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第四章(1/3)
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第四章
第一景
鼎国は伝説の上に成り立っている。
伝説は、どこまでが真実でどこまでが虚構なのか、今代では判断しがたいものだ。
たとえば。
――遥か昔、風、水、土、火の使役神に命じて天地を創造したのは天帝である、などがあげられる。また、泰山の麓の鄷には幽冥地府の入り口がある、などもそう。
実際のところ、鼎国には鬼が棲んでいる。
国によっては、人の住む世界を内なる世界とするならば、その〝外なる世界〟に棲むものを怪しきものと捉えている。しかし、鼎国内には鬼は確かに存在し、人は遭遇してきた。
そういった歴史特性からも歴代の朝廷は、神怪な現象に迅速に対処するために故きを学び、史実を後世へ正確に遺していかなければならない。よって鼎国には、史料を系統的に収集保存し、史書を編纂する機関がある。
これを史館といった。
鼎国は史書を繙くことが多い。ために史館の長官は、宰相と同等の権力を有する。
現在の史館長官は彪之である。
「どうだった?」
尋ねたのは、わざわざ史館まで出向いてきた緋逸である。
史館の職掌上、紙と墨の発する独特の匂いが建物中に満ちていた。この匂いに触れるたび、文字によって紡がれる歴史の奔流に呑まれそうだ、と緋逸は感じる。
「先日もお話しましたが、史書には閻羅王が現れたという記述はありませんでした」
受けて、答えたのは彪之。
彼は碧眼のもち主で、赤の強い黒髪を緩く束ねている。双眸と髪の色からして異国の血が混じっているが、大陸間での行き来があるため、決して珍しくはない。
垂れた目でしっかりと緋逸を見据え、彼ははっきりと言い切った。
史書を読み返すよう命じた緋逸とて、彪之を疑っているわけではないのだ。
彪之は読む速度が異常に速く、一度見たものは忘れない。任命されてすぐに書庫に閉じこもり、まだ一年しか経っていないのに鼎国の史実を正確に把握している。
「意図的に削除したのか、これまでにはなかったことなのか」
沈黙する緋逸に、さほど焦った様子もなく彪之は続けた。
「じゃあ、謎は解けないままじゃないか」
彪之を疑っていたわけではないが、史書の中に謎解きの手がかりがあるのでは、と期待していた緋逸である。
閻羅王の年齢――冥界の頂点に立つものの謎を解く手がかりが。
『まずは、泰山に棲むという仙人に尋ねてみたらいかがでしょう』
と、助言してくれたのはこの彪之だ。彷徨える緋逸には唯一頼れる存在であったのに。
期待は〝あてがはずれた〟という名の裏切りに遭い、彼を責めるでもなく呟いた緋逸は、座っている椅子から落ちかけるほど項垂れた。
がっかりだ。
「陛下」
「なんだ?」
「酔いたいのなら付き合いましょう、僕は酔いたいので」
子供の頃、神童と謳われた彪之。
彼の歳は二十三になるが、未だに十代後半の少年にしか見えず、童顔である。今では高禄を得る高官となったにもかかわらず、着る物にこだわりがない。
(この男のこだわりは)
「酔いたいってお前、閻羅王の歳が解明できなかった自棄酒って顔をしていないな。怪事件――もとい、不思議な出来事に遭遇して喜んでいるんじゃないのか」
「それは陛下、もちろんです。鼎国史上初の出来事、それを記すのが僕となりましょう」
つまりは喜びの酒、祝杯なのである。
彪之は当代一の知識人であり、偏見なく蓄えた知識が豊富である。とくに不思議話には異常なほどの興味を示し、関心をもつ。その細部にこそ、こだわりが強いのだ。
そして、酒豪であった。
童顔のくせに。
(皇帝の不幸を酒の肴にするつもりかっ)
これは堪らんと、緋逸はそそくさと椅子から立ち上がったのだった。
謎が解けない緋逸は、とりあえず、丹緋との距離を近づけようと努力していた。
とにかく〝心〟の距離を縮めておきたい。
なにしろ閻羅王は、見た目はいい男。謎を解いたとしても、最終的に丹緋が閻羅王を選んでしまったら、男として立ちなおれない。
まったく愛とは厄介だ。愛が絡んだだけで人と人との関係はややこしくなる。
考えた末、ぎっしり詰まった仕事の合間にせっせと手紙を書き送っていたのだが。返信はなかった。そこへようやっと今日、丹緋からの手紙が届けられた。
……のに。
「なんだ、これは?」
彼女からの手紙に視線を落としつつ、預かってきた美信に問うた。
「なんだもなにも。手紙ではございませんか」
「……や、わかってる。私が言っているのはなにが書いてあるか読めんということで」
丹緋の字はお世辞にもきれいとは言えなかった。縦の線と横の線の太さが均一ではなくばらばらで、ところによっては墨で塗り潰されている。愉快すぎて、ほぼ読めない。
「丹緋は確か……天延の豪商・凛家の娘だったよな? なのに、なんで」
手習いが不十分なのだろう。
父母の選んだ師によって、それなりに教育を受けているはずであった。
(商取引で使うという異国の暗号か? ハハ、あるわけないか)
内心でそんなことを考えた自分に笑ってしまう。
「家が恵まれているからといって、家庭環境が恵まれているとはかぎりませんよ」
「……ああ」
美信の指摘は、からからに乾いた緋逸の喉を潤す水のようであった。
家が金持ちだから幸せに育つ、とは言い切れない。自分がそうであったように。皇家に生まれながら、緋逸は家族とはほとんど接触せずに生きてきた。
そこに愛情はなかった。
(丹緋の内向きの性格は、家族関係が原因なのか……?)
