東遊鬼(とうゆうき)

碧井永

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第三話 溺れる華

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 そのマンションは、副都心のひとつとして栄えている地区の南端にデデンッと建っている。
 居住するフロアによって室内の造りは異なっているが、青年が住む三十階の部屋の間取りは、メゾネットタイプの豪華な造りとなっていた。
 部屋数の多さからして、およそ青年が一人で暮らせるような持ち家ではない。肌艶からして三十路にいくかいかないかの青年は、明らかにお金持ちであるはずなのに、物にこだわらない性格であるのか、室内に生活感はなく、どの部屋も殺風景だった。
 だだっ広いリビングも必要最低限の家具しか置いておらず、それはまるで、いつでも引っ越しができるようにしている――といった様子がうかがえた。
 必要最低限の家具のひとつである黒革張りのソファには、この部屋の住人である青年が、長い足をもて余すようにして腰かけていた。
 青年は、押せばどこまでも引いていくような、おっとりとした風貌だが、そのくせどこか隙がない。切れ込んだまなじりが特徴的で、その眦が微かに動くたび、意志の強さが感じられる。瞳は青みがかった灰色であり、この国の人間にしては珍しい色をしていた。
 先程から青年は、ほとほと困ったように額髪を払っている。
「君が悪いんじゃない!」
 青年を責めたのは、舌足らずな幼い声だった。
 男とも女とも判別のつかない声の主は、ピンク色に毛染めされた兎。
 この場に百人いたら百人全員が洩れなく「はぁ!?」とツッこむことは確実だが、青年は、人語を解してしゃべるウサギと同居しているのであった。
「や、……だから悪かったって」
 もう何度目か、青年はウサギに詫びる。
 ガラス製のローテーブルに陣取っているウサギは、青年の詫びを受けても納得できないらしく、鼻をひくつかせてさらにすねぐれた。
「ウソだ、悪いなんてこれっぽっちも思ってないくせにっ」
 まるで朝帰りを怒られているダメダメ亭主と嫁のような会話であるが、そうではない。
 実はこの二人(?)、買い物から帰ってきたばかりであり、そのことで揉めている。
 昼過ぎからの外出で、青年が所持金を確認することなくスーツを買い込んだものだから、店を出たとき、財布には小銭しか残っていないという有りさまだった。わけあって青年はカードを持っていないので、なにを買うにもニコニコ現金払いしている。
 というわけで、ウサギと約束していたたい焼を、たったの一つしか買えなかった。
 一つしか買えなかったことを、ウサギはカッカと怒っているのだ。
「ボクの大好物なのにぃ」
「……俺だって大好物だよ」と、青年はぼそっとこぼしたが、ウサギには無視された。
「いっぱい買ってくれるって約束したじゃないっ」
「だから悪かったって」
「悪いって思ってるなら、まるごとボクにちょーだい!」
 ウサギからの猛烈な非難を浴びて、青年は「う」と呻いた。
 心底悪いとは思っていても、たい焼まるごと一つくれてやる優しさはもち合わせていなかった。なにしろ青年も、大好物なのだから。
 それで青年は仕方なく、たい焼を均等に半分コしたのだが、半分しか与えられなかったことがウサギの怒りに油を注いでしまったようだ。
「今度こそ、いっぱい買ってやるから。今日はこれで許してくれ――って、おいコラ」
 謝るために青年が頭を下げた隙を衝いて、ウサギがたい焼を持ち逃げした。お魚くわえた野良猫のごとく、二つに分けられたたい焼を器用にくわえて走り出す。
「おい、待てよ」
 こんなときのウサギは速い。ぴょこぴょこと跳ねていってしまう。
 大人気ないとわかっていても、たい焼のためとなれば青年も本気で追いかける。
 ウサギを捕まえるために伸ばした青年の腕は何度も空振った。
 そうこうするうちに、青年とウサギはリビングを飛び出し、長い廊下で追いかけっこを繰り広げる。
「あ、コラ。和室には勝手に入るなって――――うッ」
 なりふり構わず逃げるウサギが飛び込んだのは、畳敷きの和室。和室の中央には、高さ二十センチ、口径五十五センチの丸い水盤が置いてあるだけ。水を張った青銅製の水盤には、一口ひとふりの刀剣が載せられている。
 青年が叫んだときには遅すぎて、ウサギは見事、水盤に激突していた。普段であればウサギはちゃんと水盤をよけて通るのだが、たい焼をくわえていたせいで、目測を誤ったようだ。ガチャンと豪快な音をたてて載せてあった刀剣が落ち、水盤が激しく揺れた。平たい水盤は安定感があるので倒れはしなかったものの、張ってあった水はその衝撃でドバッとこぼれた。
「あ」と二人、声を揃える。
 その刹那、得体の知れない気配が和室に渦巻き、肌がピリピリとあわ立った。まるで、水のこぼれた水盤から、次々に邪悪なものたちが解放されていくかのよう。動物である分、気配には敏感なウサギは、たい焼をくわえたままでビクッと硬直した。ピンク色に染められた柔らかな毛が、姿の見えないものを警戒してビンビンと逆立っている。
 永遠にも感じられた不快な時は、しかしそれほど長く続かなかったのかもしれない。
 和室にも、これという変化はなく、そんな中で青年は、のんびりとウサギを抱え上げた。ウサギが呆けているうちに、たい焼を一つ取り上げて、さっさと頬張ってしまう。それをウサギは茫然と眺めるだけ。
「……ボボボボク、ひょっとして、すごいコトやらかしちゃった?」
 残り一つのたい焼を口からポロッと落とし、ウサギがどもりながら訊いてくる。あれだけ死守したたい焼も、水盤をひっくり返した今となっては、どうでもいいモノらしい。
「やらかした、みたいだな」
 抑揚のない声で応じる青年。
「……う、ボク、……どっ、どうしようっ」
「さて、どうするかな」
「……うぅ、ごめんなさい」
 青年の腕の中で、ウサギがしゅんと項垂うなだれた。本気で悪いと猛省しているらしく、より小さく丸く、四肢を縮めている。素直に謝るウサギを流眄流し目に見た青年は、
「しょうがない、許してやる。だからお前も、俺を許してくれるか?」
 するとウサギは、こくこくと頷いた。
 青年は微笑する。とても柔らかく。
「……でも、どうするのコレ?」
 水盤の意味と目的を知っているウサギが、神経質そうに鼻をひくひくさせながら心配顔で青年を見上げている。
「うん? そうだな」
 青年はしばし考える。
「せっかくの東方の地だ。少しくらい遊ばせてやってもいいだろう」
「ぬごっ!? いいの? それで?」
「や、よくはないけど。はいないはずだ。ややこしいことにならない限り、放っておいても問題はないだろ」
 そうして青年は、畳に落ちた残りのたい焼を拾い上げると、それを温めなおしてウサギに与えるためにキッチンへと足を向けたのだった。



