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第一話 雨あがりの報酬
しおりを挟む秋の長雨の季節――今にも外れそうな窓の外では、いつやむとも知れぬ雨が、しとしとと降り続いている。
築三十年、木造二階建てアパートの二階。
角部屋の狭い八畳一間で、もっさりとした中年男が天井を見上げてニタついていた。
雨天のせいで、夜が明けたばかりだというのに部屋の中は薄暗い。照明を点ければいいのだが、あいにくと電気は止められているのでどうにもならない。部屋には中年男特有の加齢臭が、目を翳ませるほどにどんよりと漂っている。それは、ここ数日、男が風呂にはいっていないからだった。
風呂にはいっていないのは、この部屋に風呂がないせい。付け加えるならば、水の供給が止められているせいもあり、身体を清めようにも手段がないのだ。
生活するために必要な電気・ガス・水道といったライフラインで、最後まで止められないのは水道である。火事が起きた場合を想定して、水道だけは滅多に止められるものではないのだが、いつから水が止まっているのか、男にはもう思い出すこともできないでいた。
天井を見上げる男はなにかをすくうように、両手を前に差し出している。
雨漏りしてくる水を集めて、身体を洗おうとしている。――わけではない。
とりとめもなく降ってくるそれに、笑いをこらえられないのだ。
「うわっ、はっはっはははははっ」
両手を前に差し出したまま、男はその場で飛び跳ねる。
あまりに笑いすぎて呼吸が苦しいが、それもまた、男には笑えるのだ。世には息もできないほど愉快なことがあるのかと、身体を仰け反らせて笑い転げる。動けば男の身体から、フケやアカが周囲にぱらぱらと飛び散っていった。
「やった、やったぞ。これでこんな暮らしも終わりだ!」
ガッツポーズで男が叫べば、「朝っぱらからうるさい」と隣室の住人が壁を叩いてくる。ボロアパートなので壁が薄く、ちょっとでも騒げば声が筒抜けてしまうのだった。
しかし男は構うことなく奇声をあげ続けた。
「けっ。こんなトコに住む貧乏なお前らと一緒にするな。もとから俺は、お前らとは住む世界が違うんだからな」
蔑むような半眼で隣室のほうを睨んでから、男は再度、踊りだした。
両手をぶんぶん回して全身で喜びを表現する。
まさに狂気乱舞。
慣れない踊りをしたために足が滑り、転倒して背中をしたたかに打ったときだった。
今度は玄関のドアが乱暴に叩かれたのだ。
階下の住人が苦情を言うために来たのではないと、男にはわかっている。
平生であれば真っ先に万年床に潜り込むか、窓からトンズラするところだが、本日の男にはドアを蹴破らんばかりに叩く音が、幸運の足音に聞こえて仕方なかった。
男はニタついたままで、ドアに近づいていく。
第一話 雨あがりの報酬
1
けたたましい音をたてて、寝室のドアが開け放たれた。
青年はそれを夢の中の出来事のようにぼんやりと聞き流していたものの、十畳はあろうかという広い室内に響いた声が惰眠を許さなかった。
「おはようございます! ライターの各務理科です」
若々しい女の声に、ベッドの上で丸くなっていた青年はイラっとした。朝っぱらから甲高い声を聞かされれば、誰でもこめかみに青筋が浮くというもの。
「いやあ、今日も絶好調に雨ですよ。ったく、いつになったらやむんですかね?」
絶好調の使い方が間違っている――苛々しながらも青年はそう思ったが、指摘するために口を開けば目が覚めてしまうので、ここは無視。
「雨が降るごとに寒くなるからって、羽張さん寝すぎですって」
「…………」
「今からそんなんで、冬の朝はどうやって起きるんですか?」
「…………」
「さあ、ほら、起きてください――――ぃぃぃ、ひょわわわわっ」
青年が寝ているベッドから掛布をはぎ取った理科が、素っ頓狂な声をあげて尻餅をついた。掛布を握り締めたままで、ぷるぷると震えている。
掛布を奪われたからには仕方がないと、観念した青年は半身を起こして、フローリングに転がる理科を見下ろした。億劫そうに額髪をかき上げていると、
「な、な、な」
陸に打ち上げられた魚のように理科がなにかを言いかけて口をぱくぱくさせている。
「は? な、ってなに?」
「ななななんで真っ裸で寝てるんですか――ぁ!? 服を着て寝てくださいって、いつもお願いしてますよね」
耳まで真っ赤にした理科と視線を絡めて幾刹那、青年は小さく息をついた。
「人を寝穢いみたいに言ってくれるな。そもそもお前は、俺のなんなんだ」
渋々と服を着た青年――羽張龍一郎は、リビングのソファにどっかと腰をおろした。
イタリアンメイドの高級スーツを普段着のように着こなした龍一郎は、肌艶からして三十路にいくかいかないか。一代でのし上がった成金を親にもつお坊ちゃんのような風貌だが、そのくせどこか隙がない。厄介事などの対処に慣れているような、独特な雰囲気を身にまとっている。
端整な顔立ちで、切れ込んだ眦が特徴的。瞳は青みがかった灰色で、この国の人間にしては珍しい。切れ込んだ眦とかわった瞳の色が、まとう雰囲気を際立たせていた。
「もう、羽張さんてば。私を部屋に入れてくれたなら、二度寝しないで起きていてくれればいいのに」
腰をおろした龍一郎の対面のソファで、理科がぶすくれている。彼女はピンク色をしたウサギのぬいぐるみを抱えていて、それを睨んだ龍一郎は嘆息した。
実際、龍一郎は理科が寝室に入ってくるまで熟睡していたのだ。マンションのオートロックを解除してやれるわけもないのだが――、それはさておき。
「それで? こんな朝早くからなんの用?」
「朝早いって、そろそろランチの時間ですよ」
「俺はついさっき寝たばかりなんだけど」
龍一郎の嫌味と愚痴をあっさり流した理科は、大きなバッグの中から手帳を取り出した。分厚い手帳をぺらぺらとめくりながら、「実はですね」と勝手に話を進めてしまう。
「昨日、ライターの仕事で警察署に張り付いてたんですけど」
「お前はライターって言い張っているけど、先輩ライターの腰巾着みたいなものだろ?」