だとしても、自分が幸せにしてやればいいだけのこと。気にしない。
とはいえ手紙は読んでみたい。
なにが書かれているのか気になってしようがない!
丹緋からの手紙を、緋逸が斜めにしたり透かしたりしていると。
「真実愛しているのなら読解せずとも心で読み解けるはずではございませんか」
皇帝相手に無理無謀なことをしらっと言う、美信。
えらいこと言ったなとは思いつつ、なにを返すでもなく緋逸は「む」と呻くだけ。
「読み解けもせず男は偉ぶる、だから使えないのです。その点、彪之殿の女人観は素晴らしいですわ」
……手厳しい。
しかも、小声でつけ足されたものだから、こちらが注意されている気分になってくる。
「奎樹が推薦した彪之を大抜擢したのは私、彼に禄を払っているのも私だけどな」
小さく反論しつつ、緋逸は椅子に深くもたれかかった。
黎王朝では男女の差はない。女人であろうとも、己の可能性に果敢に挑み、職業を選択して未来を切り拓いていける。しかし、女人には妊娠・出産という問題がつきまとう。この間はどうしても仕事を休まねばならないため、男よりは出世が遅れることになる。
官吏にもこれはあてはまる。女人は結婚によって退官するかもしれない――そんな負の気持ちが上官にははたらいてしまう。ために、女よりは男の官吏を育てようとするのだ。
だが、彪之だけは異なっていた。
彼の女人観は時代を超越しているところがあり、積極的に女人の修撰〈史館に籍をおく役人を修撰という〉を支えている。公然と女人の弟子を受け入れて、彼女らの才能を引き出し、監修国史に育てようとしていた。
人は理解してもらいたい生き物だ。だから心血をそそいで努力するのが人なのだ。そこに男であるとか女であるとかの性別は、いっさい関係ない。
「お前はどうなんだ、美信」
男女の差はない黎王朝であるが、身分の差は激しい。
庶人と貴族との間には、絶対に越えることのできない一線が根強く残っていた。
美信は貴族・崔家の姫である。貴族といってもぴんからきりまであり、崔家はちゅうくらいの家柄だった。貴族の出であれば女人であってもそれなりに発言権はある。
『とはいえ、まだまだ男社会の中で、男は実力がなくても偉そうにしているので。彼女は男を、とくに貴族の男を見下すようになったのです』
それは内乱の前、美信に引き合わされるときのこと。
そう彼女を評したのは奎樹だった。
「……先帝崩御の際に、連れゆく女人の選定をせず、生き埋めにしなかった私を愚かだと思っているか。長く続いた〝しきたり〟を吟味しなかったのは私だ。無視したせいで私は今、苦しめられている。いささか短慮であった私に対し、ざまあみろって思っているか?」
女人を人として平等に扱うという彪之の女人観に倣ったわけではないが、彼に感化されたところはあったように思う。
しかし、それだけではなかった。
先帝である父に対して、大切な民の一人をくれてやるまでの愛情が湧かなかった。
死人を前にして、この想いが一番強かったように感じる緋逸である。自分の実父であるにもかかわらず、この国の誰よりも父親の輪廻転生に無関心だったのだ。
(愛情をそそいでもらった覚えのない相手に、愛情を返せようか……)
しかも緋逸はまだ若く、死後の世界は遠いもの。〝死〟と言われてもピンとこない。ゆえに、幽冥地府があるなどとは信じられなかった。この世は目に映るもの、見たものこそが真実だ。冥府だ冥王だと臣下が騒ぎ、諭されても、信じられるはずはなかった。
ところが。
一年経って現れたのは、幽冥地府の長官。閻羅王である。
その閻羅王に花嫁を要求されたことで、緋逸は自分の首を絞めることになったのだ。ざまあみろと、笑う臣下もいよう。
(ま、彪之は笑っているな。なんせ、朝廷がぶちあたっているのは前代未聞の不思議話。これがひとつ史実に加えられるのだからな)
ついさっき、酒を勧めてきた彪之を思い出して、緋逸は軽く溜め息を吐き出した。
「夢や希望は現実にならねば無意味と存じます、陛下」
不意に美信が口を開いた。
「うん?」
「先々の道を選ぶのに、まだ若いからとか、歳をとったからとか、ましてや女だからとか、躊躇する。それは単なる言い訳にすぎず、己の人生から逃げているだけでございましょう」
美信がなにを言いたいのか。
見極めるため、緋逸は顔を上向ける。
「わたくしは内乱の前夜、緋逸様を選びました。蒼呉ではなく。自分の意思で」
瞠目する、緋逸。
「お忘れになりますな、陛下。黎緋逸様は、黎王朝八十年の中でも稀にみる、臣下に選ばれた君主であることを。貴方様こそが鼎国の国主たるに相応しいと、みな、信じてここに集っているのです。問題にすべきは後悔したことではない、後悔によって未来への道を塞いでしまうことでございます」
美信の視線は、緋逸の左手の甲にそそがれた。