第三話 溺れるはな

     1

 窓辺に置かれたベッドに半身を起こしている男がいる。
 男は若い。大学を卒業して、ほんの数年といったところ。
 筆でスッと糸目模様を描いたような目許めもとは、銀縁の眼鏡の下に隠れている。目と同様に、身体からだの線も細い。第一印象としては、おもしろみのなさそうな、真面目そうな男だ。
 その男は、来訪者にかまうことなく、たそがれ色に染まる窓の外を見続けている。
「調子はどうだ?」
 ことさら軽い口調で話しかけたのは、この男の幼馴染みだった。
 明らかに育ちのよさそうな眼鏡の男に対し、幼馴染みの男は庶民的だった。がっちりとした体躯で、人懐こそうな笑みを浮かべている。
「見舞いには花か果物だって聞いたからな。一人暮らしの天清あますがには食べ物のほうがいいだろうと思って、果物を籠盛りで買ってきたんだ。薄給の俺には、ちょっとイタい出費だったけど、有名な果物屋で味覚の秋に相応しいノを見繕ってきたから」
 嫌みなく言って幼馴染みの男――治谷はるや智治ともはるは、見舞いの品をどんっと床に置いた。
 礼のひとつも寄越さない幼馴染みに頓着することなく、治谷はとっととフローリングに腰をおろす。
 フローリングと言えば聞こえはいいが、ここは家自体が古いので、板張りの床と言ったほうがしっくりくる。
 家が古いことを除けば、家の中は男の一人暮らしとは思えないほど整然としていた。ゴミも汚れ物も散らかっていない。四角い所を丸く掃く治谷とは正反対な性格らしく、部屋の端々に、男の潔癖さが滲み出ている。
 これといって反応しない幼馴染みに対し、一方的に世間話を繰り広げた治谷は、ふっと表情を改めた。
 軽く深呼吸してから、再び口を開く。
「なあ、天清。……その、もう……大丈夫なんだろ?」
 もともと遠回しな言い方が苦手なのか、どう話を進めたらいいのかと惑うふうに、治谷は髪を掻きむしる。が、結局は開きなおったように、手を髪から引き抜いた。
「親父さん、心配してたぞ」
 ここではじめて、ベッドに半身を起こしている眼鏡の男――天清しゅうが反応した。
 ゆっくりと、治谷を振り返る。
「……父さんが?」
「ああ。お前もう、仕事を休みだして三週間経つだろ? フツーならクビになってる」
「……無断欠勤してるわけじゃないよ。……それも父さんから聞いたのか?」
 治谷は頷いた。
 天清家と治谷家は、家が近所ということもあって、家族ぐるみの付き合いがある。成長した両家の子どもたちは一人暮らしをしているとはいえ、互いの両親の現状はよく知っていて、なにかと連絡を取り合っている。
「電話してきたとき、親父さん、……必死ってカンジだった」
「……そうか」
「とにかく様子を見てきてくれって、半泣きの状態だったよ」
 そこまで言って治谷は、「誤解するなよ」と片手を振った。
「親父さんに言われたから、お前ンとこに寄ったわけじゃない。俺だって、ずっと心配してたんだ。……電話にも出ないし、メールしても返信は寄越さないし」
 あげく、と治谷は苦々しく呟いた。
「俺、天清のマンションにも何度か寄ったんだ。けどお前、いつの間にか引っ越してただろ? 焦ったよ、……お前、……そんなにも、つらかったのか、って」
 膝に置いていたてのひらを、治谷はぎゅっと握り締める。
 天清はそれに気づいたが、なにを言うでもなかった。
「なあ、天清。……俺は無粋な人間だけど、お前のことはちゃんと理解したいと思ってる。……今回のこと、自分のことのように向き合ってやれなくて俺、……後悔してるんだ」
 治谷は、ずいっと身を乗り出した。より想いが伝わるように。
「どうだ、今からでも飲みに行かないか。お前、家にこもりっぱなしなんだろ? 気分転換は人には重要だぞ。な、そうしよう」
 断られるのが怖くて治谷は一息にまくしたてたのだが、無駄だった。
 幼馴染みの想いを量るような眼差しを向けていた天清が、首を横に振る。
「……なんで? もしかして、まだ腰が悪いのか?」
「いや、腰は治りかけているよ。おかげさまでね」
 そう言って、天清が笑う。大輪の花のように。
 あまりに華やかに笑まれて、治谷はわずかに肩を揺らした。幼稚園児だった頃からの付き合いで、幼馴染みがそんなふうに笑うのを、それこそ生まれてはじめて見たのだった。
「? そういえば〝見舞い〟って、……腰を痛めたのを、なんで治谷が知ってるんだ?」
 華やかな笑みをふっと消し、天清が顎を傾ける。
「あ、……ああ、それも親父さんが、……電話で」
 圧倒されたまま、治谷は答えた。
「父さんが、……そうか」
「腰が治ったなら、そろそろ出社してやったらどうだ? あれじゃ親父さんのほうが倒れちまうって」
 治谷が言った瞬間、西日を浴びた天清の眼鏡のレンズが光った。
 それがまるで天清の怒気を表しているようで、ここでも治谷の肩が揺れる。
「治ったんじゃない。僕は、、と言ったんだ」
 このとき治谷は、天清の怒りの理由をとり違えていた。
「あ、……いや、すまん。俺は、親父さんをかばってるわけじゃなくて……」
 人の想いを理解するのは難しいな、と治谷は今さらながらにほぞを噛む。
 今回のことで天清が弱っているとき、治谷は彼を放ってはおかなかった。
 酒に付き合い、話は聞いてやっていた。自分なりに、励ましの声をかけてやっていたつもりだった。幼馴染みの想いを理解したつもりでいた。
 だが所詮、すべては〝つもり〟でしかなかったのだ。
 こうなってから、自分がいかに不甲斐なかったかを知ったのだから。
 これほどそばにいて言葉を交わしても、想いは届かない。言葉は滑る。そして、相手の想いも、自分には決して届かないのだ。
 人は、すれ違う。重すぎる想いを抱えて、顔を上げられずに。
 心底助けたいと思ったそのときには、差し延べた手は拒否される。
 今日までのことを思い出し、情けなくなった治谷は口唇くちびるを引き結んだ。
「僕はもう大丈夫だよ。心配かけて悪かったな」
 かける言葉を失った治谷に、声をかけたのは天清のほうだった。
「父さんにも、そう伝えてくれないか」
「……それは、……お前から言ってやったらどうだ?」
「ああ、……うん」
 曖昧な答えを寄越した天清に、治谷は不安を掻き立てられた。
 そんな治谷から視線を逸らし、天清はまた、窓の外へと目を向ける。まるでもう、そこに治谷がいないかのように。
 胸がざわつくのを抑えられず治谷はすがるようにして訊いた。
「天清は、俺の幼馴染みだろ? 幼馴染みって、親友ってことだよな? な?」
 天清は応えない。
 窓の外に咲く、季節はずれの大輪の紅い花――牡丹を見つめたままで。

