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はじまり
027 覚醒
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戦闘に関しては素人の圭から見ても、二人の優勢は揺るぎないものであった。
常に立ち替わるように動き回り、鈍重な侵蝕者は標的を固定しきれずに右往左往しながらその数を減らしてゆく。
個々に戦うよりも明らかに侵蝕者の削り取られる速度が上がっており、こうして二人で戦うのも一度や二度ではないのだろう。
まるで綿密に打ち合わせられた殺陣を見ているかのようだ。
(そろそろ行き当たってもおかしくはないんだけど…)
侵蝕者との距離ができたところで、呼吸を整えながら千沙都は考え始める。
侵蝕者の特性のひとつとして、群れの中には必ず『頭』が存在するというものがあった。
言ってみれば部隊長だ。
その存在によって侵蝕者の群れは常に一定の法則で動いており、増援の生成命令も部隊長が発しているとされている。
それを倒す事により侵蝕者の増援は無くなり、攻撃の意志も希薄なものとなって掃討が容易になる。
物量で攻めてくる事の多い侵蝕者を相手取った戦いでは、その群れの部隊長を倒す事が最も重要なのだが、厄介な事に他の侵蝕者と変わらず群れの中の一兵卒として動いているのだ。
その部隊長に行き当たらない限り延々と戦い続ける羽目になってしまうのだが、実際に部隊長を見つけ出すのは不可能とされている。
(やっぱり、わからないわねぇ)
戦いがある度に誰もが固有の動きを持つ侵蝕者を探してみるのだが、違いを発見したという話は噂にも聞こえず、実際に自分の目でも何も気付ける事はない。
機材を使用した測定も幾度となく行っていたが、研究班からの報告は『すべての侵蝕者に差異はない』だった。
部隊長がいるという仮説自体が見当違いだと言われたようなものだ。
一口に侵蝕者と言っても、格というものも存在する。
一見して強力な存在だと判別できる侵蝕者もあるが、それはまた違う話だ。
科学的に否定された部隊長存在説だが、勘と経験を頼りにする退魔師の間では根強く信じられており、千沙都も緋美佳も存在すると思っている。
どのみち侵蝕者は駆逐しなければならない存在であり、実際に戦闘経験者が『途中から侵蝕者の発生が止み、動きが鈍くなった』と感じている以上、部隊長存在説はこれからも信じ続けられるのだろう。
「侵蝕者、減らないわね…」
横で呟く穂の声がそのまま圭の心配事でもあった。
二人の退魔師による掃討よりも、発生する数の方が若干だが上回っているのだ。
しかしそれ以上に圭が気にかけているのは緋美佳の様子だった。
千沙都という強力な増援を得てなお、その表情に余裕は生まれていない。
それだけ侵蝕者との戦闘を真摯に捉えているという顕れではあろうが、そのスタイルを貫く限り、緋美佳の精神は摩耗するばかりのような気がしてならない。
(…俺は、こんな所で何をしている?)
