魔女化する病

にのみや朱乃

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2. 烏が言うには

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「てんちゃんてんちゃん、大事件だよ!」

 悠未がそう言ってきたのは、朝の登校の時だった。
 いつものように天翔の家の前で待ち合わせして学校に行こうとしたら、悠未がとても興奮していた。家から出てきた天翔を見るなり、事件だと騒ぎ立てるのだ。

 どうせ大した話ではない。天翔はそう思ったが、一応聞いてみることにした。

「なんだよ、事件って」
「わたし、魔法が使えるようになったの!」

 天翔は硬直してしまった。全く意味がわからなかったのだ。魔法、と言われても、まさかそんなファンタジーな世界が現実にあるわけがない。魔法は創作物の世界にしか存在しないものだろう。

 しかし、悠未は本気で言っているようだった。寝ぼけているわけでも、天翔をからかっているわけでもなさそうだった。天翔は次の言葉を探して、頭をがりがりと掻く。
 ようやく見つけた言葉は、やはり魔法の存在を否定するものだった。

「手品のことか?」

 天翔が訂正すると、悠未は勢いよく首を横に振った。

「違うよ、魔法だよ! マジックじゃないよ!」
「そうか。そりゃあ、いい夢だったな」

 悠未は昨夜の夢と現実を混同しているのだ。天翔はそう思った。魔法など、現実にあるはずがないのだから。

「あっ、信じてないね? てんちゃん、びっくりするよ」
「じゃあ使ってみろよ。そしたら信じてやる」

 半ば投げやりになりながら、天翔は言った。それでも悠未の勢いは削がれなかった。

「いいよ。今からお花を出します」
「それ、手品だろ?」
「違うってば。ほんっとーに、タネも仕掛けもないんだから!」

 悠未はその小さな手のひらを天翔に見せる。確かに何もない。だが、何もないところから花を出すのは、手品でもできるのではないだろうか。
 まあ、付き合ってやるか。天翔は諦め半分で、悠未の魔法を促した。

「やってみろよ。すげえ花出せるんだろ?」
「ふふん、見ててよ。氷のお花を出します」

 悠未がぐっと手を握り、再び開くと、そこには小さな氷の結晶が生み出されていた。花と呼ぶには少し歪だったが、天翔を驚かせるには充分だった。
 氷の結晶は独りでに砕け散り、水も残さずに霧のように消えていった。ただの氷ではないようだった。

「すげえ。どんな手品なんだよ?」

 天翔が尋ねると、悠未は不満げに返した。

「手品じゃないってばぁ。これは魔法だよ、わたし魔法使いになったんだよ!」
「嘘だろ。魔法なんてあるわけない」
「むむ、じゃあ、どうしたら信じてくれる?」

 悠未はこれが魔法だと言って聞かない。天翔からすれば、手品で自分を騙しているようにしか思えない。どうしたら魔法だと認めざるを得ないか、天翔は考えた。
 やがて、絶対に魔法だと言えることを思いついた。魔法でなければあり得ないこと。

「空中浮遊でもできたら魔法だって認めてやるよ」
「言ったね? それはね、家で実験済みなの」

 悠未は自信満々に手を前に出した。天翔もその挙動に注目する。
 すると、悠未の身体がふわりと宙に浮かんだ。文字通り地に足が着いていない。

 そんな馬鹿な。天翔は足で悠未の足の下を探ってみたが、何の疑いようもなく、悠未は空中に浮いていた。天翔の驚いている顔を見て、悠未は満足そうに笑った。

 悠未は地面に降りると、天翔にぐいっと近づいてきた。

「ね? ね? わたし魔法使いになったんだよ!」

 天翔も魔法の存在を認めざるを得なかった。そして、悠未が魔法使いになったのだということも。魔法でなければ、仕掛けもなく宙に浮くなど有り得ない。

 信じられなかった。どうして悠未がいきなり魔法に目覚めたのか。魔法使いというのは、こんなに前触れなく魔法を使えるようになるものなのだろうか。
 天翔は言葉を失っていた。魔法を目の前にして、しかもその魔法使いが幼馴染。漫画や小説でありそうな設定だ。しかし、これは設定ではなく現実なのだ。夢などではなく、確実に起こっていることなのだ。