理科の大学の先輩だというライターはそこそこ有名らしい。その社会派ライターにくっついてネタの下調べのようなことをしながら、理科は日々食いつないでいるのだとか。
「失礼ですね! 私は小説家を本気で目指してるんです。この仕事は賞をとるまでの修行です。……いや、まあ、ライターで名が売れたらそれはそれで結果オーライといいますか」
「就職浪人がイッチョマエになにを言ってるんだか。就職できなかったから小説家になりますっていう安直な考え方なんだろ? しかも理科っておもいっきり理系の名前で文系の小説家になりますって言われても、全然説得力ないんだよ、というか笑えるよハハハ」
「ハイ、棒読みで笑わない! 名前は理系でも私はバリバリの文系です!!」
今年二十三歳になるくせに子どものように口を尖らせる理科と龍一郎は、彼女が大学四年の頃からの付き合いである。幼い仕種はその頃からなんらかわってはいないものの、秋に相応しい色のジャケットにタイトスカート、髪をひとつに結っている姿は、立派な新人サラリーマンに見えなくもない。
「私のことはどーでもいいんですよ。そうじゃなくてですね」
ほのぼのした会話に飽きてきた龍一郎が肘掛に頬杖をつくのを眺めて、理科は話をもとに戻そうとする。どうやら一年近くなる付き合いで、龍一郎の癖をある程度見極められるようになったようだ。
「警察署に飛び込んできた中年男が、妙なことを口走っていて」
頬杖をついたまま、さして興味もなさそうに龍一郎は相槌を打つ。
「男の名は松山賢治。五十二歳。三年前までは大手建設会社で中国プロジェクトの責任者を務めていた超エリートだったんですが、中国からの撤退を機にリストラされまして」
その企業の話は、龍一郎もニュースで見て知っていた。
外国企業の受注資格の規制が厳しい中国では、この国の企業が受注を伸ばすことは難しく、撤退を余儀なくされてしまったのだ。
「リストラされてからはまさに転落人生で、奥さんに離婚されて持ち家を追い出されたり、愛人に貯金を全額貢いですっからかんになったりと、しょーもない男に成り下がっていたんですよ。果てに極悪非道の金貸しに多額の借金をつくってまして」
「お前……それ、調べたのか?」
「まあ、仕事のついでです」
あっけらかんとして理科は笑っている。
そんな暇あるなら投稿小説の一本でも書きあげてみろ――と言いたいところだが、とっとと話を切り上げるためにも賢い龍一郎は黙っていた。
「その極悪非道の金貸しが、借金の回収にアパートまで来たとかで」
「で、金も返せずボコボコに殴られたんだろ? 警察署まで逃げ込むなんて、どこにでもある話じゃないか」
「確かにボコボコに殴られてましたけど、松山が警察に訴えたのはソコじゃないんです」
「ソコじゃないなら、どこ?」
すかさず龍一郎がツッこめば、どう説明したものかと迷うように理科が、そわ、と視線を泳がせた。
「……なんでも松山は一晩にして大金を稼いだようでして」
「大金?」
「はあ……、お札と硬貨を取り混ぜて、八畳間いっぱいになるほどの大金だそうです」
「? 宝くじでも当たったのか? にしても、八畳間を満たす大金には程遠いだろ? 一億円を万札で揃えたとしてもトランク一ケース。せいぜい十キロしかないし」
妙に詳しい龍一郎に釈然としないのか、理科が目を眇めた。が、それは一瞬のこと。外出するでもないのにスーツ姿の龍一郎を一瞥して、なにやら得心したような顔になる。
「天井から雨のようにお金が降ってきた――と、松山は言ってるんですけど。そこは私も要領を得なくてですね」
もごもごと言葉をにごす理科を見つめたまま、龍一郎の特徴的な眦が微かに動く。
理科はそれに気づかない。
「ここのところ雨が降り続いてますからね、寝ぼけて雨漏りを見間違えたんだろうと警察官も笑っていたんです」
頬杖をほどいた龍一郎は、ソファから身を乗り出した。それまでの興味のなさをきれいに消して、続きをうながす。
「朝、借金取りが来たから、そのお金で返済しようと松山は玄関のドアを開けました。そして、部屋の中を振り返ったときにはお金は消えていた、と」
「…………」
「松山が警察に訴えたのは、そこなんです。消えた俺の大金を探してくれって」
「……そうは言っても、大金を所持していたという証拠はないんだろ?」
「いえ、それがですね。松山はライフラインを止められるほどに貧乏で、前日までは無一文だったんです。なのに、彼は片手に五円玉を握っていた。――あくまで本人談で証拠にはなりませんけど」
「天井から雨のように降ってきた大金は消え失せても、手許に五円硬貨一枚だけは残っていた。それが証拠だと、松山は言ったんだな?」
確認するように龍一郎が念押しすれば、理科はこくこくと頷いた。理科自身もわけがわからない内容を、話し相手が理解しようと努力しているのが嬉しいようだ。
しばし龍一郎は黙考する。
「ひとつ訊きたいんだけど。……お前はなんでその話を俺にしたんだ?」
「なんでって」
理科は細い顎を傾けた。
「俺は警察OBでも探偵でもない。ましてや小説のネタを探しているわけでもない」
「え、でも、羽張さん、こういう話、好きじゃないですか?」
「好きだなんて一度も言った憶えはないけど」
そうでしたっけ、と記憶を手繰るようにして、理科は反対側に顎を傾ける。
そして理科は、そんなことはどうでもいいとばかりに、開き直ったように微笑した。
「私が小説のネタにするんで、オチのヒントになるようなことを羽張さんからもらえたらラッキーだなって」
「む」
「それに私、このウサピが好きなんですよね」
「ウサピ?」
それまで抱いていたウサギのぬいぐるみをかかげてみせる理科。
「ピンク色のウサギだから、ウサピ。これの抱き心地、サイコーなんですよ。ふわっふわしていてすごく気持ちがいい。この毛並み、ホンモノみたいですよね」
これに逢うために羽張さんちに来てるようなものです、と理科はさらにウサギを抱き込んだ。ちなみにそのウサギのぬいぐるみは、大人の階段を登りきった龍一郎の所有物である。
ぎゅうぎゅうと抱きつぶされそうになっているウサギを、龍一郎は生温い笑みを浮かべて見つめていた。
