めぐり、つむぎ

竜田彦十郎

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はじまり

067 末路

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 山林の暗がりの中を、丸い物体が不恰好に蠢いていた。

(くそ…くそ……くそうっ!)

 それは首だけとなったヒミカだった。

(くそ……くそくそくそっ!)

 それ以外の言葉を忘却したかのように、口の中で悪態を吐き続ける。
 欲求のままに声に出してしまえば、たちどころに見つかってしまうに違いない。

 左目に突き立った釼穿鍼が核を破壊しきれていなかったためにこうして消滅を免れているのだが、傷ついた核ひとつだけでは身体を生成する事も叶わず、土に同化し逃げ込む事もできない。
 本来、侵蝕者は核が傷ついただけでも消滅してしまうのだ。
 こうして意識を留めているだけでも、神という不確かな存在に感謝しても良いくらいだ。

 否。これは生きろという天命に違いない。
 世界は人間という、害を撒き散らすだけの存在を抹消したいのだ。
 そうでなければ、こうして活動できている事の説明がつかないではないか。

 ともかく、今はどんな手を使ってでも逃げ切らねばならない。
 時間は掛かるが再生の望みはある。次こそは憎々しい退魔師どもを根絶してやろう。

「くそ…っ」

 強すぎる怨嗟が声となって漏れた。
 慌てて口をつぐみ周囲の気配を探るが、今の声に気付かれた様子はないようだ。
 安堵の息を漏らすと、顎の開閉運動を再開し、ナメクジのように不格好な前進を始める。

(…くそうっ!)

 一際強く罵った。
 自分を討伐に来た退魔師の一団を蹴散らし、その中でも飛び抜けて優秀だった女の血液を元に複体を作り出したまでは良かった。
 なんといっても、仇敵であるザナルスィバの情報を有していたのだ。
 しかし、その退魔師の身体を使い続けた事こそがこのような窮地に追い込まれた原因だと考えれば、良い事などひとつもありはしない。

 教室で圭と遭遇した際に、手助けをしてしまった。
 保健室では、圭が目覚めるのを待っていた。
 西校舎前では、圭が一人になるのを待っていた。

 すべて、すべて肉体の元となった緋美佳の強固な意志が影響を及ぼした結果である。
 完全な複体を作ったために、深層意識までも忠実に再現してしまったのだ。

 他にもある。
 修練場での決戦の際に口にした言葉『正々堂々と』。
 ヒミカ本人さえも気付かぬうちに、その言葉に囚われていた。
 自身で攻撃を開始した際、侵蝕者の群れを邪魔にならないよう遠ざけ、攻撃も殺傷力の低い打撃中心で組み立てていた。

 そして、結界に覆われたこの地を決戦場に選んだ事。
 すべてが侵蝕者であるヒミカに不利な方向へと動いていた事実に、今さらながら作為的な何かがあったのではないかと思わざるを得ない。

 解せぬ。

 そういったマイナス要素を加味してみたところで、ヒミカの圧倒的な優位は変わらなかった筈なのだ。
 どれだけ鍛練を積んでみたところで、どれだけ徒党を組んだところで、人間が到達できるレベルなど知れたものだ。
 しかし、現に敗走しているのは自分である。
 一体、どこで何を間違えたのか。

(あの女が……)

 緋美佳に圭は殺せないと気付けなかった事が、一番の敗因なのだ。
 人間の感情を理解できぬまま、緋美佳の身体を使い続けていた事自体が間違いだったのだが、ヒミカはそこに気付く事ができない。
 例え誰かに指摘されたとしても、理解する事なく終始するだろう。

(あの女だけは、生きたまま地獄の苦しみを味あわせてやる!)

