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第一章(3/3)
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第二景
大陸の東にある鼎国は九州から成り、国土は広大である。
皇都である天延は国のほぼ中央にあって、大陸を横断する交通・交易の行路の起点であった。遥か西へと延びる大陸行路は、鼎により建設された道である。ゆえに、大陸の各国から【大鼎国】と呼ばれているのである。
この大陸行路、鼎国内では天延から西へ至る道を【西砂行路】と呼び、東へ至る道を【東海行路】と呼ぶ。なぜなら国を出て西には大砂漠が広がり、東は大海に出るからである。
国を南北に縦断するのは主要な街を繋ぐ、大街道。大街道を抜けて北には大国が控えているが、国交があるために今のところ争いはない。南端の土地は先帝の時代に征服したばかりであった。この辺りは水仙の花が美しいともっぱらの噂である。
西から南には斜めに大山脈が連なっていて、隣国がここを越えて侵攻してくることはない。そのため、大山脈付近は【不抜〈抜けない〉の地】と言われていた。
鼎は皇帝が治める国であるが、天こそが万物を支配する絶対的な存在と捉えられている。
遥か昔――
風、水、土、火の使役神に命じて天地を創造したのは天帝である。使役神は神仙となり地上に棲むものもいると伝えられている。
やがて人が誕生すると、天帝は徳のある人物に【鼎】を授けた。ゆえに国号は鼎のまま、王朝が幾度交代しようとも今代までかわることはなかった。
鼎とは、世の安定を象徴する〝神器〟のことで、遥か昔に天帝が鋳造したとされている。限られた者しか見たことがないので形は定かではないが、三本足に支えられた半球形の青銅製の器で、器の内側には万物創生の法が刻まれているという。国権の正統な継承者が鼎を引き継ぐことになっていて、これが皇帝の証となり、天命によって天下を天から預かったとされるのである。
史書は伝える――「鼎ありて国あり、鼎滅びて国滅ぶ」
国号が鼎のままであるため、王朝は時の支配者である皇家の姓で呼ばれることになる。
先の皇帝崩御から一年、新王朝が定めた年号は【大統】。
絢爛たる世界帝国の地位はゆるぎなく。
黎王朝大統二年十月、それは起こったのだった。
少女は困り顔で鏡を覗いていた。
そこに映っているのは目に眩しいほどの襦裙を身に纏っている自分の姿。
けれど。
(どうして、わたしが……)
どれほど考えても答えのでない疑問が頭の中でぐるぐるするばかり。短時間であまりにたくさんのことを思い巡らせたので、心の臓がばくばくして少々窒息ぎみになっていた。
少女の姓名は、凛丹緋。
丹緋は天延の豪商・凛家の長女である。采女の募集で入宮した二十七人のうちの一人であった。数日前に後宮に入ったばかりなので、宮女としての教育はほとんど受けていない。なにをどうするのが正解なのかまったくわからない世界に一歩を踏み出したばかりであり、本音を吐いてしまえば、慣れるまでは放っておいてほしかった。
誰ともかかわりたくはない。
目立ちたくない。
二十七人もいるのだから、ひっそりと過ごしたかった。自分の居場所さえ与えられればそれでよく、いつでも人の陰に隠れて忘れられた存在でいたかった。
「さあ、行きますよ」
室の入り口から声がかかった。
声をかけてきたのは、殿中監。
殿中監は皇帝の身辺の世話だけでなく、後宮の一切合財を取り仕切る。これには侍女の統轄も含まれる。衣裳や装飾品を抱えた侍女を数人引き連れて、殿中監がやって来たのは未刻の頃。
前触れなく丹緋を指名し、采女達が興味津々で注目する中で別室へと引っ立てられ、なんの説明もなしに着替えさせられたのだ。
