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第四章(2/3)
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第二景
はじめてのお泊りから八夜連続、皇帝は丹緋のもとへとやって来た。
皇帝の『なにもしない』という誓いに偽りはなく、夫婦であるにもかかわらず清く正しい関係が続いている。話をしているうちにいつの間にか眠ってしまっている、そんなふうにして夜を越してきた。
会話を重ねるうち。皇帝について、いろいろなことがわかってきた丹緋である。
先帝や皇太后との関係がよくなかったこと、戻っている実弟の蒼呉とはほとんどしゃべっていないこと。愛されなかったからといって卑屈にならず後悔しないように生きている、など。
身分の違いはあれど家庭環境の複雑なところは丹緋と似ていて、
(わたしを慰めるために、わざとつらい過去を話してくれているのかしら)
と、思いやりある行為について考えさせられてしまうこともあった。
そんな気持ちもあって、丹緋もぽつぽつと自分の話をしているうちに。『学びたいことがあるなら師を選んでやろう』と笑顔で言われ、(ああ)と確信した丹緋だった。
皇帝は、とにかく丹緋のために、たくさんのものを与えようとしてくれているのだ。それは身を飾る豪華な品ばかりではなく。心が豊かになるように、と。
(わたしに不足しているものを補おうと、陛下はお気を回してくださっているのね)
後宮内で恥ずかしくない女人になれるよう、手配してくれているのだ。
相手の想いに気づいてしまえば、丹緋にも気持ちの余裕がでてくるというもの。
皇帝の視線に身をすくめることもなく、皇帝の仕種を見つめることもできるようになってきた。たとえば、皇帝の長い指。男らしいその指は意外にも器用に動く。じゃれあって乱れてしまった丹緋の髪をすくって、細かいまとめ髪まで結いなおしてくれるのだ。
今もこめかみに口づけを落とした拍子に簪がとれかかり、挿しなおしてくれていた。
天には星がまたたきはじめた頃。
毛皮を纏う丹緋は手をひかれ、神策軍の軍営近く、かわったつくりの城壁を登っている。
「城壁は高い、上に行けば行くほど冷えてくる。寒くはないか?」
「はい。緋逸様からいただいた毛皮がありますから」
微笑んで、丹緋は応える。人馴れていない丹緋は未だ、表情がぎこちない。喜怒哀楽を表すのに臆病なところはあっても、微笑を浮かべられただけ進歩したというもの。
ぱっと見には小さい変化。けれど、侮るなかれ。これは人として大いなる変化であった。
前夜、皇帝から『これからは名で呼んでくれ』とせがまれたこともあって、丹緋は皇帝の呼び方をかえた。(許されるのかしら)と思ったものの、皇帝の命であれば逆らえない。
名を呼ぶと、緋逸の顔が嬉しそうにほころぶので、丹緋の罪悪感も薄まるのだった。
「護衛軍である神策軍には飛空部がある。特殊な技能を必要とするために、ここに所属する武官はみな、精鋭なんだ」
説明しながら、緋逸は開けた部分を指差した。
そこにあるのは通路のようにつくられた城壁の上とは思えないほどの広い空間。
「まるで舞台のようですね」
遠目にもかわったつくりだと思っていたのだ。近くで見れば、城壁の高さと空間の広さが相俟って圧倒されるものがある。物見用の防御塔のようでもあるが、それにしては吹きさらしであった。
「これは【滑空機】という」
はじめて聞く言葉で、丹緋は目を丸くした。
滑空機と呼ばれた物は全部で八機。竹と籐を使って三角形に組み、厚手の特殊な織物を張ってある。一見、遊び道具の凧のようであるが、立体的で大きさも異なっている。おそらくは人の背丈の二倍はあるだろう。緋逸は、これで空を飛べるのだ、と教えてくれた。
