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はじまり
058 修練場の決戦
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(…よんじゅう…いくつだったっけか?)
5分と経たずに40体もの侵蝕者を撃破した圭だったが、数える事は断念する事した。
なにしろ、倒すのと同じ速度で侵蝕者が湧いて出るのだ。
いつまで続くか分からない事に思考を割く徒労さに呆れたのだ。
しかしそれでも侵蝕者を倒し続ける事は確実なプラス要素になっており、焦りに繋がるような事は何もない。
刀を一閃させる毎に感覚は研ぎ澄まされ、侵蝕者の核を裂く精度が増す。
背後より迫る侵蝕者の核を振り向きざまに柄頭で叩き潰し、足下を掬おうと出現する頭を核ごとまとめて蹴り砕く。
不謹慎な事だが、最終ボス直前に雑魚モンスターを大量に退治してはレベル強化を図る、ゲーム的な作業に酷似していると圭は思った。
事実、圭は戦闘経過と共に己の技量の底上げを実感し、その殲滅力は侵蝕者の出現速度を上回りつつある。
だが、単純な力比べではヒミカには遠く及ぶべくもない。
最下層に位置する侵蝕者をどれだけ己が経験値に換算してみたところで、人間の限界を凌駕する存在を相手取って勝てる見込みは薄い。
歴然たる力の差があるのならば、圭はヒミカが持ち得ないもので勝負するしかないのだが、それは一体何なのだろうか。
「お、お兄ちゃんっ!?」
侵蝕者の群れと対峙しながら、妙策は生まれるだろうか。
そんな思考を繰り返す圭の耳に、この場に居てはいけない人物の叫び声が飛び込んできた。
「月菜っ?」
圭が登ってきた東側の参道と対をなすように、西側にも一本の参道があった。
そこを登ってきたのだろう。
そこには見間違えようもない妹の姿があり、その後ろには眞尋と穂を引き連れている。
「お前達、なんでこんなところにっ!?」
迫る侵蝕者を薙ぎ払いつつ跳び退る。
三人揃ってこんな場所に足を運ぶなど、少し考えただけではその理由の見当さえつかない。
「ルビィがどうしてもここに来るって…!」
ルビィが外に出たいと言ってきたのだ。
もちろん明確な言葉で伝えられたものではなかったが、月菜は確かにルビィの意思を感じ取り、導かれるようにしてここまでやってきたのだ。
外出は控えるべきだと分かってはいたが、圭だけでなく千沙都とアレイツァも出払っており、月菜の意志の固さのために眞尋と穂が保護者的に同行した次第なのだ。
その事を口にするよりも早く、周囲に侵蝕者が出現する。
敵意に満ちた土人形に囲まれ、何の力も持たない三人は完全に圭の視界から断絶されてしまう。
「ええええっ?」
「ちょ、ちょっとっ!」
「おっ、お兄ちゃ~~んっ!」
三様の言葉が発せられるが、どれをとっても危地を告げるものであり、圭としてはヒミカを後回しにしてでも三人の救出に動かねばならない。
しかし、圭の眼前でも群がる侵蝕者が厚い壁と化しており、アレイツァのように空でも飛べない事には、ほんの数歩さえも進めそうにない。
焦り始めた圭だが、三人に迫る侵蝕者は次々とその身を砕かれ、一体として手の届く位置へ踏み込めずに散ってゆくのが見えた。
(穂…?)
その様子に、教室での記憶が甦る。
あの時と同様、穂が隠された技能を惜しみなく披露しているのかと期待した。
しかし三人は互いを抱き合うように身を寄せ合っており、穂はもちろん他の二人も何をしている様子はない。
ならば――
(ルビィか?)