     2

 天清秀が、築四十年になる木造平屋建ての借家を訪れたのは、木枯らしが吹く少し前のこと。
 その家を借りていた家族四人が引っ越すことになり、建て替えるかどうかを含めて、今後、この土地をどう活用するか検討するためだった。
 都内のはずれた場所とはいえ、住宅地であるここを庭つきの平屋建てにしておくのはもったいない。借家を壊して土地を売ってしまうか、今ふうのマンションを建てて新たな家賃収入を得るか、現在の借家のオーナーはずいぶんと迷っている様子だったのだ。
 天清の家は代々、地域に密着した不動産業を営んでいる。規模は小さいが、経営は堅実。地域に根づいた経営をしているために、天清不動産は商店街でも評判だ。
 そんな天清の一人息子である秀は、大切に育てられた。
 ちやほやされて育った自覚があるために、秀本人も、友人との関係性には気を配っていた。金持ちのワガママ息子と敬遠されないように。そして、育ちのよさが同級生の鼻につくことがないように。程よい距離を保ちながら、己が周囲に埋没するよう心がけたのだ。
 そんな秀の態度は、ある意味では警戒心のあらわれでもあった。
 歳を重ねるにつれ、秀に近寄ってくる友人は偏り、二種類に分かれたからだ。
 不動産屋の跡取り息子とはどんなものか、興味本位で寄ってくる者。もう一方は、不動産業を営む者と仲よくしておけば、将来的になにかと便利だと計算ずくで寄ってくる者。
 それはそれで仕方ないと、秀は諦めていた。出自だけは自分の力ではかえられないのだ。
 そんなものだろうと思いこむしかなかった。
 ただ、諦めきれなかったもの――それは恋人だった。
 大学に進学した頃からだろうか。傍に来る女も二種類に分かれたことに、秀は愕然となったのだ。興味本位か、計算ずくか、そのどちらかに当てはまる女しか周りにはおらず、秀は恋愛をするにも、あれやこれやと注意を払わなければならなくなった。
 鬱陶しかった、毎日が。
 鬱陶しい思いを抱えたままで卒業し、秀は跡取り息子として天清不動産に就職した。