化粧は自分でしていいとのことだったので薄化粧にとどめているが、衣裳はそうはいかなかった。采女用の質素な衣を脱がされて、刺繍の施された華美なものを身につけている。
殿中監に手を引かれて丹緋が立ち上がれば、はずみで耳の飾りが揺れて音を奏でる。
窒息ぎみのせいか、歩を進めるたびに軽い眩暈がした。
耳飾りや簪の揺れる音が妙に耳障りで不安とまざり、余計に呼吸を乱してしまう。
先を歩く殿中監は、姓を崔、名を美信という。
黎王朝では男女の差はなく、女人であっても科挙や武挙を受験して国官になれる。〝監〟は各部署の最高責任者に与えられる官位であるから、彼女は高位の文官ということになる。二十四という若さでそこまで上り詰めたのだから優秀な女人といえよう。
ちなみに。
彼女の愛用品は煙管だ。普段は煙管を振り振り、侍女達に指示をとばしている。
ところが今日、美信はその煙管を携帯していなかった。人がいつもと違うことをしているとき、決まって何事かがあるものだ。おおむねよくないことが。
「あのっ……」
どこへ行くんでしょうか? ――そう訊きたくても、丹緋の声は喉の奥に詰まってしまう。丹緋はもともと、人と会話するのが得意ではない。極端に口数が少なかった。
それは家族に疎外されて育った家庭環境のせいだった。実父に疎まれ、継母と異母妹には嫌われていた。いらない存在だったから、当然のように家の中で交わされる会話はなく、今にして思えば『おはよう』や『おやすみなさい』といった軽い挨拶でさえ、口にしたことはないままにここまで生きてきた。
(わたし、宮中でしてはいけないことをやってしまったんだろうか……)
(お行儀よく振る舞えって、殿中監に注意されるために呼びだされた?)
足許にぽてんと視線を落とし、思うだけでなにひとつ吐きだせないまま、丹緋は回廊を歩いていく。午〈正午〉を過ぎた陽は薄く、滲む景色は心許ない。殿舎と殿舎をつなぐ長い外回廊に散っているのは、風に煽られて枝から離れてしまった葉。葉はくるりくるりと中空に輪を描きながら舞い落ちてきて。なんとはなしに目で追っているうち、翼を広げて飛び立とうとする名も知らぬ鳥を見つけた。
ああ、と丹緋は目を見開いた。
(あんなふうに自由に飛び立てたら)
けれど自分は、人。
人が自由であるのは、帰る場所があるからだ。そして今、自分の帰る場所はここ。後宮。たとえ帰る場所が後宮でなかったとしても、人の身であるかぎり、人とかかわって生きていかねばならない。
人とは言葉で接しなければならない。
(……でも、言葉はいやだ。できるだけ無言でいたい。静かに暮らしたい)
采女二十七人の中に紛れていれば、言葉少なくても生きていけるだろうと安心していた。そんな油断が顔にでていたのかもしれない。指名されたのはそのせいかも……。
「貴女、丹緋」
呼ばれているのだと気づいた丹緋は、慌てて視線を戻した。
歩きながら美信が肩越しにこちらを見ている。何度か呼んでいたのだろう、不審がるように柳眉がひそめられている。もとから美信は冷たい雰囲気があるので、怯える丹緋の薄い肩はびくっと跳ねてしまった。
(あ、どうしよう。これじゃあ、怯えていると言ってしまったようなものじゃない)
失礼にならないよう「違う」と否定したいけれど、わざわざ否定するのもどうかと迷い、結局丹緋は紅をひいた口唇を引き結んで下を向いてしまった。
「入宮してから日も浅いけれど。貴女、少しかわったわね」
脈絡なく話しかけられて、しかも、予想すらしなかったことを話しかけられて、丹緋はすっと顔を上げた。
「……え」
「采女という位を与えられるのだから、みな、それぞれに美しいわ。貴女もそう。でもね、貴女は顔に翳があって――そうね、性格の暗さが顔にくっきりと表れていたのよ」
非難混じりの指摘。
充分すぎるほど自覚はあったので、丹緋は口ごたえせずに黙って聞いていた。