大切な女性が命を賭して戦いに臨んでいるというのに。
それを目の前にしながら、自分は安全な場所で座りこけて。
圭の中で緋美佳への想いが渦を巻く。
自分でも緋美佳のために何か出来ないのか。緋美佳に頼られるだけの事は何も出来ないのか。
激流と化した想いが明確なまでの熱を帯び、圭の四肢と喉元に殺到する。
「…ぐっ」
高熱を出した時のような筋肉の痛みが全身を襲い、目に映る光景が大きく歪んだ。
上体が倒れそうになるのを床に伸ばした腕で支えたが、自分がそう感じているだけで実際に腕が動いたのかどうか。
歪む視界と平衡感覚が定まらない状態では、自身の姿勢の認識すらもままならない。
「圭くんっ!?」
突然に変調をきたした圭を前に、穂は驚いた。
疲労くらいはあったろうが、特に怪我を負った訳でもない。
その圭が突然に自身の胸を掻き毟るように呻き声を発し始めたのだ。
強いて例えれば即効性の毒を盛られたような様子だが、そのように認識できる出来事には覚えがなく、穂は狼狽するばかりだ。
「だ、だいじょう、ぶ……」
穂の心配する声に反応した圭は口を開いたが、脂汗を噴き出す様子はどう見ても大丈夫そうには見えない。
それどころか自分が何を口にしているのかも理解できていないのではないかと思える程に、その瞳は焦点を失している。
「だ……誰か、救急車を!」
叫んでから気付く。こんな場に救急車など来られよう筈がないと。
呻く圭が誤って転落しないようにと抱きしめ、穂は周囲を見渡した。
自分達が立つ浮島となった避難エリアの中心に立つ、四角いだけのビルに目が止まった。
この叉葉山ギガンティックシティにあってアトラクション要素のない建造物は珍しくもないが、この場に唯一存在するこの建物は救護施設の機能を有している筈だ。
圭がどのような病気に見舞われたのか不明なまでも、まずは安静にさせねばならないだろう。
「誰か、手を貸して!」
事態が急変を告げてばかりの異常な空間の中で痛みを感じる余裕も消えていたが、怪我を負った足では自身の移動すら困難を極める。
穂は近くの者の手を借りようと顔を上げたが、その時、穂の声を掻き消す叫び声が上がった。
「いやあああっ!!」
若い女の声だった。
次いで男の声が上がり、その周囲にざわめきが波紋のように広がる。
穂も必死の思いではあったが、あまりに切羽詰ったその叫びに視線を向けずにはいられない。
(…そんなっ!?)
我が目で見た光景を疑った。
嘘であってほしいとも願ったが、それは紛れもなく事実だった。
初めて退魔師の活躍を見た者が多かったのだろう。
その勇猛ぶりに興奮して大きく動いた人の波に弾かれるようにして、一人の少年が避難エリアから落下してしまったのだ。
申し訳程度に設置されていた柵など、少年の身体を支えるには不足に過ぎたのだ。
叫んでいるのはその母親か。自らも下に飛び降りようとして、周囲の者に抑えつけられている状態だった。
小学校に上がったかどうかという年頃の少年は転落死こそ免れていたが、立ち上がる事が出来ないでいた。
上半身を起こして泣き叫ぶばかりの姿は痛々しく、足だけでなく右腕も動かせない状態になっている。
「早く下ろせ!」
誰かが叫んだ。高く浮いたこの避難エリアを下げろというのか。
しかしそれは無理だろうと穂には思われた。
ここまで質量のあるものがおいそれと上下できる筈はなく、よしんば下降させたとして、少年を救い出した上で再び侵蝕者の手が届かない位置まで上昇させるだなど、どれだけ時間が掛かるものか。
「梯子はないの? ロープは!?」
穂は叫んだ。
足に怪我などしていなければ、圭の身体に異変が起きていなければ、助けを求めて叫ぶよりも先に自らの足で事態解決のために奔走できるものを。
もちろんそれは誰のせいでもないが、なんとも間の悪い事が重なってしまったものだ。
またしても叫びが上がった。
侵蝕者が地に落ちた少年に気付いた事を訴えるものだった。
(…最悪、だわ)
穂は奥歯を噛み締めた。
先程の穂の叫びに幾人かが動いたようだったが、要求した物が用意されるよりも侵蝕者の手が少年に触れる方が早いだろう。
今すぐにそういった物が用意できたとしても、少年の様子では誰かが救助のために降りねばならない。
下手をすれば救助に向かった者の命さえも危うくなる。
