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魔女に成れぬ魔女
しおりを挟む人里離れた山奥に、若い女性の薬師が住んでいました。
薬師は山で採れる薬草を近くの村民に分け与えながら、ひっそりと暮らしていました。
薬師のただ一人の肉親である父は商人でした。
商いで遠い異国の地に向かい、まるで渡り鳥のように、ある時期だけ決まってこの地に戻ってきました。
薬師は父が持ち帰る異国の土産を楽しみにしていました。
或る日、父は薬師に植物の種を渡します。
薬師は尋ねます。これはどのような花を咲かせるのですか。
父は答えます。これは魔叫草という珍しい草だ。
何か有った時に、自ら魔を放って主君を護ってくれるそうだ。
薬師は笑います。まるで魔女が草になったみたいですね。
父は笑います。俺が留守の間、この草がお前を護ってくれるさ。
薬師は頷きます。では、しっかりと育ってもらわねばなりませんね。
父は再び異国の地へ旅立ち、薬師は魔叫草を育てます。
父から受け取った小さな種を植木鉢に植え、水を与えます。
薬師は語りかけます。早く大きくなって、私を護ってください。
私を脅かす害悪から。私を苦しめる孤独から。
もう、独りでこの地を預かるのは辛いのです。
ひとつだけ芽が出てきた日には、薬師は泣いて喜びました。
嗚呼、嗚呼、この日をどれだけ待ち侘びたことでしょう。
貴方が元気に育つことだけが、私の孤独に効く薬なのですから。
まるで我が子を育てるかのように、薬師は魔叫草を育てます。
芽を出した魔叫草はすくすくと育ちました。
鮮やかな緑色の葉を伸ばし、またひとつ新たな葉を出し、薬師を喜ばせます。
薬師は笑います。植木鉢では狭いでしょう。庭に植えてあげましょう。
魔叫草は小さな植木鉢から広大な庭の一角を与えられました。
薬師が愛情を注ぐほど、魔叫草は色鮮やかに育ちます。
雨の日も、風の日も、薬師は魔叫草に語りかけました。
やがて青々と伸びた葉の間から茎が伸び、魔叫草は鬱金香のように黒い蕾を膨らませます。
けれど、魔叫草がその花を咲かせることは有りませんでした。蕾は固く閉ざされたまま、枯れることも無く、その時を待っているのです。
薬師は悩みます。どうして花を咲かせてくれないのでしょうか。
魔叫草は何も応えません。ただ、閉じた蕾を風に揺らすだけ。
薬師は尋ねます。何かが足りないのでしょうか。
魔叫草は何も応えません。ただ、開かぬ蕾を風に揺らすだけ。
薬師は魔叫草の葉を優しく撫でます。
満ち足りているのなら、どうか、どうか、再び生長を見せてください。
明くる日、薬師は驚きました。
魔叫草の横に小さな芽がいくつも出ていたのです。それは見紛うことも無く、魔叫草の芽でした。
薬師は喜びます。貴方はこのようにして仲間を増やすのですね。
嗚呼、嗚呼、花を咲かさずとも、貴方は私に応えてくれたのですね。
薬師は新たな芽にも愛情を注ぎます。
魔叫草は次々と蕾を膨らませ、そして新たな芽を出します。
やがて魔叫草は住処を広げ、まるで花畑のように生い茂りました。
それでも、誰一人として花を咲かせることは有りませんでした。
指揮官の号令を待つように、じっと、その時を待っていました。
その日、魔叫草の花畑に斧を携えた野盗が襲ってきました。
魔叫草を慈しんでいた薬師は、突然の来訪者に怯えます。
野盗は言いました。金を出せ。お前は商人の娘だと聞いている。
薬師は拒みました。此処にお金は有りません。
野盗は怒りました。ならば、お前を殺して家の中を漁るとしよう。
叫んでも誰も来やしない。お前を助ける者は誰も居ない。
野盗は花畑に近付きます。
すると、魔叫草が一斉にその花を咲かせました。闇夜の如き黒は裏に隠れ、毒々しいまでの深紅が瞬く間に花畑を彩りました。
そして、魔叫草は一斉にその声を上げたのです。
ああああ ああああ
ああああ ああああ
ああああ ああああ
ああああ ああああ
ああああ ああああ
ああああ ああああ
野盗は驚きます。それは疑いようも無く、声だったのです。偶然発せられた音ではなく、確かに、誰かを呪うような人間の低い声だったのです。
薬師さえも魔叫草の豹変に動揺します。その声は遠い空の向こうに放たれているのだと、薬師は確信しました。
魔を放つ草。父は薬師にそう言いました。
けれど、何も起こりません。魔叫草はただ大きな声で叫ぶだけ。
やがて一本が鳴き疲れたかのように萎れ、茎が力無く地面に倒れます。一本、また一本と、花畑を彩る魔叫草は倒れていきます。