薄い姿のままでしか認識できていないために、距離が開けばまず見落としてしまうだろう。
そこに居ると知っているからこそ、なんとか見えているといった程度だ。
そのルビィが、怯える三人の頭上で力むように全身を震わせていた。
どのような力を行使しているのかは分からないが、月菜達を侵蝕者から護ってくれている。
ルビィは様々な能力を持っているとアレイツァが語っていた事を思い出し、今しばらくは三人の保護を任せても大丈夫だろうかと考えた。
だが、ルビィと明確な意思の疎通が取れていない現状では、いつまでも任せきりにする事は心許なかった。
いつルビィが力尽き、少女らに侵蝕者が殺到するか、想像するだけでも逸る気持ちが抑えられなくなりそうだ。
圭は周囲の侵蝕者を破壊しながらも、頻繁に三人の方へと視線を向ける。
圭に迫る侵蝕者と同じく、人間を排除しようとする土人形は尽きる事なく発生し続ける。
時折その包囲網に穴が開くものの、すぐに補強されてしまい、少女らの姿を見失う時間の方が長くなっている。
ルビィも休む事なく身体を震わせ続けており、このままでは本当にどこかで月菜達を護り切れなくなるのではないかという思いが圭の脳裏を占めゆく。
次第に募る焦りが集中力を散漫にさせ、そこに生じた隙を見逃すヒミカではなかった。
「――っ!?」
また一体と崩れ落ちる土塊を突き破り、ヒミカの白い両腕が圭に迫った。
月菜達へと注意が逸れていた事もあるが、侵蝕者の群れと対峙している間はヒミカが動く事はないと思い込んでいたために咄嗟に対応する事ができなかった。
「んが…っ!」
ヒミカの十指が吸い込まれるように圭の首を捉え、次の瞬間には爪先が宙に浮かされていた。
「私を前にしてどこを見ているのだか。甘く見られてしまったものね?」
緑色の瞳を煌めかせながら嗤笑する端正な顔がほぼ真下に見えた。
「お前たちは小娘の相手をしてやれ」
圭から視線を外す事なく、ヒミカは口にした。
ヒミカ自身が動いてからというもの、圭に群がっていた侵蝕者は立像のように止まっていたのだが、新たな命令を受け、すべての侵蝕者がその向きを変えた。
三人の少女へと。
「ま…待てっ!」
呼んだところで止まる筈もないのだが、圭は侵蝕者の背に手を伸ばそうと藻掻く。
「…この状況で、他人の心配か?」
持ち上げていただけの両手に力が入る。
その正体を知っているとはいえ、細腕から繰り出される膂力は尋常ではなく、たちまち呼吸と血流とが圧迫される。
「ご…のお…っ」
抜け落ちそうになる意識を必死に繋ぎ止め、手元で刀を回転させる。
砂を挽くようなザラついた感触を掌に残し、圭の身体は重力に呼ばれるままに落ちた。
喘ぐように酸素を求めながらも、地を蹴ってヒミカとの距離をとる。
首から引き剥がした両腕は鈍い音を立てて転がり、その衝撃で脆くも崩れ去った。
単なる土の塊が数秒前には信じ難い力で首を絞めていたなど、実体験を通じてもなお夢物語かと疑いたくなってしまう。
両腕を失ったヒミカは足元の土を身体に吸収し、早くも再生を終えようとしていた。
腕の断面がうねるように蠢き、触手のように伸びて元通りの腕を形作る。
次第に指の形状をとる様を見ながら、まるで出来の悪いCG映画だと圭は思った。
どの辺の出来が悪いかといえば、傍観者として楽しめていない事だろう。
最後には必ず正義が勝つと決まった脚本がある訳でもなく、むしろ絶望的なエンディングしか用意されていないのではないかと勘ぐってしまう展開は娯楽作としてはどうかと思う。
「ふぅん…。力をつけているっていうのも、法螺を吹いている訳じゃなさそうね」
元通りになった手首を回すヒミカは、どことなく愉快そうだった。
圭の殺害を目的としている筈なのだが、あっさり殺してしまっては面白くないと考えているのだろうか。
「まぁ、月菜ちゃん達の方が気になるみたいだし。それなら、さっさと終わらせてあげましょうかね」
まだ咳が込み上げそうになる喉元に力を入れ、逆手になっていた刀を持ち直す。
ほんの数分で済むだろうか?
とにかく今だけは三人の少女の存在を忘れなければならないと圭は自身を叱咤する。
圭が構えるよりも早く、ヒミカが踏み込んできた。
鋭い手刀を避けたものの、その勢いのまま回転を加えながらの肘打ち、裏拳、足払い、飛び膝蹴りと矢継ぎ早に攻撃を繰り出してくる。
速度も一撃の重さも相当なものではあったが、継島相手の特訓の成果か、十分に落ち着いて見る事ができていた。
そして特訓していたのは避ける事ばかりではない。
一瞬の隙を縫うように、ヒミカの脇腹に掌底を突き入れた。
(…え?)
