天地狭間の虚ろ

碧井永

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第六章(3/3)

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 第三景

 蒼呉そうご捕縛に出ていた飛空部ひくうぶが、一機、また一機と城壁の上に戻ってくる。
 彼らの様子から〝吉報〟ではないと判断した緋逸ひいつは、情報収集を武喬ぶきょうに任せて城壁を降りることにした。というのも、丹緋たんひが今にも逃げ出しそうで。焦燥に駆られたからだった。
 操っていた風をおさめた丹緋は、なんだかそわそわと落ち着きがなかった。もちろん、疲れてもいたのだろうが、ふらふらと歩き回っている。
 なにをしているのかと声をかければ、
『いえ、あの……風で簪が飛んでしまったので。緋逸様からいただいた品なのに』
 という、いまひとつ鮮明にすべき肝心な部分がずれた返答を寄越した。確かに丹緋の結い髪は起こした風によってほどかれて、挿していた簪はどこかへ吹っ飛んでいる。
『簪は探さなくてもいいから』
 喉を痛めたらしいので、水を飲ませながら何度もなだめたのに。
 言うことをきかないから、探すのを理由にしてどこかに消えてしまうんじゃないかという不安が、緋逸の胸をかき乱したのだった。まるで後宮を去る前の身支度のように、丹緋の行動には与えられた品をすべて揃えて返還しなければという切羽詰まったものがあった。
 それで緋逸は仕方なく、丹緋を抱き上げて城壁を降り、ひとまず殿舎へ連れ帰ることにしたのだ。しかし途次、二人揃って馬に揺られていて気がかわった。
 護衛の武官には「付いてくるな」と命じ、丹緋の手を引いて広い園林ていえんを歩いている。やはり、働いて疲れているらしい。よろよろと足がもつれるので抱こうとすれば、これまた遠慮するものだから嫌な予感がぬぐいきれなくなっていた。
 緋逸には、彼女の気持ちが痛いほどわかるのだ。
 風の力――それは彼女の秘めたもの。隠しとおしたい秘密だったに違いない。秘密を知られてしまったために、彼女は怯えている。
 他人と異なる部分に自縛されて。
 居場所がなくなるのではないか、と。
(正直驚きはしたがな。や、驚かないほうがおかしいか)
 てい国にはが棲んでいる。摩訶不思議の方術ほうじゅつを駆使する仙人も棲んでいるのだから、冷静に考えれば、奇妙なことが起こるのは当然といえよう。それらは天と地の狭間で生みだされた幻のようなもので、この国に住まう人々は幻に酔い、夢を愉しめばいいのだ。
(私にも秘密はあるし)
 しゃべってしまえば秘密でなくなることに、遅まきながら緋逸は気づいたのだ。
 丹緋の心の叫びに気づきかけた今だからこそ。方法は簡単なはずだ、ただ深く相手を愛すればいいのだから。
 丹緋を手放すつもりのない緋逸はそれを伝えたくて、園林でゆっくり話をしようと思ったのだった。歩を進めながら、そういえば、とふと考えた。
女人じょせいと手をつないで歩くなんて、どれほどぶりだったか……)
 妻のてい氏にもしたことがない。鄭氏の姿が脳裏に浮かんだのは一瞬で、それは息を吹きかけた燭花の如く消えて一片も残らない。
 小川に沿って建てられた四阿あずまやを見つけると、とりあえず丹緋を座らせた。
 自分は座らずに片手を壁について身を屈め、ゆったりと彼女を見下ろす。
 ちんまりと腰をおろす彼女の肌は炎の近くまで連れていったせいで煤けて汚れているところがあり、傷ではないことを確かめながら手巾で払ってやる。
其方そなたの髪は光がこぼれるようだな」
 これまで結った髪しか目にすることがなかった。知らなかったが、垂らしたままの黒髪は、陽を浴びるたびに白銀の光がはじけるようだった。
「丹緋の髪に似合う簪を、すぐに見繕ってやる。だから失くした〝もの〟は忘れてしまえ」
 俯けていた顔を上向ける、丹緋。
 彼女には理解力があるし、素養もある。けれど、人慣れていないために反応が遅い。生来の男女の機微に対する鈍さもあるのだろう、その顔には戸惑いがちらついている。
 彼女らしいなと、緋逸はくすりと笑ってしまう。愛しさが胸から溢れて止まらない。
「わからない? 私は丹緋に助けられたのだ、感謝している」
 目前でしゃがみこみ、丹緋の手に手を重ねた。沁みる温もりが心地よかった。
 途方に暮れたまま、それでも視線を逸らさなかった丹緋の大きな両目が見開かれる。
「私はな、全部ひっくるめて丹緋を引き受けようと思っている。もし其方が、私に甘えてねだってくれるなら、其方の声に耳を傾けて、其方の声を聞き逃さない。其方の望みであれば、なにひとつ洩らすことなくすべてかなえよう」
 緋逸は片方の手を伸ばし、「わかるか?」という意をこめててのひらを丹緋の頬にあてた。そうしてから垂れている髪を梳き、首筋からうなじへと、秘密を確かめるように指をはわせていく。
「私を嫌わないでくれるなら、私のすべてをやろう」
 だから其方は私のすべてをもっていけばいい。――顔を寄せ、口唇くちびるを軽く触れさせながら囁きかける。
 人目をはばかったのだろう。外での口づけが恥ずかしかったらしく、身じろいだ丹緋がすっと顔を背けた。頬には朱が散っている。こんなところは撫でまわしたいほど可愛い。意識されれば、恋愛相手としてみられているようで嬉しいものだ。
「嫌い……」
 感情を抑制するように口唇を軽く噛み締めながら丹緋がなにかを言いかける。
 緋逸は「うん?」と答えただけで、辛抱強く続きを待った。
「嫌われたくないって、わたしはそればっかりで。……わたしが緋逸様を嫌うだなんてありませんっ。緋逸様の双眸に映りこむ自分を、わたしは諦めきれなくて。どこかにきっと通じ合うゆとりは残っているって信じて毎晩心に念じていたら眠れなくなって、あのっ、ええと……すみません、なんのお話だったか」
「本当? 今もほら、逃げたんじゃないのか?」
「ちっちち違います」
 そう? ――自分も大概しつこいなと呆れながら囁いて、緋逸は再び鼻先をすり寄せた。双の眸に閉じこめるのは丹緋一人だと証明するように。
「私にも秘密がある。それを知ったら、其方だって離れてしまうかもしれない。眠れないほど怖くて今日まで言えずにきたが――う、ぬッ」
 刹那、なぜか眼前が真っ暗になった。
 闇にさらわれたような感覚が残っている。
 次の瞬間だった、四阿の外の空気がすっとかわったのは。
 弾かれたように緋逸は立ち上がり、丹緋をかばいながら振り返る。