「乗れるのは一機につき一人で、連射式の弩や槍といった武具も装備している。
高所――つまり今、私達が立っている場所から風の力を利用して離陸、操者の体重移動により方向を転換し、風下から進入するようにして着陸する。後ろ足をひっかけられるようにはなっているが、飛行中は三角形の翼と身体を常に平行に保たねばならず、高度な技術を必要とするので操者は精鋭なのだ。平時は皇帝の伝令用として飛ばされるのだが」
「へえ、え」
説明されていることが難解で、呑み込もうとすればするほど、丹緋は目をぱちぱちとしばたたいてしまう。
思考が追いついていくうちに、あれっと思った。
「でも、緋逸様。大切な伝令のあるときに、必ず風が吹いているとはかぎりませんよね」
尋ねられて、緋逸が「お」と嬉しげな声をあげる。ご褒美のように背を撫でられた。
「そこに気づいたか。最大の問題は無風だな。これを解決するために護三家の一、環家の力が必要なんだ。丹緋は環家の異能がなんであるか知っているか?」
「はい。見鬼の能力ですよね」
「そう。見鬼師は、鬼を見ただけで鬼の名を見とおすのだそうだ。名は、その実体と本質的に結びつき、実体そのものなのだとか。ゆえに、術を執行するうえで鬼の名を知ることは大前提らしい。
優秀な見鬼師ともなれば、鬼を意のままに使役できるのだそうだ。これを役鬼という」
鬼は、人が見ることはできない。見えるとすれば、見鬼術を扱える者か鬼にとり憑かれた者だけ。もし、多くの無能の人にも鬼の姿を見せるとしたら、見鬼師が鬼に使人見鬼術をかけねばならない。
緋逸は見鬼師についても詳しく説明してくれた。
話は環家最高の見鬼師である剣楯華へと移っていく。
「環家の剣楯華は代々、鬼風という風の鬼を使役している。鬼風というのは鬼の名ではないらしくてな、なんでも鬼の名は広く知られてはいけないのだそうだ。それもあって、見鬼師が人前で口にするのは〝鬼の種類〟や〝俗称〟らしい。この鬼風は、昼夜を問わずどこでも風を起こせる。猛烈な風も微風も、望む方向へと吹きおこすことができる」
「……風」
「この鬼風が、滑空機ごと武装した武官を運んでくれる。目的地まで正確に。
環家の見鬼師による支援があってこその飛空部だ。鬼の棲む鼎国独特の武器でな、妻である其方には知っておいてもらいたかった」
会話を重ねることで相手を理解する、というのが緋逸の物事の進め方ではないかと、丹緋は常々思うようになっていた。だから一瞬、ここ数日の語らいで自分のもつ風の不思議な力が知られてしまったのではと焦ったのだが。違ったらしい。
ふう、と隠れて安堵の息を吐きだした。
「どうした? おもしろくなくて退屈したか?」
溜め息と勘違いしたらしい緋逸が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「い、いいえっ。……ただ、その、……国家の秘事でもあるのでしょうから、わたしが聞いてしまってよかったのかなって」
「よいに決まっている。前から気になっていたんだが、どうも其方は私の想いを」
わかっていないらしい――そう耳許に囁きが落ちてきた。
気が狂ってしまいそうなほどの熱い吐息を感じた次の瞬間、丹緋の身体は抱き締められた。片方の腕は細い腰に回り、片方の腕は項を支えるようにあてられる。それはいつもとかわらぬ抱擁。
……だったのに。
男の、あまりの力に背がしなり、両足が浮いた。
息苦しくて丹緋は「くッ」と呻き声を洩らしてしまう。
弱々しいその声に慌てたのは、緋逸。絡めていた腕をほどいて素早く身を引いた。
「……すまない」