「貴方、跡取り息子なんだから。もっと育ちのよさをアピールしなさいよ」
 幼馴染みの治谷に連れられていった飲み会で、そう話しかけてきた女がいた。跡取り息子であることを、うっかりバラした治谷を睨みつつ、秀は女の相手をすることになる。
「そんなにビクビク生きててどうするの? 女を金で屈伏させるくらいの度胸をもったら?」
 明け透けに言われ、それがキッカケとなったのかどうか。その数日後から、秀は彼女と付き合うようになった。
 付き合いはじめても、恋人はかわらず開けっ広げ。その性格が、秀には心地よかった。
 秀もそれなりの歳だ。女性経験がなかったわけではない。とはいうものの、これまでは警戒して女と付き合ってきたせいもあって、今の恋人が秀にとってははじめての恋愛のようなものだった。
 初恋は厄介だ。
 どうやって付き合ったらいいのかがわからない。恋人への想いが本気すぎて、どう接したらいいのかと迷うたび、感情に雁字搦がんじがらめに縛られて身動きがとれなくなる。
 嫌われたくない。
 それだけが先走りして、いつしか秀は、プレゼント攻撃をすることでしか愛情を表現できなくなっていた。
 有難いことに、恋人もまんざらではない様子だった。
 あるとき、
「ねえ、秀。プレゼントはいっぱいもらったから、今度はお金が欲しいわ」
 屈託なく笑う恋人にねだられた。
 今にして思えば、あれは恋人なりの冗談だったのだ。けれど秀には、わからなかった。恋人にねだられたことが純粋に嬉しいだけ。
 それほど恋人に溺れていた。
「いくら?」
 秀が答えると、恋人は微笑して「そうねえ」と言った。
「百万でどう?」
「ああ、いいよ」
 その場でポンと、秀は万札の束を一つ差し出す。
 大学生の頃、趣味でやっていた株がうまいこと儲かり、秀はそれを分配金目当てで投資信託にしていたのだ。恋人への贈り物を買うために、ちょうど投資信託のひとつを解約したばかりで手持ちがあった。
 恋人はさぞ喜んでくれるだろうと、期待する秀。――が、いつまで経っても恋人は笑わない。笑うどころか、髪まで震えてから目をつり上げた。
「貴方という男がよくわかったわ」
 恋人が激昂していることだけはわかって、秀は動揺した。
「……なんだよ、急に」
「恋人にいきなり現金を渡して喜ぶとでも思ってるの?」
「は? いや、だって君が、女を金で屈伏させるくらいの度胸をもてって言ったんだろ」
 恋人は沈黙し、気まずいままの別れ際、
「貴方は生まれに縛られているんじゃない。人と距離をとるのがヘタなのよ」
「?」
 意味不明の言葉を残した恋人とは、そのまま音信不通となった。
 初恋は厄介だ。
 連絡がとれない=フラれた、のだと悟った途端、秀は立ちなおれなくなった。

 本当に、間が悪い、としか言いようがない。
 投資信託を解約したことを、父親がどこかから聞いたらしく、秀は詰め寄られた。
「お前、どこぞの女に貢いでいるそうじゃないか」
 貢いでいる、とは心外だ。あれは立派な愛情表現のひとつだった。本気の証だった。それを女に遊ばれた、みたいな言い方をされ、秀もカッとなった。
「自分で稼いだ金だよ、どう使おうが僕の勝手だろう」
「立場をわきまえろ! お前は天清不動産の跡取りなんだ、人様に顔向けできないことは絶対にするな」
 父親から罵声を浴びせられ、秀のはらわたが煮えくり返った。
 これまで、父親の言う「立場」というものをわきまえて生きてきた。周囲には気を遣い、品行方正に振る舞った。友人や恋人との付き合いも程よく距離をとり、面倒事に巻き込まれないよう心がけてきたのだ。
 それを、父親も恋人も、自分だけが悪いように責める。唯一相談した幼馴染みでさえも、父親や恋人の肩をもつような発言をした。人間関係の煩わしさに対して、秀の我慢は限界に達しようとしていた。
 そんなときだった。
 築四十年になる、木造平屋建ての借家を訪れたのは。
 借家はおんぼろだった。
 板張りの外壁は一部がべろんと剥がれかけ、風が吹けば瓦は飛んでいきそうなほど。この状況でよく借りる者がいたなと、秀は驚いたものだった。
 小さいながらも、家の周囲をぐるりと取り囲むように庭がある。家の状態を確認しながら庭を歩いていた秀は、ふとなにかを見たような気がして足を止めた。なんだろうと見渡して、そこに牡丹の低木を見つける。手入れのされていない、枯れかかった牡丹だった。
 秀が牡丹に水をやったのは、とくに理由があったわけではない。たまたま飲みかけのミネラルウォーターを持っていた、それだけのこと。花が好きだから、というわけでもなかった。