申し分のない一撃だった筈だが、まるでサンドバッグを叩いたかのような重量感が圭の腕に跳ね返ってきた。
その驚きに動きが止まってしまったところを、容赦無い追撃が降りかかってくる。
舌打ちをする余裕もなく、突き出される膝の勢いを利用して距離を取った圭は、改めて刀を握り直した。
(やっぱり、素手じゃ無理か…)
生身の人間同士であれば相打ち覚悟の戦法も可能だったろうが、侵蝕者であるヒミカの肉体は土そのものの硬さだ。
徒手による打撃では、攻撃した側が怪我をする事になるだろう。
「なかなか動くじゃないか」
ヒミカがゆっくりと大きく、両腕を頭上へと差し上げた。
流れるような動きは白鳥の羽ばたきを連想させ、それを見た圭は一瞬息を呑んだ。
その腕は本物の翼であるかのように力強く空を掻き、ヒミカの細い身体を宙に浮かせる。
長い黒髪が風に踊り、装束の裾が優雅にはためく。
かつて目にした事がなければ、迂闊にも見惚れていたかもしれない。
それほどまでに流麗な動きだった。
「…うわっ!」
数メートルあった距離を瞬時に詰め、喉元を刺し貫かんばかりの鋭さで迫った爪先をなんとか躱したが、そのまま地を転がって離れようとする圭を連撃が追い掛ける。
多くの生徒によって踏み固められている大地を深く抉る攻撃は、当たりどころが悪ければ即死に違いない。
圭とて死ぬのは願い下げだ。
不格好さなど知った事かと懸命に転がっていたが、大きく踏み込んできたヒミカの蹴りを背に受けてボールのように弾き飛ばされてしまう。
「痛ってぇ…」
蹴られたのが丸めていた背でなければ痛いどころの話では済まないだろうが、どのような状況であったとしてもヒミカが攻撃の手を緩めたりしない事は再確認できた。
「――!!」
半ば勘ではあったが、視線を動かすよりも先に身体を動かす。
立ち上がりざまに小さくステップバック、同時に刀を腰だめに構える。
そして顔を上げた先、たった今まで圭が転がっていた場所にヒミカは居た。
全力で飛び掛かってきていたのだろう。地を抉った態勢のまま、崩れたバランスを直そうともせずに圭へと腕を突き出してきた。
その一連の動作を、圭は信じられないほど冷静に認識していた。
自分以外のすべてが水中に没しているかのような遅々とした速度で動いている。
迫る攻撃の回避動作も念頭にはなく、伸びてきた腕を逆袈裟に薙ぐ。
綺麗な剣筋は圭の手にさしたる抵抗感も残さずに、ヒミカの右腕を――そこに内在している核ごと斬り裂いた。
「ぐ…っ」
ついさっきは両腕を落とされても平気な顔をしていたヒミカだったが、やはり核を潰される事は痛覚を伴うらしい。
歯を食いしばりながら苦悶の表情を浮かべる姿を、圭は初めて目にした。
(緋美姉…!)
圭の目に映ったのは、侵蝕者ではなく緋美佳の姿。
割り切った筈なのに、緋美佳を傷付けてしまった事への罪悪感が圭の四肢を、呼吸を見えない鎖で縛り付ける。
その空白の瞬間が、ヒミカに反撃の糸口を与えてしまった。
「…がっ!?」
どうやら思考も停滞してしまっていたらしく、胸に放たれた掌打を目で捉える事ができなかった。
息が詰まり、白くぼやけた視界の上から容赦無い打撃が浴びせ掛けられる。
左肩、腹、右大腿へと固い拳を突き入れられ、最後に繰り出された膝だけは防いだものの、蹴り抜く勢いまでは抑えられずに大きく弾き飛ばされた。
土煙と千切れる雑草を巻き上げながら地を滑る圭の身体は、修練場端の木にぶつかる事により、やっと停止する。
そのまま横たわっていたい欲求に駆られたが、幹に体重を預けるようにしてなんとか上半身を起こす。
しかしどうやら限界のようだった。