丹緋の身体を、まるで怪我でも負っていないかと探るようにして上から下まで眺めたあとで、ふいっと横を向いてしまう。
一言詫びてからずっと交わらない視線に、だんだん丹緋は寂しくなってきた。
(目と目が合わないだけでこんなに不安になるなんて)
今更ながら、緋逸の気持ちがわかった丹緋である。
緋逸は忙しい仕事をやりくりして逢いにきてくれているのだ。逢える時間は貴重だと知っているから余計に、せっかく一緒にいられる時間を無駄にしたくないと思ってしまう。傍にいるのに、自分の目に映るのが緋逸の横顔や後ろ姿だけだなんて、悲しすぎた。
一歩寄れば、同じ分、緋逸は一歩退がってしまう。
人の行動には想いがあり、想いには理由がある。理由はその人の真実のはずだから、いきなり素っ気ない態度をとった緋逸の気持ちを理解したい。
(でも、どうしたら……)
日常会話でさえ精一杯なのに。これは己の許容量をはるかに超えていた。
それでもと。めげずに丹緋は踏ん張る。
「……あの、緋逸様の双眸は、揺るぎない意志の光が灯っているようで。……あの、そう、……まるで、今宵の星空を映したようにきれいですね。とても……素敵です」
かなりたどたどしくはなったが思いを素直に変換して口にしてみた。
時の静寂を破るその声に驚いたのか、緋逸がゆっくりと首を回して丹緋を見据える。
「……あ。ほら、きらきらしていて。輝きを盗んでしまった星泥棒のようで」
緋逸の眼には情熱があった。双眸に映りこむ自分はいつも、彼のもつ情熱に溺れそうになるのだ。今も丹緋は、緋逸の放つ熱を孕んだ眼光に吸い寄せられそうになっている。
無意識のうちに片腕がもち上がり、指先が緋逸の頬を這う直前――。
「触るなッ」
怒鳴られて、至近に落雷したかのような衝撃を受け、丹緋はびくっとたじろぐ。
(……あ、わたし、出過ぎたことを。怒らせてしまったのだわ……)
どうしよう。
手に負えない沈黙が、分限をわきまえないせいと、自分の存在を全否定しているようで。
無言のまま。踵を返した緋逸は、丹緋を一度も振り返ることなく去ってしまった。
残された者に降りそそぐ月と星の輝きが、虚しさをあおるだけ。
ガツッと。
なにかを殴る音がした。続いてかたいなにかが崩れる音。
駆け寄れば、俯いて動かない皇帝が立っている。
「凛采女は護衛を付けて殿舎へ戻しましたがね。いやはや、あの采女、なかなか根性がありますな。『陛下がお戻りになるまでわたしはここにいます』と、引かないんですから」
「……丹緋、が?」
「名に【緋】の字が入っている者は大事が起こると落ち着いてしまうんですかね」
開きなおる、といったほうが正しいのかもしれない。
皇帝を追いかけてきた武喬は、ちらりと城壁に目をやった。
「……あ。あ、私も丹緋も名に【緋】の字が入っているのか。同じ……なんだな」
ちょうど皇帝の肩の高さに拳ほどの窪みができていて、窪みを埋めていたであろう石の欠片が通路にぱらぱらと散っている。
(城壁に八つ当たりか。……それにしても)
武喬は素早く、皇帝の拳を確認した。左手には愛用の大剣が握られていて、空手なのは右の拳。微かに赤く腫れてはいるが、血が噴き出ている様子はない。
(骨折もなし。相変わらず、ものすごい力だ。この方一人で兵何人分の戦力になるか)
思うだけで、いっさい声にはださない武喬であった。
内乱のとき、皇帝の一番近くに控えていたのは武喬である。ために武喬は薄々、皇帝が怪力のもち主であることに気づいていた。そして、その異様な力のせいで、亡き皇太后に厭われ、正妻の鄭貴妃に嫌われていることも。
おそらく今も。
情の昂ぶりのままに采女を抱き締めて身体を傷つけそうになってしまった。
触れたいのに触れられず、苛立ちのままに怒鳴りつけてしまった。
