黎明の残滓

間

　それはまるで、この内に在ある方そのもののように、この世との関わりを拒絶しているかのような印象を受けた。
　禁裏きんりへの境にそびえる、苔こけむした、重々しい石の扉だ。
　
　入り口ではない。
　
　私わたしは思った。
　
　これは、隔絶の扉なのだと。
　
　そしてそれは、この扉の在り方にも表れていた。
　表面には取っ手の類は見当たらない。ただ、尊君とうとぎみを表す彫り物が施されているだけだ。許された者しか、この内に入いることはできないのだ。
　私は手を伸べ——
その、指先が触れるか、触れないか。
　重たげな見た目に似合わず静々しずしずと、けれども、遅々として、招じ入れるように扉は内へと開いていった。
　まるで腫はれ物に触るように、衛士えじ達がそそくさと距離をとる。
　無理もない。
　あの方は理不尽の代名詞のような御方おかた。頭こうべを低くして、それで気を引かずに済ませられるものなら済ませたい。
多かれ少なかれ、誰もが抱いている思いだろう。
　故ゆえに、禁裏勤めはその華々はなばなしい待遇とは裏腹に、その実、この世で最も厭いとわしい立場と言っても過言ではない。
　そもそも、あの方の存するに人の手など全く必要となされない。
　尊君の天寵てんちょう深き久しき上かみの世であれば、尊君と民たみとの仲立ちとしてこのような位置にも意味があった。
けれど、今はほとんど世に関心をお示しになられない。
　では、何のためにこのような役目があるのか。
　それは単に、あの方の退屈を紛まぎらわす。
ただ、それだけのことであった。
そして、ただそれだけのために尊君ごとこの禁裏に封じられ、ひたすらあの方と向き合い申し続けなければならないのだ。
　それがいかに難儀なことか——
想像に難くない。
　あの方の気紛きまぐれの、最も身近な対象となる……
あの方に飽かれ、払い下げられるなら運が良い。
あの方は、我々にとっては度し難い、実に些細ささいな動機で、いとも簡単に命をお摘つみ取りになられる。実際、過去多くの禁裏勤めがその職を全うしえたとは言えない最後を迎えているようだった。心ならずもあの方のなさることの露払つゆはらいを担い、皆みなに煮え湯を飲ませるかのごとき仕打ちをせねばならぬこともあるやもしれない。
それら全てを乗り越えて、私は、為なさねばならないのだ。
　
　此方こなたから彼方かなたへ。

　一歩、
足を踏み入れた。
刹那せつな。
　
　——目が覚めるようだった。

　まるで違う……
まるで別の場所に迷い込んだかのようだ。
　清澄せいちょう——
そう、そこは眩まばゆさすら感じるほどに清く、澄み渡っていた。私の慣れ親しんでいた世が澱よどんでいたのだとすら錯覚してしまいそうだった。
　
　深い森だ。
ここから禁裏を越えて遥はるかに広がる禁域きんいきの多くは、こうした木々に覆われているらしかった。
　梢こずえは高く、光を遮る。だが不思議と、外からの見た目よりも暗くはなかった。まだ葉が若く、薄いからということだけではないだろう……
　……生きている、生きているのだ。
　ここは、弾けるような生の息吹いぶきに包まれている。
木々も、下生したばえも、大きなるものも小さきものも。
在る喜びに歓喜し、歌い、踊おどり、伸びやかな律動を刻んでいる。
その鼓動こどうが、旋律が、耳に届いている訳ではない。音としてではなく、けれどもはっきりと、ここに満ち満ちている。
　それは、そう感じられるものであった。　
　
ああ…………

何だろう………………

何もかも、手放したくなってしまう……

たった今、確かにしたはずの気負きおいが溶けとろけて、
ちっぽけなものに映る
　
　これではいけない。
　
　私は強くかぶりを振って、眼前を見据えた。
　木々に埋もれるように、頼りなげな小道が一本続く。
それを、辿ってゆく。
　しばらくして、かすかに、鼻孔びこうを撫なでるものがあった。ほの柔らかい————
蓮はすの香かだ。
まだ花の咲く時期ではないが、それはこの際、埒らちの外ほかだ。この場所は、尊君のしろしめす地なのだから。
　遠くに、煌きらめくものが見えた。
　木々の間を抜ける。
　視界が開ひらけ、そこには、ささめく波の蓮の湖が広がっていた。
　禁裏は、その只中ただなかに鎮座している。
玄関には人が立っていた。
　水面みなもに目をやる。
　底は見えない。
　桟さんはおろか、船の類もない。
　意を決して、私は足を踏み出した。
パシャリと、水の感触。しかしそれ以上沈み込むことはなかった。
　否いやが応でも。
　あの方を、あの方の御力おちからを意識せざるをえない。
　ここはもう、懐中かいちゅうなのだと。
　尚なお一層、
より、
強く。
　私はにわかに、剥むき身で放り出されたような心細さを覚えた。
この、遮さえぎるもののない剥き出しの行路がその感を来たしめるのだろうか。
　
　総すべて、見透かされてしまっているのではないか。