 今は傷ついた核がひとつきりだが、時間を掛けてでも再生を遂げれば、残りの核も瞬く間に元通りだ。
 そうすれば、多くの制約がかかってしまう人間の身体になど用はない。
 この土地に溶け込み、山そのものを己の体とし、近付く人間は紙屑同然に薙ぎ払うのだ。

 しかし、緋美佳と圭だけは違う。
 生け捕った上で手足を少しずつ切り刻み、四肢をもいだ状態で転がして遊ぶのだ。
 人間は脆弱だ。侵蝕者のように身体を再生する事ができない。
 ひと思いに殺してくれと泣き叫びながら懇願させてやろうではないか。

 そんな光景を思い描く事によって溜飲を下げたヒミカは前進を続ける。
 この地は対侵蝕者設備が整っているために、山を出る事自体が危険な行為となってしまう。
 結界に包まれた中では回復も遅くなってしまうが、侵蝕者を外敵と看做す存在に発見されてしまうよりはマシだろう。
 人間が立ち入りそうにない場所を見つけ、息を潜めるのが賢い選択だ。
 子供の足でも踏破できるだろう小さな山ではあるが、木々が繁っていれば誰も踏み入らない場所などいくらでもあるものだ。

 さしあたって脅威となる退魔師は、仮初めの勝利に酔っているに違いない。
 ヒミカの逃亡は成功するかのように思われた。

(…んん?)

 突然、目の前を流れる景色が止まった。
 どれだけ顎を動かしてみても、移動する様子がない。

 進行方向を正面に見据える事のできない状態なのだ、何か障害物に行き当たったらしい。
 小石や盛り土程度ならば問題ないが、こうして進めなくなった以上は自分よりも大きな石か倒木か。
 面倒臭くはあったが、進行方向を変える事にした。

(…な、なんだ?)

 今度は、目の前の景色が固定されたまま動かなかった。
 顎は確かに地に触れているにもかかわらず、一向に眼前の景色に変化はない。

 唐突に嫌な予感がした。

「…ほう。これはまた珍しい場所に、首が転がっているものだな」

 右の眼球だけを上へと向けると同時に、低く押し殺した声が降ってきた。

「ひいぃっ!」

 声の主と視線がぶつかり、ヒミカは反射的に悲鳴を漏らしてしまった。

「人の顔を見るなり悲鳴とは、失礼な奴だな。ああ?」

 頭だけとなったヒミカを踏みつけ、そこに立っていたのはアレイツァだった。
 千沙都が着ていた濃紺のスーツに身を押し込み、当の千沙都は意識のない下着姿のまま肩に担ぎ上げられている。

 東條の居なくなった後の監視の目を盗むのは、難しい事ではなかった。
 自動反応する電撃装置も、作動タイミングさえ掴めば恐れるに値しない。

 東條の予想を上回る驚異的な回復力で黒焦げにされた身体は元に戻っていたが、さすがに焼け崩れてしまった服までは元通りという訳にはいかず、綺麗なままの千沙都の服を拝借したという次第である。
 当然の成り行きとして千沙都を下着姿に剥いてしまう事になったが、どうせ暫くは気を失ったままなのだし、目覚める前に全て終わらせれば問題ない。

「…ふん。敵の息の根を止めた事を確認しないなんて、まだまだ未熟だな」

 アレイツァからしてみれば恐れる必要などない存在ヒミカだが、ザナルスィバ入門者の圭に今回の敵はあまりに強大だったという事は理解していた。
 ここはよくやったと評価しておいても良いのだろう。

 詰めが甘かったために、いずれこの侵蝕者の逆襲を受けてしまうのだとしても、それはまた別の話だ。

「しかし、どうしてくれようか……」

 足の裏でゴリゴリとヒミカを転がしながら、アレイツァは考えるふりをした。
 このような場に臨んでも、深く考えるのは面倒で仕方がない。

「ま…待ってくれ!」

 とりあえず踏み潰しておこうかと考えたが、必死に懇願する声に足を止めた。

「と、とと、取引をしようじゃないか。このまま見逃してくれれば、お前の部下になってもいい」

「部下ぁ?」

 この首は何を言っているのだか。
 怪訝そうな表情を浮かべるアレイツァに、ヒミカは言葉を続ける。

「今のこの世界……人間が我が物顔で横暴に振る舞う事に、不満はないのか?」

 頭上に掛っていた足の力が緩み、ヒミカは最初の賭けに勝ったと思った。
 アレイツァが人外の存在である事は、その力を目の当たりにした時から感じていた。それも、高位の侵蝕者である自分を遙かに凌駕する程の。
 その時の言動からすれば人間の側に立っているかのようだったが、それは必ずしも本心からではなく、成り行きによるものではないかと踏んだのだ。