「十六歳という花盛りのわりに生気がまったくないから。醜女とまでは思わなかったけれどね、醜いとは思ったわ。なのに、どうしたことかしら。ここ数日で、ほんの少しではあるけれど、表情が明るくなった。なにかあった?」
問われても、丹緋にはわからない。考えてみたがなにもない。
「宮女というものはね、高官や良家の娘がなるものでしょう。庶人であれば容姿が優れた者ね。そういう女はだいたいね、ご両親に可愛がられて育っているのよ。なんといっても将来有望、お金持ちの殿方に求婚される確率が上がることになるのだから」
美しい娘に育てれば、その分、親に利福がもたらされる。家格を上げるために婚姻に積極的になる。そういう父母もいるのだ。
丹緋は小さく頷いた。
「入宮した後は家族と会えなくなるでしょう。なにかしらの温情がないかぎり、宮中から解放されはしない。閉じ込められたまま。なに不自由なく甘やかされて育った娘にしてみれば、外部と接触できなくなったことで家族が恋しくなってしまうのね。寂しさもあってみな、暗くなってしまうものだけれど」
心を見透かすような目を向けてくる、美信。
「貴女は違ったのかしら」
突きつけられて、薄く張っていた氷がぱりんと割れたような感じがした。
さすがは優秀な官吏というべきか、美信の発言には鋭いものがあった。
言われてはじめて丹緋は、ハッと本心に気づいたのだ。
今回の采女の入宮は、空位のままである夫人三妃を選ぶための募集だったと聞いている。夫人といえば皇后に次ぐ権力をともなう位であるから、庶人出の自分には縁のない話と思っていた。主張のない口下手な自分が選ばれることは絶対にないと他人事でいたのだ。
安心していたのは、それだけが理由ではない。
少なからず家族と離れて気持ちが楽になっていた。浮かれていたわけではないが、宮城の中であれば両親や異母妹に嫌がらせをされることはない。二度と会うこともないだろうから、過去のことと記憶を封じ、醜い思い出はすべて忘れてしまうつもりでいた。
第二の人生ともいうべき居場所を与えられて、そこが未知の場所であっても気楽に構えていられたのはそのせいだ。
(わたしは自由になった? 喜んでいたの、わたしは……?)
惑う丹緋をどう捉えたのか、美信はそこでふいとおしゃべりをやめた。
彼女の声が途切れた途端、上から伸しかかられるような感じを覚えた。これが高官の発する特有の空気というものかもしれなかった。
どれほど歩かされただろう。重厚な扉の前にたどり着いたとき、美信が指示を寄越す。
「袖でかざして顔を隠してなさい。お声がかかるまで、決して面を上げてはなりませんよ」
「は、い」
両袖をかざしてしまえば周りはほとんど見えなくなる。室内の様子もわからないまま、狭い視界を我慢して丹緋は進み出た。
気配からして複数の人がいる。こちらを見やる強い視線はやや上方から感じられた。
漂う雰囲気は権威的で、重い。
(男の人ばかりの気がする。文官よね? やっぱり、なにか怒られるんだわ)
隠れて丹緋が細い息を吐いたところで男の声がかかった。
「采女・凛丹緋とは其方か?」
返事をしなければと頭ではわかっている。
でも、緊張して喉がつまり、声がでない。
答えなければと思うほど、焦りで手が震えてしまう。しまいには歯がカチカチと鳴りだした。窒息ぎみで歩いてきたこともあって、卒倒寸前まで気持ちは追いやられてしまう。
「どうした? 袖が震えているようだが」
話しかけている男がくすりと笑ったようだった。
「おい、美信。お前、ここに来る途中でいじめたんじゃないだろうな」
(なっ――!?)
丹緋は悲鳴をあげそうになった。
自分が声をださないことで、無関係の美信が責められている。男の口調からして美信の上役であろう。美信とはちょっとした会話をしただけなのに、誤解されては申し訳ない。
(ええと、なにを聞かれたんだったか)
頭が真っ白で質問が消えている。
早く答えないと、かわりに美信が怒られる!