「ああっと。ええっとですね、松山の話には続きがありまして」
それを聞いた龍一郎は器用に片眉を跳ね上げた。
「松山の話と、インターネットにあった話が妙に一致していたんで、プリントアウトしてきたんですけど」
「ネット?」
「都市伝説やら怪談やら、奇妙な話ばかりを書き込むものがあるんです。そこに書かれていた、家庭教師のアルバイトをしている大学生の話です」
「ふうん」
龍一郎は軽く呻いただけではあったものの、耳は真摯に傾けていた。
2
宵闇に沈む大都市。
眼下には、ルイ王朝様式のシャトーレストランが街の淡い灯りを浴びて、ほのかに浮かびあがっている。この周辺には高層ビルが少なく遮るものがないために、闇の色に染められていく大都市の光景が視界いっぱいに広がっている。
マンションの三十階にある自室からそんな景色を見渡していた龍一郎の背後に、ほてほてと近づいてくる小さな気配があった。妙に疲れたような気配だ。
振り返ることをしないままに、龍一郎は生温い笑みを浮かべる。
「ふぅ。ボク、絞め殺されるかと思ったよ」
溜め息混じりにそれが言う。変声期を迎えていない子どものような幼い声で、男とも女とも判別がつかない。
「俺に無断で、理科を部屋に入れるからだろ。天罰だ、ざまあみろ」
非難するというよりは、愉しそうに龍一郎が応じると、
「だってさ、彼女、手土産にたい焼を持ってきてくれるでしょ。今日はなかったけど」
語尾にいくにつれ、声がしぼんでいった。手土産のなかったことが心底残念だったに違いない。
正直言えば、龍一郎もたい焼を期待していたのだった。理科が買ってくる店は有名で、そこのたい焼は大好物なのだ。
「ま、あいつは新卒だし、薄給だしな。毎回、手土産を買う余裕もないんだろ。……ん? お前、ハゲてないか?」
足許に視線を落とした龍一郎の言葉を受けて、それが「あわあわ」と慌てた声をあげる。
「ふごっ!? ウソ、どこ、ボクのどこがハゲてるの?」
「違う、抜け毛のハゲじゃなくて。色の話」
「なんだ。君に搾取されて、苦労ハゲができたのかと思った」
「搾取ってなんだよ、人聞きの悪い」
言いながら龍一郎は屈み込んで、足許にいる兎を抱え上げた。
そうなのだ――龍一郎が今まで会話していたのは、ピンク色に毛染めされた兎。
龍一郎の頭がおかしくなったわけでも、腹話術で独り淋しく会話していたわけでもない。この兎は人語をしゃべるのだ。
「そろそろ染めなおすか? でないと、ぬいぐるみに見えないからな」
「自分で自分に禁呪をかけてぬいぐるみのフリをするのには慣れたけどさ。彼女みたいに手加減ナシに抱き締められると、さすがに苦しいんだよね」
禁呪とは、呪縛によって身動きを封じる方術で、簡単にいうなら金縛りの術である。兎をぬいぐるみに見せるため、龍一郎は禁呪の呪言をウサギに伝授してあった。
鼻をひくひくさせながら、ウサギが文句を垂れている。
つい先程までここにいた理科は、このウサギをぬいぐるみと信じ込んでいるので、容赦なく抱き締めてしまうのだ。
「にしてもだ。ウサピって、妙ちきりんな名をつけられたものだな」
小さく笑いを洩らせば、龍一郎の腕の中で抗議するようにウサギが暴れた。
「おいコラ、暴れるなって。お前、またコレをひっくり返すつもりか」
ウサギを抱えた龍一郎は、畳敷きの部屋まで移動してきていた。
その部屋の中央には青銅製の水盤が一つ置かれている。
「うぅ、ひっくり返したのはボクだけのせいじゃないでしょ。君だって悪いし、強いて言うならたい焼のせい」
「……それは、……ま、そうだけどな」
トアル過去を思い出したのか、二人(?)揃って遠い目をした。
龍一郎が住んでいるのは、メゾネットタイプの豪華なマンション。およそ青年が独りで住めるような持ち家ではない。だだっ広い各部屋には必要最低限の家具しか置いていないこともあり、室内に生活感はなかった。
今いる畳敷きの和室も洩れなく殺風景で、水盤の他にはなにもない。高さ二十センチ、口径五十五センチの水盤には水が張ってあり、一口の刀剣が載せられている。
「これって西周時代の散氏盤に似せてつくったんでしょ?」
腕から体を乗り出したウサギが訊いてきた。
散氏盤は、古代中国でつくられた盛水用青銅器である。盤の内側には三百五十字ほどの契約文が刻まれている。
「似せて、って……猿マネみたいに軽く言ってくれるなよ。結果的に似ただけで、これも時代モノだ」
「似てしまったのはなんで?」
「ほら、覗いてみろ」
龍一郎に促され、さらに体を乗り出したウサギが「うわぁ」と感動したような声をあげる。
「平らな盤に水を張ると、水がレンズの働きをして文字が大きく見えるんだ」
散氏盤ほどの文字量ではないが、龍一郎所有の水盤にも内側に文字が刻まれているのだった。その意味と目的を知っているウサギが髭をそよがせる。
「さっきの彼女の話だけどさ。……やっぱコレが原因かな?」
「やっぱも葉っぱもなく、コレが原因だろうな」
面倒そうに答えた龍一郎は、水盤の前に座り込んだ。
「松山はその晩、老人としゃべったと言ってるんです」
どういう方法でか松山から聞き出した情報を、理科は得意気に語っていた。
それを聞きながら、ライターに相応しいそのド根性だけは認めてやってもいいと龍一郎は思っていた。……本人には言わないが。
「どんな老人だって?」
「それがですね、姿は見ていないらしくて。声音と口調で老人と判断したようです」
真夜中に姿の見えないものと会話するなんて、余程の暇人か、死を前提にした人生を歩んでいる者くらいだろう。そんな龍一郎の考えを読んだのか、理科が言葉を継いでくる。
「松山は職もお金もなかったですしね、半ば投げやりに老人との会話をはじめたんですが。話しているうちにその老人が――貴方は博識のようだが、なぜこのような落ちぶれた生活をしているのか、と訊いてきたそうで」
「ま、海外で働いていたバリバリのエリートだからな。これといった目的もなく、家族を養うためだけにテキトーに働いているサラリーマンよりは博学だったんだろうけど」