 四阿から数歩の距離に現れたのは幽冥地府ゆうめいちふ長官の閻羅えんら王だった。

 人の近づく気配はなかった。
 どこからか、突然現れたのだ。
(変幻自在とはこのことか。にしても、なんでまた……?)
 丹緋には「四阿から出るな」と言いおいて、緋逸だけが閻羅王に歩みよる。
 このとき丹緋はぽかんと口を開けていたのだが、彼女の異変に緋逸は気づけなかった。夫婦に横恋慕する冥界の王に対し、(恋の邪魔者め)と内心で激しく舌打ちしていたからだった。
一別いちべつ以来、元気そうでなによりだな」
 愛用の大剣を片手に緋逸が出迎えれば、閻羅王が口許くちもとに笑みを刻んだ。黒の袍衫ほうさんを纏う閻羅王は相変わらずいい男で、笑うと愛嬌がある。そういえば深みのあるいい声をしていたなと思い出せば、なぜか無性にかちんときた。
「で? 王よ、本日はなんのご用かな」
 尋ねられた閻羅王は、相手の本心を見極めるような顔をしていたが、
「忘れたか皇帝、我が『しばし時を与えよう』と猶予してやったことを」
「なに?」
「今日は何月何日か」
 緋逸ははたと思い至った。
 南方から蒼呉が戻ってきた。
 皇太后の命日があった。
 丹緋を怒鳴ってしまった。
 などなど、ただでさえ忙殺されている日常業務に加えて不規則な事態が続いたものだから、すっかり頭から飛んでいた。言い訳させてもらえるならいくらでもするが、鬼相手にたぶん無理だから認めてしまう。
 忘れていたのだ。
(どうしてこうも面倒事というものは重なるのか)
 以前に思ったことを一言一句違うことなく思いながら、ここでも緋逸は舌打ちする。
 今日は十一月末日。
 謎解きの期限であった。
「では皇帝に再び問おう――我の歳を当ててみよ」
 困り顔をするしかできない、緋逸。
(参ったな)
 その表情を向けるのは閻羅王にではなく、この件で唯一頼れる人・史館しかんの長官である彪之ひょうしにであった。祝杯を勧められた翌日のことだが、二日酔いというものを前世におき忘れてきたらしい酒豪の彼がさっぱりした顔で、
『閻羅王の問題は大丈夫でごさいましょう、なんとかなりますので』
 と言ったのだ。ろくな手がかりもないままに妙なことを口にしていた、とはいえ……あのときは救われた気持ちになったものだが。いや、これはもうだめだろう。
(わからん、と言ってなんとかなるものなら言うけどな!)
 緋逸は大きく息を吐き出した。
「すまぬが閻羅王、話し合いに応じてはもらえないだろうか」
 受けて、閻羅王の切れ込んだまなじりが動く。
「愚かな。話し合いなど所詮は二者の意見の平行線、どこまでいっても交わることはない。話し合いとは、どちらかが譲歩することを指すのであろうよ。皇帝は我に譲れと、言葉をかえて強く要求しているにすぎない」
 返答はなかなかに辛辣で、冥府の裁判官らしく完璧な言語理解力であった。緋逸はぐうの音もでない。
「そのようなくだらないことに時間をつぶすくらいなら我は実力で手に入れる」
 閻羅王のまとう気配がすっとかわった。それは、現れたときと同じように。
 何事か起こるのか、と警戒する緋逸の眼前で、閻羅王が虚空へと片手を差し延べた。すると、またたく間に精緻な細工の施された剣が出現する。まるで、人が死して訪れるという冥界から冥暗を通じて引き寄せたようであった。
「ぐッ」
 閻羅王の手に握られた剣を眺める。無意識のうちに緋逸は歯噛みしていた。