 おんぼろな借家の今後の活用について迷うオーナーに、「修繕費は自腹を切ります」と説得し、秀がここへ引っ越してきたのは、それから一週間後のことになる。

     3

 スカッとした秋晴れの空の下、細い道路が複雑に入り組んだ庶民的な住宅街を歩いている青年がいる。
 青年が身にまとっているのは、イタリアンメイドの高級スーツ。目利きの者が見れば、今季のデザインであることがわかる、細身の、真新しい装いだった。
 飄々ひょうひょうと歩いている青年は、どこか醒めた目をしている。そんな目許を縁どる眦は切れ込んでいて、先程から青年の眼差しは、肩に提げられたトートバッグに注がれていた。
までこの辺は、放したままのお前と歩いても奇妙な目でジロジロ見られることはなかったんだけど」
 青年――羽張はばり龍一郎りゅういちろうは独りごちた。わけではない。トートバッグに入れられた、ピンク色をしたウサギのぬいぐるみに話しかけたのだ。バッグは、ぬいぐるみを持ち歩くためにあつらえたように、ウサギにぴったりのサイズだった。
「だよね。君とお散歩できたのに」
 バッグからちょんと頭を出し、ぬいぐるみのフリをしているウサギが答える。
「兎と一緒に歩いているだけで白い目で見られるなんて、世知辛い世の中だね」
「ホントにな」
 億劫そうに嘆息する龍一郎。
「ねえ、この辺じゃなかった?」
 ウサギに訊かれ、龍一郎も首をかしげる。
「と、思うけど。ちょっと来ない間に、家が建て替わったりして景色がかわるから、イマイチ場所がつかみにくいな」
 記憶を手繰り寄せながら歩いていた龍一郎は、角を曲がろうとしていた。
 その先の路地に響いていたのは、悲鳴の混じった叫び声のようなもの。
「どうしちゃったんですか天清さんッ、しっかりしてください!」
 声からして、若い女だ。
「悪かった、天清」
 冷静に詫びる声は男のもので、女よりは落ち着いているものの、声音には微妙に焦りが滲んでいる。
 会話からして角の先にいるのは三人。
 マズいところに行き合ったかな、と龍一郎は顔をしかめた。角を曲がらず、そのまま通りすぎようとしたのだが一歩遅かった。
 龍一郎の身体が角から半分出たところに、片手に庖丁を握る男がまろび出てきたのだ。
 どうやら詫びた男に斬りかかろうとして、その手を払われバランスを崩したらしい。庖丁を握る眼鏡の男の身体は細く、相対している男の体躯はがっちりとしている。体格差からして庖丁を握っていようとも「天清」と呼ばれた眼鏡の男のほうが不利だった。
 素早く状況を理解した龍一郎は、条件反射で天清に足払いを喰らわせる。と同時に、庖丁を握る右手首に手刀を打ち込み、庖丁を手から叩き落した。倒れこむ痩身には容赦せず、鳩尾みぞおちに一発ぶちこむ。
 すべては「あっ」という間の出来事で、周囲にはなにが起きたのかすら、見極めることはできなかっただろう。それをいいことに龍一郎は、何事もなかったかのように去ろうとしたのだが、逸速く立ちなおったガタイのいい男に呼び止められた。
「あの、ちょっと」
 内心で舌を打ちながら、龍一郎は人好きのする笑みを浮かべて振り返った。
「あ、すみません。余計なことをしてしまって」
「……ああ、いえ、それは」
 鳩尾を殴られて気絶している天清と、龍一郎を見比べながら、男は困惑ぎみに話しかけてくる。
「それ、大丈夫なんですか?」
 龍一郎は、男の掌を指差しながら尋ねた。
 天清に斬りつけられたらしく、ざっくりと切れた掌から血がぽたぽたと滴り落ちている。
 営業マンふうの男は片手でネクタイを緩めたあと、ためらうようにしながら血で汚れているワイシャツの袖をたくしあげた。
「早く警察に通報したほうがいいですよ」
「ああ、いえ、……彼は俺の、……親友なんです。警察沙汰は困るんで」
「ですけど、周りは――」
 言いかけた龍一郎にハッとなった男は、周囲を見渡す。騒ぎを聞きつけたご近所らしい人々が数人、遠巻きにしてこちらを見ていた。
 男は龍一郎に、待っていてくれ、というふうに頭を下げて、そちらに駆け出す。
「彼は俺の友人なんです。ちょっとケンカをしてしまって」
 血を垂らしながらそんなことを言っても全然説得力ないだろう――そう龍一郎が思っているところに、それまで呆けていた女が話しかけてきた。
「貴方は怪我してないんですか?」
「ああ、俺は平気なんで。ええっと、君は学生さんかな?」
 服装と礼儀から判断して、すでに社会に出ているらしい男二人も若いが、女はそれよりもさらに若かった。
 肩までの髪は、毛先に緩いウエーブがかかっている。服装はイマドキのものだが、化粧はそれほど濃くなくて、清潔そうな雰囲気だった。
「はい、大学四年です。就職活動がうまくいかなかったものですから、トアル小説賞に応募中なんですよ。結果が出るのは卒業と同じ三月で、……これで小説家の道がひらけてくれれば食うに困らず生きていけるんですけどね」
 さっぱりとした口調で、自己紹介をする彼女。
 今この状況でするような話でもないことを語ってしまうのは、少なからず彼女も気が動転しているからなのだろう。どうにか自分を落ち着かせようとしている気配が伝わってくる。
 物事を冷静に受け止められる女でよかったと龍一郎がホッとしたところで、さっきの男が戻ってきた。
「とにかく天清を家に運んでしまおう」
 そう言って、女と顔を見合わせている。
 どうやら天清は、自宅の玄関を出てすぐの道路で暴れていたようだ。その家は胸の高さほどの生け垣に囲まれている。
 そうして男は、とんでもないことを龍一郎に頼んできた。
「掌の傷はそんなに深くないと思うんですが。とりあえず近くの病院で止血だけしてもらってくるので、俺が戻るまで天清と彼女に付いていてもらえませんか?」
 龍一郎は激しく、失敗した、と思った。