「そうなんです、松山は一流大学を卒業していますしね。本人もそれなりの自負があったんでしょう。そのうちに老人と意気投合したらしくて。なんの話の流れからか老人が――暮らしの資金になるよう経済援助をしましょう、と申し出たんだそうです」
「そりゃまた、気前のいい話だな」
感情のこもらない声で龍一郎は独り言のように呟いた。
「フツーなら、うまい話にはウラがあると勘繰るところでしょうけど。なにしろ松山はズンドコの生活だったわけですから、老人に縋ってみたくなったんでしょうね」
就職難の時代、就職活動に失敗して途方に暮れた経験のある理科は、「松山の気持ち、わかるなあ」と同情するように頷いている。
「今宵の邂逅もなにかの縁、貴方に相応しい分だけ援助しましょう――それだけを最後に、老人の気配は消えたそうで。かわりに天井から大金が雨のように降ってきた、と」
「そういうことなら、松山が自分で稼いだ金というわけじゃないだろ」
「いえ。松山に言わせれば、今の自分に相応しい分だけのお金だったんだから、立派な自分の稼ぎ。そう主張してましたけど」
「要するに、自分には大金に見合う分だけの存在価値がある、と松山は主張したわけだ。なんだか、厚かましいヤツだな」
龍一郎の言葉に、理科も「ですね」と同意した。
どうやら理科は、不遇の松山に同情して聞き込みをしてきたわけではなく、あくまでも小説もしくは記事のネタとして聞き込みをしてきたようだった。
昼間にした理科とのやりとりを思い巡らしながら、龍一郎は手許の紙に視線を落とす。それは理科が気になると言っていた、ネットのカキコミをプリントアウトしたものだった。
「家庭教師のバイトをしている大学生の話、確かに松山の話と妙に類似しているな」
あぐらをかいて座っている龍一郎の膝の上で、ウサギも背伸びしながら書き込みを覗いている。
このウサギはしゃべることができるだけでなく、文字を読むこともできるのだ。読みたいがため、必要以上に背伸びしているから、ぷるぷる震える四肢がいじらしい。
「心当たり、ある?」
声まで震わせて、ウサギが尋ねてきた。
笑いをこらえきれなくなった龍一郎は、ウサギも読みやすいように紙を畳の上に置いてやる。
「おそらくそれは、コカンだろうな」
「股間? なんかエロいね」
「アホか、違う。間抜けたことをやったり言ったりして、俺を笑い死にさせるつもりか」
笑いすぎて目の端に浮いた涙を指で拭いながら龍一郎が責めれば、ウサギはきょとんとして耳を垂れた。
「それにしてもさ、ボクずっと不思議だったんだけど」
「ずっと?」
「通じるんだね、言葉」
ああ、と龍一郎は、即座にウサギの言いたいことを察した。
「あいつらは精神感応だからな。この国の言語を理解していなくとも会話は成立する」
「そうなの? なら、ボクもそう?」
「お前は違う。もちろん、俺も。俺たちはこの国の言語を学習して会話している」
学習、という言葉が嬉しかったのか、ウサギが前肢を揺らした。
「それで、どうするの?」
「うん? 件の大学生か。松山と同じで一流の大学に通っているが、松山は国立、こいつは私立だ。将来に対する心構えが、根本から違うだろう。この大学は過去にも問題のある学生を出しているし……こいつも大学受験さえクリアすればいいという短絡的な思考をする、頭がイイだけの、中身はカラっぽな学生かもしれない。結果的に、不運な松山と似たような人生を歩むことになるかもしれないな」
どんな手を使ったのか龍一郎には知る由もないが、ここでも理科は大学生の情報をある程度集めてきていた。
ひょっとしなくても理科は優秀だったりするのだろうか。
「放っておくわけにもいかない、か」
面倒そうに言いながら、龍一郎は水盤に目を向けた。
水盤に載せてある刀剣は環柄刀といい、反りのない片刃の直刀。柄頭に刀輪という環があることから、環柄刀と呼ばれている。中国前漢時代から用いられた刀剣である。
当然のことながら水盤同様に時代モノで、龍一郎にとっては使い慣れた代物だった。
視線をウサギに戻した龍一郎は薄く笑う。
「この国には、〝餅は餅屋〟ということわざがある」
「それ、どういう意味?」
「物事にはそれぞれの専門家がある、ということだ」
理科が優秀であるなら任せておけばいいのだ。体力は温存しておくにかぎる。
「理科がもう少し調べてみると言っていただろ。とりあえず、それを待ってみようか」
ウサギはそよそよと髭を動かしている。
その姿はなんだか「ウサピ」っぽかった。
3
小雨が霧の如く煙る住宅街を、傘をさした一人の若い男が歩いている。
髪型も服装も見るからにイマドキの男で、物事を深く追求するような顔つきではなかった。
その男は傘を片手に、時折スキップするように歩いている。人気の少ない昼下がりの住宅街で、この若い男とすれ違う者がいれば、お前頭だいじょうぶか、と思わずツッこみたくなるような足取りだ。
大学三年生である男の名は、久多羅木紲。
名は体を表すというが、イマドキの「紲」という小洒落れた名前が、遊び人ふうな男の特徴をとらえているようであった。
傘をさしても身体が濡れてしまううざったい雨の中、にもかかわらず、浮かれ気分のウキウキウッキーで紲が歩いているのには、わけがある。
それは秋霖が降り出す前、夏がはじまる時分までさかのぼる。
家庭教師のアルバイトをしている紲はその日の帰り際、不意に老人に話しかけられたのだ。
バイトを終えた紲は帰るために玄関で靴を履いていて、その声は近くのドアの向こう側から聞こえてきた。声音と口調で老人と判断したのだが、バイト先の家庭に老人がいるとは初耳だったので驚いたものだった。
とはいえ話してみれば老人は、自分とその家庭のことに詳しかった。安心してしゃべっているうちに意気投合してしまい、そのうちになんの話の流れからか老人が、
「貴方は頭がよいし、たいへんに見込みがある。どうですかな、この仕事を無事に終えたなら、一生分といえるほどの賞与を儂がどどんっとお支払いするというのは」