つられて緋逸も、自分の左手の甲を見つめる。
「停滞する黎王朝に、新たな風を。それをもたらすのが陛下であらせられると」
そこまで言って、美信は表情をかえた。
貴族の姫にしては派手さがなく、冷たい印象がまさる美信であるが、珍しくふわりと笑んだ。交わる視線には、ほんの少し、親しみが上乗せされていて。
「それに、わたくし、凛丹緋は嫌いではございませんよ。あの娘はなかなか根性があります、閻羅王に渡すには惜しいかと。付けた侍女もそのように申しておりました」
「侍女?」
選択できる話題が山ほどある中で、なんで侍女をだす? ――と、器用に片眉を跳ね上げた緋逸であるが。
「ふふ。わたくし、丹緋には冷酷非道の官吏と恐れられているようですわ」
という不可解な返事を残し、美信は退出していった。
『夢や希望は現実にならねば無意味』
美信の背はすらりと伸びている。姿勢がよいせいか、か細くはあっても、精神のたくましさが満ちている。後ろ姿を見つめながら、緋逸は彼女の言葉を反芻していた。鋭く切り込まれ、そのとおりだと、緋逸も思ったのだ。
この世で最も重要なのは、生きているこの瞬間に望みがかなえられるかどうか。
其は、現世利益。
授かる利福は、今生においてこそ達成されなければ意味はない。願望を抱く人間の、存在価値もなくなってしまうから。
ならば時に淘汰されないよう、天と地の狭間を突き進むだけ。
字が汚い――という自覚のない丹緋は、皇帝の心づかいへの礼として手紙を書いたことで、ひとまずはほっとしていた。
その手紙も、侍女の豈華が書けとせっついてこなければ書かなかっただろう。
今以上の贅沢は不要であったし、なによりも丹緋には、皇帝に親切に接してもらえる理由が見つからなかったから。できることなら、ほかの采女と同様の、質素な生活に戻してもらいたかった。
とはいえ、気の小さい丹緋には、皇帝にそう願い出る勇気もなく。
(人には分というものがあるのだし、釣り合わぬは不縁のもとという。両親から愛を向けられずに育ったわたしには教養は不足しているし、庶人の出だから陛下をお支えする権力もない。あるのは奇妙な風の力だけ……)
あるのは風の力という、秘密。
秘密は人を孤独にする。
誰にも相談できないまま、秘密を引きずって生きていかねばならない。
しゃべってしまえば、その先に待っているのは身の破滅。
人にあらずと忌み嫌われるくらいなら、寂しいと泣く心の一部をはぎとって、孤独の殻に閉じこもったほうがいい。
窓から見上げる夜空には、ほとんど影に覆われた月が冴え冴えと輝いている。まるで、欠けた人の心が空に浮かんでいるようで。
それでも。
闇を縫って大地に届けられる一筋の光明は、どれほどのものを救っているか。
(少なくともわたしは救われた。闇の中に居場所を与えられたような気がして)
化け物と罵られた自分の傍には誰も来てくれはしないから……。
ふっと吐息が零れたとき。
背後からたったったと規則正しい足音が響いてきた。足音は、奏でる者の性格を表しているよう。
振り返れば豈華で、紙と筆を握り締めている。ちょっと嬉しそうに。
「豈華さん、どうしたの? 今夜はもう退がるって」
「今宵、丹緋様の殿舎に陛下がお渡りになるそうです」
「…………」
想像以上の事態に遭遇したとき、人は脳内情報の整合性がとれず反応が遅れてしまうものである。
たっぷり五拍の間を空けて。
時間差で襲ってきた衝撃に、丹緋が「へ」と間の抜けた返事をしたところへ、
「丹緋? どこだ?」
最早耳に馴染んでしまった皇帝のかすれた声が届けられる。
意外な時間、意外な人物に訪ねられて、跳ねあがる鼓動。
慌てて躓きそうになりながら迎えに出れば、右手に白い毛皮を提げた皇帝が立っていた。
「……陛下、お迎えが遅れて」
「や、いいのだ。急に来たからな、挨拶はいらない。それより、ほら」
ふわりと肩にかけられるものがある。
なんだかあったかい。
よくよく眺めてみなくても皇帝が持ってきた品である。それは狐白裘と呼ばれている狐の白い毛皮であり、滅多に手に入らぬ当代の一級品だった。
丹緋の生まれた凛家は、大陸行路を旅する隊商とも取引のある商家だ。父母に疎まれていたとはいえ、人並みの好奇心もあって扱う品々は見ていたし、それらがどの地域からどのように運ばれてきたのか、独りで勉強していた。おかげで、品を見ればだいたいの取引価格がわかってしまう。しかし今は、価値がわかってしまうことを悔いるばかりだ。
(こんな高価な毛皮、分不相応だわ)
何事にも〝ほど〟というものがある。たとえば身の程がそうだ。
身の程について考えたばかりなので、丹緋は髪まで震えて頼れる豈華を振り返ったのだが。目端の利く侍女は、またも皇帝を気づかって出ていったらしい。なんてことだ!