 緋逸の身体能力は高い。剣の勝負で負けるとは思わないが、相手は鬼だ。しかも冥界の頂点に立つもので、能力は不明。確実に勝てるとも思えないのだった。
 武人でもある緋逸は戦う前の癖もあって冷ややかに分析してしまう。自分のことであっても。
 負けられない、一戦。
 負ければ花嫁をとられる。
 丹緋を奪われてしまうのだ。
「自分を救えるのは自分だけということか」
 緋逸は肚をくくった。
 眼前で大剣を真横に構え、ゆっくりと鞘を払う。――その金属音とともに胸奥によみがえる想いがある。それは内乱前夜に強く渦巻いた感情。蒼呉を打倒する、もちろんそれが目的ではあったが。味方してくれた〝仲間〟を手放したくない、そちらの感情のほうが強烈だった。
 強烈な感情は炎の如く熱く、内側から身を焼かれて息苦しさを感じるほどの――
(独りになりたくないという想い)
 今の気持ちはそれに似ている。
 国がどうとか、皇帝の位がどうとか。
 そんなことはどうでもいい。
 玉座を手に入れておいて、なんて自分は我が儘なのだろう。
そばにいてほしい、見捨てないでほしい、独りになりたくない)
 願うのは、それだけ。
(もう二度と、孤独に悶々とする勇気のない人間に成り下がりたくはない!)
 緋逸の情動に反応したのか、閻羅王が微かに動いた。
 停滞していた二者の間の空気は一瞬にして張りつめる。
 閻羅王が身体を動かしたとき、すでに緋逸は踏み出している。彼はまたたく間に距離をつめ、左手で閻羅王の剣の柄頭を押さえている。閻羅王が剣を抜くより先に。
「なんという早業か」
 ちょっとだけびっくりしたという顔で閻羅王が呟いた。緋逸の操る白刃がその喉にぴたりと当てられているというのに。
「人離れした力。しかし皇帝、やめておけ。孺子こぞうの身で我にかなうわけなかろう」
 打ってかわり、それは地をはうような低声。緋逸を睨む両眼は獰猛な獣のようだった。闇に囚われるような耐えがたい緊張感が体内を駆け抜けていく。
 言い終わる前に、緋逸は押し返された。速い。かろうじて体勢は崩さなかったものの、閻羅王は抜剣してしまっている。剣を抜かせたくなかったが、力負けしたのであれば仕方ない。
 そのまま四合ぶつかる。白刃が交わるたびに火花が散った。両者の足許あしもとの土はえぐれて跳ねて飛び、近くを流れる小川が地を伝う震動で波立っていた。土と水がざわめいている。地とそこに根を張る樹木がドクンッと脈打ち、底知れぬ二者の存在に支配されたかの如く大気が揺れていた。五合目、振り上げた刃はキンッとつんざく音をたてて閻羅王に防がれる。
 斬り結んだままで緋逸は口早に尋ねた。
「なぜ丹緋を求めるのか?」
 閻羅王が朝廷に現れたのは、指名された丹緋に面会する前だった。一目惚れする前のことであり、花嫁問題についてそう深く考えていなかったこともあって、迂闊にも緋逸は、丹緋を求める理由を訊いていなかったのだ。
 これに閻羅王が顔色をかえることはなかったが。
 少しだけ不自然な間が空いた。
「……一目惚れだよ」
 そしてまた間が空き、
「皇帝、花嫁から我の話を聞いておらぬのか」
「話ってなんだ? そして花嫁ではない、訂正しろっ」
 力で緋逸が剣を振りきろうとすれば、すんでのところで刃文をずらした閻羅王が身をひるがえす。それは鬼であるからこその瞬発力。
 勝ち誇った笑みを刻む、余裕の閻羅王。
 なんだその自信はと、むかっ腹を立てるのは緋逸だ。