　私は、もう既に、しくじってしまっているのでは……
　
　迷信じみて馬鹿げた臆病風だ。
　けれども、この神異しんいの内に在って、どうしてただの平静で居られようか。
　
　粛々しゅくしゅくと、この水面みなものように凪ないでいる風を装えるように努めつつ、私の心中は、もたげる不安に波立っていた。
　歩みは重く、足を運べども運べども、その分だけ彼かの地が遠ざかって行くような。
　そんな眩暈めまいに襲われながら、ようやく、私は、正面に辿り着いた。
「そなたの着任を歓迎する。イェルゥロ・カフク」
　察して、私は丁寧に礼をとる。
この方は恐らく、この禁裏の内での近衛このえのまとめ役。直属の上官であろう。
　促うながされ、ついて行く。
　奥が開けた見晴らしの良い部屋へ通されると、ここで待つようにと指示された。
　間もなく。
　
　スッと、空気が変わるのが分かった。

いや、変わったのは私の感覚の方なのだろうか。
　
　えもいわれぬ——
多幸感たこうかんが末端から駆けるようにこみ上げてくる

　……そうだ、あの時もこれに近い感覚があった。
　あの、尊君のお戻りに漕ぎ着けた時。
　だが、
これは比べ物にならないほど、
強い。
　
　私は、憚はばかることも忘れて、思わず面おもてを上げてしまった。

　瞬間、言葉にならない呻うめきがこぼれ落ちる。
　
　悟さとったのだ。
　理屈ではなく。
　
　この御方は世であり、世はこの御方であると。

　唯一にして絶対の主あるじ。
　この御方こそ、正まさにそうなのであると。
　
　魅入みいられ、一切を委ねてしまいそうになるのを何とか堪こらえて、どうにか私は目差まなざしを伏せた。
ついぞ経験したことのないような激しい動悸どうきが、うるさく全身を波打たせていた。
　じわりと汗が滲にじむ手の指先に、力を込める。
それは微かに震えていた。
　
　無心だ。
　無心になるのだ。
　
　生唾なまつばを呑のみ込む。
　
　とんでもないものに相対し奉たてまつろうとしているのだ。
　
　そのことを、今この時、ありありと実感せしめられた。

「そなたの名は——
道を開く者ルティンタプ」
　
　ルティンタプ

　それが、私の命名みことな。
　
　それはあたかも天賦てんぷのものであるかのように、すんなりと私の身に馴染なじんだ。
同時に、これまでの十数年余りずっと共にしてきた名が、まるで他人のもののように感ぜられた。
　
　名を奪われるとは、こういう事だったのか。
　
　先達せんだつの言葉を思い出す。
　きっともう、私は二度とこの名以外を名乗ることはないだろう。
　そんな予感があった。

「面を上げよ」
　
　こちらを御覧ごらんになられる尊君の御目おめから、もう、逃れられない。
　
　顔を背け申したい衝動を耐え、忍ぶ。
　どれほど経った頃か。
　長い間まが流れたように思えたが、或あるいは、ほんの束つかの間の事だったのかもしれない。
　尊君は満足召めされたように頷うなずかれると、
「今この時より、我わが傍そばにて仕つかえよ」
　と仰おっしゃった。


　あの女の厄介やっかいなところは、霊言符れいげんふだけでなく毒の類も効かないことだ。
それがなお一層、取れる手段を狭せばめ、誅ちゅうすることを難しくしていた。
　ただ一つ確かなのは、あの女の体が、我々と同程度には柔やわであるということ。
　急所きゅうしょまで同じなのかどうか。
　よしそうだとして、それで首尾を遂げることができるのか。
　それは、成なしてみなければ分からない事だった。