若いといえども、金絡みの話で「はい、ありがとうございます」と安請け合いできるほど、紲もバカではなかった。さりとて、さらっと受け流すには「もったいない!」と思う程度のがめつさはあった。
突然の展開に紲がためらっていると、
「いえいえ、貴方にはそれだけの価値がありますよ」
裏のなさそうな穏やかな声に導かれて、そうかな、と紲も納得してしまったのだ。
なによりこの家庭はお金持ちで、学生一人にバイトのボーナスを与えたとしても老人の懐はなんら痛まないはず。そう思い直した紲は、
「ボーナスって……いくらくらいバイト代をプラスしてくれますか?」
訊けば老人は呵呵大笑した。
「そうですな、二百三十五金でいかがですかな?」
「二百三十五万!?」
紲は目玉がごろんと落ちそうになるほど目を見開いた。
たかが学生のバイトにその金額は破格。しかし老人は「構わない」とまた笑う。
結局、紲はその話を有難く承知して、さらに数日が過ぎた頃。
今度は高校三年生の息子をもつその家の父親から、
「大学の推薦入学がとれるまで、息子の学力を引き上げてほしい」
と頼まれたのだった。
「もし、息子の学推が決まれば、君に新車を一台進呈しよう」
そうまで言われて、紲はウハウハと喜んだ。
すでにその家の祖父とボーナスをもらう約束もしていたので、お金持ちはやることなすこと豪快だなと、このときばかりは紲も遠慮することなく、その申し出を受けたのだ。
そもそも紲がこの家で家庭教師をしているのは、ここの父親が大手自動車メーカーで役員をしているからなのだ。息子の成績を引き上げて目標を達し、父親の目にとまれば、その自動車メーカーに就職が内定するかもしれない。そんな目論見があったのだった。
だから父親に頼まれて、これで面倒な就職活動をする必要はなくなるだろうと、紲は浮かれまくった。しかも就職先は、トップメーカー。完全に将来は安泰、まさに薔薇色の人生。なんて自分はツイているのか、とそれからの日々、紲は笑いが止まらなかった。
このチャンスを逃してなるものか!
――堅く決意した紲は、その家の息子の学力を引き上げることに成功し、つい先日、彼は推薦入学枠に見事入ったのだった。
そうして本日の喜びがある。
今日はバイト代の支払日。
ボーナスがもらえるうえに、うまくすれば新車ももらえるかもしれない。納車日に雨が降っているのは不運だが、その不運を補えるほどの幸運を手に入れられるのだから問題ナイ。
加えて紲にはもうひとつ、笑いの止まらない出来事があったのだ。
住宅街を歩く青年の姿がある。
青年が身につけているのは、誰がどの角度から眺めてみても高級とわかるイタリアンメイドのスーツ。それほどの極上スーツを纏っていても、男は霧雨に濡れるのを厭うことなく、傘もささずに歩いていた。
そういうことを平気でするのは、所有物に執着しないお金持ちだけ。スーツが雨に濡れてヨレヨレになろうが、革靴や腕時計がダメになろうが、頓着しない。買い換えればいいだけのことだから。
お金持ちそうなわりに、その男の姿は少し妙だった。肩に提げているのは、これまた高級そうなトートバッグ。なんらかの目的があってつくられた、オーダーメイドのバッグだ。
その中に入れられているのはピンク色をしたウサギのぬいぐるみで、そのウサギがバッグから頭部をちょこんと出している。まるでぬいぐるみを持ち歩くためにつくられたように、バッグのサイズはウサギにぴったり。
大の大人が大切そうにぬいぐるみを持ち歩くなんて、お前頭だいじょうぶか、とすれ違う者がいればツッこみたくなるというものだろう。
とはいえ、そのツッこみをはねのけるほどに男の態度は堂々としている。
男はなにやら先程からブツブツと呟いていた。
「この国の雨は、よく降るな。……いや、ま、俺たちの国とあまりかわらないか」
男――羽張龍一郎は、額髪から滴る雨粒を鬱陶しそうに払って、呟いた。
「だね。でもこの雨、今夜にはあがるって天気予報で言ってたよ」
「そうか?」
今の会話は龍一郎の一人芝居でも腹話術でも、ましてや雨水が脳に滲み込んで頭がおかしくなったわけでもない。龍一郎はちゃんと会話しているのだ――トートバッグに入れられた、ぬいぐるみのフリをしているウサギと。
好奇心旺盛なウサギは、龍一郎が出歩くときには外の景色を楽しみたがるので、こうしてバッグに入れて持ち歩いてやるのである。
「彼女さ、気づかないものだね」
ウサギの言う「彼女」とは、午後一にやって来た各務理科のことだ。諸事情あって龍一郎は固定電話も携帯電話も持っていないので、連絡をとりたいとき、理科はマンションまで来るしかない。
「気づかないって、なにが?」
「君の姓のことだよ。この国には八万ほどの苗字があるけど、羽張って苗字はないでしょ」
受けた龍一郎は、意外そうに片眉を跳ね上げた。
「確かにそうだけど。……お前、どこで憶えたんだ?」
「えっと、君の書庫。うぅん、図書館に連れてってもらったときだったかな?」
どこで仕入れた知識かは忘れているようだった。
それにしてもウサギは物覚えがいい。そんなところが龍一郎は気に入っている。
「でもな、この国には伊都之尾羽張って神がいるんだ。今度、『古事記』を読んでみろ。俺の書庫に、わかりやすく訳したものが何冊かあるから」
「うん、そうする」
新たな知識を与えられて嬉しいのか、ウサギが鼻をひくひくさせる。そうしてウサギは前肢をバッグからぶらりと垂らし、辺りをきょろきょろと見渡した。
「そろそろ着く?」
「と、思うけど。理科が言っていたのはこの辺りのはず」
「君って記憶力いいもんね。一度見たり聞いたりすれば憶えちゃうんでしょ」
「ま、な。……見るからに金持ちの家ばっかだな。兎小屋と形容されたこの国の家の造りに比べれば、遥かにデカい家が多い」
龍一郎たちが歩いているのは、政治家や企業のトップが多く住むといわれている住宅街。
昼のこの時間は人通りが少なく、とても静かだった。あまりに静かで、霧雨の降るさらさらという音までが耳に響いてくるよう。たまにすれ違う人からは、育ちのよさそうな物柔らかい印象を受ける。
「兎小屋って、ボクに失礼じゃないっ」
「ああ、悪い」
すねぐれるウサギに、龍一郎は微笑しながら謝った。