離れた位置で戦う二人の退魔師に目を向けるが、周囲に群がる侵蝕者の数が多く、とてもではないが少年の救助に向かえる状況ではなさそうだ。
(外からの増援も期待できそうにないし…)
実際、侵蝕者の報が流されてから10分程度しか経っていない。
哨戒部隊が近くで連絡を受けたのだとしても、人工島であるギガンティックシティに到着するのは梯子よりもずっと後の事になるだろう。
穂は溜息を吐くとバッグの中に忍ばせてあった護身用の短刀を握りしめた。
かつて中学に進学した折に、千沙都から贈られた物だ。
当時は入学祝いに刃物を選ぶ千沙都の性格を訝しんだものだったが、既に退魔師を生業としていた彼女からすれば実用性をも考えての事だったのだろう。
(まさか本当に使う時が来ようとはね)
聞かされた話では、非力な女性であっても扱いやすく、退魔効果にも優れた逸品なのだという。
穂はそっち方面の知識には疎かったが、なんでも名刀や妖刀を数多く鍛え上げている一門による作だとか。
(ナントカと天才は紙一重ってやつなのかしらね)
名刀と妖刀を一緒くたにする考えが穂には理解できなかったが、ここはそのオカルトじみた力にすら頼らねばならない状況なのだ。
足の状態を確認する。
骨折しているのは間違いないが、軸足にしなければ立ち上がる事くらいはできるだろう。
痛みも麻痺したままであり、一度立てれば片足でもなんとかする自信はあった。
(大丈夫。私にだってできる……)
授業で習った事を、順を追って思い起こす。
折角贈られたものを活かせるようにと修練を重ね、短刀の扱いは師範にも御墨付を貰った腕前を誇る穂だ。
更に言えば、授業では教えて貰えないような技術や侵蝕者の裏情報を千沙都から得たりもしている。
結果、科の移籍を教師陣から熱っぽく語られるまでになった程だ。
退魔師への道を希望する気のなかった穂はそういった話を固辞してきていたが、もしも受けていれば今日という日をどう迎えていただろうか。
今となっては意味を持たない疑問が脳裏に浮かぶが、頭を振って追い払う。今こうして圭の隣に居る事に、穂は満足感を得ているのだから。
「いやあああーーっ!!」
母親の叫びが強く響いた。
いよいよ少年のすぐ近くにまで、侵蝕者の数体が近付いたのだ。
道具の到着を可能な限り待てればとも思っていたが、どうやらそれも時間切れだと悟る。
圭によって救われたも同然の命だ。
できれば圭のために役立てたいと思ったが、目の前で確実に起きる惨事を黙過するなど我慢できる穂ではなかった。
日頃受けている訓練がただのお飾りでない事を、今こそ証明するのだ。
正義感にも似た思いが穂の中で燃え滾り、大きく深呼吸をすると腹を括った。
だが、穂の決意を挫くかのように事態は動く。
短刀を握りしめた手をバッグから抜き出し、立ち上がろうとした穂の腕を何者かが掴み止めたのだ。
「け、圭くんっ!?」
腰を浮かせていた穂の腕を取り力任せに引き戻したのは、たった今まで意識を朦朧とさせていた圭だった。
いつの間に覚醒したのだろうか。
「…圭、くん…?」
しかし、穂の前でゆっくりと立ち上がる圭の瞳には、意志の色を見る事が出来なかった。
穂を座らせた事すら、無意識の行動であるかのようだ。
その圭の手に握られた短刀が、揺れるような軌跡を描いて穂の眼前を通り過ぎる。
その鞘に刻まれた見覚えのある紋を見て、初めて穂は己の手が空になっている事に気付いた。
(いつのまに?)
圭の突然の行動に驚いたとはいえ、利き手の握りを緩めた覚えはない。
鍔も過度な装飾もないデザインではあったが、力ずくで引き抜けば気付かない筈などないのに。
「…少し……待ってろ……」
およそ普段の圭からは想像もつかない、一方的な物言いがその口から漏れた。
喉が乾ききっているかのような異質さを帯びた声。
半病人にしか見えない状態の圭が何を考えているのか。
穂を引き戻し、その武器を奪い、何をしようとしているのか。そんな事は考えるまでもなかった。
ここは体を張ってでも圭を止めねばならない場面だ。
こんな状態の圭を行かせるくらいならば、少年の事は諦めよう。
穂の下した判断は決して間違っていなかったが、圭の声そのものに大きな力が宿っているかのように、穂はその場に腰を落としたまま動けなくなってしまった。
(…圭くんっ!?)
