めぐり、つむぎ

竜田彦十郎

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はじまり

043 保健室の強襲者

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 千沙都は何を言っているのかと思った。

「…いやだなぁ。何を言っているんですか」

 四月一日エイプリルフールなどとっくに過ぎていたし、冗談を言うにしても笑えない内容は避けてほしいものだ。
 それでも千沙都が同じ言葉を繰り返すようであるならば、緋美佳本人に電話口に出て貰うべきだろうか。

「緋美姉なら、ここに…」

 他人に落ち着けと言う割に、千沙都の方こそ明らかに動転していないだろうか。
 まずはこちらの状況をきちんと説明しようとした圭だったが、口を開きかけた途端に通話が切れてしまった。

(あれ……?)

 携帯電話を強く耳に押し当てるも、既にスピーカーからは雑音ひとつさえも流れてはいない。
 千沙都が一方的に回線を切ってしまったか、それとも電波状態がそんなにも酷いのだろうか。

(…ん?)

 おや、と思った。
 圭の方で通話を切っていない以上、非通話状態を示す音が流れるものではなかったか。
 眉根を寄せながら耳から携帯電話を離すと、電源ボタンに細い指が伸びているのが見えてぎょっとした。

「緋美……わっ」

 振り返ろうとした圭の手から、携帯電話を素早く引き抜く緋美佳。
 驚きに目を見開く圭を前に、取り上げた端末機器を無造作に玩び――砕き潰した。

 昨今ではどのメーカーも軽さと頑丈さを売りにしている携帯電話市場だ。
 圭が所持していたモデルも『東京タワーから落としても壊れません』をキャッチコピーにしていた程だったのだが。
 それをいとも簡単に握り潰した緋美佳は、掌に付着した細かい破片を指を擦り合わせてはたき落とした。

「お前……誰だ!?」

 圭は咄嗟に言い放ったものの、自分の発した言葉の意味を考えてしまう。

「私は、鴫澤緋美佳よ。ほんの数日会わなかっただけで忘れられちゃうような、そんな関係じゃない筈よね?」

 そう、どう見ても目の前の人物は緋美佳にしか見えない。
 たとえ千沙都から連絡を受ける直前の奇異な言動があってもだ。

 しかし、この緋美佳はどこかに異質さを抱えている。
 圭が目覚めてからずっと闇の中に身を置いたままの姿勢も、それを肯定する要素であるとしか感じられない。
 暫しの沈黙が保健室を包み、やがて緋美佳はうっすらと微笑んだ。

「……そう、私は殺しに来た。ザナルスィバを宿す者を」

 今までの会話がまるで繋がっていないのは取るに足らぬ事だったろう。
 圭が身を竦ませたのは、明確に発した言葉よりも感情を一片残らず排除した抑揚のない声……そして視界の利かない闇の中で明滅する緑色のシグナルだった。
 その二つの光点は明らかに圭を捉えており、それは緋美佳の両の瞳があるべき位置より発せられている。

「私達の未来のために、死んで貰うわ」

 まるで火山が噴き上がったかと思わせる衝撃が圭に襲いかかり、そこで圭は初めて自分がベッドの上に居続けた事の愚かさを悟った。
 緋美佳がベッドごと圭を蹴り上げたのだ。
 重量が成人男性以上もあるベッドは鉄製フレームごと鋭く天井に突き当たり、その勢いのまま床へとバウンドした。

 裂けた布団から羽毛が飛び散り、急激な加圧に耐えられなかったフレームは大きくひしぎ、ビスやスプリングを無残に撒き散らす。
 バック転の要領でゴムボールの如き軌跡を描くベッドから逃れた圭だったが、着地地点に迫る緋美佳の追撃を避ける事はできなかった。
 ほんの数秒前までベッドという形を成していた大小の破片が降り注ぐ中を、まったく意に介さず踏み込んできた緋美佳の身体が背を向けた。
 強く擦られた軸足が床を踏み抜くのではないかと思える程の後ろ回し蹴りが、圭の胸元へと突き上げられる。