そんな後悔に打ちひしがれて、でも、感情をどこかにぶつけたくて、城壁を殴ったのだろう。
「陛下」
陛下と呼びながら武喬は、同じ男として声をかけていた。主従関係を越えて。
もともと彊家は地域社会に顔のきく貴族だ。そんな一族の中で育った武喬は、身分に関係なく誰とでも親しくしゃべる。
加えて黎緋逸の率いる王朝は内乱を経て成立しているからか、形式ばらず、だからといって綱紀が緩いわけではないのだが、上下関係にざっくばらんなところがあった。
「世界は恋で回っているんですよ」
人は、恋人と称した恋人を生涯で何人つくるだろう? 虚しいことに、そのたくさんの中には相性のよい人はいないかもしれない。だとしたらその恋人は偽物であり、生涯で本物に廻り合う確率はとんでもなく低くなる。
采女・凛丹緋。
彼女こそが皇帝のはじめての恋の相手であろう。
「俺の妻がね、ではなく。これは俺の世界観とでもいいますか」
言いさして、武喬は口を閉ざした。
人肌に飢えて、恋しくて、やりきれない。なのに、そうと自覚できずに苦しむ不器用な男が、武喬の目の前にいる。
恋に落ちれば、都度、生き方もかわるのだ。
「同輩にも同じ言葉を捧げますがね」
武喬の意味深な呟きを聞く余裕がなかったのか、聞こえなかっただけか。皇帝が、つと顔を上げた。月下の冥暗で彼の双眸が異様な光の線を虚空に描く。
「時々……丹緋は、私に引き摺られているだけじゃないかと思うんだ」
なにに引き摺られているかが皇帝にとっての問題なのだろう。
強烈な想いにではなく、それは絶対的な権力でもなく。自分が内包する怪力だとしたら。
凶相と恐れられる三白眼を、武喬はただ黙って見返すだけ。
悪い運勢を背負って生きると伝わる、その顔貌。
凶運を強運にかえるためにも。
武人としての勘がはたらいた。
――この恋が成就するかどうかにかかっている、と。
はじめてのお泊りから八夜連続、皇帝は丹緋のもとへとやって来た。
皇帝の『なにもしない』という誓いに偽りはなく、夫婦であるにもかかわらず清く正しい関係が続いている。話をしているうちにいつの間にか眠ってしまっている、そんなふうにして夜を越してきた。
会話を重ねるうち。皇帝について、いろいろなことがわかってきた丹緋である。
先帝や皇太后との関係がよくなかったこと、戻っている実弟の蒼呉とはほとんどしゃべっていないこと。愛されなかったからといって卑屈にならず後悔しないように生きている、など。
身分の違いはあれど家庭環境の複雑なところは丹緋と似ていて、
(わたしを慰めるために、わざとつらい過去を話してくれているのかしら)
と、思いやりある行為について考えさせられてしまうこともあった。
そんな気持ちもあって、丹緋もぽつぽつと自分の話をしているうちに。『学びたいことがあるなら師を選んでやろう』と笑顔で言われ、(ああ)と確信した丹緋だった。
皇帝は、とにかく丹緋のために、たくさんのものを与えようとしてくれているのだ。それは身を飾る豪華な品ばかりではなく。心が豊かになるように、と。
(わたしに不足しているものを補おうと、陛下はお気を回してくださっているのね)
後宮内で恥ずかしくない女人になれるよう、手配してくれているのだ。
相手の想いに気づいてしまえば、丹緋にも気持ちの余裕がでてくるというもの。
皇帝の視線に身をすくめることもなく、皇帝の仕種を見つめることもできるようになってきた。たとえば、皇帝の長い指。男らしいその指は意外にも器用に動く。じゃれあって乱れてしまった丹緋の髪をすくって、細かいまとめ髪まで結いなおしてくれるのだ。
今もこめかみに口づけを落とした拍子に簪がとれかかり、挿しなおしてくれていた。
