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第二章(1/3)
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第二章
第一景
長身の男が一人、回廊の途中で立ちどまり、爽やかに晴れた秋の空を眺めている。
男の姓は黎、名は緋逸という。
黎は皇家の姓であり、彼こそが大鼎国を支配する当代の皇帝であった。帝位に即いたとき、彼は二十九歳。今年で三十になるが、見た目はそれよりも五歳は若い。
緋逸は先程から立てた愛用の大剣の柄に両手を置いて、どこを見るともなしに空を見上げている。時々、右の頬へと手をやるのは、二日前に階段から落ちたから。
落ちたのは三段ほどで、もとから彼は運動感覚が鋭敏なこともあって怪我はしなかった。だが、顔から見事に倒れこんだので、石床にぶつけた右頬がぴりっと痛むのだ。
(それにしても)
と、緋逸は溜め息をついた。
あまりに自分らしくない事態が続いている。
原因は、凛丹緋。
丹緋の美しさには目を奪われた。
衝撃で身体が固まり、視線が切り離せなくなってしまった。美玉のごとき白い細面に吸い寄せられて、自然と足が前へと出てしまったのだ。
で、足を踏みはずした。
身体が落ちたのは階段だが、心が落ちたのは恋だった。
つまり、一目惚れ。
長年の理想を画に描いたような女人が目の前に現れたのだからしようがない。恋する心にまともな理由はいらない。理屈じゃない。しかも、丹緋は采女。采女であれば、皇帝の妻である。情熱を向けても、なんの問題もないはずであった。
ところが。
冥府の長官である閻羅王が花嫁にと指名したのは丹緋だったのだ。
丹緋と心ときめく運命的な出逢いを果たして慌てた緋逸は、
『閻羅王、凛丹緋はやれぬ。申し訳ないがほかの女人にしてくれないか』
恥も外聞もなく、そう正直に提案してみた。
しかし返ってきたのは、拒絶。
『丹緋は私の妻だ』
『皇帝であるならば、ほかにも妻はいるであろう』
『だからほかの妻をもらっていただきたい。彼女だけは譲ってやれない、諦めろ』
という、終わりのないやりとりを繰り広げてしまったのだった。
丹緋のいない場所で、男二人はどちらも引かないまま。攻防の末、それまで顔色ひとつかえなかった閻羅王が口許に笑みをはいた。いい男だと認めてはいたが、笑うと愛嬌があって、同じ丹緋を求める男として緋逸は複雑な気持ちになった。
『では皇帝、しばし時を与えよう』
『なに?』
『我の歳を当ててみよ。見事言い当てることができたなら、彼女は諦めよう』
そうして二日経った今、緋逸は空を眺めている。眺めたところで答えの出ない天までの高さを測るようにして、閻羅王の歳とやらを考えているのだった。
彼の歳は見た目には三十半ばほどだった。しかし、相手は鬼。
(鬼に年齢などあるのか?)