「人間どもは増長しすぎだ。何者かが、怒りの鉄槌を加えなければならないのだ。それを我らの手で行おうじゃないか!」

 この主張自体は本心だ。
 侵蝕者とは、人間を根絶やしにするべく発生した存在なのだから。
 そしてこの説得の成否は、アレイツァが人間という種に対してどう向かい合っているかにかかっている。

「お前とて、その特異な存在ゆえに、人間に煮え湯を飲まされた事も一度や二度ではない筈だ。命の危機さえあったろう。違うか?」

 正直なところ、アレイツァが人間をどう思っているかなどどうでも良かった。この場を切り抜けられさえすれば。

 人間とは真実、身勝手極まりない種族だ。
 その人間が自分達と明らかに異なる存在に対しどういう行動に出るのか、そこを考慮すればアレイツァに投げかけている言葉も、あながち的外れではないに違いない。

「ふむ……」

 思い当たる節があるのか、アレイツァは考え込むように片方の眉を動かした。

「この地球上の自然を破壊し、資源を貪るだけのクズなど、我らの手で駆逐してやろうじゃないか。人間狩りは楽しいぞ?」

 ここで畳み掛けるべく、ヒミカは更なる熱意を込めて口を動かす。あと少しだ。

「なかなか面白そうな話だな。具体的な計画はあるのか?」

 ついにアレイツァは足をどけた。
 ヒミカは狂喜に奇声を発したくなったが、首だけの無力な状態でこちらの意図を悟られる訳にはいかない。
 平然とした表情を装う事にした。

「この身体が回復しない事にはどうにもならないのだが、まずはだな……」

 口先ばかりの出任せであっても、この場で納得させるだけの計画を示さねばならない。
 とにかく説明を始めようとしたヒミカだったが、腰を落としたアレイツァの視線が左目に刺さったままの鍼に止まった。

 釼穿鍼は間違いなく核を刺し貫いていたが、奇蹟的に核は破壊の被害を免れていた。
 下手に衝撃を与えて核が崩れたりしては元も子もない。
 能力が著しく低下してしまう事にも目を瞑り、新たな核が再生するまでは抜いたりせずに放置しておこうと決めていたのだった。

「見ているだけで痛々しいな。取ってやろう」

 ヒミカが何を言う余裕などなく、捻るようにして勢いよく鍼は引き抜かれた。

「ば…っ!」

 ヒミカが恐れていた通り、鍼が抜かれる衝撃で核は砕けた。
 そしてそれこそが、侵蝕者として生まれたヒミカの最期であった。

 恐怖と驚愕の表情に固まったまま、肌と髪は乾いた土色へと変色し、やがて形状を固定できずに砕け散った。
 後に残ったのは原形を留めていない砂礫とアレイツァが手にした一本の釼穿鍼のみとなり――

「やれやれ……」

 ゆっくりと立ち上がり、手にした鍼を砂礫の山へと放り捨てた。
 侵蝕者だった残骸はいずれ風に流されて釼穿鍼だけが残るだろうが、それすらも二度と人間の目に触れる事はないに違いない。

「確かに、人間は愚かなものさ。
 いずれ地球そのものを喰らい尽くすだろうが……だからといって、この手で滅ぼさねばいけない程に嫌っている訳じゃないんだよ」

 既に聞く者が居ない空間へと独白するように、アレイツァは呟いた。

「まぁ、今回の後始末分はいずれ返してもらうとするか」

 圭が居るだろう修練場の方へと視線を上げる。
 修練場から下った位置のここからではその姿は見えないが、今日のところは別に顔を合わせる必要もないだろう。

「……ああ。まだ片付けなくてはいけない問題があったな」

 捉え方によっては、こちらの方が侵蝕者などよりも厄介だ。
 なにしろ、圭は同族である人間を相手にしなければならないのだから。
 やはり早々に圭達と合流して対策を練った方が良いのかもしれない。

 その時、修練場の方から乾いた炸裂音がひとつ響いてきた。
 日常生活において耳慣れない音だったが、聞き違いはなかった。銃声だ。

「…遅かったか!」

 やはり優先順位を間違えてしまったのか。
 舌打ちをするも、正解を答えてくれる者はここには居ない。
 千沙都を担いだまま、アレイツァは修練場へと向けて雑草に覆われた坂道を駆け上がった。
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