 見知らぬ男に殴られて、気を失う刹那。
 走馬灯のように天清秀の脳裏をよぎったのは、おんぼろ借家を訪れてからの出来事。
 仕事の都合で二度目に借家を訪れたとき、何気なく水をやった低木に一輪の花が咲いていることに、秀はとても驚いた。たったあれっぽっちの水で、枯れかけの木に花が咲いたことにも驚いたのはもちろんだが、本来、牡丹が咲くのは春から初夏。それが秋に咲いたのだから、誰でもびっくりするというもの。
 目を瞬かせ、大輪の紅い花を見つめているうちに、秀はその牡丹に惹かれてしまったのだ。枯れかけていたのに、復活した。そんな力強い姿に励まされたこともあって。
 そうして秀は、おんぼろ借家への引っ越しを決意し、父親との距離をとるためにも、三日の休みをとった。休みのうちに引っ越しを終え、転職を含めた今後の身の振り方について考えるつもりだったのだ。
 ところが悪いことは続くもの。
 引っ越しの作業でうっかり腰を痛めてしまい、休みは三日では足りなくなった。病院に行こうにも腰が悪くては足に力が入らず、独りで立ち上がることもできずに途方に暮れていたとき。
 窓の外から秀に話しかけてきた者がいた。
 若い女だった。容姿からして二十歳前後。蠱惑的こわくてきな瞳のもち主ではあるが、清楚な雰囲気だ。長い髪はきれいに結い上げられていて、たくさんの簪でとめられている。襟のひらひらしたブラウスのようなものに、足首まで隠れる長い巻きスカートを身につけていた。髪型も服装もこの国のものではないと、秀にもわかった。けれど言葉は通じて、
「もし。……腰がお悪いのでしたら、これをどうぞ」
 女が白い繊手せんしゅを伸ばして、窓枠に小さな紙の包みを置いた。
「それはなんですか?」
 腰を痛めたままなので、秀はベッドに横たわった状態で、女に問いかける。
 そのベッドは牡丹の花が見えるよう窓辺に置いてあった。
「腰の痛みに効くお薬です。どうぞ、お使いになってください」
 フツーならそう言われても、怪しんで捨ててしまうものだろう。しかし秀は、疑いもせずに、それを飲んだのだった。
 その日から女は窓辺に訪れるようになり、当たり障りのない世間話をしては、薬を置いていくようになる。
 女に与えられた薬が効いたのか、秀の腰はみるみる治っていった。
 けれど、「治りました」と、秀は言えなかった。
 女に逢えなくなるのが嫌で。「治らない」と言えば女を傷つけてしまうかもしれないと考え、「治りかけているのですが」と嘘をつき続けたのだ。
「いただいたお薬が効いているようです」
 逢うごとに秀は、女にそう伝えていた。
 女はたいそう喜んで、白い頬をぽっと染める。その色が牡丹の花の色に似ていて、まさに花のかんばせ
 秀は女に強く惹かれたのだった。
 こちらがなにを与えるでもないのに薬を届け続けてくれる。相手にはなにも求めない――そんな女の無欲な態度が人間関係の煩わしさに悩んでいた秀の救いとなったのだ。
 恋人との離別。
 父親との確執。
 親友とのすれ違い。
 そんなものは誰の日常にも転がっている、すべてはタイミング悪く一時いちどきに重なっただけ。思い悩むほどのものでもない――女のけな気な優しさに触れて心が軽くなったからか、秀はそう思えるようになっていった。
 その女は不思議な存在だった。どこからともなく現れて、どこへ行くともなく去っていく。抱き締めても、影のようでつかめない・・・・・。――それでも構わないと、秀は思っていた。
 自分がこの家から動かなければ、女に逢えなくなることはないのだから。