あったところで、人の身で冥界の王がどれほど生きているかなど知る術はない。あのとき呼んでいた剣楯華にも相談してみたが、剣楯華ですら一言『不明です』と応えた。
まるで謎解きだ。
謎の答えが導きだせなければ、丹緋を手放すことになる。
……嫌だ。
できない。
「彼女は私のものだ。今更、なぜに争わねばならん」
「ですから申し上げたではありませんか。『人と鬼は隔たりのある存在』『鬼は自らのことを絶対に語らぬ』と」
皮肉混じりの声のしたほうへ顔を向ければ、歩み寄ってくるのは宰相の戴奎樹だった。
宰相は本来、尚書省と中書省の長官が三年交代で務める。現在はふたつの省の長官を兼任しているため、奎樹がただ一人の宰相となる。人手不足の王朝であることは否めない。
忠言する真面目な奎樹を、緋逸はまじまじと見つめた。
「そういえばお前の歳は三十四だったな。どうだ、閻羅王は同じくらいに見えたか?」
「はあ、まあ……」
曖昧に言葉を濁す、奎樹。おっとりした風貌で、なにかにつけて額髪を整える癖がある。
「どっちかっていうと俺じゃないかな。近いものを感じましたがね」
割って入ったのは、宰相と肩を並べている彊武喬。
皇帝を護衛するのは神策軍である。
武喬は大将軍で、歳は四十。戦袍の重ね着に気をつかっていて、自分流のこだわりが強いからか何枚かの片袖を脱いでいる。動くたび、一つに結い上げた髪の束が肩をかすめて揺れていた。
「そうだったか?」
真顔で緋逸が尋ねれば、「う~む」と武喬は呻いた。
「でしたね。俺が見たところ――というか、見る角度によって歳が違って見えたとでもいいますか。翳をつくる切れ込んだ眦のせいかもしれないですが、角度によっては三十にも四十にも見えましたけど」
謎は深まるばかり。
今度は緋逸が呻いたが、武喬は軽く笑っただけ。次の瞬間、さらりと話題を転じた。
「大街道の偵察に出ていた飛空部からの報告です」
飛空部とは、武喬麾下の小隊である。特殊な技能を必要とするため、ここに所属する武官は精鋭である。彼らのもたらす報は重要なものばかり。だから武喬の顔も引き締まる。
「蒼呉は大街道を予定どおりに北上中とのこと、十六日以内には天延入りするかと」
「……そうだったな」
この問題もあったな、と。緋逸の顔がやや曇った。
忘れていたわけではないが、なるべく考えないようにしていた事柄を面と向かって突きつけられれば気が沈む。頭の隅へと押しやっていたのは向き合えていなかったから。変えられぬ事実に直面した途端に心が揺れて、その分、逃げ場を失ったような気持ちになった。
(嘆願する蒼呉を受け入れたのは私だというのにな)
蒼呉は、緋逸の二つ下の実弟である。
実はこの蒼呉こそが皇帝となるべき人物であった。
先帝が早くに指名したのは蒼呉であり、長く皇太子であったのだ。広大な鼎国を支配するため、玉座を約束されていた男。
皇帝と皇后――父母にたいそう気に入られていた、弟。
しかし蒼呉には、女癖の悪さと気性の荒さがあった。皇后には決して逆らわず質素倹約を貫きよい息子のふりを続けたので、皇帝が蒼呉を皇太子にと指名したとき、皇后は手放しで喜んだものだ。蒼呉の素行不良には、皇帝も皇后もまったく気づいてはいなかった。
実の息子だというのに。真実を見極められなかった父と母。
(愚かな)
皇帝が死んだ一年前、これを機に緋逸は玉座を奪った。皇宮内で内乱を起こし、蒼呉を皇太子の座から追いやったのだ。大した抵抗もできずに負けた蒼呉を、天延から追放したのも緋逸自身であった。
追放先は鼎国最南端の地とした。