天には星がまたたきはじめた頃。
毛皮を纏う丹緋は手をひかれ、神策軍の軍営近く、かわったつくりの城壁を登っている。
「城壁は高い、上に行けば行くほど冷えてくる。寒くはないか?」
「はい。緋逸様からいただいた毛皮がありますから」
微笑んで、丹緋は応える。人馴れていない丹緋は未だ、表情がぎこちない。喜怒哀楽を表すのに臆病なところはあっても、微笑を浮かべられただけ進歩したというもの。
ぱっと見には小さい変化。けれど、侮るなかれ。これは人として大いなる変化であった。
前夜、皇帝から『これからは名で呼んでくれ』とせがまれたこともあって、丹緋は皇帝の呼び方をかえた。(許されるのかしら)と思ったものの、皇帝の命であれば逆らえない。
名を呼ぶと、緋逸の顔が嬉しそうにほころぶので、丹緋の罪悪感も薄まるのだった。
「護衛軍である神策軍には飛空部がある。特殊な技能を必要とするために、ここに所属する武官はみな、精鋭なんだ」
説明しながら、緋逸は開けた部分を指差した。
そこにあるのは通路のようにつくられた城壁の上とは思えないほどの広い空間。
「まるで舞台のようですね」
遠目にもかわったつくりだと思っていたのだ。近くで見れば、城壁の高さと空間の広さが相俟って圧倒されるものがある。物見用の防御塔のようでもあるが、それにしては吹きさらしであった。
「これは【滑空機】という」
はじめて聞く言葉で、丹緋は目を丸くした。
滑空機と呼ばれた物は全部で八機。竹と籐を使って三角形に組み、厚手の特殊な織物を張ってある。一見、遊び道具の凧のようであるが、立体的で大きさも異なっている。おそらくは人の背丈の二倍はあるだろう。緋逸は、これで空を飛べるのだ、と教えてくれた。
「乗れるのは一機につき一人で、連射式の弩や槍といった武具も装備している。
高所――つまり今、私達が立っている場所から風の力を利用して離陸、操者の体重移動により方向を転換し、風下から進入するようにして着陸する。後ろ足をひっかけられるようにはなっているが、飛行中は三角形の翼と身体を常に平行に保たねばならず、高度な技術を必要とするので操者は精鋭なのだ。平時は皇帝の伝令用として飛ばされるのだが」
「へえ、え」
説明されていることが難解で、呑み込もうとすればするほど、丹緋は目をぱちぱちとしばたたいてしまう。
思考が追いついていくうちに、あれっと思った。
「でも、緋逸様。大切な伝令のあるときに、必ず風が吹いているとはかぎりませんよね」
尋ねられて、緋逸が「お」と嬉しげな声をあげる。ご褒美のように背を撫でられた。
「そこに気づいたか。最大の問題は無風だな。これを解決するために護三家の一、環家の力が必要なんだ。丹緋は環家の異能がなんであるか知っているか?」
「はい。見鬼の能力ですよね」
「そう。見鬼師は、鬼を見ただけで鬼の名を見とおすのだそうだ。名は、その実体と本質的に結びつき、実体そのものなのだとか。ゆえに、術を執行するうえで鬼の名を知ることは大前提らしい。
優秀な見鬼師ともなれば、鬼を意のままに使役できるのだそうだ。これを役鬼という」
鬼は、人が見ることはできない。見えるとすれば、見鬼術を扱える者か鬼にとり憑かれた者だけ。もし、多くの無能の人にも鬼の姿を見せるとしたら、見鬼師が鬼に使人見鬼術をかけねばならない。
緋逸は見鬼師についても詳しく説明してくれた。
話は環家最高の見鬼師である剣楯華へと移っていく。
「環家の剣楯華は代々、鬼風という風の鬼を使役している。鬼風というのは鬼の名ではないらしくてな、なんでも鬼の名は広く知られてはいけないのだそうだ。それもあって、見鬼師が人前で口にするのは〝鬼の種類〟や〝俗称〟らしい。この鬼風は、昼夜を問わずどこでも風を起こせる。猛烈な風も微風も、望む方向へと吹きおこすことができる」