(う……どうしたら……)
とにかく一度落ち着こうと、息継ぎをしたはずみで肩が揺れ、袖も大きく揺れた。
丹緋の立ち姿に思うところがあったらしい男は、もう一度笑った。ゆったりと。いやな笑い方ではなかった。
「そう身構えなくてよい。ちょっと其方に尋ねたいことがあってな」
ふっと、空気の流れがかわる。
敏感に感じとった丹緋は、男が立ち上がったのだと悟った。どうやら男は数段高い場所に座っていたらしく、そこから降りようとしているらしい。
ひょっとして、会話がしやすいように二人の距離を近づけてくれている?
(気づかってくれているのかな?)
「形式上ではあるが、私は其方の夫だ」
ん? と丹緋は首をかしげた。
(夫? 今、夫って言った? ……夫って)
「夫として、其方に訊きたいことがある。話をしたくて呼んだのだ」
事の展開を理解しようと、丹緋は思考につられるように反対側に首を倒した。
最早、男の問いかけは耳に届いていない。
(夫って……夫婦ってことよね? ということはわたし、人妻? 結婚したのっ!?)
いつ!?
驚きでこくっと喉が鳴る。
呼吸を楽にしようとしたその拍子に袖をおろしてしまう。
「呼びつけて悪かった。今朝、遠来の客があって。男なのだが。その御仁が口にしたのが其方の名だったのだ。其方、閻羅という男を知ってい……る……か……」
両袖をおろしたときに、丹緋はつい、細面を上げてしまった。どうしても夫の顔を見たかったのだ。だって、結婚した記憶はないから。
夫だという男は階段の途中で足を止めていた。片手にはなぜか大剣を握っている。それ以上を確認する心の余裕はなかった。
丹緋と男、目と目が合った。
男は数段の階を降りる姿勢のままで、時が止まったかのごとく固まっている。
動かない。
びっくりしたのは丹緋だ。つられて身体が固まり、見つめ合ったまま男を見守っていた。
のだが……。
どうしたことか。
目測を誤ったのか、男は前へと繰り出した片足を踏みはずす。
その場の誰も「あ」と声をあげる間もなく。
男は見事に階段から落っこちたのだった。
大陸の東にある鼎国は九州から成り、国土は広大である。
皇都である天延は国のほぼ中央にあって、大陸を横断する交通・交易の行路の起点であった。遥か西へと延びる大陸行路は、鼎により建設された道である。ゆえに、大陸の各国から【大鼎国】と呼ばれているのである。
この大陸行路、鼎国内では天延から西へ至る道を【西砂行路】と呼び、東へ至る道を【東海行路】と呼ぶ。なぜなら国を出て西には大砂漠が広がり、東は大海に出るからである。
国を南北に縦断するのは主要な街を繋ぐ、大街道。大街道を抜けて北には大国が控えているが、国交があるために今のところ争いはない。南端の土地は先帝の時代に征服したばかりであった。この辺りは水仙の花が美しいともっぱらの噂である。
西から南には斜めに大山脈が連なっていて、隣国がここを越えて侵攻してくることはない。そのため、大山脈付近は【不抜〈抜けない〉の地】と言われていた。
鼎は皇帝が治める国であるが、天こそが万物を支配する絶対的な存在と捉えられている。
遥か昔――
風、水、土、火の使役神に命じて天地を創造したのは天帝である。使役神は神仙となり地上に棲むものもいると伝えられている。
やがて人が誕生すると、天帝は徳のある人物に【鼎】を授けた。ゆえに国号は鼎のまま、王朝が幾度交代しようとも今代までかわることはなかった。
鼎とは、世の安定を象徴する〝神器〟のことで、遥か昔に天帝が鋳造したとされている。限られた者しか見たことがないので形は定かではないが、三本足に支えられた半球形の青銅製の器で、器の内側には万物創生の法が刻まれているという。国権の正統な継承者が鼎を引き継ぐことになっていて、これが皇帝の証となり、天命によって天下を天から預かったとされるのである。