(また二人きりじゃない、……なにを言えばいいのか)
ああ、そうだ。お礼を言わなくちゃ。
(度のすぎた遠慮は却って無礼になることもあるし……)
怖いのは沈黙だ。
言葉を操るのが苦手な丹緋は、適切な言葉を選ぶのも苦手であった。とはいっても、相手は皇帝。ここにいるのは自分だけ。間を埋めなければという想いに焦らされ、頭はぐるぐると混乱する。惑う思考に音をあげて丹緋がゆるゆると細面を上向けてみれば、不快とは真逆の顔をしている皇帝と図らずも見つめあってしまう。
以前にも感じた、身体の芯まで焼きつくされてしまいそうなほどの強い眼差し。
得体の知れない緊張感が丹緋を包む。
背筋を這う、ぞくりとした感覚。
呼吸するのも忘れていたのか。軽い眩暈を覚えた丹緋は縋るものを求めて、つい片方の手を前方へと彷徨わせてしまった。
その手をしっかりと皇帝が受けとめる。
手から手へと、穏やかに沁みこんでくる温もり。
「泰山へ散策に出かけて以来だ。なかなか逢いに来られなくて、すまなかった」
「いっ、いいえ、そんな。陛下はお手紙をくださいました。わたしには充分です」
「ああ、そう。手紙な。美信が今日の夕刻、其方からの返信を届けてくれたんだが」
そこで皇帝は眉をひそめた。
なにか不興を買ったろうかと、丹緋は心配になった。
手をとられているからだろう。丹緋の不安を敏感に悟ったらしい皇帝は、あるかなきかの笑みを浮かべて、
「丹緋に逢いにいく口実をと、私も返信を書いていたんだけどな。書いた本人が手紙を持ってきたら、それはもう手紙ではないしな。どうしたものかと悩んでいるときに、注文していたこの毛皮が届いたんだ。よく似合っているから、よかった」
嘘偽りのない顔でそんなふうに告げられれば、分不相応の高価な品であっても返すことはできなくなってしまう。せいぜい汚さないよう努力するしかない……。
「……大切にします」
「其方の肌は白いからな。真っ白の毛皮がかすむほどだ」
「……あ、ええと」
握られている掌に熱が集中して、気になりはじめる。ひょっとしたら皇帝は、褒めてくれているのかもしれない。しれないけれども、褒め言葉というものに慣れない丹緋は、まともに顔を上げていられずに俯くだけだ。
皇帝がすっと手を離した。
離れてしまえば、寂しい。なぜか名残惜しくて、胸のどの部分かわからないところがつきんっと痛んだ。それは一瞬で、どこから来てどこへ去ってしまったのか手繰れないほどのわずかな痛みではあったが。
喪失感が押し寄せてくる。――その寸前に、引いたはずの皇帝の手が、丹緋の前髪をかき上げた。丹緋の頬に大きな掌をあてたまま長身を屈めて、額に口づけを落とす。
肌に甘く吸いついたまま、なかなか離れてくれない皇帝に、丹緋は戸惑いを覚えていた。
口づけは前にも両手にされたことがある。決して強引にではなく。今も、逃げようと思えば逃げられる。
けれど。
そのときには感じなかった、なにか……。
なんだか自分の気持ちが、とんでもないところにぶちあたったような気がしたのだ。そこには絶対に触れてはいけないような、望んではいけないという奇妙な胸の引きつりを感じてしまって――。
「嫌だったか?」
「い、やでは……ありません」
「本当に?」
嘘はいらないと叱られたようで、丹緋は身をすくめてふるふると首を横に振った。
そんな丹緋を見下ろしていた皇帝はふんわりと笑んでから、急に真顔になった。
「今夜はここに泊めてくれ」
「は……、い? 泊め……」
「丹緋が嫌がることは絶対にしない。なにもしないと誓うから、どうか」
丹緋が拒絶するのを遮るように、皇帝が口早に言い切った。
皇帝の言う〝なにも〟がなにを指しているのか。妓楼で働かされていた丹緋には想像できた。たぶん、そうだ、そういうことだ。
思わず両の頬を赤らめてから、丹緋はこくんと頷いた。
そもそもこの殿舎は皇帝の所有物であり、そこに住まわせてもらっている自分も皇帝の所有物なのだ。逆らうことなどできようか。
なのに、どうしたことか皇帝は、ほうっと心底安心したような吐息をついた。
「よかった! 丹緋と一緒に過ごせる時間をつくるのに、ここのところ仕事ばっかりしていたんだ。宰相のほうが顔を合わせている時間が多いなんておかしいだろう、そう思わない? これで断られたら、私は彪之の祝杯に朝まで付き合わされていたところだ」
「え……郭監修国史ですか、朝までって」
そこで皇帝は、丹緋を拾い上げるようにして抱き上げる。
膝と腰にたくましい腕が回されているとはいえ、いきなり高くなった視界。白い毛皮ごと身体が浮いて、雲の浮かぶ天空にたどり着いたように感じた丹緋だった。
丹緋がびっくりしているうちに、皇帝はさっさと榻〈椅子と細長い寝台の中間のような家具〉まで移動する。
かたく引き締まった腹の上に丹緋を乗っけて、着ている袍衫がしわになるのも厭わずに、仰向けにころりと寝転んでしまった。
「なあ、丹緋。届けてくれたあの手紙だけどな」
「はい」
裾の長い毛皮に包まれる丹緋の背を、優しく撫でながら皇帝が問いかけてくる。
「なにが書いてあったんだ?」
「???」
思わず皇帝の顔を覗き込むような体勢になってしまったが。丹緋は小首をかしげた。
(読んだから、返信を書いてくださろうとしたのではないのかしら……)
意味がわからない。
皇帝の腕の中で、上から皇帝を見下ろすという恥ずかしい格好をさせられていた。
しかも狭い空間で二人、横たわったまま。
それでも丹緋が怯えることなく身体を任せていられたのは、皇帝が男女間特有の、夜の匂いを纏いもせずに自然な態度をくずさないからだった。
気づけば傍には皇帝がいてくれる。