そこは、先帝の時代に征服した地域。ゆえに、未だ従わされているという意識が強く、鼎国を嫌っている。それもあって鼎人には冷たく、この地域であれば実弟を押し立て謀叛を企てようとする人間もいないだろうと幽閉場所と定めた。
その蒼呉から手紙が送られてくるようになったのは半年ほど前からだった。
『母の命日に墓前に花を供えさせてほしい。どうか兄上、天延入りを許してください』
皇后〈皇帝が代替わりしているために今は皇太后である〉が死んだのは、先帝崩御の前。もう何年前かも緋逸にしてみればどうでもいいことであったが、蒼呉は憶えていたらしい。
数々の濫行を繰り広げた遊び人の蒼呉が? と疑わないでもなかったが、皇太后を自分の側に取り込むのに必死だったのだ。親子として近い間柄であったのは確かであった。
天延追放があまりにも急だったために、蒼呉は墓前に別れの挨拶ができなかった。皇太后の命数が尽きたのは十一月末であり、たった一度でかまわないから墓に参らせてほしいと何度も手紙を書き送ってきたのだった。
殺そうとまでは思わなかった弟だ。たとえ皇太子としての資質に欠けていようとも。次代の皇帝には不適格であったとしても。決して仲よくはなかったが、嫌っていたわけではない。心の片隅で(彼がまともな男であったなら)と強く願うことすらあったのだ。
緋逸には〝ほかの事情〟もあって、確執はなくとも顔を合わせることのなかった弟であるから、皇宮内から排除できればそれで充分であった。
自分の手で追いやった男がまた、自分のもとへとやって来る。
自分の指示で。
「なんというか。虚しいな」
虚しい、という気持ちの本当の意味を、どれだけの人が知っているだろう。
それは悲しいのとは明らかに違う。
哀れ、とも違う。
なにかが足りないのだ。その、なにかを埋めることは、泣いても喚いてもできない。悩み迷ったとしても、見つけることはできない。生きているかぎり、たぶん、ずっと。
「「は?」」
緋逸の呟き事に返るふたつの声が重なった。
「天下の大権を掌中にしておいて今更!? ……っと」
発した一方は頓狂な声を打ち消すかのようにコホンと真面目な顔で咳払いし、一方はおおらかに笑っている。もちろん、おおらかなほうが武喬である。
「なんというか。陛下らしくないですがね」
「『なんというか』って。私の言ったことを復唱しなくてもいいだろうが」
「いや俺、武官なんで。命令を復唱するクセがついてますから。陛下の言を復唱するのはしょーがない」
すっとぼける武喬。
お前な、と緋逸がむっとしていると、
「では陛下、私からもご報告をひとつ。ご下命を受けて凛丹緋に殿舎を与えました」
奎樹まで『命令』を強調する。
これまで私的なことは放置してきたのである。自分らしくない自覚のある緋逸は開きなおるしかない。
「侍女も付けただろうな?」
「はい。殿中監が選んだ侍女ですから、信頼できる者のはず。ご安心を」
その侍女の身辺は清く、たくましいということだ。安心して丹緋を預けられる。
緋逸は口許に軽く笑みを刻んだ。
「よし」
なにしろ夫婦に横恋慕しているのは閻羅王。鬼だ。油断がならない。丹緋の傍に張り付いて護っていたいが、緋逸は皇帝、執務があるので一緒にいられる時間はかぎられてしまう。離れている時間、丹緋の身を託せる女丈夫がどうしても必要だった。
(そういえば)
ふと、緋逸の頭によぎるものがあった。
皇太后の命日は十一月の末であるが。
閻羅王が与えるといった『時』の期限も十一月末なのだ。
(どうしてこうも面倒事というものは重なるのか)
うんざりとした眼差しを緋逸は空へと投げる。
そんな緋逸の左手の甲を見つめながら、