身体の自由が利かないばかりか声まで出せず、今にも涙を溢れさせそうな穂から離れゆく圭。
そして避難エリアの端に張られた鎖を軽く跨ぎ、そのまま地上へと身を落とした。
常に立ち替わるように動き回り、鈍重な侵蝕者は標的を固定しきれずに右往左往しながらその数を減らしてゆく。
個々に戦うよりも明らかに侵蝕者の削り取られる速度が上がっており、こうして二人で戦うのも一度や二度ではないのだろう。
まるで綿密に打ち合わせられた殺陣を見ているかのようだ。
(そろそろ行き当たってもおかしくはないんだけど…)
侵蝕者との距離ができたところで、呼吸を整えながら千沙都は考え始める。
侵蝕者の特性のひとつとして、群れの中には必ず『頭』が存在するというものがあった。
言ってみれば部隊長だ。
その存在によって侵蝕者の群れは常に一定の法則で動いており、増援の生成命令も部隊長が発しているとされている。
それを倒す事により侵蝕者の増援は無くなり、攻撃の意志も希薄なものとなって掃討が容易になる。
物量で攻めてくる事の多い侵蝕者を相手取った戦いでは、その群れの部隊長を倒す事が最も重要なのだが、厄介な事に他の侵蝕者と変わらず群れの中の一兵卒として動いているのだ。
その部隊長に行き当たらない限り延々と戦い続ける羽目になってしまうのだが、実際に部隊長を見つけ出すのは不可能とされている。
(やっぱり、わからないわねぇ)
戦いがある度に誰もが固有の動きを持つ侵蝕者を探してみるのだが、違いを発見したという話は噂にも聞こえず、実際に自分の目でも何も気付ける事はない。
機材を使用した測定も幾度となく行っていたが、研究班からの報告は『すべての侵蝕者に差異はない』だった。
部隊長がいるという仮説自体が見当違いだと言われたようなものだ。
一口に侵蝕者と言っても、格というものも存在する。
一見して強力な存在だと判別できる侵蝕者もあるが、それはまた違う話だ。
科学的に否定された部隊長存在説だが、勘と経験を頼りにする退魔師の間では根強く信じられており、千沙都も緋美佳も存在すると思っている。
どのみち侵蝕者は駆逐しなければならない存在であり、実際に戦闘経験者が『途中から侵蝕者の発生が止み、動きが鈍くなった』と感じている以上、部隊長存在説はこれからも信じ続けられるのだろう。
「侵蝕者、減らないわね…」
横で呟く穂の声がそのまま圭の心配事でもあった。
二人の退魔師による掃討よりも、発生する数の方が若干だが上回っているのだ。
しかしそれ以上に圭が気にかけているのは緋美佳の様子だった。
千沙都という強力な増援を得てなお、その表情に余裕は生まれていない。
それだけ侵蝕者との戦闘を真摯に捉えているという顕れではあろうが、そのスタイルを貫く限り、緋美佳の精神は摩耗するばかりのような気がしてならない。
(…俺は、こんな所で何をしている?)