 金具とガラスの砕ける音が鈍く響き、鉄製の扉を背に貼り付かせた状態で中庭へと叩き出される圭。
 素材通りの頑強さを見せた扉は芝生を地面ごと抉りながら20メートルほども進み、急停止する事によって圭の身体を更に遠くへと放り出した。

「ぐ…っ……だだだっ」

 かつて一樹が体験したのも同様のものだったのだろうか。
 圭は地を転がり、全身に襲いくる鈍痛に耐えながら身体を起こす。

 緋美佳の放った蹴りは、鉄扉を巻き込みながらも、なお遠くへと圭を吹き飛ばした。
 扉を背にした事により、地面の上を直接転がされなかったのは幸いだった。
 身体ひとつで飛ばされていれば、地面を削ったのは自らの身体だったと思うと背筋に悪寒が走る。

(…とんでもないパワーだな)

 二枚一対の扉を失い大きな出入口ができてしまった保健室に視線を向けながら圭は呟いた。
 退魔師という職業柄、相当に鍛え込んでいるのだろうが、圭の身体ごと扉を蹴破った上にここまで弾き出す程の脚力、あの細い体躯からどうやって繰り出しているのか。
 骨折こそしていなかったが、蹴りを受けた両腕は酷く痺れ、今しばらくはまともに動かせそうにはない。

「………」

 保健室の奥の暗がりから、緋美佳がゆっくりと姿を見せた。
 中庭の中央に這いつくばる圭の姿を認めるも、その表情には些かの変化も見られない。
 今の一撃で圭を死に至らしめる事ができなかったという事実を目の当たりにしても、特に思うところなど無いようだ。
 機械的なまでの殺害遂行の姿勢と、それを如実に表すように光る緑色の瞳がただただ不気味だった。

(…どうすれば)

 緋美佳を相手に戦うなど、圭の中にそんな選択肢は存在しない。
 仮に戦闘行為に及んだとしても、これほどまでに爆発的な破壊力を振りかざす緋美佳を相手に勝ちを拾う自信など微塵もなかった。

(……うん。逃げよう)

 あっさりと下した決断だったが、圭は妙に納得した。
 戦えない、戦いたくない、勝てる気がしない。
 ないない尽くしである以上、撤退するより上策があるだろうか。
 問題があるとすれば、緋美佳が簡単に見逃してくれるかどうか。そしてどこに向かって逃げるべきか、という2点だろう。

 逃げると決めても困窮する気配に満ちていると気付き、圭は歯軋りをした。
 緋美佳が校庭へと一歩を踏み出した。
 靴底で踏み躙られ耳障りな音を発するガラスの破片が、まるで圭の命運を告知するかのように虚ろに響く。

『おやおや、緊急事態だっていうから急いで来てみれば』

 全力でこの場を離脱するべく全身に力を込めた圭だったが、頭上から降り注ぐ緊張感の欠けた声に集中力が削がれてしまった。
 声が発せられた場所は階上か、或いは屋上か。
 その主の姿を求めて視線を校舎沿いに持ち上げた瞬間、その動きと入れ違いになるように赤い人影が落ちてきた。
 その人物がどこから降ってきたのか、反射的に圭は身を引きかけたが、その正体を見て取ると大きく息を呑んだ。

「…ふふん。また、会ったわね」

 燃えるように髪を揺らめかせ、面白そうにアレイツァが微笑んだ。

 ギガンティックシティでもそうだったが、高い位置からの登場を好んでいるらしいこの女がどうしてここに姿を見せるのか。
 圭にはそれが不思議でならない。

「…ふん。お前を私以外の存在に殺させるのは不本意極まりないからな」

 つまり、圭を殺すのはアレイツァの役目であるという事か。
 素直に喜ぶ事のできない言葉ではあるものの、この窮地を救ってくれるという点においては拒絶する理由もない。
 ここで間違っても反意を露にするような言動は避けねばならないと、圭は口をつぐんだ。