野盗は言いました。別に何もできない、ただの草花だったのか。
そして、野盗は魔叫草の花畑に足を踏み入れます。薬師から金品を奪うために。
萎れた花を踏んだ瞬間、野盗は動けなくなりました。
空気に掴まれている感覚でした。進むことも戻ることも許されず、魔叫草の怨嗟の渦から逃れられなくなりました。
野盗は抗います。草の分際で邪魔ばかりしやがって。
野盗はどうにか斧を振るい、魔叫草の花を斬り落とします。
すると、野盗は全身が震え上がる程の恐怖を背後から感じました。
振り返れば、そこに居なかったはずの黒が佇んでいました。
薄汚れた黒い外套に身を包んだ魔女でした。その片瞳は失われ、何も知らぬ者ならば亡霊と錯覚するような風貌でした。
魔女は静かに呟きます。
嗚呼、これ程までに煩く咲き誇った魔叫草の群れは初めてです。
皆で叫ばずとも、一人叫べば聞こえるというのに。
その魔女の名は、隻眼の魔女。
かつて愛する国王を護れず、愛する侍女を護れず、その果てに殺戮と蘇生の環で大国を狂わせた魔女。
魔に染まる魔女と成ることを望みながら、魔に染まり切れぬ魔女。
殺しましょう。そのために喚ばれたのだから。
奪いましょう。それこそが真の魔女なのだから。
空洞の眼窩が昏く光ります。渦巻く魔が外套を翻します。それは、隻眼の魔女が獲物を見据えた証。
野盗は怯えます。何故、何故、力有る魔女が此処に。偶々通りがかるなど有り得ない。
魔女は答えます。嗚呼、嗚呼、愛する方を助けて。
ほら、耳障りな草の叫びが聞こえませんか。死を厭わぬ草の願いが聞こえませんか。
貴方を殺さぬ限り、彼等はわたしに叫び続けることでしょう。嗚呼、煩いこと。
そう、魔叫草は魔を叫ぶ草ではないのです。
魔叫草は魔女に向けて叫ぶ草。同胞に外敵が迫る時だけ咲き、その身が枯れるまで、その身が朽ちるまで、力の限り叫び続けるのです。
ただ同胞を守るために、自らの命を懸けて魔女に叫ぶのです。
助けて。助けて。助けて。助けて。脅威が去るまで、声は止みません。
野盗は斧を捨てて逃げ出します。
けれど、その背を、その脚を、その頭を、後ろから黒い刃が貫きます。断末魔の叫びすら上げることもできず、野盗は地に倒れました。
そして、まるで影に呑み込まれるように、ゆっくりと大地に沈んでいきました。
魔叫草の合唱はぴたりと止みます。徐々に深紅の花は閉じ、生き残った魔叫草は再び蕾に戻ります。それきり、魔叫草が声を発することは有りませんでした。
隻眼の魔女は微笑みます。少し困ったように。
貴方達は何故わたしに向けて叫んだのでしょうね。他にも、貴方達の愛する方を護れる魔女は数多居るでしょう。
何故、あの日あの方を護れなかったわたしを、此処に喚んだのですか。
魔女の問いに応える魔叫草は在りません。
皆が口を閉ざす中、一輪だけ、再び美しく咲き誇りました。
それは薬師が種から育てた最初の一輪。薬師を主君と定めた最初の家臣。
魔女は言いました。
そう。貴方は愛する主君を外敵から護ることができたのですね。
貴方は愛する主君を永く支えなさい。わたしが成せなかった分まで。
薬師は隻眼の魔女に幾度も礼を言います。
魔女は微笑みます。薬師よ、生き残った家臣を大切になさってください。
薬師は尋ねます。魔女様、私は如何にして彼等を護れば良いのでしょう。
私には何の力も有りません。再び、彼等を殺してしまいます、
魔女は応えます。では、暫くは悪しき何者も立ち寄らぬよう、わたしの足跡を遺しておきましょう。
貴女は彼等を慈しみ、愛すれば良いのです。それが主君なのですから。
それは今までも貴女が成してきたことでしょう。
だからこそ、彼等は自らの死を厭わずに叫んだのですから。
そうして、隻眼の魔女は魔叫草の花畑を後にしました。
魔女が遺した結界は、魔叫草が慕う薬師をいつまでも護り続けました。
隻眼の魔女は空を眺めます。
嗚呼、何と優秀な家臣なのでしょうか。
彼等は無差別に強者を喚んだのではない。彼等は弱者を救済する強者を喚んだのですね。即ち、わたしは破壊と略奪を是とする魔女ではない、と。
貴女が喚ばれていると知っていたなら、来なければ良かった。
そうしたら、わたしが未だ魔女に成っていないと知ることは無かった。
そうしたら、愛しき人を守れなかった日が鮮明になることは無かった。
世界を映す片瞳は、空を舞う一羽の烏を追っていました。
何処かへ引き返していく烏に、魔女は呟きます。
ねえ、そうでしょう。銀雪。
†
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