「顔と声がいいのは認めるけどな。男前な自分にそれほど価値があると思わんでくれんかな。聞き分けのないことばかり言ってないで、冥界に帰ってもらえんだろうか」
「成長しきったものは一周まわって結局は原点に戻るもの。成長の過程など無意味で、戻ったところこそがそのものの本質。神や鬼などというものはみな、駄々っ子のようにできている」
(そうなのかっ!?)
 けれど年寄りが、性格がかわったかのように自分勝手になるのはよくあることだ。
 妙に人らしいことを言う閻羅王に、うっかり緋逸は感動しそうになった。
 好意を抱きかけたからといって事態が好転するものでもない。
「我が欲するは花嫁」
 閻羅王の一言が、本物の剣より鋭く緋逸の胸に突き刺さる。言葉が少ないから余計に、それが閻羅王の本気だとわかってしまうのだ。
 ここまで、それほど多く斬り結んだわけでもないのに、柄を握る緋逸の右手はじんじんとしびれている。生まれてこの方、刀剣で押されたことなど一度もないというのに。
 正直、自分のそれとは明らかに格の違う迫力に圧倒されていた。
 びりびりと身体をしびれさせる衝撃は、魂魄にまで訴えて、気力や体力をもぎ取っていくようだった。
 次に動けば斬られる予感――否、確実に斬られる現実がそこにある。
(バカ力も役には立ったが、もうもたないな。そろそろ決着をつけないと)
 緋逸は深く息を吸った。男同士、本気には本気で応えるべきだ。
「見えないものは信じない主義でね、私は。愛は目に見えないものだろう、ならば証に身を捧げるしかない」
 両手で大剣の柄を握りなおす。
「私は彼女のために命をかける」
 すると、緋逸の左手の甲に異変が起きた。
 真っ赤な光のようなものがうっすらと浮かびあがってくる。それは糸の如く伸びてつながり、なにやら文字のようなものを連ねていく。まるで、りゅう家の巫祝ふしゅくが書く霊符れいふ〈お札〉のように。緋逸の左手の肌から少しだけ浮いて、赤い輝きを放っているのだ。
 一筆書きした文字のような複雑な模様は色のせいか、彼の体内に流れる血によって描きだされているようにも見える。
 かつて緋逸は一度だけ、同じ体験をしたことがあった。
 これを手紋しゅもんといい、手紋は〝己の命をかける〟ときにだけ左手の甲に浮かぶと伝えられている。鼎の正当な所有者にのみもたらされる現象とされていて、内乱のときに浮かんだこともあって、三白眼さんぱくがん凶相きょうそうであっても緋逸に味方する官吏が増えたのだ。
 国権の正統な継承者である、その証として。
 近年、この手紋が現れたことはなかった。なぜなら、皇位継承が穏便に行われてきたからだ。ゆえに緋逸は、臣下によって選ばれたともいえる真の皇帝である。
「ふうぬ」
 閻羅王が唸った。
 油断すれば吹き飛ばされてしまいそうなほどの覇気が閻羅王の周囲からすっと消える。同時に、閻羅王が持つ剣もするするとほどけるように消滅してしまう。
「……な」
 閻羅王は未だ戦闘体勢の緋逸を見返しているだけだった。軽く片眉を跳ね上げているのは、〝試した結果とそこから派生する効果を量る〟かのようでもある。
 数瞬の虚脱。
 拍子抜けするほど呆気なく戦いは終わった――のか?
(なんだ? 気まぐれを起こしたとでもいう……)
 刹那、瞑目する。
 しかし、目蓋を上げるまでのごく短い間に、緋逸の背後で事態は一変していた。
 どうやってか閻羅王は移動し、丹緋の待つ四阿に足を踏み入れようとしていたのだ。