そんなふうに、どうでもいい会話を重ねながら、これまでもこれからも、龍一郎とウサギは歩いていく。
実は紲には、引っかかっていることがあった。
家庭教師をするために通っているその家には、老人と同居している気配が微塵もないのだ。それなのに老人は時折、挨拶をしてくる。挨拶してくるのは必ずドアの向こう側からで、これまで一度も姿を見たことはない。
それを奇妙に思ったこともあり、暇に飽かしてインターネットに一連の出来事を書き込んでいた。おもしろおかしくなるよう、怪談ふうに話を脚色したら、その内容に喰いついてきた人間がいたのだ。
ネットでのやりとりでは、その人物がライターだとしかわからず、会いたいと頼まれたときにはどうしたものかと紲は迷ったものだった。取り立てて目立つ話でもないのに、やたら喰いついてくるところが怪しい。
訝しく思いながらも、「取材です」と何度も頼まれれば嫌な気もしなくて、そのライターに直接会ったのが二日前のこと。会ってみれば清潔そうな若い女性で、うっかり紲は楽しい時間を過ごしたのだった。
髪をひとつに結った女性――各務理科は、とても真摯に対応してくれた。
歳上の、それもバリバリ仕事をこなしていそうなキャリアウーマンにちょっと憧れてしまうこともあって、家庭教師をしている家の詳細までしゃべってしまった紲であった。
理科は言った。
「ひょっとしたら、この奇妙な話、記事にするかもしれないけど。いい?」
紲にしてみれば、家庭教師をしている家の名を伏せてくれるのであれば、反対する理由はない。むしろ、大歓迎だ。
どんなふうに記事にするのかは知らないが、雑誌かなにかに載って話題になればテレビからも取材がくるかもしれないし、果てには本になるかもしれない。本になれば印税が入っちゃうかも――などなど、紲の妄想、もとい想像は、ヨダレが垂れるほど際限なく広がっていく。
老人と会話してからというもの、とにかく紲の人生は前途有望で、一生分のツキをここで使い果たしてしまったのではないかと思えるほどに幸せだった。
雨の中、紲は「ルンルン」と鼻歌まじりに歩いていく。
4
目の前に停められているのは、シルバーボディのスポーツカー。
車三台ほどを停められる広いガレージの中で、紲はそのシルバーボディにそっと触れてみる。
夢ではない、これは現実の手触り。
紲は思わず、叫びだしそうになった。
「本当にこれ、もらっちゃっていいんですかっ!?」
喜色満面で紲が問えば、家庭教師をしていた息子の父親は「構わないよ」と笑った。
「息子を推薦入学枠に入れてくれたお礼だ。うちの会社の車で申し訳ないんだが」
「いいえ、そんな。嬉しいです、ありがとうございます!」
「見かけによらず、君はとても優秀だな。将来が期待できる」
そう言われて、紲は心の中だけでガッツポーズした。
ここまで心証をよくしたのだ。大学三年の秋にして、すでに就職が内定したようなもの。
チャンスを最大に活かすため、父親が勤めている自動車メーカーについて、紲はその場で語りまくった。
自分がいかにその企業が好きで興味があるか、必死でアピールする。
本音を言えば、大して車には関心がないのだが、すべては将来のため。
ひとしきり紲が語れば、その想いを受け入れたような顔で父親が頷いた。
「君とはまた会えるといいね」
そうして父親は紲にバイト代を渡し、家の中へ戻っていった。
手入れのいき届いた庭を横切っていく背中を見送りながら、紲は自分が勝ち組となったことを確信した。
「やった! これで卒業までの一年半を遊んで暮らせる」
なんという幸運。
紲は喜びに震える。
さらにラッキーなことに雨がやんで、オレンジに染まる空では星が輝きはじめていた。まるで自分の前途を祝福しているようで、紲は新車の前で小躍りする。
「新車でナンパして、酒に女に乱交パーティー! 人生なんてちょろいもんだ」
場所もわきまえず、ひゃっほう、と叫びそうになり、「ひゃ」の形に口唇を開いたときだった。
背後から、紲を呼ぶ者があった。
喉に絡んだ声音、どこか素っ惚けたような口調。
いつもの老人の声だった。
紲はハタとボーナスのことを思い出し、ニヤけた顔のままで振り向いた。そしてニヤけ面を張り付けたままで固まった。
そこに立っていたのは、なんとも奇妙な老人だったのだ。
老人が身に纏っているのは、この国の服ではなかった。
袖も裾も引きずるほどに長い、表現し難い着物。どこかで見たような――と、紲は記憶をたどり、思いついたのが映画だった。老人は、古代中国のストーリーでしかお目にかかったことのないような、珍妙な恰好をしている。
髪も髭も半白であり、白いものの混じる髪は頭の上のほうで、ひとつに結わえてある。女の子がしているおだんごふうの髪型で、それは簪のようなものでくくってあった。髪が白いわりに矍鑠たる風貌で、背筋はピンと伸びている。
「……あ、えと、……いつもの、おじいさんですよね?」
確認するように紲が問えば、「そうですよ」と老人が笑った。その屈託ない笑みを眺めて、コスプレの趣味でもあるのかな、と紲は都合よく解釈する。
「あの、……約束のボーナスをもらえるんでしょうか?」
厚かましくも紲が訊けば、老人は微笑する。
「儂の手許には、貴方にやれる賞与はもうありませんな」
言われた意味が咄嗟には理解できず、紲は首をかしげた。
「否。正しくは、賞与はすでに貴方に渡ってしまった」
「……え?」
「人が一生のうちに得る金や寿命といったものは、増減がきかないものでしてな。貴方はこの度の仕事で取るだけの分は取ったのですから、満足なさるがよい」
続けられた意味不明の言葉。
しかし、どういうわけか、聞いてはいけない言葉を聞いてしまったような気がして、紲の胸がざわざわと騒ぐ。
「……それって、いったい」
ざわつく気持ちのせいで、紲の声は小刻みに震えてしまっていた。
老人は、つと新車を指差した。
「その車。いかほどかご存知か?」
「……いいえ」
「ちょうど二百三十五金也」
紲は目を瞠った。
老人がくれると言ったボーナスの額も、二百三十五万。
この偶然の一致はなんだ?