史書は伝える――「鼎ありて国あり、鼎滅びて国滅ぶ」
国号が鼎のままであるため、王朝は時の支配者である皇家の姓で呼ばれることになる。
先の皇帝崩御から一年、新王朝が定めた年号は【大統】。
絢爛たる世界帝国の地位はゆるぎなく。
黎王朝大統二年十月、それは起こったのだった。
少女は困り顔で鏡を覗いていた。
そこに映っているのは目に眩しいほどの襦裙を身に纏っている自分の姿。
けれど。
(どうして、わたしが……)
どれほど考えても答えのでない疑問が頭の中でぐるぐるするばかり。短時間であまりにたくさんのことを思い巡らせたので、心の臓がばくばくして少々窒息ぎみになっていた。
少女の姓名は、凛丹緋。
丹緋は天延の豪商・凛家の長女である。采女の募集で入宮した二十七人のうちの一人であった。数日前に後宮に入ったばかりなので、宮女としての教育はほとんど受けていない。なにをどうするのが正解なのかまったくわからない世界に一歩を踏み出したばかりであり、本音を吐いてしまえば、慣れるまでは放っておいてほしかった。
誰ともかかわりたくはない。
目立ちたくない。
二十七人もいるのだから、ひっそりと過ごしたかった。自分の居場所さえ与えられればそれでよく、いつでも人の陰に隠れて忘れられた存在でいたかった。
「さあ、行きますよ」
室の入り口から声がかかった。
声をかけてきたのは、殿中監。
殿中監は皇帝の身辺の世話だけでなく、後宮の一切合財を取り仕切る。これには侍女の統轄も含まれる。衣裳や装飾品を抱えた侍女を数人引き連れて、殿中監がやって来たのは未刻の頃。
前触れなく丹緋を指名し、采女達が興味津々で注目する中で別室へと引っ立てられ、なんの説明もなしに着替えさせられたのだ。
化粧は自分でしていいとのことだったので薄化粧にとどめているが、衣裳はそうはいかなかった。采女用の質素な衣を脱がされて、刺繍の施された華美なものを身につけている。
殿中監に手を引かれて丹緋が立ち上がれば、はずみで耳の飾りが揺れて音を奏でる。
窒息ぎみのせいか、歩を進めるたびに軽い眩暈がした。
耳飾りや簪の揺れる音が妙に耳障りで不安とまざり、余計に呼吸を乱してしまう。
先を歩く殿中監は、姓を崔、名を美信という。
黎王朝では男女の差はなく、女人であっても科挙や武挙を受験して国官になれる。〝監〟は各部署の最高責任者に与えられる官位であるから、彼女は高位の文官ということになる。二十四という若さでそこまで上り詰めたのだから優秀な女人といえよう。
ちなみに。
彼女の愛用品は煙管だ。普段は煙管を振り振り、侍女達に指示をとばしている。
ところが今日、美信はその煙管を携帯していなかった。人がいつもと違うことをしているとき、決まって何事かがあるものだ。おおむねよくないことが。
「あのっ……」
どこへ行くんでしょうか? ――そう訊きたくても、丹緋の声は喉の奥に詰まってしまう。丹緋はもともと、人と会話するのが得意ではない。極端に口数が少なかった。
それは家族に疎外されて育った家庭環境のせいだった。実父に疎まれ、継母と異母妹には嫌われていた。いらない存在だったから、当然のように家の中で交わされる会話はなく、今にして思えば『おはよう』や『おやすみなさい』といった軽い挨拶でさえ、口にしたことはないままにここまで生きてきた。
(わたし、宮中でしてはいけないことをやってしまったんだろうか……)
(お行儀よく振る舞えって、殿中監に注意されるために呼びだされた?)