大切な女性が命を賭して戦いに臨んでいるというのに。
それを目の前にしながら、自分は安全な場所で座りこけて。
圭の中で緋美佳への想いが渦を巻く。
自分でも緋美佳のために何か出来ないのか。緋美佳に頼られるだけの事は何も出来ないのか。
激流と化した想いが明確なまでの熱を帯び、圭の四肢と喉元に殺到する。
「…ぐっ」
高熱を出した時のような筋肉の痛みが全身を襲い、目に映る光景が大きく歪んだ。
上体が倒れそうになるのを床に伸ばした腕で支えたが、自分がそう感じているだけで実際に腕が動いたのかどうか。
歪む視界と平衡感覚が定まらない状態では、自身の姿勢の認識すらもままならない。
「圭くんっ!?」
突然に変調をきたした圭を前に、穂は驚いた。
疲労くらいはあったろうが、特に怪我を負った訳でもない。
その圭が突然に自身の胸を掻き毟るように呻き声を発し始めたのだ。
強いて例えれば即効性の毒を盛られたような様子だが、そのように認識できる出来事には覚えがなく、穂は狼狽するばかりだ。
「だ、だいじょう、ぶ……」
穂の心配する声に反応した圭は口を開いたが、脂汗を噴き出す様子はどう見ても大丈夫そうには見えない。
それどころか自分が何を口にしているのかも理解できていないのではないかと思える程に、その瞳は焦点を失している。
「だ……誰か、救急車を!」
叫んでから気付く。こんな場に救急車など来られよう筈がないと。
呻く圭が誤って転落しないようにと抱きしめ、穂は周囲を見渡した。
自分達が立つ浮島となった避難エリアの中心に立つ、四角いだけのビルに目が止まった。
この叉葉山ギガンティックシティにあってアトラクション要素のない建造物は珍しくもないが、この場に唯一存在するこの建物は救護施設の機能を有している筈だ。
圭がどのような病気に見舞われたのか不明なまでも、まずは安静にさせねばならないだろう。
「誰か、手を貸して!」
事態が急変を告げてばかりの異常な空間の中で痛みを感じる余裕も消えていたが、怪我を負った足では自身の移動すら困難を極める。
穂は近くの者の手を借りようと顔を上げたが、その時、穂の声を掻き消す叫び声が上がった。
「いやあああっ!!」
若い女の声だった。
次いで男の声が上がり、その周囲にざわめきが波紋のように広がる。
穂も必死の思いではあったが、あまりに切羽詰ったその叫びに視線を向けずにはいられない。
(…そんなっ!?)
我が目で見た光景を疑った。
嘘であってほしいとも願ったが、それは紛れもなく事実だった。
初めて退魔師の活躍を見た者が多かったのだろう。
その勇猛ぶりに興奮して大きく動いた人の波に弾かれるようにして、一人の少年が避難エリアから落下してしまったのだ。
申し訳程度に設置されていた柵など、少年の身体を支えるには不足に過ぎたのだ。
叫んでいるのはその母親か。自らも下に飛び降りようとして、周囲の者に抑えつけられている状態だった。
小学校に上がったかどうかという年頃の少年は転落死こそ免れていたが、立ち上がる事が出来ないでいた。
上半身を起こして泣き叫ぶばかりの姿は痛々しく、足だけでなく右腕も動かせない状態になっている。
「早く下ろせ!」
誰かが叫んだ。高く浮いたこの避難エリアを下げろというのか。
しかしそれは無理だろうと穂には思われた。
ここまで質量のあるものがおいそれと上下できる筈はなく、よしんば下降させたとして、少年を救い出した上で再び侵蝕者の手が届かない位置まで上昇させるだなど、どれだけ時間が掛かるものか。
「梯子はないの? ロープは!?」
穂は叫んだ。
足に怪我などしていなければ、圭の身体に異変が起きていなければ、助けを求めて叫ぶよりも先に自らの足で事態解決のために奔走できるものを。
もちろんそれは誰のせいでもないが、なんとも間の悪い事が重なってしまったものだ。
またしても叫びが上がった。
侵蝕者が地に落ちた少年に気付いた事を訴えるものだった。
(…最悪、だわ)
穂は奥歯を噛み締めた。
先程の穂の叫びに幾人かが動いたようだったが、要求した物が用意されるよりも侵蝕者の手が少年に触れる方が早いだろう。
今すぐにそういった物が用意できたとしても、少年の様子では誰かが救助のために降りねばならない。
下手をすれば救助に向かった者の命さえも危うくなる。
離れた位置で戦う二人の退魔師に目を向けるが、周囲に群がる侵蝕者の数が多く、とてもではないが少年の救助に向かえる状況ではなさそうだ。
