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はじまり
053 決意を得るために
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「…どうして、忘れていたんだろうな」
部屋に戻った圭は、己の掌に視線を落としたまま立ちつくしていた。
力なく開かれた掌の上には小さな鍵がひとつ。
緋美佳が侵蝕者討伐に出立する前に残していった西校舎の鍵を、上着の内ポケットに放り込んだままずっと失念していたのだ。
まるで形見分けのようだと、あの時は縁起でもない事を考えてしまったものだが、まさか現実のものになってしまうとは。
緋美佳の事を、果たして御両親は知っているのだろうか。
退魔師としての活動が公式のものである以上は何らかの連絡が入れられている筈だが、圭にこの鍵を託した事までは知り得ていない気がした。
「そうだな。ちゃんと返さないとな」
一週間前の圭であれば、退魔師の所持品など部屋の装飾品になるかどうかといったところだったろう。
侵蝕者を相手取る現在ならば有用な物である可能性は極めて高いが、遺品と呼んで差し支えないだけに、きちんと御両親に渡すべきだろう。
また、その役目は圭自身でなければいけないのだとも。
圭は鍵を握りしめると決意の表情を窓の外へ……その向こうにある学校施設――叉葉山高へと向けた。
そうと決まれば行動あるのみ。
クローゼットを開け、適当なジーンズとTシャツ、デニムジャケットを見繕うと、身分証としての生徒手帳と幾許かの小銭をポケットに押し込んだ。
遊びに出る訳でもなし、所持品は最低限なもので十分だ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
できるだけ物音を立てないように玄関から滑り出ると周囲に誰の姿もない事を確認し、足早にアレイツァ邸の敷地から抜け出す圭。
「…あらあら。やっぱり若い子は外に遊びに行きたいものなのかしらね」
圭は自分の目の高さでしか周辺を窺っていなかったが、玄関を出てから走り去るまでの始終を二人分の視線が三階の窓から眺めていた。
「だったら、お前が室内で楽しめる遊びを教えてやればいいじゃないか。あの年頃の男なら、離れられなくなるようなやつをさ?」
他人事ならではの気楽さで、隣を流し見るアレイツァ。
その表情がこの上なく愉悦に満ちているように見えるのは、千沙都の気のせいではなかったろう。
「これでも相手の意思は尊重するクチでね」
既に見えなくなった圭の行く先を辿るように遠くへと視線を向けたままの千沙都だったが、アレイツァに背を向けると肩を竦めてみせた。
「それに、そういう事をするのなら、ちゃんと人払いをした後でないとね」
どこまでが冗談なのか、振り向いた瞬間の表情からはなんとも窺い知れず、また、アレイツァもそれを追求するつもりもなかった。
人間同士で交わされる感情など、種族の違う身からしてみれば遠い世界の出来事のようなものだからだ。
「でもまぁ、監督する立場としては彼の動向は掴んでおかないといけないのよね。私達も出掛けましょ」
アレイツァの返事も待たずに階段を下りはじめた千沙都は、途中で足を止めると早く来いと手招きをする。
「…はぁ。やっぱり私も行くのか」
正直に言って面倒な事この上ないのだが、こうして頻繁に外に出る事も実に久しく、どことなく浮き足立つような感覚もまた確実にアレイツァの裡に目覚めていた。
いつしか忘れていた感情も懐かしく、できる事ならば二度と手放したくはないと考えてもいる自身に驚く。
千沙都には都合良く使われる形になってしまっているが、あの少年ならばどうだろうか。
人間のレベルを遥かに凌駕するこの力など関係なく、アレイツァという存在を必要としてくれるのだろうか。
(…ふん。らしくもない)
かつて、行き場のなかったアレイツァの保護を申し出た若者と圭は、どことなく似ているようにも思える。
何世代も昔の話で、カメラも普及していなかった頃だ。
今となっては満足に顔も思い出せないが、自分でもそうと知らぬうちに生まれていた人恋しさがそんな幻想を抱かせるのだろう。