「あの手紋をもつ者は厄介といえなくもない」
 丹緋にはうまく聞きとれなかったが、
「人望ある皇帝を〝この地〟で殺せば十二の神将がうるさいだろうし」
 何事か呟きながら男が四阿に入ってくる。
 表情がかわるたびにかげをつくる切れ込んだ眦が特徴的であり、そのせいか男は、なにかの拍子に闇にとけて消えてしまいそうな雰囲気を色濃く纏っていた。
 今し方まで、武器を手に緋逸と争っていた男だ。
 ある意味で〝慣れた相手〟とはいえ、丹緋は身構える。けれど、傍に寄る男の手から剣は消えていた。どこにやったのかと目をしばたたいているうちに、男が身を屈めてしまう。
 丹緋の耳に柔らかな囁きが吹きこまれる。
「名を知る君が我の名を呼べば、我の身も心もすべて君のものになる」
 丹緋は、あ、と思った。
(話し方が少しかわってしまった……?)
 離れている間に癖などがかわってしまうと、なんとなく寂しいものだ。たとえ、親密な間柄ではなかったとしても。
 このあたりからも推察できるように丹緋はこの男をうとんではいない。心のどこかで感謝こそすれ、危険を感じて避けるほどの男ではないのだ。
 丹緋は自分に執着していた風変わりな男の言葉を思い出す。
『では、愛の証に。私の名を教えよう、私は羅翔らしょうという』
 その後で、確か男はこう続けた。
『この名は二人だけの秘密にして』
『君だけの胸にしまっておいて』
 なのに。
(呼んでいいのかな?)
 躊躇する丹緋の視界の片隅に、すさまじい形相でこちらに走ってくる緋逸が映りこむ。慌てふためく緋逸の姿を捉えた途端、丹緋は彼から聞いた役鬼の話を思い出していた。
『なんでも鬼の名は広く知られてはいけないのだそうだ』
 名を知ることは、そのものを縛る方法でもあるという。名を掌握されたら方術の心得がある者に操られるのではなかっただろうか。
 男二人の言葉が頭の中でごちゃごちゃとまざり、丹緋はうろたえるばかり。
(なんで今、鬼の話なんて……羅翔様とは関係ないのに)
 惑う、丹緋。
 心情の変化によってひらめく陰影を間近で見下ろしていた男は、大きな両手で丹緋の頬を包みこんだ。目と目が合ったことを喜ぶように顔をほころばせ、すいと頬を寄せてくる。
「いつかまた出逢うから。そのときこそ、君と」
 頬に残されたのは口づけの微かな余韻。
 それと、寿ことほぎ

 ――永々無窮の祝福を、共に。




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