(外からの増援も期待できそうにないし…)
実際、侵蝕者の報が流されてから10分程度しか経っていない。
哨戒部隊が近くで連絡を受けたのだとしても、人工島であるギガンティックシティに到着するのは梯子よりもずっと後の事になるだろう。
穂は溜息を吐くとバッグの中に忍ばせてあった護身用の短刀を握りしめた。
かつて中学に進学した折に、千沙都から贈られた物だ。
当時は入学祝いに刃物を選ぶ千沙都の性格を訝しんだものだったが、既に退魔師を生業としていた彼女からすれば実用性をも考えての事だったのだろう。
(まさか本当に使う時が来ようとはね)
聞かされた話では、非力な女性であっても扱いやすく、退魔効果にも優れた逸品なのだという。
穂はそっち方面の知識には疎かったが、なんでも名刀や妖刀を数多く鍛え上げている一門による作だとか。
(ナントカと天才は紙一重ってやつなのかしらね)
名刀と妖刀を一緒くたにする考えが穂には理解できなかったが、ここはそのオカルトじみた力にすら頼らねばならない状況なのだ。
足の状態を確認する。
骨折しているのは間違いないが、軸足にしなければ立ち上がる事くらいはできるだろう。
痛みも麻痺したままであり、一度立てれば片足でもなんとかする自信はあった。
(大丈夫。私にだってできる……)
授業で習った事を、順を追って思い起こす。
折角贈られたものを活かせるようにと修練を重ね、短刀の扱いは師範にも御墨付を貰った腕前を誇る穂だ。
更に言えば、授業では教えて貰えないような技術や侵蝕者の裏情報を千沙都から得たりもしている。
結果、科の移籍を教師陣から熱っぽく語られるまでになった程だ。
退魔師への道を希望する気のなかった穂はそういった話を固辞してきていたが、もしも受けていれば今日という日をどう迎えていただろうか。
今となっては意味を持たない疑問が脳裏に浮かぶが、頭を振って追い払う。今こうして圭の隣に居る事に、穂は満足感を得ているのだから。
「いやあああーーっ!!」
母親の叫びが強く響いた。
いよいよ少年のすぐ近くにまで、侵蝕者の数体が近付いたのだ。
道具の到着を可能な限り待てればとも思っていたが、どうやらそれも時間切れだと悟る。
圭によって救われたも同然の命だ。
できれば圭のために役立てたいと思ったが、目の前で確実に起きる惨事を黙過するなど我慢できる穂ではなかった。
日頃受けている訓練がただのお飾りでない事を、今こそ証明するのだ。
正義感にも似た思いが穂の中で燃え滾り、大きく深呼吸をすると腹を括った。
だが、穂の決意を挫くかのように事態は動く。
短刀を握りしめた手をバッグから抜き出し、立ち上がろうとした穂の腕を何者かが掴み止めたのだ。
「け、圭くんっ!?」
腰を浮かせていた穂の腕を取り力任せに引き戻したのは、たった今まで意識を朦朧とさせていた圭だった。
いつの間に覚醒したのだろうか。
「…圭、くん…?」
しかし、穂の前でゆっくりと立ち上がる圭の瞳には、意志の色を見る事が出来なかった。
穂を座らせた事すら、無意識の行動であるかのようだ。
その圭の手に握られた短刀が、揺れるような軌跡を描いて穂の眼前を通り過ぎる。
その鞘に刻まれた見覚えのある紋を見て、初めて穂は己の手が空になっている事に気付いた。
(いつのまに?)
圭の突然の行動に驚いたとはいえ、利き手の握りを緩めた覚えはない。
鍔も過度な装飾もないデザインではあったが、力ずくで引き抜けば気付かない筈などないのに。
「…少し……待ってろ……」
およそ普段の圭からは想像もつかない、一方的な物言いがその口から漏れた。
喉が乾ききっているかのような異質さを帯びた声。
半病人にしか見えない状態の圭が何を考えているのか。
穂を引き戻し、その武器を奪い、何をしようとしているのか。そんな事は考えるまでもなかった。
ここは体を張ってでも圭を止めねばならない場面だ。
こんな状態の圭を行かせるくらいならば、少年の事は諦めよう。
穂の下した判断は決して間違っていなかったが、圭の声そのものに大きな力が宿っているかのように、穂はその場に腰を落としたまま動けなくなってしまった。
(…圭くんっ!?)
身体の自由が利かないばかりか声まで出せず、今にも涙を溢れさせそうな穂から離れゆく圭。
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