丹緋は失ってしまった心の欠片を求めて、そっと皇帝の胸元に頬を寄せた。おさまりのいいところを探して落ち着けば、頬ずりしたくなってしまう。
結局、その夜は榻から離れないまま。
これまでの二人の空白を埋めるように言葉を交わして朝を迎えたのだった。
第一景
鼎国は伝説の上に成り立っている。
伝説は、どこまでが真実でどこまでが虚構なのか、今代では判断しがたいものだ。
たとえば。
――遥か昔、風、水、土、火の使役神に命じて天地を創造したのは天帝である、などがあげられる。また、泰山の麓の鄷には幽冥地府の入り口がある、などもそう。
実際のところ、鼎国には鬼が棲んでいる。
国によっては、人の住む世界を内なる世界とするならば、その〝外なる世界〟に棲むものを怪しきものと捉えている。しかし、鼎国内には鬼は確かに存在し、人は遭遇してきた。
そういった歴史特性からも歴代の朝廷は、神怪な現象に迅速に対処するために故きを学び、史実を後世へ正確に遺していかなければならない。よって鼎国には、史料を系統的に収集保存し、史書を編纂する機関がある。
これを史館といった。
鼎国は史書を繙くことが多い。ために史館の長官は、宰相と同等の権力を有する。
現在の史館長官は彪之である。
「どうだった?」
尋ねたのは、わざわざ史館まで出向いてきた緋逸である。
史館の職掌上、紙と墨の発する独特の匂いが建物中に満ちていた。この匂いに触れるたび、文字によって紡がれる歴史の奔流に呑まれそうだ、と緋逸は感じる。
「先日もお話しましたが、史書には閻羅王が現れたという記述はありませんでした」
受けて、答えたのは彪之。
彼は碧眼のもち主で、赤の強い黒髪を緩く束ねている。双眸と髪の色からして異国の血が混じっているが、大陸間での行き来があるため、決して珍しくはない。
垂れた目でしっかりと緋逸を見据え、彼ははっきりと言い切った。
史書を読み返すよう命じた緋逸とて、彪之を疑っているわけではないのだ。
彪之は読む速度が異常に速く、一度見たものは忘れない。任命されてすぐに書庫に閉じこもり、まだ一年しか経っていないのに鼎国の史実を正確に把握している。
「意図的に削除したのか、これまでにはなかったことなのか」
沈黙する緋逸に、さほど焦った様子もなく彪之は続けた。
「じゃあ、謎は解けないままじゃないか」
彪之を疑っていたわけではないが、史書の中に謎解きの手がかりがあるのでは、と期待していた緋逸である。
閻羅王の年齢――冥界の頂点に立つものの謎を解く手がかりが。
『まずは、泰山に棲むという仙人に尋ねてみたらいかがでしょう』
と、助言してくれたのはこの彪之だ。彷徨える緋逸には唯一頼れる存在であったのに。
期待は〝あてがはずれた〟という名の裏切りに遭い、彼を責めるでもなく呟いた緋逸は、座っている椅子から落ちかけるほど項垂れた。
がっかりだ。
「陛下」
「なんだ?」
「酔いたいのなら付き合いましょう、僕は酔いたいので」
子供の頃、神童と謳われた彪之。
彼の歳は二十三になるが、未だに十代後半の少年にしか見えず、童顔である。今では高禄を得る高官となったにもかかわらず、着る物にこだわりがない。
(この男のこだわりは)
「酔いたいってお前、閻羅王の歳が解明できなかった自棄酒って顔をしていないな。怪事件――もとい、不思議な出来事に遭遇して喜んでいるんじゃないのか」
「それは陛下、もちろんです。鼎国史上初の出来事、それを記すのが僕となりましょう」
つまりは喜びの酒、祝杯なのである。
彪之は当代一の知識人であり、偏見なく蓄えた知識が豊富である。とくに不思議話には異常なほどの興味を示し、関心をもつ。その細部にこそ、こだわりが強いのだ。
そして、酒豪であった。
童顔のくせに。
(皇帝の不幸を酒の肴にするつもりかっ)
これは堪らんと、緋逸はそそくさと椅子から立ち上がったのだった。
謎が解けない緋逸は、とりあえず、丹緋との距離を近づけようと努力していた。
とにかく〝心〟の距離を縮めておきたい。
なにしろ閻羅王は、見た目はいい男。謎を解いたとしても、最終的に丹緋が閻羅王を選んでしまったら、男として立ちなおれない。
まったく愛とは厄介だ。愛が絡んだだけで人と人との関係はややこしくなる。
考えた末、ぎっしり詰まった仕事の合間にせっせと手紙を書き送っていたのだが。返信はなかった。そこへようやっと今日、丹緋からの手紙が届けられた。
……のに。
「なんだ、これは?」
彼女からの手紙に視線を落としつつ、預かってきた美信に問うた。
「なんだもなにも。手紙ではございませんか」
「……や、わかってる。私が言っているのはなにが書いてあるか読めんということで」
丹緋の字はお世辞にもきれいとは言えなかった。縦の線と横の線の太さが均一ではなくばらばらで、ところによっては墨で塗り潰されている。愉快すぎて、ほぼ読めない。
「丹緋は確か……天延の豪商・凛家の娘だったよな? なのに、なんで」
手習いが不十分なのだろう。
父母の選んだ師によって、それなりに教育を受けているはずであった。
(商取引で使うという異国の暗号か? ハハ、あるわけないか)
内心でそんなことを考えた自分に笑ってしまう。
「家が恵まれているからといって、家庭環境が恵まれているとはかぎりませんよ」
「……ああ」
美信の指摘は、からからに乾いた緋逸の喉を潤す水のようであった。
家が金持ちだから幸せに育つ、とは言い切れない。自分がそうであったように。皇家に生まれながら、緋逸は家族とはほとんど接触せずに生きてきた。
そこに愛情はなかった。
(丹緋の内向きの性格は、家族関係が原因なのか……?)