「俺の妻がね、言ってたんですが」
項に掌をあてながら武喬が話しだす。『俺の妻がね』が口癖であり、彼は愛妻家で有名であった。軍務をそつなくこなす大将軍であるが、なにより妻を愛している。
「人間八十年時代、貴方はまだ半分しか生きていないのだと。そして、黎王朝は人一人分の時間を駆け抜けてきた。そろそろ新しい風が吹き込む時じゃないのかって」
黎王朝が成立して八十年。路線を変更するならばそろそろか、という時期でもあるのだ。歴史の転換点という意味では武喬の細君の助言には考えさせられるものがある。
人には生まれた直後から時間が発生する。発生した時間は、等しい。誰もが同じ時間軸をもつ。だけれども、時をどう使うかは人によって異なるのだ。その人をとり巻く環境によってもどう使うかが決められてしまうから。
緋逸と奎樹は互いに頷き合った。
「うん? だな」「そうですね」
これは武喬の励ましでもあろう。
武人のわりに気がきく男に、緋逸は大きく笑った。
第一景
長身の男が一人、回廊の途中で立ちどまり、爽やかに晴れた秋の空を眺めている。
男の姓は黎、名は緋逸という。
黎は皇家の姓であり、彼こそが大鼎国を支配する当代の皇帝であった。帝位に即いたとき、彼は二十九歳。今年で三十になるが、見た目はそれよりも五歳は若い。
緋逸は先程から立てた愛用の大剣の柄に両手を置いて、どこを見るともなしに空を見上げている。時々、右の頬へと手をやるのは、二日前に階段から落ちたから。
落ちたのは三段ほどで、もとから彼は運動感覚が鋭敏なこともあって怪我はしなかった。だが、顔から見事に倒れこんだので、石床にぶつけた右頬がぴりっと痛むのだ。
(それにしても)
と、緋逸は溜め息をついた。
あまりに自分らしくない事態が続いている。
原因は、凛丹緋。
丹緋の美しさには目を奪われた。
衝撃で身体が固まり、視線が切り離せなくなってしまった。美玉のごとき白い細面に吸い寄せられて、自然と足が前へと出てしまったのだ。
で、足を踏みはずした。
身体が落ちたのは階段だが、心が落ちたのは恋だった。
つまり、一目惚れ。
長年の理想を画に描いたような女人が目の前に現れたのだからしようがない。恋する心にまともな理由はいらない。理屈じゃない。しかも、丹緋は采女。采女であれば、皇帝の妻である。情熱を向けても、なんの問題もないはずであった。
ところが。
冥府の長官である閻羅王が花嫁にと指名したのは丹緋だったのだ。
丹緋と心ときめく運命的な出逢いを果たして慌てた緋逸は、
『閻羅王、凛丹緋はやれぬ。申し訳ないがほかの女人にしてくれないか』
恥も外聞もなく、そう正直に提案してみた。
しかし返ってきたのは、拒絶。
『丹緋は私の妻だ』
『皇帝であるならば、ほかにも妻はいるであろう』
『だからほかの妻をもらっていただきたい。彼女だけは譲ってやれない、諦めろ』
という、終わりのないやりとりを繰り広げてしまったのだった。
丹緋のいない場所で、男二人はどちらも引かないまま。攻防の末、それまで顔色ひとつかえなかった閻羅王が口許に笑みをはいた。いい男だと認めてはいたが、笑うと愛嬌があって、同じ丹緋を求める男として緋逸は複雑な気持ちになった。
『では皇帝、しばし時を与えよう』
『なに?』
『我の歳を当ててみよ。見事言い当てることができたなら、彼女は諦めよう』
そうして二日経った今、緋逸は空を眺めている。眺めたところで答えの出ない天までの高さを測るようにして、閻羅王の歳とやらを考えているのだった。
彼の歳は見た目には三十半ばほどだった。しかし、相手は鬼。
(鬼に年齢などあるのか?)