 他人の家で勝手がわからないのか、女子大学生が茶を淹れるまでにかなりの時間がかかった。
「君もこの家にあがるのははじめてなの?」
 場がもたなくて龍一郎はテキトーに話を振った。
「はい。実は私の大学の先輩は、手を切られたほうなんです。治谷智治って、上から読んでも下から読んでも、みたいな名前の人なんですけど」
 ヘンな名前でしょ、と彼女は笑う。笑うと妙に子どもっぽい女だった。
「治谷先輩とはサークルが同じだったんです。……で、先輩とそこに寝ている天清さんは幼馴染みで、二人は学力の差もあって大学は別々になったらしいんですけど、その関係で私も天清さんとは何度か会ったことがあって」
 学力の差があって、より上の大学に進学したのは天清のほうらしい。
 龍一郎と学生は今、天清を寝かせたベッドの脇に座り込み、声を低めて話をしている。離れた場所に寝かせておいて、目を覚ました天清がまた錯乱したら面倒なので、龍一郎がそうしたのだ。
 その寝室には西日が射していて、視界を程よいオレンジに染めている。
「庖丁で斬りつけられるなんて、余程のケンカをしたのかな?」
 深い意味もなく龍一郎が尋ねると、「それが」と学生が言いよどんだ。
「……私もよくわからないんです」
「わからない?」
「ああっと、……ここのところ天清さん、つらいことが続いていたらしくて」
「そうなの?」
「恋人を怒らせたあげく意味不明の言葉を告げられて、仲なおりするためにも結婚を申し込もうとしたら、恋人とはそのまま連絡がとれなくなってしまって。百万円もする婚約指輪も用意していたものですから、……ずいぶん落ちこんでいたらしいんです」
 よくある話だな、と龍一郎は右から左に話を聞き流す。
「で、……恋人絡みのことで、お父様とも疎遠になってしまったそうで、治谷先輩もそのことでは相談されていました」
「ああ。それで治谷さんが、幼馴染みの父親の肩をもつような発言をして、さっきのようなシュラバになったわけだ」
 龍一郎の言葉を受けて、学生の目が惑うように、そわ、と泳いだ。
「……ほぼそのとおりなんですけど。私も、治谷先輩から――ヤロー二人で話しても暗くなるばかりだから同席してくれ、と頼まれて」
「そりゃ、気心のしれた女の子が傍にいてくれたほうが、場は和むだろうからね」
「いえ、あの、……それがですね。確かに先輩と天清さんは、一時すれ違っていたようなんですけど。二人の間のわだかまりはとけていたようなんです。先輩からはそう聞いていましたし、ここ数日の天清さんも、先輩を受け入れていました」
 学生の目が、また泳ぐ。
 どうにも彼女自身、理解し難い状況らしい。
「恋人のことや、お父様のことは、天清さんもふっ切っていたらしくて。かわりに、ここ数日、天清さんが激しく落ちこんでいたのは、……牡丹が原因なんです」
 龍一郎の特徴的な眦が動いた。
「牡丹?」
 眦が動いたのを見ていたらしい学生の肩が、わずかに跳ねた。
「あ、ええっと、本当はその窓から見えていたらしいんですけど」
 ベッドの向こう側にある窓を指差して、学生が言った。
 つられて龍一郎は窓の外へと目を向けたが、その場所にはなにもない。
「ないけど、牡丹。その花がどうかしたの?」
 妙に「牡丹」に喰いついた龍一郎に驚いたのか、学生が目を見開いた。
 そんな彼女にはかまわずに、龍一郎は続きをうながす。
「……秋なのに、一輪の花が咲いたとかで。その花を天清さんはすっごく大切にしていたのに、ここ数日で木まで枯れてしまったんだそうです」
「枯れた」と、龍一郎は独り言のように呟いた。
「枯れてしまったことを、あまりに天清さんが嘆くから、先輩もどうにかしてやりたいと思ったらしくて。昨夜こっそり牡丹を引っこ抜いて、仕事の取引先でもある花屋に預けたんですよ。牡丹の枯れ木をなんとか元どおりにしてもらうために。……その報告もかねて、先輩は今日、仕事終わりにここに寄ったんです。天清さんを元気づけるためにもって、私も呼ばれたんですけど」
 来てみれば、と学生は項垂れた。
「私たちがここに着いたときにはもう、天清さんはかなり取り乱していて。――腰痛の薬をくれたのは彼女なのに、とかなんとか、叫ぶばかりで」
「腰痛?」
「ここに引っ越してきたときに、天清さんは腰を痛めたそうなんですけど。天清さんが言っていた〝腰痛の薬〟とか〝彼女〟とかは、先輩も私もサッパリ意味がわからなくて」
 話を聞いていた龍一郎も、いぶかしむようにして首をかしげた。
「それでも天清さんの態度から、大切にしていた牡丹が忽然と消えてしまったことに取り乱しているようだったので、先輩が持ち出したことを説明したんです。そうしたら」
「庖丁で斬りつけられた」
「そうなんです。――なんのために僕が動かなかった・・・・・・・・と思ってるんだ、って天清さん、もの凄い剣幕でした。その言葉も私たちには意味が理解できなくて」
 とりとめのない話に、学生も疲れきっている様子だった。
「牡丹の木を戻してあげれば天清さんは落ち着いてくれますかね?」
 学生の言葉を受けて、しばし龍一郎は黙考する。
「……いいや、もう、手遅れだろうな」
「はい?」
「あ、や、……なんでもないんだ」
 真顔で答えてしまってから空惚そらとぼけた龍一郎に、束の間彼女は、胡乱うろんな目を向けていた。
 なかなか鋭い観察眼をもつ学生のようだった。