だとしても、自分が幸せにしてやればいいだけのこと。気にしない。
とはいえ手紙は読んでみたい。
なにが書かれているのか気になってしようがない!
丹緋からの手紙を、緋逸が斜めにしたり透かしたりしていると。
「真実愛しているのなら読解せずとも心で読み解けるはずではございませんか」
皇帝相手に無理無謀なことをしらっと言う、美信。
えらいこと言ったなとは思いつつ、なにを返すでもなく緋逸は「む」と呻くだけ。
「読み解けもせず男は偉ぶる、だから使えないのです。その点、彪之殿の女人観は素晴らしいですわ」
……手厳しい。
しかも、小声でつけ足されたものだから、こちらが注意されている気分になってくる。
「奎樹が推薦した彪之を大抜擢したのは私、彼に禄を払っているのも私だけどな」
小さく反論しつつ、緋逸は椅子に深くもたれかかった。
黎王朝では男女の差はない。女人であろうとも、己の可能性に果敢に挑み、職業を選択して未来を切り拓いていける。しかし、女人には妊娠・出産という問題がつきまとう。この間はどうしても仕事を休まねばならないため、男よりは出世が遅れることになる。
官吏にもこれはあてはまる。女人は結婚によって退官するかもしれない――そんな負の気持ちが上官にははたらいてしまう。ために、女よりは男の官吏を育てようとするのだ。
だが、彪之だけは異なっていた。
彼の女人観は時代を超越しているところがあり、積極的に女人の修撰〈史館に籍をおく役人を修撰という〉を支えている。公然と女人の弟子を受け入れて、彼女らの才能を引き出し、監修国史に育てようとしていた。
人は理解してもらいたい生き物だ。だから心血をそそいで努力するのが人なのだ。そこに男であるとか女であるとかの性別は、いっさい関係ない。
「お前はどうなんだ、美信」
男女の差はない黎王朝であるが、身分の差は激しい。
庶人と貴族との間には、絶対に越えることのできない一線が根強く残っていた。
美信は貴族・崔家の姫である。貴族といってもぴんからきりまであり、崔家はちゅうくらいの家柄だった。貴族の出であれば女人であってもそれなりに発言権はある。
『とはいえ、まだまだ男社会の中で、男は実力がなくても偉そうにしているので。彼女は男を、とくに貴族の男を見下すようになったのです』
それは内乱の前、美信に引き合わされるときのこと。
そう彼女を評したのは奎樹だった。
「……先帝崩御の際に、連れゆく女人の選定をせず、生き埋めにしなかった私を愚かだと思っているか。長く続いた〝しきたり〟を吟味しなかったのは私だ。無視したせいで私は今、苦しめられている。いささか短慮であった私に対し、ざまあみろって思っているか?」
女人を人として平等に扱うという彪之の女人観に倣ったわけではないが、彼に感化されたところはあったように思う。
しかし、それだけではなかった。
先帝である父に対して、大切な民の一人をくれてやるまでの愛情が湧かなかった。
死人を前にして、この想いが一番強かったように感じる緋逸である。自分の実父であるにもかかわらず、この国の誰よりも父親の輪廻転生に無関心だったのだ。
(愛情をそそいでもらった覚えのない相手に、愛情を返せようか……)
しかも緋逸はまだ若く、死後の世界は遠いもの。〝死〟と言われてもピンとこない。ゆえに、幽冥地府があるなどとは信じられなかった。この世は目に映るもの、見たものこそが真実だ。冥府だ冥王だと臣下が騒ぎ、諭されても、信じられるはずはなかった。
ところが。
一年経って現れたのは、幽冥地府の長官。閻羅王である。
その閻羅王に花嫁を要求されたことで、緋逸は自分の首を絞めることになったのだ。ざまあみろと、笑う臣下もいよう。
(ま、彪之は笑っているな。なんせ、朝廷がぶちあたっているのは前代未聞の不思議話。これがひとつ史実に加えられるのだからな)
ついさっき、酒を勧めてきた彪之を思い出して、緋逸は軽く溜め息を吐き出した。
「夢や希望は現実にならねば無意味と存じます、陛下」
不意に美信が口を開いた。
「うん?」
「先々の道を選ぶのに、まだ若いからとか、歳をとったからとか、ましてや女だからとか、躊躇する。それは単なる言い訳にすぎず、己の人生から逃げているだけでございましょう」
美信がなにを言いたいのか。
見極めるため、緋逸は顔を上向ける。
「わたくしは内乱の前夜、緋逸様を選びました。蒼呉ではなく。自分の意思で」
瞠目する、緋逸。
「お忘れになりますな、陛下。黎緋逸様は、黎王朝八十年の中でも稀にみる、臣下に選ばれた君主であることを。貴方様こそが鼎国の国主たるに相応しいと、みな、信じてここに集っているのです。問題にすべきは後悔したことではない、後悔によって未来への道を塞いでしまうことでございます」
美信の視線は、緋逸の左手の甲にそそがれた。