珍しく感傷的な気分になってしまっていた事に気付いたアレイツァは、その考えを振り払うように千沙都の後に続いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
叉葉山高とアレイツァ邸は同じ市にあるとはいえ、駅を挟んでそれぞれが端に位置している。そのため、徒歩で往くには些かの距離がある。
急ぎ済ませたい用件ではあったが、圭は己の足での移動を選んだ。
これで何本目か、運転手だけを乗せたバスが圭を追い抜いてゆく。
決して通学専用ではないものの、叉葉山高を経由する路線バス利用客は学生ばかりのために、今のように乗客不在の便も珍しいものではない。
遠ざかるバスの背面広告をなんとはなしに視界に捉えながら、圭は黙々と足を動かす。
普段通りにバスを利用すれば今後の対応への熟考もできたろうし、なにより今は余剰な時間は決して多くはない。
それでも今は、こうして己の足を動かしていたいと感じていた。
圭のマンションにまで現れた緋美佳。
東條の率いる哨戒部隊と戦闘になってこそいたが、敗北するという姿は想像もできなかった。
一線級の退魔師の能力を持った侵蝕者なのだ。滅多な事で足下を掬われたりはしないだろう。
哨戒部隊を撃退したか、それともまんまと逃げ果せたか。
どちらにしろ、すぐにでも圭を狙った行動に移る事は確実であり、その時に圭は正面きって戦う事ができるのだろうか。
戦うだけならばともかく、決定的好機を前にした時に自分は手を下せるのか。
幾度となく考えている事の筈なのに、どれだけ自問を繰り返しても答えは出せないでいる。
視線を落とし気味にした圭の横を、またもバスが追い抜いてゆく。
その中によく知った顔があった事に気付かないまま、バスはその姿を小さくしていった。
(こんな時にどうすれば良いかだなんて、ザナルスィバは知っちゃいないんだろうな)
ここ数日というもの、大宇宙昴は夢の中に現われてはいない。
毎日出てこられても困りものだが、助言が欲しい時に出てきてくれないのもどうかと思う。
考えれば考える程に、自分自身――ザナルスィバの価値というものに疑問を抱かずにはいられない。
溜息を吐き雲の少ない青空を見上げる視界に、目指す叉葉山高の姿が見えるようになってきていた。
結局、欲しい答えはひとつとして得られてはいない。
部屋に戻った圭は、己の掌に視線を落としたまま立ちつくしていた。
力なく開かれた掌の上には小さな鍵がひとつ。
緋美佳が侵蝕者討伐に出立する前に残していった西校舎の鍵を、上着の内ポケットに放り込んだままずっと失念していたのだ。
まるで形見分けのようだと、あの時は縁起でもない事を考えてしまったものだが、まさか現実のものになってしまうとは。
緋美佳の事を、果たして御両親は知っているのだろうか。
退魔師としての活動が公式のものである以上は何らかの連絡が入れられている筈だが、圭にこの鍵を託した事までは知り得ていない気がした。
「そうだな。ちゃんと返さないとな」
一週間前の圭であれば、退魔師の所持品など部屋の装飾品になるかどうかといったところだったろう。
侵蝕者を相手取る現在ならば有用な物である可能性は極めて高いが、遺品と呼んで差し支えないだけに、きちんと御両親に渡すべきだろう。
また、その役目は圭自身でなければいけないのだとも。
圭は鍵を握りしめると決意の表情を窓の外へ……その向こうにある学校施設――叉葉山高へと向けた。
そうと決まれば行動あるのみ。
クローゼットを開け、適当なジーンズとTシャツ、デニムジャケットを見繕うと、身分証としての生徒手帳と幾許かの小銭をポケットに押し込んだ。
遊びに出る訳でもなし、所持品は最低限なもので十分だ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
できるだけ物音を立てないように玄関から滑り出ると周囲に誰の姿もない事を確認し、足早にアレイツァ邸の敷地から抜け出す圭。
「…あらあら。やっぱり若い子は外に遊びに行きたいものなのかしらね」
圭は自分の目の高さでしか周辺を窺っていなかったが、玄関を出てから走り去るまでの始終を二人分の視線が三階の窓から眺めていた。
「だったら、お前が室内で楽しめる遊びを教えてやればいいじゃないか。あの年頃の男なら、離れられなくなるようなやつをさ?」
他人事ならではの気楽さで、隣を流し見るアレイツァ。