「少しも怖れてはいらっしゃらないのですね」
　
　そんな言葉が口をついて出てしまったのは、余りにすんなりと刃やいばを突き付けんばかりの距離にまで肉薄にくはくできてしまったからだったのだろう。
　渡殿わたどのを挟はさんで湖に突き出た亭ちんに、私わたしと尊君とうとぎみは居た。
　春の声を未まだ聞かない早朝の大気は氷のように冷たく、霞かすむ景色の中、か弱い光に照らされた静かな輝きがちろちろと舞っていた。動かずにじっとしているには厳しい寒さだが、常のごとく軽やかな恰好かっこうで、何を好き好んでかもう暫しばらく女は平然とこの冷え冷えとした水面みなもと森とを眺めていた。
この女には、この世の何ものも影響しはしないのだろう。
　他の近衛このえは近くには居ない。
下げられているわけではないが、二人だけの会話だと言い表わせる程度には隔たっていた。
　禁裏きんりに上がってから、まだ季節は一つの巡りを終えきってはいない。
　けれども、これ程までに、そして、思いの外の早さで、私はこの女の身近に迫っていた——ただの近衛ではなく、寵物ちょうもつと言っても良い程に。
　彼我ひがを仕切っているものは、最早もはやほんの薄い膜まくを残すのみになったように思われた。
　あと少し。
　あとほんの一押しで、死をその身に届かせることが出来できる。
　近頃の間合いを、私はそう見積もっていた。
「革新派と称する者達の事です。
何度も御命を脅かされていらっしゃるというのに、こうして我々われわれのような者をお傍そばにお置き下さる。御心みこころに叛そむき奉たてまつり、牙きばを剥むく者が紛まぎれ込まないとも限りませんのに」
　目顔めがおで問う女へ、言葉を重ねる。
　女は実に華やかに笑うと、無邪気に小首を傾げた。
「何故なぜ？
何故、怖れねばならぬ」団扇うちわの奥に笑みを湛たたえたまま、続ける。
「子らが我を殺すという。真まことにそのような事が可能なのかどうか、我も知らぬ。かように面白おもしろき事はあるまい」
　女は遠く、遠くを見遣みやった。

「我は飽あいたのじゃ」
　
　サッと、冷たいものが駆け抜けた。

　それは、それだけの衝撃を伴う言葉であった。
　
　口伝くでんの世、凡すべては至福しふくに包まれていた。
　尊君の下に世は巡り、欠けたる所の無い万物ばんぶつに調和した楽土らくどであったと謡うたう。
　しかしいつからか。
　尊君の心はこの世から離れていった。
　そしてある時、発するのだ。

　飽いた、と。
　
　その、たった一言で。
　傍にお仕つかえになっていた七氏ななうじを始め、数多あまたの生きとし生けるもの達がたちまちの内に失うせた。
そしてこの失寵しつちょうの時より、尊君がほしいままに振る舞うこの世の悪夢が訪れたのだ。
　寵が薄れゆき、飢うえも疫病えきびょうも知るようになった世の中で、人は無力で脆弱ぜいじゃくな生き物だった。
　この女と、奔放ほんぽうに振舞ふるまうようになった自然と。
　この二つに翻弄ほんろうされる中、生きる術すべを探り、我々はようやく命を繋つないで来たのだ。
　
　尊君を弑しいせば、世も共に滅ぶ。

　そう危惧きぐする向きもいる。
　だが、今この失寵の世はどうだ。
　この女の気まま次第しだいで私達は辛うじて首を繋いでいるに過ぎないではないか。
明日、いや、次の瞬間には、この女以外の全てが失われてもおかしくはないのだ。
ならば、どちらに希望があるのか。

「全てのものは我をすり抜けて行ってしまう」
　女が、そっと、私の手を取り包んだ。
「そなたも、我を置いて行ってしまうのであろうな」
　
　見つめてくるその瞳ひとみは、哀の色を帯びているように見えた。
　私は、まつげを伏せた。
　女の言動が理解できなかったのだ。常よりも、さらに。
「冷えたな。
我は未だここに居おるゆえ、そなたは下がるが良よい」
　礼をとって辞する。
　気取けどられない場所まで離れると、私は堪こらえていた息を大きく吐いた。
　最近は、いつもこんな風だった。
あの女から解放された瞬間、ひとかたならぬ反吐へどが込み上げてくる。
　望外ぼうがいの順調さは、本来、喜ばしいことのはずであるのに、あの女と密になればなるほど、例えようのない嫌悪感けんおかんはいや増して濃密な澱おりとなり、不甲斐ふがいなくも私を苦しめた。
　このままでは、私情しじょうに志が喰くわれてしまう。
　縁よすが——
背負う使命が、ナープムのお言葉があるから、どうにか呑のまれずにはいられているが…………。
　
　気を、引き締しめねば。
　
　もう一度、吐息といきを吐き出して、大きく吸い込む。
　
　ここまで間近になりながら果たせなかった同志も、過去には居たのだから——。