つられて緋逸も、自分の左手の甲を見つめる。
「停滞する黎王朝に、新たな風を。それをもたらすのが陛下であらせられると」
そこまで言って、美信は表情をかえた。
貴族の姫にしては派手さがなく、冷たい印象がまさる美信であるが、珍しくふわりと笑んだ。交わる視線には、ほんの少し、親しみが上乗せされていて。
「それに、わたくし、凛丹緋は嫌いではございませんよ。あの娘はなかなか根性があります、閻羅王に渡すには惜しいかと。付けた侍女もそのように申しておりました」
「侍女?」
選択できる話題が山ほどある中で、なんで侍女をだす? ――と、器用に片眉を跳ね上げた緋逸であるが。
「ふふ。わたくし、丹緋には冷酷非道の官吏と恐れられているようですわ」
という不可解な返事を残し、美信は退出していった。
『夢や希望は現実にならねば無意味』
美信の背はすらりと伸びている。姿勢がよいせいか、か細くはあっても、精神のたくましさが満ちている。後ろ姿を見つめながら、緋逸は彼女の言葉を反芻していた。鋭く切り込まれ、そのとおりだと、緋逸も思ったのだ。
この世で最も重要なのは、生きているこの瞬間に望みがかなえられるかどうか。
其は、現世利益。
授かる利福は、今生においてこそ達成されなければ意味はない。願望を抱く人間の、存在価値もなくなってしまうから。
ならば時に淘汰されないよう、天と地の狭間を突き進むだけ。
字が汚い――という自覚のない丹緋は、皇帝の心づかいへの礼として手紙を書いたことで、ひとまずはほっとしていた。
その手紙も、侍女の豈華が書けとせっついてこなければ書かなかっただろう。
今以上の贅沢は不要であったし、なによりも丹緋には、皇帝に親切に接してもらえる理由が見つからなかったから。できることなら、ほかの采女と同様の、質素な生活に戻してもらいたかった。
とはいえ、気の小さい丹緋には、皇帝にそう願い出る勇気もなく。
(人には分というものがあるのだし、釣り合わぬは不縁のもとという。両親から愛を向けられずに育ったわたしには教養は不足しているし、庶人の出だから陛下をお支えする権力もない。あるのは奇妙な風の力だけ……)
あるのは風の力という、秘密。
秘密は人を孤独にする。
誰にも相談できないまま、秘密を引きずって生きていかねばならない。
しゃべってしまえば、その先に待っているのは身の破滅。
人にあらずと忌み嫌われるくらいなら、寂しいと泣く心の一部をはぎとって、孤独の殻に閉じこもったほうがいい。
窓から見上げる夜空には、ほとんど影に覆われた月が冴え冴えと輝いている。まるで、欠けた人の心が空に浮かんでいるようで。
それでも。
闇を縫って大地に届けられる一筋の光明は、どれほどのものを救っているか。
(少なくともわたしは救われた。闇の中に居場所を与えられたような気がして)
化け物と罵られた自分の傍には誰も来てくれはしないから……。
ふっと吐息が零れたとき。
背後からたったったと規則正しい足音が響いてきた。足音は、奏でる者の性格を表しているよう。
振り返れば豈華で、紙と筆を握り締めている。ちょっと嬉しそうに。
「豈華さん、どうしたの? 今夜はもう退がるって」
「今宵、丹緋様の殿舎に陛下がお渡りになるそうです」
「…………」
想像以上の事態に遭遇したとき、人は脳内情報の整合性がとれず反応が遅れてしまうものである。
たっぷり五拍の間を空けて。
時間差で襲ってきた衝撃に、丹緋が「へ」と間の抜けた返事をしたところへ、
「丹緋? どこだ?」
最早耳に馴染んでしまった皇帝のかすれた声が届けられる。
意外な時間、意外な人物に訪ねられて、跳ねあがる鼓動。
慌てて躓きそうになりながら迎えに出れば、右手に白い毛皮を提げた皇帝が立っていた。
「……陛下、お迎えが遅れて」
「や、いいのだ。急に来たからな、挨拶はいらない。それより、ほら」
ふわりと肩にかけられるものがある。
なんだかあったかい。
よくよく眺めてみなくても皇帝が持ってきた品である。それは狐白裘と呼ばれている狐の白い毛皮であり、滅多に手に入らぬ当代の一級品だった。
丹緋の生まれた凛家は、大陸行路を旅する隊商とも取引のある商家だ。父母に疎まれていたとはいえ、人並みの好奇心もあって扱う品々は見ていたし、それらがどの地域からどのように運ばれてきたのか、独りで勉強していた。おかげで、品を見ればだいたいの取引価格がわかってしまう。しかし今は、価値がわかってしまうことを悔いるばかりだ。
(こんな高価な毛皮、分不相応だわ)
何事にも〝ほど〟というものがある。たとえば身の程がそうだ。
身の程について考えたばかりなので、丹緋は髪まで震えて頼れる豈華を振り返ったのだが。目端の利く侍女は、またも皇帝を気づかって出ていったらしい。なんてことだ!