その表情がこの上なく愉悦に満ちているように見えるのは、千沙都の気のせいではなかったろう。
「これでも相手の意思は尊重するクチでね」
既に見えなくなった圭の行く先を辿るように遠くへと視線を向けたままの千沙都だったが、アレイツァに背を向けると肩を竦めてみせた。
「それに、そういう事をするのなら、ちゃんと人払いをした後でないとね」
どこまでが冗談なのか、振り向いた瞬間の表情からはなんとも窺い知れず、また、アレイツァもそれを追求するつもりもなかった。
人間同士で交わされる感情など、種族の違う身からしてみれば遠い世界の出来事のようなものだからだ。
「でもまぁ、監督する立場としては彼の動向は掴んでおかないといけないのよね。私達も出掛けましょ」
アレイツァの返事も待たずに階段を下りはじめた千沙都は、途中で足を止めると早く来いと手招きをする。
「…はぁ。やっぱり私も行くのか」
正直に言って面倒な事この上ないのだが、こうして頻繁に外に出る事も実に久しく、どことなく浮き足立つような感覚もまた確実にアレイツァの裡に目覚めていた。
いつしか忘れていた感情も懐かしく、できる事ならば二度と手放したくはないと考えてもいる自身に驚く。
千沙都には都合良く使われる形になってしまっているが、あの少年ならばどうだろうか。
人間のレベルを遥かに凌駕するこの力など関係なく、アレイツァという存在を必要としてくれるのだろうか。
(…ふん。らしくもない)
かつて、行き場のなかったアレイツァの保護を申し出た若者と圭は、どことなく似ているようにも思える。
何世代も昔の話で、カメラも普及していなかった頃だ。
今となっては満足に顔も思い出せないが、自分でもそうと知らぬうちに生まれていた人恋しさがそんな幻想を抱かせるのだろう。
珍しく感傷的な気分になってしまっていた事に気付いたアレイツァは、その考えを振り払うように千沙都の後に続いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
叉葉山高とアレイツァ邸は同じ市にあるとはいえ、駅を挟んでそれぞれが端に位置している。そのため、徒歩で往くには些かの距離がある。
急ぎ済ませたい用件ではあったが、圭は己の足での移動を選んだ。
これで何本目か、運転手だけを乗せたバスが圭を追い抜いてゆく。
決して通学専用ではないものの、叉葉山高を経由する路線バス利用客は学生ばかりのために、今のように乗客不在の便も珍しいものではない。
遠ざかるバスの背面広告をなんとはなしに視界に捉えながら、圭は黙々と足を動かす。
普段通りにバスを利用すれば今後の対応への熟考もできたろうし、なにより今は余剰な時間は決して多くはない。
それでも今は、こうして己の足を動かしていたいと感じていた。
圭のマンションにまで現れた緋美佳。
東條の率いる哨戒部隊と戦闘になってこそいたが、敗北するという姿は想像もできなかった。
一線級の退魔師の能力を持った侵蝕者なのだ。滅多な事で足下を掬われたりはしないだろう。
哨戒部隊を撃退したか、それともまんまと逃げ果せたか。
どちらにしろ、すぐにでも圭を狙った行動に移る事は確実であり、その時に圭は正面きって戦う事ができるのだろうか。
戦うだけならばともかく、決定的好機を前にした時に自分は手を下せるのか。
幾度となく考えている事の筈なのに、どれだけ自問を繰り返しても答えは出せないでいる。
視線を落とし気味にした圭の横を、またもバスが追い抜いてゆく。
その中によく知った顔があった事に気付かないまま、バスはその姿を小さくしていった。
(こんな時にどうすれば良いかだなんて、ザナルスィバは知っちゃいないんだろうな)
ここ数日というもの、大宇宙昴は夢の中に現われてはいない。
毎日出てこられても困りものだが、助言が欲しい時に出てきてくれないのもどうかと思う。
考えれば考える程に、自分自身――ザナルスィバの価値というものに疑問を抱かずにはいられない。
溜息を吐き雲の少ない青空を見上げる視界に、目指す叉葉山高の姿が見えるようになってきていた。
結局、欲しい答えはひとつとして得られてはいない。
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