「……風」
「この鬼風が、滑空機ごと武装した武官を運んでくれる。目的地まで正確に。
環家の見鬼師による支援があってこその飛空部だ。鬼の棲む鼎国独特の武器でな、妻である其方には知っておいてもらいたかった」
会話を重ねることで相手を理解する、というのが緋逸の物事の進め方ではないかと、丹緋は常々思うようになっていた。だから一瞬、ここ数日の語らいで自分のもつ風の不思議な力が知られてしまったのではと焦ったのだが。違ったらしい。
ふう、と隠れて安堵の息を吐きだした。
「どうした? おもしろくなくて退屈したか?」
溜め息と勘違いしたらしい緋逸が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「い、いいえっ。……ただ、その、……国家の秘事でもあるのでしょうから、わたしが聞いてしまってよかったのかなって」
「よいに決まっている。前から気になっていたんだが、どうも其方は私の想いを」
わかっていないらしい――そう耳許に囁きが落ちてきた。
気が狂ってしまいそうなほどの熱い吐息を感じた次の瞬間、丹緋の身体は抱き締められた。片方の腕は細い腰に回り、片方の腕は項を支えるようにあてられる。それはいつもとかわらぬ抱擁。
……だったのに。
男の、あまりの力に背がしなり、両足が浮いた。
息苦しくて丹緋は「くッ」と呻き声を洩らしてしまう。
弱々しいその声に慌てたのは、緋逸。絡めていた腕をほどいて素早く身を引いた。
「……すまない」
丹緋の身体を、まるで怪我でも負っていないかと探るようにして上から下まで眺めたあとで、ふいっと横を向いてしまう。
一言詫びてからずっと交わらない視線に、だんだん丹緋は寂しくなってきた。
(目と目が合わないだけでこんなに不安になるなんて)
今更ながら、緋逸の気持ちがわかった丹緋である。
緋逸は忙しい仕事をやりくりして逢いにきてくれているのだ。逢える時間は貴重だと知っているから余計に、せっかく一緒にいられる時間を無駄にしたくないと思ってしまう。傍にいるのに、自分の目に映るのが緋逸の横顔や後ろ姿だけだなんて、悲しすぎた。
一歩寄れば、同じ分、緋逸は一歩退がってしまう。
人の行動には想いがあり、想いには理由がある。理由はその人の真実のはずだから、いきなり素っ気ない態度をとった緋逸の気持ちを理解したい。
(でも、どうしたら……)
日常会話でさえ精一杯なのに。これは己の許容量をはるかに超えていた。
それでもと。めげずに丹緋は踏ん張る。
「……あの、緋逸様の双眸は、揺るぎない意志の光が灯っているようで。……あの、そう、……まるで、今宵の星空を映したようにきれいですね。とても……素敵です」
かなりたどたどしくはなったが思いを素直に変換して口にしてみた。
時の静寂を破るその声に驚いたのか、緋逸がゆっくりと首を回して丹緋を見据える。
「……あ。ほら、きらきらしていて。輝きを盗んでしまった星泥棒のようで」
緋逸の眼には情熱があった。双眸に映りこむ自分はいつも、彼のもつ情熱に溺れそうになるのだ。今も丹緋は、緋逸の放つ熱を孕んだ眼光に吸い寄せられそうになっている。
無意識のうちに片腕がもち上がり、指先が緋逸の頬を這う直前――。
「触るなッ」
怒鳴られて、至近に落雷したかのような衝撃を受け、丹緋はびくっとたじろぐ。
(……あ、わたし、出過ぎたことを。怒らせてしまったのだわ……)
どうしよう。
手に負えない沈黙が、分限をわきまえないせいと、自分の存在を全否定しているようで。
無言のまま。踵を返した緋逸は、丹緋を一度も振り返ることなく去ってしまった。
残された者に降りそそぐ月と星の輝きが、虚しさをあおるだけ。
ガツッと。
なにかを殴る音がした。続いてかたいなにかが崩れる音。
駆け寄れば、俯いて動かない皇帝が立っている。
「凛采女は護衛を付けて殿舎へ戻しましたがね。いやはや、あの采女、なかなか根性がありますな。『陛下がお戻りになるまでわたしはここにいます』と、引かないんですから」
「……丹緋、が?」
「名に【緋】の字が入っている者は大事が起こると落ち着いてしまうんですかね」
開きなおる、といったほうが正しいのかもしれない。
皇帝を追いかけてきた武喬は、ちらりと城壁に目をやった。
「……あ。あ、私も丹緋も名に【緋】の字が入っているのか。同じ……なんだな」
ちょうど皇帝の肩の高さに拳ほどの窪みができていて、窪みを埋めていたであろう石の欠片が通路にぱらぱらと散っている。
(城壁に八つ当たりか。……それにしても)
武喬は素早く、皇帝の拳を確認した。左手には愛用の大剣が握られていて、空手なのは右の拳。微かに赤く腫れてはいるが、血が噴き出ている様子はない。
(骨折もなし。相変わらず、ものすごい力だ。この方一人で兵何人分の戦力になるか)
思うだけで、いっさい声にはださない武喬であった。
内乱のとき、皇帝の一番近くに控えていたのは武喬である。ために武喬は薄々、皇帝が怪力のもち主であることに気づいていた。そして、その異様な力のせいで、亡き皇太后に厭われ、正妻の鄭貴妃に嫌われていることも。
おそらく今も。
情の昂ぶりのままに采女を抱き締めて身体を傷つけそうになってしまった。
触れたいのに触れられず、苛立ちのままに怒鳴りつけてしまった。
そんな後悔に打ちひしがれて、でも、感情をどこかにぶつけたくて、城壁を殴ったのだろう。
「陛下」
陛下と呼びながら武喬は、同じ男として声をかけていた。主従関係を越えて。
もともと彊家は地域社会に顔のきく貴族だ。そんな一族の中で育った武喬は、身分に関係なく誰とでも親しくしゃべる。
加えて黎緋逸の率いる王朝は内乱を経て成立しているからか、形式ばらず、だからといって綱紀が緩いわけではないのだが、上下関係にざっくばらんなところがあった。
「世界は恋で回っているんですよ」
人は、恋人と称した恋人を生涯で何人つくるだろう? 虚しいことに、そのたくさんの中には相性のよい人はいないかもしれない。だとしたらその恋人は偽物であり、生涯で本物に廻り合う確率はとんでもなく低くなる。
采女・凛丹緋。
彼女こそが皇帝のはじめての恋の相手であろう。
「俺の妻がね、ではなく。これは俺の世界観とでもいいますか」
言いさして、武喬は口を閉ざした。
人肌に飢えて、恋しくて、やりきれない。なのに、そうと自覚できずに苦しむ不器用な男が、武喬の目の前にいる。
恋に落ちれば、都度、生き方もかわるのだ。
「同輩にも同じ言葉を捧げますがね」
武喬の意味深な呟きを聞く余裕がなかったのか、聞こえなかっただけか。皇帝が、つと顔を上げた。月下の冥暗で彼の双眸が異様な光の線を虚空に描く。
「時々……丹緋は、私に引き摺られているだけじゃないかと思うんだ」
なにに引き摺られているかが皇帝にとっての問題なのだろう。
強烈な想いにではなく、それは絶対的な権力でもなく。自分が内包する怪力だとしたら。
凶相と恐れられる三白眼を、武喬はただ黙って見返すだけ。
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「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
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