足許にぽてんと視線を落とし、思うだけでなにひとつ吐きだせないまま、丹緋は回廊を歩いていく。午〈正午〉を過ぎた陽は薄く、滲む景色は心許ない。殿舎と殿舎をつなぐ長い外回廊に散っているのは、風に煽られて枝から離れてしまった葉。葉はくるりくるりと中空に輪を描きながら舞い落ちてきて。なんとはなしに目で追っているうち、翼を広げて飛び立とうとする名も知らぬ鳥を見つけた。
ああ、と丹緋は目を見開いた。
(あんなふうに自由に飛び立てたら)
けれど自分は、人。
人が自由であるのは、帰る場所があるからだ。そして今、自分の帰る場所はここ。後宮。たとえ帰る場所が後宮でなかったとしても、人の身であるかぎり、人とかかわって生きていかねばならない。
人とは言葉で接しなければならない。
(……でも、言葉はいやだ。できるだけ無言でいたい。静かに暮らしたい)
采女二十七人の中に紛れていれば、言葉少なくても生きていけるだろうと安心していた。そんな油断が顔にでていたのかもしれない。指名されたのはそのせいかも……。
「貴女、丹緋」
呼ばれているのだと気づいた丹緋は、慌てて視線を戻した。
歩きながら美信が肩越しにこちらを見ている。何度か呼んでいたのだろう、不審がるように柳眉がひそめられている。もとから美信は冷たい雰囲気があるので、怯える丹緋の薄い肩はびくっと跳ねてしまった。
(あ、どうしよう。これじゃあ、怯えていると言ってしまったようなものじゃない)
失礼にならないよう「違う」と否定したいけれど、わざわざ否定するのもどうかと迷い、結局丹緋は紅をひいた口唇を引き結んで下を向いてしまった。
「入宮してから日も浅いけれど。貴女、少しかわったわね」
脈絡なく話しかけられて、しかも、予想すらしなかったことを話しかけられて、丹緋はすっと顔を上げた。
「……え」
「采女という位を与えられるのだから、みな、それぞれに美しいわ。貴女もそう。でもね、貴女は顔に翳があって――そうね、性格の暗さが顔にくっきりと表れていたのよ」
非難混じりの指摘。
充分すぎるほど自覚はあったので、丹緋は口ごたえせずに黙って聞いていた。
「十六歳という花盛りのわりに生気がまったくないから。醜女とまでは思わなかったけれどね、醜いとは思ったわ。なのに、どうしたことかしら。ここ数日で、ほんの少しではあるけれど、表情が明るくなった。なにかあった?」
問われても、丹緋にはわからない。考えてみたがなにもない。
「宮女というものはね、高官や良家の娘がなるものでしょう。庶人であれば容姿が優れた者ね。そういう女はだいたいね、ご両親に可愛がられて育っているのよ。なんといっても将来有望、お金持ちの殿方に求婚される確率が上がることになるのだから」
美しい娘に育てれば、その分、親に利福がもたらされる。家格を上げるために婚姻に積極的になる。そういう父母もいるのだ。
丹緋は小さく頷いた。
「入宮した後は家族と会えなくなるでしょう。なにかしらの温情がないかぎり、宮中から解放されはしない。閉じ込められたまま。なに不自由なく甘やかされて育った娘にしてみれば、外部と接触できなくなったことで家族が恋しくなってしまうのね。寂しさもあってみな、暗くなってしまうものだけれど」
心を見透かすような目を向けてくる、美信。
「貴女は違ったのかしら」
突きつけられて、薄く張っていた氷がぱりんと割れたような感じがした。
さすがは優秀な官吏というべきか、美信の発言には鋭いものがあった。
言われてはじめて丹緋は、ハッと本心に気づいたのだ。
今回の采女の入宮は、空位のままである夫人三妃を選ぶための募集だったと聞いている。夫人といえば皇后に次ぐ権力をともなう位であるから、庶人出の自分には縁のない話と思っていた。主張のない口下手な自分が選ばれることは絶対にないと他人事でいたのだ。
安心していたのは、それだけが理由ではない。
少なからず家族と離れて気持ちが楽になっていた。浮かれていたわけではないが、宮城の中であれば両親や異母妹に嫌がらせをされることはない。二度と会うこともないだろうから、過去のことと記憶を封じ、醜い思い出はすべて忘れてしまうつもりでいた。
第二の人生ともいうべき居場所を与えられて、そこが未知の場所であっても気楽に構えていられたのはそのせいだ。
(わたしは自由になった? 喜んでいたの、わたしは……?)
