じていた事だった。
最初は、クラス委員長としての責務なのだろうと考えていた。
しかし当日になって一樹らを遠ざけてみたり、積極的に寄り添ってみたりと、なにか別の意図があるように思えてならないのだ。
圭自身、自分がそんなにも異性の関心を引く男だとは思ってはいない。
眞尋という、圭にべったりの存在もある以上、及第点には達しているという証にもなるのだろうが、それでも客観的に見るに、例えば一樹の方が女性受けする事は明白なのだ。
他にも探せば圭よりもランクの高い男など数多くいるだろう。
「どうして…って、理由が欲しいの?」
本当に意外だと言わんばかりの穂に無言で返す。
理由が欲しい訳ではなく、理由があると思ったからだ。
確固たる意志を決めたつもりだったが、次の瞬間にはそれが足下から揺らぐ音が聞こえた気がした。
「……大なり小なり女ってのはね、強い男に興味を持つものなのよ」
その瞳に宿った妖艶さを秘めた光に射竦められた。
その光がどういった感情からくるものなのか、圭には分からない。
そして一瞬ではあったが、その瞳に心を奪われた隙に重ねられた指先の感触に『捕まった』という感覚に囚われた。
「体術の時間、見ていたわ」
圭は息を呑んだ。
具体的な名称は出さずとも、それが何を指しているのかなど考えるまでもない。
女子は体育館での授業だった筈だが、偶然にも穂がその瞬間を目撃していたという事も圭にとっては衝撃的だった。
「あれは……ほんの偶然で……」
今でも原因は判明していない。
むしろ一樹が無事だった事もあり、忘れ去ろうとさえしていた件だ。
圭は言葉を濁す事しか出来なかった。
「そうね。確かに偶然だったろうけれど、圭くんの手に因る結果だという事は間違いないわ」
その場に居た継島でさえも認め難かった事を、穂はいとも簡単に断定した。
下手な先入観など持たず、目の前の出来事をありのまま受け止めた穂こそがこの場合は正しかった。
「ついでに言えば、そんな力を心のどこかで恐れているというのも悪くないところだわ。友達を病院送りにするような力、無闇に誇示するようでは人として最低だもの」
穂の優しい微笑みが、圭の心の奥へと染み込んでくる。
あの力の起因が何であれ、忌み嫌われるものであろう事は想像に難くない。
それを目の前の少女は極めて好意的に受け止めてくれている。
「穂……」
知らず、その名を呟いていた。
そしてそれに呼応するかのように穂が小首を傾げるように微笑んだ。
どうして穂との距離が縮まっているのか。
薄く開いた色艶の良い唇に吸い寄せられているのは何故か。
今の圭には全てがどうでもよくなっていた。
そう、今の圭の瞳に映るのは今にも目を閉じようとしている穂と、その背後に立つ憤怒の形相の眞尋だけ――
(……え?)
突如として我に返った。
何故、この二人の事を忘れていたのか。
反射的に立ち上がろうとしたが、それよりも早く眞尋の指先が到達していた。
「んがっ!?」
一旦は浮かせた腰が押し返されるように椅子へと逆戻りし、目の前が真っ暗になっているのは眞尋に顔を掴まれたからだと一呼吸遅れて理解する。
そして、続いてやってきたのは締め付けられるような痛み。
「いだだだだだっ!!」
非力な筈のその細い指先が、圭のこめかみを握り潰さんばかりに圧迫する。
視界は完全に塞がれているにもかかわらず、不思議と眞尋の表情が目に見えるようだった。
「圭ちゃんの……っ、浮気者おっ!!」
あまりの激痛に抵抗も出来ないままに意識が遠のきかけたが、もう一人の存在が眞尋を押し止めた。
「そのくらいにしとけ。圭の奴、指先が痙攣し始めてるぞ」
半ば強引に眞尋の身体を引き剥がす一樹だったが、その表情もどこか精彩に欠けていた。
穂に出し抜かれた事に気付いてからこっち、圭達の姿を探してシティ中を駆けずり回っていた結果だ。
「お前らときたら、携帯の電源も落としていたろ?」
言われて圭は胸ポケットに入れてあった携帯電話を確認してみる。
映画を観た時は確かに電源を切っていたが、その後はマナーモードにしてあった筈だ。充電も十分であり、電池切れという事も考えにくいのだが。
「…あれ?」
胸ポケットには何も入っていなかった。
慌てて全てのポケットを叩いてみるが、それと思しき硬い感触には当たらない。
「ごめんなさいね。ちょっと預からせて貰っていたのよ」
悪戯を見咎められたような表情で、ハンドバッグから電源の落ちている携帯電話を取り出す穂。
早速電源を入れて確認する。
間違いなく圭の持ち物だが、サービスセンター預かりの留守番電話が34件、そして今まさに溢れんばかりの着信を示す25通のメールが問題だった。
「あらあら…」
携帯電話を隠した張本人が、他人事のような声を洩らす。
これはすべて削除するだけでも結構な手間になりそうだ。
しかし、携帯電話の紛失にすら気付かない程にデートに夢中になっていたという事が圭にとっては驚きだった。
「さて、俺達も何か買ってくるとするよ。昼飯も抜きで振り回されっぱなしだったからな」
圭と穂の表情から大体の事情を察した一樹は、眞尋を抱えたまま周囲を見回して行列の短い売店を探し始める。
夕食には早い時間ではあったが、空の色が朱に染まるこの時間帯、圭達と同じようにひと息入れようと考える者は多いらしい。
どの売店に向かおうとも、多少の時間は浪費してしまうだろう。
「やだやだやだ! 今度は私が圭ちゃんと一緒に居るぅ!」
ジタバタと暴れる眞尋の意見を無視し、一樹は圭と穂に改めて向き直る。
「そこでもう少し愛の語らいをしてていいから、今度はちゃんと待ってろよ?」
一樹らにしてみれば、ここで圭達を捕まえる事が出来たのは本当に偶然に過ぎない。
限られた空間とはいえ、この広い敷地内を本気で逃げ回られたら探しようなどなくなるし、横で騒ぎ続ける眞尋の相手もさせられるのは苦行そのものだった。
昨夜、穂からの待ち合わせ時間変更の電話が、圭と二人きりになりたいがための方便だと気付いた時点で潔く諦めようと思ったものだが、眞尋が頑として聞き入れなかったために半日もの間、足を動かし続ける羽目になっている。
一樹としても二人にこれ以上逃げられるのは勘弁願いたいところだった。
「大丈夫よ。ここで見つかっちゃった以上、もう余計な事はしないわ」
穂の返答を聞くと、一樹はひとつ頷いて売店へと足を向けた。
「愛の語らいは私がーっ!」
騒ぐ眞尋は黙殺した。
ここから先は四人で行動をする事になるが、既に夕刻である。
穂の想像以上の行動力に敬意を表し、残り少ない今日という時間、あまり野暮な事はすまいと達観した気分の一樹だった。
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