めぐり、つむぎ

竜田彦十郎

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はじまり

069 野望と終焉・結

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 東條自身、最初は単なる好奇心と探究心のみで動いていた。

 哨戒部隊としての活動の合間に少しずつ進めていた非公式調査であった事も、後に歯車を狂わせる一因となってしまったのだろう。
 或いは、初動の段階でルビィの存在が明らかになっていれば。
 公の調査隊を組み、このような事にはならなかったのかもしれない。

 結局、秘密裏に動いていた事が仇となった。
 未知の力を秘めた生物の調査は、己が気付かぬ遅々とした速度で精神に染み込み、いつしか力を求める野望へと東條を染め上げていたのだった。

「さぁ、そのルビィを渡したまえ。
 おとなしく従えばよし。さもなくば、君のお兄さんが苦痛の末に死ぬ事になるぞ?」

 東條は改めて手にした銃を揺り動かし、その存在を強調した。

「そ、そんな事、言われたって……」

 決断を迫られる月菜だったが、そもそも東條は思い違いをしている。
 ルビィが月菜に懐いているのは事実だが、渡す渡さないと月菜の意志ひとつで可能なものではないのだ。
 行けと言われてルビィが従うという保証などありはしない。

 第一、東條にルビィを渡したとして。ルビィを実験対象として酷い扱いをするのは目に見えている。
 そんな相手にルビィを差し出す事は、月菜自身の良心に反する行為だ。

「さぁ! あまり長くは待てないぞ」

 東條は本気だ。
 言われるままにルビィを差し出してしまうのは心が痛むが、このままでは兄が凶弾に晒されてしまう。

「どうしよう…お兄ちゃんが……!」

 月菜は祈るような気持ちでルビィを見上げた。
 瞳を潤ませる月菜を不思議そうに見下ろしていたルビィだったが、一度だけ梟のように首を大きく傾げると、月菜の上から離れていった。
 まるで人の言葉を解しているかのように、ルビィは東條に向けて滑るように中空を移動する。

「ルビィ……!」

 思わず声を掛けてしまう月菜だったが、今さら何ができるというのか。
 こうなっては、東條が口約束を守る事を祈るばかりだ。

「そう…、こっち……こっちだ!」

 部下に持ってこさせた50センチ四方のケージを片手で高々と掲げ、興奮に身を震わせる東條。
 緋美佳の目にその姿は映っていなかったが、東條の視線の動きからルビィの位置と速度はおおよそ理解できていた。

 ルビィに気を取られているこの瞬間こそが好機と思われたが、興奮の絶頂にいる筈の東條の右腕は微動だにせず圭へと照準を合わせている。
 その銃口を振り切ってみたとしても、多くの機関銃が睨みをきかせている状況では、迂闊に動く訳にもいかない。

 やがて、ルビィの全身がケージの中に収まった。
 東條の装着しているゴーグル同様に、ルビィ捕獲用に誂えたケージである。
 中のルビィが目視できるようになるだけでなく、特殊能力を無力化させるための考えうる機能を盛り込んでいた。
 これで名実ともに、ルビィは東條の手の内である。

「やった…! ついにやったぞ! これで大きく前進だ!」

 どこに向かって前進するつもりなのか、それをここで聞くつもりもなかった。
 願わくはその満悦気分のまま立ち去って欲しいものだと、緋美佳は思った。
 ついでに言えば叉葉山高の敷地から出た瞬間に、東條の暴走に気付いて制圧に来た他の部隊とぶつかったりしないだろうかと。

 ルビィを手に入れた東條は圭達の事など本当にどうでもよくなったらしく、銃を収めると背を向けた。
 東條の部下が先走って発砲するという事もないようだったが、どこで気が変わらないとも限らない。
 現にいつ火を噴くとも知れない銃口が、自分達を捉えているのだ。

(圭くん、あと少しだからね……)

 すっかり力の抜けてしまった体を抱き締めながら、緋美佳は呟いた。
 脚に怪我さえ負っていなければ、今すぐにでも自ら駆けて病院まで圭を運ぶのに。

「……ん?」

 不意に、東條が不審げな声を発した。
 いきなり銃を抜くという暴挙を考えた緋美佳はいつでも圭と入れ替われるよう腕に力を込めたが、東條の注意はまるで違う方へと向いていた。
 ケージの中でルビィがその身を震わせたのだ。