全身が激しい鈍痛に見舞われ、特に左肩は経験した事のない痛みが襲っている。
腕が変な方向を向いているところをみると脱臼しているようだが、それを治すために右腕を持ち上げるだけの元気もない。
「覚悟は出来たかしら」
ヒミカとの距離は開いていたが、何の苦もなく詰めてくるだろう。
羽ばたくように大きく腕を上げる姿を滲む視界に捉えながら、圭の意識は過去の世界へと遡っていた。
5分と経たずに40体もの侵蝕者を撃破した圭だったが、数える事は断念する事した。
なにしろ、倒すのと同じ速度で侵蝕者が湧いて出るのだ。
いつまで続くか分からない事に思考を割く徒労さに呆れたのだ。
しかしそれでも侵蝕者を倒し続ける事は確実なプラス要素になっており、焦りに繋がるような事は何もない。
刀を一閃させる毎に感覚は研ぎ澄まされ、侵蝕者の核を裂く精度が増す。
背後より迫る侵蝕者の核を振り向きざまに柄頭で叩き潰し、足下を掬おうと出現する頭を核ごとまとめて蹴り砕く。
不謹慎な事だが、最終ボス直前に雑魚モンスターを大量に退治してはレベル強化を図る、ゲーム的な作業に酷似していると圭は思った。
事実、圭は戦闘経過と共に己の技量の底上げを実感し、その殲滅力は侵蝕者の出現速度を上回りつつある。
だが、単純な力比べではヒミカには遠く及ぶべくもない。
最下層に位置する侵蝕者をどれだけ己が経験値に換算してみたところで、人間の限界を凌駕する存在を相手取って勝てる見込みは薄い。
歴然たる力の差があるのならば、圭はヒミカが持ち得ないもので勝負するしかないのだが、それは一体何なのだろうか。
「お、お兄ちゃんっ!?」
侵蝕者の群れと対峙しながら、妙策は生まれるだろうか。
そんな思考を繰り返す圭の耳に、この場に居てはいけない人物の叫び声が飛び込んできた。
「月菜っ?」
圭が登ってきた東側の参道と対をなすように、西側にも一本の参道があった。
そこを登ってきたのだろう。
そこには見間違えようもない妹の姿があり、その後ろには眞尋と穂を引き連れている。
「お前達、なんでこんなところにっ!?」
迫る侵蝕者を薙ぎ払いつつ跳び退る。
三人揃ってこんな場所に足を運ぶなど、少し考えただけではその理由の見当さえつかない。
「ルビィがどうしてもここに来るって…!」
ルビィが外に出たいと言ってきたのだ。
もちろん明確な言葉で伝えられたものではなかったが、月菜は確かにルビィの意思を感じ取り、導かれるようにしてここまでやってきたのだ。
外出は控えるべきだと分かってはいたが、圭だけでなく千沙都とアレイツァも出払っており、月菜の意志の固さのために眞尋と穂が保護者的に同行した次第なのだ。
その事を口にするよりも早く、周囲に侵蝕者が出現する。
敵意に満ちた土人形に囲まれ、何の力も持たない三人は完全に圭の視界から断絶されてしまう。
「ええええっ?」
「ちょ、ちょっとっ!」
「おっ、お兄ちゃ~~んっ!」
三様の言葉が発せられるが、どれをとっても危地を告げるものであり、圭としてはヒミカを後回しにしてでも三人の救出に動かねばならない。
しかし、圭の眼前でも群がる侵蝕者が厚い壁と化しており、アレイツァのように空でも飛べない事には、ほんの数歩さえも進めそうにない。
焦り始めた圭だが、三人に迫る侵蝕者は次々とその身を砕かれ、一体として手の届く位置へ踏み込めずに散ってゆくのが見えた。
(穂…?)
その様子に、教室での記憶が甦る。
あの時と同様、穂が隠された技能を惜しみなく披露しているのかと期待した。
しかし三人は互いを抱き合うように身を寄せ合っており、穂はもちろん他の二人も何をしている様子はない。
ならば――
(ルビィか?)