 悠未は魔法使いになって喜んでいるようだったが、天翔は素直に喜べなかった。何か、重大なことが起こりそうな、嫌な予感がしていた。

「ねえねえ、学校までテレポートとかできるのかな?」
「俺が知るかよ。できたら便利だろうけどな」
「飛んでいくことはできるけど、空飛んでたら目立っちゃうよね。透明になれたらいいのに」
「透明にはなれねえの?」
「わかんない。どうやったらいいんだろ」

 悠未自身もどうやって魔法を使ったらよいのか理解できていなかった。今できるのはとても簡単な魔法なのだろうか。魔法に易しいも難しいもあるのか、天翔にはわからなかったが。
 天翔はざわざわと騒ぐ心を落ち着かせようとしながら、悠未に言った。

「悠未、俺以外に言うんじゃねえぞ」
「うん? どうして?」
「いいから。俺とお前だけの秘密だ」

 理由はわからないが、天翔はそうすべきだと思った。これは歓迎すべき事態ではないのではないか。もっと重く受け止めるべき事態なのではないか。天翔の頭のどこかが警鐘を鳴らしていた。

 二人だけの秘密、という言葉に気をよくしたのか、悠未は笑顔を見せた。

「わかった。わたしとてんちゃんだけの秘密ね」
「おじさんとおばさんにも内緒だぞ。絶対に、誰にも言うなよ」
「いいけど、どうして? 魔法使いになったことって、そんなに隠すようなこと?」

 悠未の疑問は当然だった。天翔も、なぜ秘匿するのかは説明できなかった。直感、と答えることもできず、天翔は再び言葉を探す。

「悪い魔法使いに狙われるかもしれねえだろ。ちゃんと使えるようになるまでは、こっそり練習するほうがいいんじゃねえか」

 口から出まかせ、とはこのことだった。悪い魔法使いがいるかどうかなど、天翔が知っているはずもない。悠未以外に魔法使いがいるのかどうかさえ、天翔にはわからない。
 しかし天翔の口調が真面目なものだったせいか、悠未はその言葉を信じた。

「そ、そっか。悪い魔法使いもいるよね」
「そうだろ。もっと、こう、悪い魔法使いと戦えるようになるまでは、二人だけの秘密にしておかねえか?」
「うん、わかった。わたし、お部屋でこっそり練習するね」
「それがいい。学校じゃ使わねえほうがいい」

 まるで魔法使いの先輩のような口ぶりだと思った。天翔は詐欺師になった気分だった。悠未は簡単に話に乗ってくれたが、これでよかったのかどうか、天翔は自信がなかった。

 かあ。かあ。頭上で烏が鳴く。まるで天翔に何かを警告するかのように。

 烏がどこかから飛んできて、数羽の集団になった。悠未は烏に怯えるように、天翔の腕に抱きついた。天翔がそれを不思議に思うよりも早く、それが聞こえた。

「魔女だ。魔女が目覚めた」

 天翔は後ろを振り返ったが、誰もいない。正面にも、人影はない。今この住宅街にいるのは自分と悠未だけだ。
 なのに、それは聞こえた。

「新たな魔女の誕生だ」
「いつまで正気でいられるかな」
「どこまで魔法を使えるかな」
「隣の男は何者だ? 魔女じゃない、魔力を感じない」

 悠未がぎゅっと天翔の腕を抱く。この話し声は悠未にも聞こえているのだと確信する。
 天翔は周囲を見回し、低い声で言った。

「誰だ。どこにいやがる」
「おや? でも僕らの声が聞こえている」
「魔女じゃないのに? おや?」
「魔女から魔力が流れているんだよ。ほら、繋がっているだろう」

 話し声は上から聞こえていた。天翔の頭上、烏の集団から。

 まさか。天翔は烏の集団を見上げて言った。そうではないと思いたかった。

「お前らか、喋ってんのは」
「おや? 隣の男は何者だ?」
「魔女の騎士だ。外界から魔女を守っているんだ」
「ああ、なるほど。魔女が魔女になるまでの殻だ」

「質問に答えろ。さっきから喋ってんのはお前らだろ、烏」
「そうだよ、騎士。僕たち烏の声が聞こえるんだね」

 一羽が肯定した。かあ、かあ、という鳴き声は、烏の笑い声だった。

「て、てんちゃん、どうなってるの? どうして烏の声が聞こえるの?」

 悠未は恐怖に身を縮めて、天翔の腕を頼りにしていた。天翔も、いったい何が起きているのか把握できていなかった。今、自分たちは烏と会話しているのだ。これは悠未が魔法使いになったことと関係しているとしか思えなかった。