(また二人きりじゃない、……なにを言えばいいのか)
ああ、そうだ。お礼を言わなくちゃ。
(度のすぎた遠慮は却って無礼になることもあるし……)
怖いのは沈黙だ。
言葉を操るのが苦手な丹緋は、適切な言葉を選ぶのも苦手であった。とはいっても、相手は皇帝。ここにいるのは自分だけ。間を埋めなければという想いに焦らされ、頭はぐるぐると混乱する。惑う思考に音をあげて丹緋がゆるゆると細面を上向けてみれば、不快とは真逆の顔をしている皇帝と図らずも見つめあってしまう。
以前にも感じた、身体の芯まで焼きつくされてしまいそうなほどの強い眼差し。
得体の知れない緊張感が丹緋を包む。
背筋を這う、ぞくりとした感覚。
呼吸するのも忘れていたのか。軽い眩暈を覚えた丹緋は縋るものを求めて、つい片方の手を前方へと彷徨わせてしまった。
その手をしっかりと皇帝が受けとめる。
手から手へと、穏やかに沁みこんでくる温もり。
「泰山へ散策に出かけて以来だ。なかなか逢いに来られなくて、すまなかった」
「いっ、いいえ、そんな。陛下はお手紙をくださいました。わたしには充分です」
「ああ、そう。手紙な。美信が今日の夕刻、其方からの返信を届けてくれたんだが」
そこで皇帝は眉をひそめた。
なにか不興を買ったろうかと、丹緋は心配になった。
手をとられているからだろう。丹緋の不安を敏感に悟ったらしい皇帝は、あるかなきかの笑みを浮かべて、
「丹緋に逢いにいく口実をと、私も返信を書いていたんだけどな。書いた本人が手紙を持ってきたら、それはもう手紙ではないしな。どうしたものかと悩んでいるときに、注文していたこの毛皮が届いたんだ。よく似合っているから、よかった」
嘘偽りのない顔でそんなふうに告げられれば、分不相応の高価な品であっても返すことはできなくなってしまう。せいぜい汚さないよう努力するしかない……。
「……大切にします」
「其方の肌は白いからな。真っ白の毛皮がかすむほどだ」
「……あ、ええと」
握られている掌に熱が集中して、気になりはじめる。ひょっとしたら皇帝は、褒めてくれているのかもしれない。しれないけれども、褒め言葉というものに慣れない丹緋は、まともに顔を上げていられずに俯くだけだ。
皇帝がすっと手を離した。
離れてしまえば、寂しい。なぜか名残惜しくて、胸のどの部分かわからないところがつきんっと痛んだ。それは一瞬で、どこから来てどこへ去ってしまったのか手繰れないほどのわずかな痛みではあったが。
喪失感が押し寄せてくる。――その寸前に、引いたはずの皇帝の手が、丹緋の前髪をかき上げた。丹緋の頬に大きな掌をあてたまま長身を屈めて、額に口づけを落とす。
肌に甘く吸いついたまま、なかなか離れてくれない皇帝に、丹緋は戸惑いを覚えていた。
口づけは前にも両手にされたことがある。決して強引にではなく。今も、逃げようと思えば逃げられる。
けれど。
そのときには感じなかった、なにか……。
なんだか自分の気持ちが、とんでもないところにぶちあたったような気がしたのだ。そこには絶対に触れてはいけないような、望んではいけないという奇妙な胸の引きつりを感じてしまって――。
「嫌だったか?」
「い、やでは……ありません」
「本当に?」
嘘はいらないと叱られたようで、丹緋は身をすくめてふるふると首を横に振った。
そんな丹緋を見下ろしていた皇帝はふんわりと笑んでから、急に真顔になった。
「今夜はここに泊めてくれ」
「は……、い? 泊め……」
「丹緋が嫌がることは絶対にしない。なにもしないと誓うから、どうか」
丹緋が拒絶するのを遮るように、皇帝が口早に言い切った。
皇帝の言う〝なにも〟がなにを指しているのか。妓楼で働かされていた丹緋には想像できた。たぶん、そうだ、そういうことだ。
思わず両の頬を赤らめてから、丹緋はこくんと頷いた。
そもそもこの殿舎は皇帝の所有物であり、そこに住まわせてもらっている自分も皇帝の所有物なのだ。逆らうことなどできようか。
なのに、どうしたことか皇帝は、ほうっと心底安心したような吐息をついた。
「よかった! 丹緋と一緒に過ごせる時間をつくるのに、ここのところ仕事ばっかりしていたんだ。宰相のほうが顔を合わせている時間が多いなんておかしいだろう、そう思わない? これで断られたら、私は彪之の祝杯に朝まで付き合わされていたところだ」
「え……郭監修国史ですか、朝までって」
そこで皇帝は、丹緋を拾い上げるようにして抱き上げる。
膝と腰にたくましい腕が回されているとはいえ、いきなり高くなった視界。白い毛皮ごと身体が浮いて、雲の浮かぶ天空にたどり着いたように感じた丹緋だった。
丹緋がびっくりしているうちに、皇帝はさっさと榻〈椅子と細長い寝台の中間のような家具〉まで移動する。
かたく引き締まった腹の上に丹緋を乗っけて、着ている袍衫がしわになるのも厭わずに、仰向けにころりと寝転んでしまった。
「なあ、丹緋。届けてくれたあの手紙だけどな」
「はい」
裾の長い毛皮に包まれる丹緋の背を、優しく撫でながら皇帝が問いかけてくる。
「なにが書いてあったんだ?」
「???」
思わず皇帝の顔を覗き込むような体勢になってしまったが。丹緋は小首をかしげた。
(読んだから、返信を書いてくださろうとしたのではないのかしら……)
意味がわからない。
皇帝の腕の中で、上から皇帝を見下ろすという恥ずかしい格好をさせられていた。
しかも狭い空間で二人、横たわったまま。
それでも丹緋が怯えることなく身体を任せていられたのは、皇帝が男女間特有の、夜の匂いを纏いもせずに自然な態度をくずさないからだった。
気づけば傍には皇帝がいてくれる。
丹緋は失ってしまった心の欠片を求めて、そっと皇帝の胸元に頬を寄せた。おさまりのいいところを探して落ち着けば、頬ずりしたくなってしまう。
結局、その夜は榻から離れないまま。
これまでの二人の空白を埋めるように言葉を交わして朝を迎えたのだった。
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