薄い姿のままでしか認識できていないために、距離が開けばまず見落としてしまうだろう。
そこに居ると知っているからこそ、なんとか見えているといった程度だ。
そのルビィが、怯える三人の頭上で力むように全身を震わせていた。
どのような力を行使しているのかは分からないが、月菜達を侵蝕者から護ってくれている。
ルビィは様々な能力を持っているとアレイツァが語っていた事を思い出し、今しばらくは三人の保護を任せても大丈夫だろうかと考えた。
だが、ルビィと明確な意思の疎通が取れていない現状では、いつまでも任せきりにする事は心許なかった。
いつルビィが力尽き、少女らに侵蝕者が殺到するか、想像するだけでも逸る気持ちが抑えられなくなりそうだ。
圭は周囲の侵蝕者を破壊しながらも、頻繁に三人の方へと視線を向ける。
圭に迫る侵蝕者と同じく、人間を排除しようとする土人形は尽きる事なく発生し続ける。
時折その包囲網に穴が開くものの、すぐに補強されてしまい、少女らの姿を見失う時間の方が長くなっている。
ルビィも休む事なく身体を震わせ続けており、このままでは本当にどこかで月菜達を護り切れなくなるのではないかという思いが圭の脳裏を占めゆく。
次第に募る焦りが集中力を散漫にさせ、そこに生じた隙を見逃すヒミカではなかった。
「――っ!?」
また一体と崩れ落ちる土塊を突き破り、ヒミカの白い両腕が圭に迫った。
月菜達へと注意が逸れていた事もあるが、侵蝕者の群れと対峙している間はヒミカが動く事はないと思い込んでいたために咄嗟に対応する事ができなかった。
「んが…っ!」
ヒミカの十指が吸い込まれるように圭の首を捉え、次の瞬間には爪先が宙に浮かされていた。
「私を前にしてどこを見ているのだか。甘く見られてしまったものね?」
緑色の瞳を煌めかせながら嗤笑する端正な顔がほぼ真下に見えた。
「お前たちは小娘の相手をしてやれ」
圭から視線を外す事なく、ヒミカは口にした。
ヒミカ自身が動いてからというもの、圭に群がっていた侵蝕者は立像のように止まっていたのだが、新たな命令を受け、すべての侵蝕者がその向きを変えた。
三人の少女へと。
「ま…待てっ!」
呼んだところで止まる筈もないのだが、圭は侵蝕者の背に手を伸ばそうと藻掻く。
「…この状況で、他人の心配か?」
持ち上げていただけの両手に力が入る。
その正体を知っているとはいえ、細腕から繰り出される膂力は尋常ではなく、たちまち呼吸と血流とが圧迫される。
「ご…のお…っ」
抜け落ちそうになる意識を必死に繋ぎ止め、手元で刀を回転させる。
砂を挽くようなザラついた感触を掌に残し、圭の身体は重力に呼ばれるままに落ちた。
喘ぐように酸素を求めながらも、地を蹴ってヒミカとの距離をとる。
首から引き剥がした両腕は鈍い音を立てて転がり、その衝撃で脆くも崩れ去った。
単なる土の塊が数秒前には信じ難い力で首を絞めていたなど、実体験を通じてもなお夢物語かと疑いたくなってしまう。
両腕を失ったヒミカは足元の土を身体に吸収し、早くも再生を終えようとしていた。
腕の断面がうねるように蠢き、触手のように伸びて元通りの腕を形作る。
次第に指の形状をとる様を見ながら、まるで出来の悪いCG映画だと圭は思った。
どの辺の出来が悪いかといえば、傍観者として楽しめていない事だろう。
最後には必ず正義が勝つと決まった脚本がある訳でもなく、むしろ絶望的なエンディングしか用意されていないのではないかと勘ぐってしまう展開は娯楽作としてはどうかと思う。
「ふぅん…。力をつけているっていうのも、法螺を吹いている訳じゃなさそうね」
元通りになった手首を回すヒミカは、どことなく愉快そうだった。
圭の殺害を目的としている筈なのだが、あっさり殺してしまっては面白くないと考えているのだろうか。
「まぁ、月菜ちゃん達の方が気になるみたいだし。それなら、さっさと終わらせてあげましょうかね」
まだ咳が込み上げそうになる喉元に力を入れ、逆手になっていた刀を持ち直す。
ほんの数分で済むだろうか?
とにかく今だけは三人の少女の存在を忘れなければならないと圭は自身を叱咤する。
圭が構えるよりも早く、ヒミカが踏み込んできた。
鋭い手刀を避けたものの、その勢いのまま回転を加えながらの肘打ち、裏拳、足払い、飛び膝蹴りと矢継ぎ早に攻撃を繰り出してくる。
速度も一撃の重さも相当なものではあったが、継島相手の特訓の成果か、十分に落ち着いて見る事ができていた。
そして特訓していたのは避ける事ばかりではない。
一瞬の隙を縫うように、ヒミカの脇腹に掌底を突き入れた。
(…え?)