 烏たちは悠未を魔女だと言った。どうやら魔女は烏と会話できるらしい。天翔が現状から理解できたのはそれだけだった。そして、この烏たちが危害を加えてくることはなさそうだった。

「何の用だ」
「何も。僕たちは噂していただけ」
「そうだよ。新たな魔女の誕生を祝っていただけ」
「新たな魔女ってのは悠未のことだな? それと、お前らにどういう関係がある?」
「僕たち烏は魔女の下僕。新たに仕える魔女が増えたのは喜ばしいこと」
「でもいつまで正気でいられるかな」
「どういうことだ」

 天翔が問うても、烏たちは答えなかった。かあ、かあ、と鳴いて飛び去ってしまう。最後に残った一羽が応える。

「騎士、君は魔女の殻なのかい? 魔女が充分に育った時、君は破られるのかな?」
「何の話をしてんだ。わかるように言えよ」
「面白いものが出てきた。新たな魔女、君を歓迎するよ」

 そう言い残して、最後の一羽も空へ舞っていった。住宅街に静寂が戻ってくる。
 あの烏たちはいったい何が言いたかったのだろうか。ただの噂話だと切り捨てるには、あまりにも引っかかりが多すぎる。烏たちは悠未が魔女になったことを喜んでいるようで、愉しんでいるようにも見えた。まるで新しいショーが始まったかのように。

 烏が立ち去っても、悠未は天翔の腕に掴まったままだった。今起こったことに対する恐怖心を拭えずにいた。天翔も、その場に留まったまま動けなかった。
 先に口を開いたのは悠未だった。震える声で、天翔に縋るように言った。

「てんちゃん、今のは何だったの? どうして、烏の声が聞こえたの?」
「お前が魔法を使えるようになったことと関係があるみたいだな。お前、魔女になったんだってよ」
「魔女? わたしが? どうして?」
「知らねえよ。知らねえけど、それが事実だ。お前は魔女になって、さっき見せてくれたみたいな魔法を使えるようになったんだ。烏と喋れるのも、魔女になった影響だろ」

 天翔が理解したのはそこまでだった。それでは悠未の不安を晴らすことはできなかった。

 天翔はひとつ深い息を吐いて、悠未を励ますように、明るい声を出した。

「まあ、動物と喋れるってのも面白い魔法じゃねえか。猫でも犬でも話しかけてみろよ」
「……うん、そうだね。そうだよね、これも魔法なんだよね」

 ようやく悠未にも笑顔が戻ってきて、天翔は安堵した。自分の腕に掴まったままの悠未を軽く引いて、歩くように促す。

「さ、学校行くぞ。烏のせいで遅くなっちまった」
「うん。急がないと遅刻しちゃうね」

 二人はいつもより少し早足で歩き出す。動いているほうが今の衝撃的な出来事を忘れられるような気がして、天翔は歩くことに集中した。悠未も、口を重く閉ざしたままだった。
 学校に着くまで、二人は一言も交わさなかった。校門をくぐって、三年生と一年生の校舎で別れる時になって、悠未が天翔を呼び止めた。

「てんちゃん、今日は一緒に帰ろ」

 いつもの軽い調子とは違う、懇願するような言葉だった。
 だから、天翔は軽い口調で答えた。

「いつも一緒だろうが。図書館で待ってろ」
「うん。ありがと、てんちゃん。またね」

 ひらひらと手を振って、悠未は一年生の校舎に入っていく。天翔はそれを見送ってから、自分も三年生の校舎へ向かう。

 烏が言っていたことがずっと胸に突き刺さっていた。いつまで正気でいられるか。それは、いったいどういう意味なのだろうか。

 その日、天翔はずっと烏の言葉に囚われ続けていた。
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