あったところで、人の身で冥界の王がどれほど生きているかなど知る術はない。あのとき呼んでいた剣楯華にも相談してみたが、剣楯華ですら一言『不明です』と応えた。
まるで謎解きだ。
謎の答えが導きだせなければ、丹緋を手放すことになる。
……嫌だ。
できない。
「彼女は私のものだ。今更、なぜに争わねばならん」
「ですから申し上げたではありませんか。『人と鬼は隔たりのある存在』『鬼は自らのことを絶対に語らぬ』と」
皮肉混じりの声のしたほうへ顔を向ければ、歩み寄ってくるのは宰相の戴奎樹だった。
宰相は本来、尚書省と中書省の長官が三年交代で務める。現在はふたつの省の長官を兼任しているため、奎樹がただ一人の宰相となる。人手不足の王朝であることは否めない。
忠言する真面目な奎樹を、緋逸はまじまじと見つめた。
「そういえばお前の歳は三十四だったな。どうだ、閻羅王は同じくらいに見えたか?」
「はあ、まあ……」
曖昧に言葉を濁す、奎樹。おっとりした風貌で、なにかにつけて額髪を整える癖がある。
「どっちかっていうと俺じゃないかな。近いものを感じましたがね」
割って入ったのは、宰相と肩を並べている彊武喬。
皇帝を護衛するのは神策軍である。
武喬は大将軍で、歳は四十。戦袍の重ね着に気をつかっていて、自分流のこだわりが強いからか何枚かの片袖を脱いでいる。動くたび、一つに結い上げた髪の束が肩をかすめて揺れていた。
「そうだったか?」
真顔で緋逸が尋ねれば、「う~む」と武喬は呻いた。
「でしたね。俺が見たところ――というか、見る角度によって歳が違って見えたとでもいいますか。翳をつくる切れ込んだ眦のせいかもしれないですが、角度によっては三十にも四十にも見えましたけど」
謎は深まるばかり。
今度は緋逸が呻いたが、武喬は軽く笑っただけ。次の瞬間、さらりと話題を転じた。
「大街道の偵察に出ていた飛空部からの報告です」
飛空部とは、武喬麾下の小隊である。特殊な技能を必要とするため、ここに所属する武官は精鋭である。彼らのもたらす報は重要なものばかり。だから武喬の顔も引き締まる。
「蒼呉は大街道を予定どおりに北上中とのこと、十六日以内には天延入りするかと」
「……そうだったな」
この問題もあったな、と。緋逸の顔がやや曇った。
忘れていたわけではないが、なるべく考えないようにしていた事柄を面と向かって突きつけられれば気が沈む。頭の隅へと押しやっていたのは向き合えていなかったから。変えられぬ事実に直面した途端に心が揺れて、その分、逃げ場を失ったような気持ちになった。
(嘆願する蒼呉を受け入れたのは私だというのにな)
蒼呉は、緋逸の二つ下の実弟である。
実はこの蒼呉こそが皇帝となるべき人物であった。
先帝が早くに指名したのは蒼呉であり、長く皇太子であったのだ。広大な鼎国を支配するため、玉座を約束されていた男。
皇帝と皇后――父母にたいそう気に入られていた、弟。
しかし蒼呉には、女癖の悪さと気性の荒さがあった。皇后には決して逆らわず質素倹約を貫きよい息子のふりを続けたので、皇帝が蒼呉を皇太子にと指名したとき、皇后は手放しで喜んだものだ。蒼呉の素行不良には、皇帝も皇后もまったく気づいてはいなかった。
実の息子だというのに。真実を見極められなかった父と母。
(愚かな)
皇帝が死んだ一年前、これを機に緋逸は玉座を奪った。皇宮内で内乱を起こし、蒼呉を皇太子の座から追いやったのだ。大した抵抗もできずに負けた蒼呉を、天延から追放したのも緋逸自身であった。
追放先は鼎国最南端の地とした。
そこは、先帝の時代に征服した地域。ゆえに、未だ従わされているという意識が強く、鼎国を嫌っている。それもあって鼎人には冷たく、この地域であれば実弟を押し立て謀叛を企てようとする人間もいないだろうと幽閉場所と定めた。
その蒼呉から手紙が送られてくるようになったのは半年ほど前からだった。
『母の命日に墓前に花を供えさせてほしい。どうか兄上、天延入りを許してください』
皇后〈皇帝が代替わりしているために今は皇太后である〉が死んだのは、先帝崩御の前。もう何年前かも緋逸にしてみればどうでもいいことであったが、蒼呉は憶えていたらしい。