「ルビィ!?」

 月菜が心配そうに叫んだ。
 長く一緒に居たせいか、ルビィの発する意思をそれとなく感じ取れていた月菜にしてみても、その行動は初めて見るものだった。
 目を強く閉じ、身体を丸め、毛を逆立て小刻みに震える姿はどのような意思を表しているのだろうか。

「呼んで……いる…?」

 連れ去られる事に抵抗して助けを求めているのかとも思ったが、そういったものとは違うようだった。
 月菜は思い出す。そもそも月菜達がこの修練場にまでやってきたのは、ルビィの働きかけによるものだったと。
 一体、この地に何があるというのだろうか。

 それは突然に起こった。

 修練場の上空に亀裂が生じたのだ。
 まるで稲妻のような不定形の軌跡が、何もなかった筈の空間に穿たれた。
 全員が呆然と見守る中、その軌跡は見えない手によって乱暴に広げられた。
 空間の裂かれる音が不吉な震動音となり、その場に入る者の全身を強く叩く。

 頭上の殆どを占めた穴の向こうには、闇が渦巻いていた。
 夕闇、薄闇、宵闇、そして常闇。
 あらゆる種類の闇がい交ざりながらも、決して一つの色にはならない大きな渦。
 ところどころに赤い彩りが加えられていたが、闇の色の中にあるそれは恐怖感を呼び覚ますものでしかない。

「マズいぞっ!」

 舌打ちと共に、アレイツァが木立の陰から飛び出した。
 圭達を助け出すタイミングを窺っていたのだが、このような事態を迎えるとは本当に予想外だった。

 アレイツァは亀裂の向こうに見える世界を知っている。

「あれは――魔界だ!」

 もちろん、本来はそんな呼び名ではない。
 人間が自分達の世界を人間界と呼ばないのと同じ事だが、交わる事のない平行世界を端的に理解させるには、他に適当な言葉が思い付かなかった。
 アレイツァ自身の紹介の際にも、魔人という言葉を用いたのと同じ理由だ。

「――魔界! なんと……素晴らしい!」

 アレイツァの言を受け、東條が歓喜の叫びを発した。
 状況からすれば、ルビィがこの時空の裂け目を造り出した事は明白だ。
 強大な力を秘めている事は予想していたものだが、時空に影響を与える程の力など、想像を遥かに超えている。

 歓びを表現しようとする東條とは逆に、アレイツァは恐怖にも近い感情を抱えていた。
 昼夜の寒暖差は砂漠地帯の比ではなく、激しい地熱に晒された大気は動物の肺を灼き、酸を含んだ雨と海は触れた者の皮膚を焦がし、溶かす。
 強い重力は力なき者を大地に縛り、平坦な地表にあっても落ち着く事なく変動する気圧は生命の上限を容赦なく間引きする。

 その世界の生まれであっても、その日を生き延びる事ができる保証などどこにもないのだ。
 それが、アレイツァの故郷。
 そんな世界にあって、最悪な状況が亀裂の向こうには広がっている。

 嵐だ。
 それは同じ単語でも、人間の世界におけるものとは比べ物にならない規模のものだ。
 酸の雨が叩き付けられ、風は地表の生命を巻き上げ、頑強な岩をも容易く削り取る。
 移動速度は遅々としたものだが、決して静まる事のない猛風雨に、生あるものの多くは常に放浪を強いられる。
 運悪く逃げ延びる事に失敗したものは身体をすり潰され、闇色の風雨の中を流れる彩りのひとつとなるのだ。

 そんな世界を生きる生命が遂げた進化は、驚異的な回復力と身体能力。
 その一人であるアレイツァは人間の世界において凄まじい存在となるが、非力な人間が向こうに放り出されれば数時間と生きてはいまい。
 ましてや嵐の中ともなれば、アレイツァとて耐えきる自信がない。

 手近な場所にいた三人娘を拾ったところでその現象は始まった。
 大地が――山が揺れた。
 ふたつの世界の急激な気圧差によって竜巻が発生した。
 この竜巻は、あの亀裂は、あの嵐は、貪欲なまでにこの世界のあらゆる物を呑み込もうとするだろう。

 最初の犠牲者は、装甲車から外に出ていた哨戒部隊員だった。
 爪先が地から離れたが最後、釣針にかかった小魚のように上空へと吸い上げられた。
 恐怖に感情が麻痺してしまったのか、開いた口からは何の言葉も出てはこなかった。