申し分のない一撃だった筈だが、まるでサンドバッグを叩いたかのような重量感が圭の腕に跳ね返ってきた。
その驚きに動きが止まってしまったところを、容赦無い追撃が降りかかってくる。
舌打ちをする余裕もなく、突き出される膝の勢いを利用して距離を取った圭は、改めて刀を握り直した。
(やっぱり、素手じゃ無理か…)
生身の人間同士であれば相打ち覚悟の戦法も可能だったろうが、侵蝕者であるヒミカの肉体は土そのものの硬さだ。
徒手による打撃では、攻撃した側が怪我をする事になるだろう。
「なかなか動くじゃないか」
ヒミカがゆっくりと大きく、両腕を頭上へと差し上げた。
流れるような動きは白鳥の羽ばたきを連想させ、それを見た圭は一瞬息を呑んだ。
その腕は本物の翼であるかのように力強く空を掻き、ヒミカの細い身体を宙に浮かせる。
長い黒髪が風に踊り、装束の裾が優雅にはためく。
かつて目にした事がなければ、迂闊にも見惚れていたかもしれない。
それほどまでに流麗な動きだった。
「…うわっ!」
数メートルあった距離を瞬時に詰め、喉元を刺し貫かんばかりの鋭さで迫った爪先をなんとか躱したが、そのまま地を転がって離れようとする圭を連撃が追い掛ける。
多くの生徒によって踏み固められている大地を深く抉る攻撃は、当たりどころが悪ければ即死に違いない。
圭とて死ぬのは願い下げだ。
不格好さなど知った事かと懸命に転がっていたが、大きく踏み込んできたヒミカの蹴りを背に受けてボールのように弾き飛ばされてしまう。
「痛ってぇ…」
蹴られたのが丸めていた背でなければ痛いどころの話では済まないだろうが、どのような状況であったとしてもヒミカが攻撃の手を緩めたりしない事は再確認できた。
「――!!」
半ば勘ではあったが、視線を動かすよりも先に身体を動かす。
立ち上がりざまに小さくステップバック、同時に刀を腰だめに構える。
そして顔を上げた先、たった今まで圭が転がっていた場所にヒミカは居た。
全力で飛び掛かってきていたのだろう。地を抉った態勢のまま、崩れたバランスを直そうともせずに圭へと腕を突き出してきた。
その一連の動作を、圭は信じられないほど冷静に認識していた。
自分以外のすべてが水中に没しているかのような遅々とした速度で動いている。
迫る攻撃の回避動作も念頭にはなく、伸びてきた腕を逆袈裟に薙ぐ。
綺麗な剣筋は圭の手にさしたる抵抗感も残さずに、ヒミカの右腕を――そこに内在している核ごと斬り裂いた。
「ぐ…っ」
ついさっきは両腕を落とされても平気な顔をしていたヒミカだったが、やはり核を潰される事は痛覚を伴うらしい。
歯を食いしばりながら苦悶の表情を浮かべる姿を、圭は初めて目にした。
(緋美姉…!)
圭の目に映ったのは、侵蝕者ではなく緋美佳の姿。
割り切った筈なのに、緋美佳を傷付けてしまった事への罪悪感が圭の四肢を、呼吸を見えない鎖で縛り付ける。
その空白の瞬間が、ヒミカに反撃の糸口を与えてしまった。
「…がっ!?」
どうやら思考も停滞してしまっていたらしく、胸に放たれた掌打を目で捉える事ができなかった。
息が詰まり、白くぼやけた視界の上から容赦無い打撃が浴びせ掛けられる。
左肩、腹、右大腿へと固い拳を突き入れられ、最後に繰り出された膝だけは防いだものの、蹴り抜く勢いまでは抑えられずに大きく弾き飛ばされた。
土煙と千切れる雑草を巻き上げながら地を滑る圭の身体は、修練場端の木にぶつかる事により、やっと停止する。
そのまま横たわっていたい欲求に駆られたが、幹に体重を預けるようにしてなんとか上半身を起こす。
しかしどうやら限界のようだった。
全身が激しい鈍痛に見舞われ、特に左肩は経験した事のない痛みが襲っている。
腕が変な方向を向いているところをみると脱臼しているようだが、それを治すために右腕を持ち上げるだけの元気もない。
「覚悟は出来たかしら」
ヒミカとの距離は開いていたが、何の苦もなく詰めてくるだろう。
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