惑う丹緋をどう捉えたのか、美信はそこでふいとおしゃべりをやめた。
彼女の声が途切れた途端、上から伸しかかられるような感じを覚えた。これが高官の発する特有の空気というものかもしれなかった。
どれほど歩かされただろう。重厚な扉の前にたどり着いたとき、美信が指示を寄越す。
「袖でかざして顔を隠してなさい。お声がかかるまで、決して面を上げてはなりませんよ」
「は、い」
両袖をかざしてしまえば周りはほとんど見えなくなる。室内の様子もわからないまま、狭い視界を我慢して丹緋は進み出た。
気配からして複数の人がいる。こちらを見やる強い視線はやや上方から感じられた。
漂う雰囲気は権威的で、重い。
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隠れて丹緋が細い息を吐いたところで男の声がかかった。
「采女・凛丹緋とは其方か?」
返事をしなければと頭ではわかっている。
でも、緊張して喉がつまり、声がでない。
答えなければと思うほど、焦りで手が震えてしまう。しまいには歯がカチカチと鳴りだした。窒息ぎみで歩いてきたこともあって、卒倒寸前まで気持ちは追いやられてしまう。
「どうした? 袖が震えているようだが」
話しかけている男がくすりと笑ったようだった。
「おい、美信。お前、ここに来る途中でいじめたんじゃないだろうな」
(なっ――!?)
丹緋は悲鳴をあげそうになった。
自分が声をださないことで、無関係の美信が責められている。男の口調からして美信の上役であろう。美信とはちょっとした会話をしただけなのに、誤解されては申し訳ない。
(ええと、なにを聞かれたんだったか)
頭が真っ白で質問が消えている。
早く答えないと、かわりに美信が怒られる!
(う……どうしたら……)
とにかく一度落ち着こうと、息継ぎをしたはずみで肩が揺れ、袖も大きく揺れた。
丹緋の立ち姿に思うところがあったらしい男は、もう一度笑った。ゆったりと。いやな笑い方ではなかった。
「そう身構えなくてよい。ちょっと其方に尋ねたいことがあってな」
ふっと、空気の流れがかわる。
敏感に感じとった丹緋は、男が立ち上がったのだと悟った。どうやら男は数段高い場所に座っていたらしく、そこから降りようとしているらしい。
ひょっとして、会話がしやすいように二人の距離を近づけてくれている?
(気づかってくれているのかな?)
「形式上ではあるが、私は其方の夫だ」
ん? と丹緋は首をかしげた。
(夫? 今、夫って言った? ……夫って)
「夫として、其方に訊きたいことがある。話をしたくて呼んだのだ」
事の展開を理解しようと、丹緋は思考につられるように反対側に首を倒した。
最早、男の問いかけは耳に届いていない。
(夫って……夫婦ってことよね? ということはわたし、人妻? 結婚したのっ!?)
いつ!?
驚きでこくっと喉が鳴る。
呼吸を楽にしようとしたその拍子に袖をおろしてしまう。
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両袖をおろしたときに、丹緋はつい、細面を上げてしまった。どうしても夫の顔を見たかったのだ。だって、結婚した記憶はないから。
夫だという男は階段の途中で足を止めていた。片手にはなぜか大剣を握っている。それ以上を確認する心の余裕はなかった。
丹緋と男、目と目が合った。
男は数段の階を降りる姿勢のままで、時が止まったかのごとく固まっている。
動かない。
びっくりしたのは丹緋だ。つられて身体が固まり、見つめ合ったまま男を見守っていた。
のだが……。
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