「くそ…っ」

 アレイツァが圭達に辿り着いた時には、既に逃げ出せない状況になっていた。
 アレイツァ一人ならばまだ間に合うタイミングだったが、六人もの人数を抱えてこの場を離れるには腕の数が足りなかった。

「そんなに――私の本気を見たいのかっ!!」

 半ば自棄になって叫ぶ。
 両腕を大きく広げ力を込めると、アレイツァを中心とした一帯が地に沈み込んだ。
 空間そのものに荷重を加えたのだ。
 この世界に来てから本気を出す事のなかったアレイツァである。これだけの人数を抱えた状態でどこまで耐え切れたものか。

 そんなアレイツァの周辺、修練場はとんでもない状態に陥っていた。
 乱暴に引き抜かれた草木が宙に揉まれ、土は塊のまま剥がれゆき、支えを失った岩が浮き上がる。
 この場での最重量を誇る装甲車さえも、不可視の腕に持ち上げられるのは時間の問題だと分かる。

 逃げ出そうと慌てて飛び出した隊員は大地を踏む事なく次々と異世界へと引き込まれ、異口同音に響き渡る様々な叫び声すらも残らず吸い上げられてゆく。
 修練場が削られるに従い、六人の位置も下がってゆくが、それでもなおアレイツァは今にも引き抜かれそうな感覚が強まっているのを感じていた。

 この生温い世界で惰眠を貪っていた事による力の衰退に加えて、この人数である。
 目算ではアレイツァを含めて四人が限界だったが、実際にはその倍近い人数だ。どう考えても無謀な足掻きだと思わざるを得ない。
 だが、時空の裂け目などいつまでも存在していられるものではない。
 その世界に在ってはならないもの……ましてや、こんなにも巨大な現象、世界の自浄作用によってすぐにでも消え去るものなのだ。

(あと少し……あとほんの少し……!)

 その少しが実際には何秒なのか、何分なのか、何時間なのか。
 アレイツァは歯を食いしばりながら耐えるしかない。



「は…っ! はははははっ! 凄い、凄いぞ! この事象!」

 崩壊が進む修練場の只中で、東條は高らかに叫んでいた。
 気象を操るだとか超常現象だとか、そういったレベルを凌駕した力。
 この力を解明し我が物とする事ができれば、それはまさしく神とさえなれるだろう。
 まったくもって笑わずにはいられない。

 装甲車も部下も、全てが宙に舞っていたが、今の東條には何もかも関係ない。
 やがて自身の身体も周囲の地面ごと浮き上がるが、それでも笑いは止まらない。
 そんな東條の前に、ケージに収まったままのルビィが漂ってくる。

 頑強な構造のケージだったが、幾筋もの筋が入ったかと思うと、音もなく瓦解した。
 ルビィをその場に残し、廃材となったケージはたちまち上空の亀裂へと吸い込まれてゆく。
 どこで外れたのか、東條の顔にゴーグルが装着されていなかったが、それでもはっきりとルビィの姿を見る事ができていた。
 しかし、その事にすら東條は疑問を抱かない。

「素晴らしいぞ、その力! 是非とも……この、私…が……」

 興奮のままにルビィに語りかける東條だったが、どこか異質な雰囲気に語尾が次第に消え入った。

 ケージから解放されたルビィが四肢と尻尾を大きく伸ばした。
 その仕草は四足動物的な外観と異なり、どことなく人間じみているようでもあり。
 そして、東條を見つめる黒檀の瞳には、明らかな意志が宿っていた。

 時空の裂け目に吸い込まれる直前、東條は確かに見た。
 耳まで裂けた大きな口で、東條を嗤うルビィの顔を。
 目尻が切れ上がり、その中の瞳は紅く燃え、長く伸びた狐のような鼻面は、小動物を思わせた面影を微塵も残してはいない。
 眉間に刻まれた幾重もの皺が表情の陰影を際立たせ、鋭い牙とその隙間に見え隠れする細長い舌がこの上ない邪悪さを重ねている。
 昔、ホラー映画で似たようなものを見たかもしれない。

 今、目の前にあるものを形容する言葉を東條は探し、たったひとつだけ思い至った。

 ――悪魔。

 つい今し方まで哄笑に打ち震えていた口が絶叫を吐き出した。
 そして絶叫は断末魔へとその色を変える。
 肺と喉を潰してなおその叫びは続いたが、それを耳にした者はルビィ以外にはいなかった。

 そして、二つの世界を繋げた穴は何の痕跡も残さずに掻き消えた。
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