――嫌な予感が紲の胸をよぎっていく。
嫌な予感というものほど高確率で的中するように世の中はできているのだ。身体の内を駆け回る不安のせいで、紲の喉はカラカラに渇いていた。指先も冷たくなってきている。
「儂は申し上げましたぞ。一生分の賞与をお支払いしましょう、と」
「……それはどういう――」
頭が整理できないままに、紲が不安げな問いを洩らしたところで。
ガレージの中に見知らぬ男が忽然と現れた。
「庫官・胡養真!」
隠形法の術によって姿を隠し、相手に姿を見られないままでガレージの中に潜んでいた龍一郎は術を解くなり叫んだ。
その場に姿を現した龍一郎は、右手を胸の高さにかかげ、人差し指と中指を立てて手刀をつくっている。それはこの国の陰陽師が呪を唱えるときの姿によく似ていた。
龍一郎が叫ぶと同時、久多羅木紲と話していた老人・胡養真の身体が、不自然に固まる。固まったのは、前触れもなく〝名〟を呼ばれて喫驚したからではない。
知られているはずのない名を呼ばれ、名を呼ばれたことによって、身体の自由を奪われ支配されてしまった。
胡養真の身体が、龍一郎の存在によって呪縛されたからだった。
「久しいな、胡養真」
ゆったりと、龍一郎は老人に話しかける。
そのままの手刀からは、目に映らない念のようなものが放出されているかのよう。
周囲にはこれといった変化はないものの、その場に漂う空気はピリピリと張りつめている。
呪縛されている胡養真は口唇でさえ思いどおりに動かせないので、応えはない。それを承知で、龍一郎もしゃべっている。
「なかなかにおもしろいミセモノだったので、のんびり見物させてもらった」
龍一郎は磊落に微笑する。
「俺はお前の能力を認めている。今回のことを含めて、人を騙したわけでもないお前はなんら悪くない。だけどな、あんまり好き勝手されると後々面倒なことになるから、そろそろ俺のもとに戻ってもらう」
胡養真の双眸を射貫くほどに見つめて、龍一郎は言った。
見返す眼は動かないが、それでも相通ずるものがあったのか、龍一郎は薄く笑う。
「この国で遊べて愉しかったか?」
なにかを思い出したのか、過去を懐かしむようにふっと目を細めた龍一郎は、その呟きを最後に、呪を唱えはじめる。
唱えられた呪言も陰陽師の扱うものに似ているようで、似ていないようであった。
まるで時の流れに巻き込まれでもするように、胡養真の身体はゆらゆらと揺れて――消えた。
一連の出来事を茫然と眺めるだけだった紲は、我に返る。
見知らぬ男が忽然と現れたかと思ったら、今度は老人が忽然と姿を消したのだ。目を疑うばかりの紲は一瞬、これが夢なのか現実なのか、判断できなくなった。
だが、シルバーボディのスポーツカーはちゃんと存在している。
夢ではない。
「……えっと、すいません、今のは」
目を瞬きながらそれだけを言いかけて、紲はぎょっとなった。
男が肩から提げているバッグが、ごそごそと動いたのだ。
「おいコラ」
怪しく蠢くバッグに向かって声をかけたのは、長身痩躯なその男。見るからに高級な、今ふうの細身のスーツをきっちり着こなしていた。嫌みなく似合っている。
コラ、と叱っているようで、語りかける声は随分と優しい。
優しげな声音に興味をひかれ、男の姿を黙って見つめていた紲は、やにわに「ぶっ」とふきだした。
バッグから出現したのは世にも珍しいピンク色をした兎で、珍妙な姿に驚きはしたものの、その兎がよじよじと男の肩を這い登っていったのが愛らしかった。しまいには男の頭に乗ってしまう。
男の額に前肢をぶらんと垂らし、後ろの肢は男の肩にひっかけようとしている。肢が短くて肩に届かないらしく、ぷるぷると震えていた。そうして鼻をひくひくされれば、誰でもふきだしてしまうというものだ。
ちんまりと頭に居座る兎が、主人である男をどれほど好きでいるか、眺めている紲にもひしひしと伝わってくる。
ふと、いじらしい兎と目と目が合った。気のせいかもしれないが、紲を見る兎はビクッとして固まった。そこに他人がいることを、はじめて知ったような顔つきだった。
男のほうも、バツの悪い表情をしている。
「……その、……可愛らしい兎ですね。ペットですか?」
つい紲が尋ねると、男は少し考える素振りをした。
「や、ペットという言葉は好きじゃないんだけど。使役しているモノが愛玩動物になるのなら、そうなるのかな?」
「……シエキ?」
耳慣れない言葉に、紲は首をかしげる。が、すぐに笑みを浮かべた。
クソ真面目な顔で応じられても、帽子のように頭に兎を乗っけたままでは、笑いをこらえきれるものではない。
紲の笑みの意味を悟ったのか、額に垂れている兎の前肢を恨めしげに睨んだ男は、そそくさと踵をめぐらした。
「じゃ」と片手を振って、住宅街を満たす宵闇にまぎれてしまう。
そういえばあの老人は――と紲がハッとなったときにはもう、紺青の夜が迫っていた。
終
マンションの和室に入った龍一郎は、刀剣の載る水盤の前に腰をおろした。
その膝には、まるでそこが定位置だとでもいうように、ウサギが陣取っている。
和室の壁は淡いグリーンで、真新しい畳の匂いと相俟って、草原の真っ只中にいると錯覚するような室内だ。