数々の濫行を繰り広げた遊び人の蒼呉が? と疑わないでもなかったが、皇太后を自分の側に取り込むのに必死だったのだ。親子として近い間柄であったのは確かであった。
天延追放があまりにも急だったために、蒼呉は墓前に別れの挨拶ができなかった。皇太后の命数が尽きたのは十一月末であり、たった一度でかまわないから墓に参らせてほしいと何度も手紙を書き送ってきたのだった。
殺そうとまでは思わなかった弟だ。たとえ皇太子としての資質に欠けていようとも。次代の皇帝には不適格であったとしても。決して仲よくはなかったが、嫌っていたわけではない。心の片隅で(彼がまともな男であったなら)と強く願うことすらあったのだ。
緋逸には〝ほかの事情〟もあって、確執はなくとも顔を合わせることのなかった弟であるから、皇宮内から排除できればそれで充分であった。
自分の手で追いやった男がまた、自分のもとへとやって来る。
自分の指示で。
「なんというか。虚しいな」
虚しい、という気持ちの本当の意味を、どれだけの人が知っているだろう。
それは悲しいのとは明らかに違う。
哀れ、とも違う。
なにかが足りないのだ。その、なにかを埋めることは、泣いても喚いてもできない。悩み迷ったとしても、見つけることはできない。生きているかぎり、たぶん、ずっと。
「「は?」」
緋逸の呟き事に返るふたつの声が重なった。
「天下の大権を掌中にしておいて今更!? ……っと」
発した一方は頓狂な声を打ち消すかのようにコホンと真面目な顔で咳払いし、一方はおおらかに笑っている。もちろん、おおらかなほうが武喬である。
「なんというか。陛下らしくないですがね」
「『なんというか』って。私の言ったことを復唱しなくてもいいだろうが」
「いや俺、武官なんで。命令を復唱するクセがついてますから。陛下の言を復唱するのはしょーがない」
すっとぼける武喬。
お前な、と緋逸がむっとしていると、
「では陛下、私からもご報告をひとつ。ご下命を受けて凛丹緋に殿舎を与えました」
奎樹まで『命令』を強調する。
これまで私的なことは放置してきたのである。自分らしくない自覚のある緋逸は開きなおるしかない。
「侍女も付けただろうな?」
「はい。殿中監が選んだ侍女ですから、信頼できる者のはず。ご安心を」
その侍女の身辺は清く、たくましいということだ。安心して丹緋を預けられる。
緋逸は口許に軽く笑みを刻んだ。
「よし」
なにしろ夫婦に横恋慕しているのは閻羅王。鬼だ。油断がならない。丹緋の傍に張り付いて護っていたいが、緋逸は皇帝、執務があるので一緒にいられる時間はかぎられてしまう。離れている時間、丹緋の身を託せる女丈夫がどうしても必要だった。
(そういえば)
ふと、緋逸の頭によぎるものがあった。
皇太后の命日は十一月の末であるが。
閻羅王が与えるといった『時』の期限も十一月末なのだ。
(どうしてこうも面倒事というものは重なるのか)
うんざりとした眼差しを緋逸は空へと投げる。
そんな緋逸の左手の甲を見つめながら、
「俺の妻がね、言ってたんですが」
項に掌をあてながら武喬が話しだす。『俺の妻がね』が口癖であり、彼は愛妻家で有名であった。軍務をそつなくこなす大将軍であるが、なにより妻を愛している。
「人間八十年時代、貴方はまだ半分しか生きていないのだと。そして、黎王朝は人一人分の時間を駆け抜けてきた。そろそろ新しい風が吹き込む時じゃないのかって」
黎王朝が成立して八十年。路線を変更するならばそろそろか、という時期でもあるのだ。歴史の転換点という意味では武喬の細君の助言には考えさせられるものがある。
人には生まれた直後から時間が発生する。発生した時間は、等しい。誰もが同じ時間軸をもつ。だけれども、時をどう使うかは人によって異なるのだ。その人をとり巻く環境によってもどう使うかが決められてしまうから。
緋逸と奎樹は互いに頷き合った。
「うん? だな」「そうですね」
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