「それにしても……」

 緋美佳を見遣ったアレイツァから表情が消えた。
 正確には、愉快がっていた表情が消え、失望とも落胆とも形容できる色が浮かび上がってきていた。

「どうやら、『喰われた』ようね」

 アレイツァは圭が校庭へと吹き飛ばされた場面から見ていたが、人間離れした破壊力といい、緑光を発する瞳といい、まさしく『喰われた』者に見られる変貌ではないか。

 これまでに幾度となく見てきた例とは雰囲気が違っているようにも思えたが、少なくとも他に該当する状態をアレイツァは知識として持ち得てはいない。
 初めて緋美佳を見た時から、決死時に発現されるだろう能力を高く評価していただけに、目の前の現実が残念でならなかった。
 所詮はその程度の人間だったという事か。

(『喰われた』…って)

 一方で圭は、アレイツァの発した単語を反芻していた。
 千沙都に貰った資料にも載っており、その意味するところは――侵蝕者によって身体を乗っ取られてしまう事を指している。

 通常、群れをなして襲いくる侵蝕者では敵対する生物を死滅させる事しか出来ないが、一定以上の力を有した侵蝕者は、取り込んだ相手の肉体を奪い我が物とする事が可能なのだという。
 姿形は元のままに中身をすべて侵蝕者として作り替えるばかりか、取り込んだ者本人として行動する事が可能なため、内部から壊滅させられた組織も数多く報告されているのだ。
 しかし、『喰われる』現象と事例については、パニックを引き起こしかねない事から一般人には伏せられているのが現状だ。

「まぁ、潰すしかないわよね」

 誰に聞かせるでもなく言い放ったアレイツァは、兇悪な笑みを漲らせた。
 評価と期待を裏切られた事への怒りは、その本人に責任を取らせれば差し引きゼロになるだろう。
 そう断じたアレイツァは猛然と突進を開始する。

「ま、待ってくれ!」

 瞬く間に緋美佳へと肉迫しようとしたその背に、懇願の叫びを発したのは圭だった。

 そして、予期しなかった事にアレイツァの注意が逸れた一瞬の隙を、緋美佳は見逃さなかった。
 高く伸びる樹木と壁とを交互に跳ねながら上方へと距離を取る。
 舌打ちを漏らしたアレイツァが見上げた時には、既に緋美佳の姿は屋上へと姿を消していた。

(どうする…?)

 アレイツァは躊躇った。
 侵蝕者と化した緋美佳の身体能力は凄まじいものになっているとはいえ、アレイツァを脅かすには到底及ばない。
 その事を理解しているからこそ、緋美佳はこの場から脱したのだ。
 しかし、逃げの一手に徹せられると少々厄介な事になる。
 なにしろ相手は人間社会に精通した侵蝕者なのだ。
 多くの人間が生活する場に紛れ込まれれば、探し出す事が困難を極めるのは必至。
 下手に深追いをして背後を取られてしまえば、力量の差など意味を為さない。

「…ふん」

 どちらにしろ、既に気配は消えていた。
 最終的にこの山から逃げ出すのだとしても、その瞬間を捉える事は不可能だと言える。
 なにしろ、侵蝕者はそもそも土で出来ているのだ。山の中での隠れんぼとなれば、誰にも見つけられないに違いない。

 大きく息を吐き、緋美佳を逃す原因を作った圭へと視線を向けた。
 まるで腰を抜かしたように座り込むこの男は、事の重大さを理解しているのだろうか。
 そもそも現状を正しく理解出来ているのかどうかも怪しいものなのだが。

「あれぇ…? なにが、あったのぉ…?」

 間延びした声と共に、半壊した保健室から眞尋が姿を見せた。
 寝惚けているのか、保健室の惨状について疑問すら抱いた様子がない。

「ちょっと、どうしたのよこれ……!」

 眞尋に続き目が覚めたらしい穂が驚きの声を発し、アレイツァの姿を認めて凍ったように固まった。
 校庭で力なく座り込む圭の姿に、嵐が直撃したかのような保健室。
 この状況を作り出したのはアレイツァだと思っている事は想像に難くない。

「やれやれ、面倒な事になってきたな……」

 事の成り行きを説明しなくてはいけないのかと思うと、緋美佳を追った方がまだ楽だったと溜息を漏らすアレイツァだった。
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