「庫官て、なに?」
龍一郎を見上げるため、めいっぱい背伸びしたウサギが訊いてきた。
「うん? それはな、遥か昔、姓を張、名を延登という男に、〝儂は貴方の庫官です〟と告げたことから広まったんだ」
「庫の役人てことは、金庫番てこと?」
そう、と龍一郎は頷いた。
「人がこの世に生れ落ちたときにはもう、一生に得る金は決まっているものなんだ。泣こうが喚こうが、努力しようがしまいが、その額はかえられない。庫官はその金額を見抜く能力をもっている」
「へえぇ」
「その人間が得るはずの金額を知っているから、金庫番というわけだ」
ふむふむ、と納得するようにウサギが髭をそよがせた。
「じゃあさ、彼がもらった車は身分不相応な贈り物じゃないってこと?」
彼とは久多羅木紲のことである。
「そのとおり。贈り物は換金できるものだ。だけどな、庫官は言ってただろ――一生分の報酬だ、と」
「うん」
「おそらく紲にとって最初で最後の特別報酬だ。彼はこの先、ギリギリ生活できる金しか手に入れることはできないだろう。金を貯えて人生を楽しむなんて到底不可能だな」
「うへ? それって、家を買ったり旅行したりおいしいものを食べたり、君みたいにイイ服を買い揃えたり、ありとあらゆる贅沢ができないってこと?」
「そういうことだ。
……人ひとりが生きていくのは難しいんだよ。とても。人生は決してちょろいもんじゃない。この一件で、彼は学ぶことになるだろう」
ただでさえ丸い目を、ウサギはさらに丸くした。
「……や、学ばない、かな? 恨み言を連ねるだけかもしれない。それもまた、紲の人生ということだ」
「そうかもしれないね」
他人事なので、ウサギは軽く答えている。
「君が持ってるそれにさ、庫官の名も載っている?」
龍一郎が手にしているのは、『女青鬼律』と呼ばれている一冊の書物である。紙は薄茶けていて、丁寧に頁をめくらないとぼろぼろと破れてしまいそうに古いものだった。
各頁にはびっしりと、筆で文字が書かれている。綴られている文字は素晴らしく達筆だ。
本をちらと見た龍一郎が「載っている」と頷けば、
「その本も時代モノなんでしょ? 東晋の頃のもの?」
「ああ。俺の持っているものは、本物の写しだけどな」
「でも君、それ、いらないんじゃない? 見たままを記憶しちゃうんだから」
自分のことのように得意気に言われて、龍一郎は微笑した。
ウサギの指摘するとおり、龍一郎の記憶力は抜群なのだ。一度見たもの聞いたものは、ほぼ忘れることはない。
「あ! そういえばさ、天井から雨のようにお金が降ってきた彼はどうなの?」
不意に理科の話を思い出したウサギが、松山賢治のことを尋ねながら、興味津々で体を乗り出してくる。
「あれも庫官の仕業だよ」
「そうなの?」
「庫官はな、雨のように金が降ってくるという幻を見せることができるんだ。この業を名づけて雨銭という」
「なら、彼が見たのは雨銭?」
首肯する龍一郎。
「松山はすでに一生分の金を得ていたんだろう。だから庫官も、彼の庫に保管されている金を渡してやることはできなかったんだ。それで雨銭という幻を見せた」
そこでウサギはなにかに気づいたように、長い耳をピンと立てた。
「あれれ? でもさ彼、手に五円玉握ってたって」
龍一郎は薄く笑う。
「それが彼の庫に保管されていた残金だ。理科が話していただろう――今宵の邂逅もなにかの縁、と庫官が言っていたと。貴方には五円だけがありました、という庫官なりの、ま、シャレみたいなものだろうな」
「ええぇぇぇ。ご縁と五円をかけるって、なんかそのシャレ、古」
「しょうがないだろ。俺たちは、もとから古いんだから」
すねるウサギを軽くいなしながら、龍一郎は少しだけ表情を改めた。
「松山はリストラされる前、中国でプロジェクトの責任者をしていた。彼には、中国の知識があったろう。文化に対する理解もそれなりにあったのかもしれない。彼と庫官がその夜、どんな会話を交わしたのか俺たちに知る術はないが……、ひょっとしたら庫官は話しながら、かの国を懐かしんでいたのかもな。その礼として、八畳間を満たすほどの大金を降らせてやったのかもしれない」
寂然たる雰囲気を感じとったのか、ウサギが鼻をひくひくさせた。が、それだけだ。
草原にいると錯覚してしまう静かな和室には、風に舞うように沈黙が流れていく。
龍一郎もウサギも、二人で分かち合える沈黙を心地よいものとしてとらえていた。
雨のあがったその日から、二ヵ月ほど後のこと。
国内トップの自動車メーカーが、海を隔てた大国で問題を引き起こす。
ブレーキ部品に不具合があることを知りながら、製造・販売を続けたのだ。不具合が原因の事故で多数の死傷者を出し、これが大々的に報道され、大規模リコールへと発展した。
対応の不備を指摘され、責任をとることとなった役員は次々に辞職。欠陥車として回収された対象台数は延べ一千万台超となり、徐々に経営は傾いていく。
経営の建て直しを図るためメーカーは、以降三年間は新卒採用をしないと発表した。
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