1 / 5
第一章:帳簿の神が見た夜
しおりを挟む
東京・下町、昭和58年――。
冷たい雨がアスファルトを叩き、街灯の光を滲ませていた。
金田亮介は、薄汚れた帳簿を雨で濡らさぬよう、ボストンバッグに押し込むと、背中を丸めて歩いた。
高利貸し――いわゆる街金の回収屋として、彼は日々、泥と欲にまみれた生活を送っていた。
「……約束の金は今月で3か月目だ。あんた、覚悟はできてるよな?」
目の前には小さな青果店の主人が、膝をついて土下座している。
年老いた妻が奥から覗いていたが、すぐに奥に引っ込んだ。
金田はため息をつき、懐から紙切れを取り出す。
「土地、出しな。ここの裏の……長屋含めて全部だ」
青果店の主人が顔を上げ、怯えたように叫ぶ。
「ま、待ってくれよ、ここは先代からの土地で……住んでるんだ、うちの家族が!」
「だったら借りるなよ、金なんてよ」
亮介の口調は冷たくも、どこか事務的だった。
人間の情など、既に彼の中では帳簿の余白よりも薄いものだった。
その土地は、わずか数十坪。都電が走る古びた路地の一角だった。
だがその年、国会で「都市計画道路の再整備」が決まり、
亮介が偶然奪ったその土地が、まさに――計画予定地の「端」にあたっていた。
年末、地上げ専門の不動産業者が金田に接触してきた。
「この土地……1億で譲ってもらえませんか?」
亮介はそのとき、喫茶店でミルクティーをかき混ぜていた。
一瞬、手が止まる。だがすぐに、表情を崩さないまま言った。
「2億だ。現金でな」
……そして翌週、まさかの現金取引が成立した。
2億。
それは、彼がこれまで回収してきた金の、すべてを合わせても足りない金額だった。
彼は初めて知った。
帳簿に書かれた「数値」が、「土地」という一枚の紙によって、
現実を裏返す力を持つということを。
それから亮介は、昼は回収屋、夜は再開発情報を集めるハイエナになった。
都庁職員、区役所の元課長、地元建設会社、飲み屋のママ、ヤクザ――
「口が軽い奴」を嗅ぎ分ける嗅覚は、彼の中に本能のように宿っていた。
気づけば、帳簿の中の数字は「人の名前」から「地番」に変わっていた。
“担保”ではなく、“転がし先”を見つけることが、金田の仕事になった。
ある夜、彼は満面の笑みで女とクラブを出た。
酔いに任せて叫ぶ。
「土地だよ、土地ィッ!金は紙だ! 土地は……未来だ!」
その背中を、帳簿が見ていた。
雨に濡れてボロボロになったかつての帳簿は、金田の部屋の隅で静かに眠っていた。
最後のページには、鉛筆で殴り書きのようにこう記されていた。
「金にならぬ人間は切り捨てろ。
だが、地面は捨てるな――地面だけは、嘘をつかない」
金田亮介、29歳。
後に“土地の魔術師”と呼ばれる男が、帳簿から足を洗った夜だった。
冷たい雨がアスファルトを叩き、街灯の光を滲ませていた。
金田亮介は、薄汚れた帳簿を雨で濡らさぬよう、ボストンバッグに押し込むと、背中を丸めて歩いた。
高利貸し――いわゆる街金の回収屋として、彼は日々、泥と欲にまみれた生活を送っていた。
「……約束の金は今月で3か月目だ。あんた、覚悟はできてるよな?」
目の前には小さな青果店の主人が、膝をついて土下座している。
年老いた妻が奥から覗いていたが、すぐに奥に引っ込んだ。
金田はため息をつき、懐から紙切れを取り出す。
「土地、出しな。ここの裏の……長屋含めて全部だ」
青果店の主人が顔を上げ、怯えたように叫ぶ。
「ま、待ってくれよ、ここは先代からの土地で……住んでるんだ、うちの家族が!」
「だったら借りるなよ、金なんてよ」
亮介の口調は冷たくも、どこか事務的だった。
人間の情など、既に彼の中では帳簿の余白よりも薄いものだった。
その土地は、わずか数十坪。都電が走る古びた路地の一角だった。
だがその年、国会で「都市計画道路の再整備」が決まり、
亮介が偶然奪ったその土地が、まさに――計画予定地の「端」にあたっていた。
年末、地上げ専門の不動産業者が金田に接触してきた。
「この土地……1億で譲ってもらえませんか?」
亮介はそのとき、喫茶店でミルクティーをかき混ぜていた。
一瞬、手が止まる。だがすぐに、表情を崩さないまま言った。
「2億だ。現金でな」
……そして翌週、まさかの現金取引が成立した。
2億。
それは、彼がこれまで回収してきた金の、すべてを合わせても足りない金額だった。
彼は初めて知った。
帳簿に書かれた「数値」が、「土地」という一枚の紙によって、
現実を裏返す力を持つということを。
それから亮介は、昼は回収屋、夜は再開発情報を集めるハイエナになった。
都庁職員、区役所の元課長、地元建設会社、飲み屋のママ、ヤクザ――
「口が軽い奴」を嗅ぎ分ける嗅覚は、彼の中に本能のように宿っていた。
気づけば、帳簿の中の数字は「人の名前」から「地番」に変わっていた。
“担保”ではなく、“転がし先”を見つけることが、金田の仕事になった。
ある夜、彼は満面の笑みで女とクラブを出た。
酔いに任せて叫ぶ。
「土地だよ、土地ィッ!金は紙だ! 土地は……未来だ!」
その背中を、帳簿が見ていた。
雨に濡れてボロボロになったかつての帳簿は、金田の部屋の隅で静かに眠っていた。
最後のページには、鉛筆で殴り書きのようにこう記されていた。
「金にならぬ人間は切り捨てろ。
だが、地面は捨てるな――地面だけは、嘘をつかない」
金田亮介、29歳。
後に“土地の魔術師”と呼ばれる男が、帳簿から足を洗った夜だった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる