天地狭間の虚ろ

碧井永

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第四章(3/3)

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第三景

「過日、凛采女りんさいじょと言葉を交わす機会があったんだがな。ん、そういや、采女付きの侍女を見かけなかったな。……確か、侍女を選んだのは殿中監でんちゅうかんだったよなー」
 唐突に振られた話題に、きゅっと眉根を寄せたのは宰相の奎樹けいじゅであった。
 それぞれがひるの休憩へと向かう皇城内の広い路地でのことである。
「なんですか、いきなり」
「やーお前がね、お前がだ、随分とさい殿中監殿を信頼してるんだなと」
 お前がと二回繰り返したのは、武喬ぶきょう。わざとがわかりやすすぎるものの、質問の意図は明瞭かつ簡潔であった。その顔を真っ向から見返して、にやにやするなと言ってやりたい衝動をこらえる。はずみで、きゅっと皺が寄ったのは持っていた書翰しょるいだ。
 路地の前後に人の姿がないのを確認してから、奎樹は「はっ」と息を吐き出した。
 これが室内であったなら閉ざされた空間のままに心を閉じ込めていたであろう。あいにくと今、向かい合う二人が立っているのは開放的な外だ。腹が立つほどの快晴だった。
 愛妻家であるこの男に、いずれは尋ねられるだろうと覚悟していた。
「私の……たい家が寒門かんもんであることは知っていますよね」
 寒門とは非門閥であり、簡単にいってしまえば没落途中の貴族のことである。奎樹の生家がそうであり、今代ではほとんど貴族としては機能しておらず、生活ぶりは庶人しょみんと同様であった。
「貴族仲間で形成される輿論よろん――いわゆる【清議せいぎ】では、戴家はいつも除外される。貴族でありながら政治には口だしできず、権利と安全は約束されていない。そんな中で育った私はやさぐれるばかりでしてね」
 額髪を整えながら奎樹はぽつぽつと言葉を足していく。不満ばかりだった過去を埋めるように、若かりし頃に想いを馳せて。
「だって、そうでしょう。貴族が強欲なのは、人生において選べる道の選択肢が多いからですよ。将来に希望が多いほど、人は、多くの知識を身につけ多くの財物を欲するもの。地位であり名誉であり、……とにかく欲を満たそうとする、それが生き甲斐なのだから」
「あー、まあ。否定はしないけどな」
「寒門に生まれた私には選択肢はなかった。いらぬ荷物の如く親の代からもち越された貧しさを抱え、清議でも貴族と認められずに肩身の狭い思いをして生きていくしかなかった。血のしがらみに嫌気がさした私は少年の頃、群盗ぐんとう世界に片足を突っ込んでいましてね」
「はあ――ぁあんっ!?」
(なんか今)さらりとぶっ飛んだ告白をされた気がする武喬であった。
 群盗とは、盗賊のことである。しかし、これで奎樹の謎がひとつ解けた。時折この真面目な同輩から感じるひやりとしたものは、少年時代の悪の名残であったのだ。
「突っ込んでいた片足を、悪の道から引っこ抜いてくれたのが美信びしんでしてね。幼い時分の彼女は、それはそれは可愛らしくて」
「可愛らしくって……」
 今の姿からは想像できないのだろう。なにしろ煙管きせる片手に男には上から目線を投げてくる女人だ。あ然と目をむく武喬に、奎樹は苦笑した。同じように今の自分からは、過去の自分が他人には想像しがたいことも。奎樹はわかっている。
「真面目で正直者は、嘘以外は事実を言う。事実がしっかりしている分、なかなかたったひとつの嘘にたどり着けない。だから、真面目で正直者のつく嘘は厄介なのだそうですよ」
 少年時代の悪行を隠していたのではない。訊かれなかったから、黙っていただけ。それを嘘と責められれば終わりだが、科挙かきょを受験するために寝食を惜しんで勉強したのは事実であり、奎樹はなにひとつ嘘は言っていない。
 ここでもし「嘘つき」と罵られるとしたら、
「秘密ですが、一目惚れです。寒門出という格下の男が、格上の女人に惚れた。美信は権力をもつ男が嫌いだから、出世した今となっては禁断の初恋といえるでしょう。だから私は、陛下の理解者でありたいのですよ」
 現皇帝に引き合わせ、美信を内乱に巻き込んだのは奎樹なのだ。
 そして、独特の女人観をもつ彪之ひょうしを本朝に加えるよう推薦したのも。
(偉ぶる男を見下す彼女は、男に頼らず突っ走ってしまうから)
 人として、人に頼らなくなってしまう前に。到底人は、独りでは自分の想いを支えきれないことを――。
 宰相となり手腕を振るうこの王朝で、奎樹は、陰日向になって彼女を支援したかった。
 武喬はごくんと唾を飲み込んだ。解るときにはすべてが突然わかってしまうのだ。
「お前、今、なに言ったかわかってる?」
「ええ、しっかり」
 己の恋の成就のために皇帝を利用した。
 一国と国主をダシに使ったと言い切ったのだ。
「いや、そーね。……そうか」
 お前みたいな不敵なのがれい王朝の宰相でよかった。――武喬は独りごちて磊落大らかに笑う。
「俺の妻がね、言ってた。恋に落ちて踏み迷った道は、誰にも譲れぬたったひとつの誇りへと続いている、って。歳をとればとるほど人は、求めるものが、道が、少なくなっていくのもまた事実。まあ、がんばれや」

 ぱったりと緋逸ひいつおとないはやんでいた。
 城壁に登った夜からずっと、緋逸の顔を見ていない。諦めるという行為とは無縁と思っていた丹緋たんひだが、逢えない時間が自分を苦しめるようになったことに傷ついていた。
 手紙も途絶えたまま。
 緋逸がそばにいない。
 この殿舎に来てくれない……。
 実父も継母も、異母妹も、家族でありながら自分を家族とは認めてくれなかった。捨てられた。自分にはなにもなかった、だから、諦めるという落胆とは無縁のはずだった。
 なのに。
 緋逸に忘れられてしまったのかもしれない。――そんなふうに悩んでしまう自分は、いつしか、人に執着するようになっていたのだ。
 ほかの采女さいじょと同じように、形式だけの夫婦に戻ってしまうのか?
 もう二度と、優しい言葉をかけてはもらえないのか?
 いっそ卑屈なくらいの執着心が朝な夕なに丹緋をさいなむ。なによりつらいのは、一瞬にして身体からだをとかしてしまいそうな、あの情熱的な眼差しを向けてもらえないことだった。
 夜どおしの会話を重ねることで二人の心が通じたように感じていたのに。
(言葉のない世界にひきこもっていたわたしには、そんなことできるはずもなかった?)
 出過ぎれば、捨てられる。緋逸にとってはその程度の戯れの相手だったのだろうか。
 ここのところ丹緋は、いつ殿舎を追い出されるのかと、びくびくしてばかりだった。ほんの少し前までは采女二十七人と同じように扱ってほしいと願っていたにもかかわらず。贅沢がしたいわけじゃない。ただ、緋逸に飽きられたのかという暗澹たる気持ちが胸を震わせるのだ。与えられたこの殿舎が、二人の、最後のつながりのように思えて……。
 自分はかわってしまった。
 緋逸と出逢って。
(……緋逸様を諦められない。こんなにも欲深いわたしが、わたしの中にいたなんて)
 隠れていた自分の本性と向き合うことが――新たな発見が余計に丹緋をうろたえさせて。
 なにをしていてもざわざわと胸奥がうずいて落ち着かない。
 西日の射す園林ていえんを歩いていても、重く沈む心に引き摺られて足許あしもとがおぼつかない。史館しかんからの帰り道、後ろには付き添いの武官二人がいるからしっかりしなければと思うのに。
 緋逸の勧めもあって、丹緋は史館の修撰しゅうせんに手習いをみてもらっていた。なんでも郭監修国史かくかんしゅうこくしが選んだ優秀な女人だそうで、彼女の筆の運びは芸術的に素晴らしいものがあった。
(だけど、この手習いだって)
 緋逸の、丹緋への関心は失せてしまった今。
 教養を与えられ、人らしく扱われた幸せな時間もついに終わってしまうのだ。
(わたしは我が儘ばっかりで……)
 一国の皇帝が、一人の女に執着すること自体がおかしい。あり得ない。美女に囲まれていれば、園林に咲く花を愛でるようにふらふらと渡り歩くもの。それが務めでもある。
 丹緋は批判できる立場にはいないのだ。
 樹や花のつくる影を踏むたびに、気持ちがどこまでも落ちていく。昏く澱んだ闇に呑まれそうになる。物思いにふけりながら回遊路を歩いていた丹緋は、前方から人がやって来ることに気づけなかったらしい。
「おっと。危ないな、お嬢さん。――ああ、これはまた」
 ぶつかりそうになったのは男だったようだ。途中で男の声色が見事にかわった。
「人が人を想う気持ちは止められない。たとえ恋人がいたとしても、だよね」
 頭上に降ってくるはずんだ声につられて丹緋は視線を上げる。
 そこにあったのは甘ったるい男の顔。恋愛経験のない丹緋でも、女好きのする顔貌であることはわかった。背の高い美丈夫だ、女人の好意や関心の的になるだろう。そして、おそらく男も自分の魅力をわかっている。それは言葉や仕種の端々に滲みでていた。
「刹那に心を奪われて自分の歩む道までかえてしまう、ってさ」
 そんなことあるのかねって半信半疑だったけど――と、ぼやくように呟いてから、男は薄い口唇くちびるの片端をつり上げた。
「お嬢さん、俺が幸せにしてやろうか」
「……は、い。……え?」
「俺さ、弓が得意なんだよね。今から投壺とうこでもして遊ぼうぜ」
 投壺とは、矢を壺に投げ入れることを争う宴席での遊びだ。勝者が敗者に酒を飲ませることもあった。なぜ急に誘われたのか理解できず、丹緋は小首をかしげるだけ。百戦錬磨の強者が発した誘惑と感づけないままに。
 惑う丹緋の片腕を背後からそっと引いたのは、付き添いの女武官。
 もう一人の男の武官が丹緋を庇うようにして前へ出る。
「お退がりください、蒼呉そうご様」
 名を耳にして、丹緋は長いまつげを揺らした。
 蒼呉、それは緋逸の実弟だ。
 内乱で敗れた後は南方で幽閉されていたが、皇太后の命日にあわせて天延てんえん入りしている。元皇太子についてそう教えてくれたのも緋逸だった……。
「皇宮内をご自由に出歩けるのは陛下の恩情であることをお忘れなきよう」
 束の間、蒼呉は武官を睨めつけていたが。「ちッ」と鋭く舌打ちしたあと、気をとりなおした様子で丹緋に向きなおる。彼の手にはどこから取り出したのか一輪の花があった。
「嫉妬深い兄上のやりそうなことだ。これをどうぞ、お嬢さん。南方の花だからさ」
 早咲きの水仙だぜと、やや強引に手渡される。
 護衛武官二人に威嚇され、渋々立ち去る蒼呉の背を見つめながら、丹緋は(あれ?)と思った。水仙と呼ばれた白い花から、なにかが匂った気がしたのだ。
(どこかで嗅いだことのある、独特の……なんの匂いだったか)
 けれど。
 緋逸のことで頭がいっぱいだった丹緋は記憶を掘り返しはしなかった。




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