     終

 とんでもないことに巻き込まれた龍一郎は、疲労困憊の状態でマンションに戻ってきた。
 そのまま和室に直行し、刀剣の載せられた水盤の前に腰をおろす。
 すでに水盤はウサギがひっくり返す前の状態に戻してあり、水も張ってある。水には、水盤の内側に刻まれた文字が大きく浮かびあがっている。
「さっきの牡丹騒動ってさ、これが原因?」
 龍一郎の膝の上でおさまりのいい場所を探して転がりながら、ウサギが訊いてきた。
 やたら「牡丹」に喰いついたのを、ウサギも奇妙に思ったようだ。
「おそらく、な。水盤の呪から解放されたもののひとつだろう」
 和室に置いてある水盤と刀剣は、鬼を制御するための道具である。
 巫祝ふしゅくは職業柄、を祓う。依頼を受け、過去に多くの鬼を祓ってきた龍一郎にとって、水盤と刀剣は大切な商売道具でもあるのだ。
 鬼を祓うにはまず、その姿を目に映さなければならない。そうして鬼の種類を見極め、即座に名を呼ぶことで支配下におくことができる。
 鬼の種類と名は『女青鬼律じょせいきりつ』という経典けいてんに記されている。見鬼けんきの能力をもつ巫祝はこれを頼りに、鬼の名を呼ぶ。そうして巫祝の目を通じ、水盤に張った水に鬼の姿を映して封じるのだ。
 水盤に刀剣が載せてあるのは、鬼が研がれた刃物を嫌うため。水盤の内側に刻まれた文字は、鬼を制御する呪言であり、これを符籙ふろくという。
 水盤・刀剣・符籙。これら三つの道具を駆使することで鬼は邪の能力を封じられ、巫祝により退治なり使役なり、されることとなる。
「水盤をひっくり返してから、鬼の制御ができなくなっていたからな」
 本日の出来事を思い出して龍一郎は大きな溜め息を吐き出した。
「てことは、やっぱり鬼なんだ?」
 責任を感じているらしいウサギは、髭をそよそよと揺らしている。
「そう。〝牡丹〟といえば、花妖かよう香玉こうぎょくだ」
「名からして、女の鬼だよね。どんな鬼なの?」
「うん? 花妖はな、花を魅力的に見せる」
 花妖は花の精であり、花の幽霊であることから「花鬼かき」と呼ばれる場合もある。
「うへ!? 魅力的に見せる、って、それだけ?」
 びっくりしたように目を丸くするウサギに、龍一郎は頷いてみせる。
「それだけだ。もとから牡丹は男に好かれる花だからな。中国・唐の皇帝だった玄宗げんそうも、楊貴妃ようきひを愛したのと同じくらい牡丹をこよなく愛していた」
「うぅんと、……楊貴妃って、〝三千寵愛在一身さんぜんのちょうあいいっしんにあり〟の女人ヒトだよね?」
 三千寵愛在一身とは、〝後宮に侍る、佳麗三千人に注がれるべき皇帝の寵愛が、楊貴妃の一身に集まった〟という意である。それほどまでに楊貴妃は、皇帝に愛されていた。
「お。よく覚えてたな。それは白居易の詩『長恨歌ちょうごんか』の一節だ。楊貴妃と牡丹をうたった詩は、李白の『清平調詞せいへいちょうし』が有名だな」
 龍一郎が教えてやると、ウサギは「ふむふむ」というふうに前肢を動かした。新たな知識を与えられて、嬉しいようだった。
 勉強家のウサギを、龍一郎は満足気に見下ろす。
「じゃあさ、彼の目に牡丹が魅力的に映っただけってこと?」
 ウサギの訊いている「彼」とは、天清秀のことだ。
 ウサギは人の名を覚えない。覚えるのは歴史に名を残した人物と、鬼の名だけだ。それはたぶん、人は一瞬にしてすれ違う存在だから覚えなくていい、と判断しているからだろう。長い時を生きるのであれば、それでかまわないと龍一郎も思っているので、これまでウサギを諭したことはない。
「そうだ。花は見る者の心を映す、という。牡丹を見たときの天清の心はたいそう弱っていたらしいから、余計に想いに重なる〝なにか〟があったのかもしれない。水盤から解放されて牡丹に宿った香玉の能力だけではない、別の〝なにか〟に惹かれたのかもな」
「ふぅん」
「牡丹は春から初夏にかけて咲くとされている花ではあるが、開花時期は秋から初夏であって、秋に花が開くのは決して珍しいことじゃないんだ。今回、一輪の花が咲いたのは花妖の能力が働いたせいもあるだろうけど、……ただな、ひとつ、わからないんだが」
 わからない、とはっきり言った龍一郎に、ウサギが耳を垂れた。それは膨大な知識を蓄えている龍一郎にしては、たいへん珍しいからだ。
「天清は、――腰痛の薬をくれたのは彼女なのに、と言っていたという。彼女というのは香玉のことだろうが……」
 そこで言葉を区切ると、ウサギが「あ」と声をあげた。
「花妖がお薬を持ってるなんてヘンだよね?」
「お。ウサギよ、今日は冴えてるな。けどな、薬自体は大して疑問じゃないんだ。古来より牡丹の根の皮は、腰痛の草薬そうやくとして使われてきた」
「あ、そっか。君は本草学ほんぞうがくの知識もあるんだもんね」
 本草とは本来、薬物書を指す。その学問を本草学といい、巫祝は職業柄、玉石・草・木・虫・獣からつくられる薬にも通暁つうぎょうしている。
「あれれ? なら花妖は、自分の根っこをかれに分けてあげてたの?」
「ソコなんだよ、俺がわからないのは。花妖が己の身を削って人に薬を分け与えるなんて、これまでに聞いたことがない」
「そーなんだ」
「おそらく牡丹の木が枯れたのは、己の根を天清に与えすぎたせいだろう。天清の言動からして、彼は香玉が幽霊であると気づいてたんだろうけど。もし天清が、香玉に恋心を抱いていたとしたら、自分の存在こそが、香玉を消してしまう原因となったんだ。悪いのは自分であって、牡丹を引っこ抜いた治谷のせいじゃない」
 治谷が牡丹を抜いたときにはすでに、花妖はその花を魅力的に見せるだけの力を失って、消えていたはず。
 庖丁で斬りつけられた治谷は、とばっちりを受けたにすぎないのだ。
「香玉が消えたって、……それって死んじゃったってこと?」
「違う。天清の庭の牡丹から離れて、別の牡丹へと移っただけだ」
「じゃあ、もう、花妖は捕まえられない?」
「もうムリだ。どこかで偶然にでも見つけない限り、俺にはどうしようもない」
 水盤をひっくり返した責任を感じているせいか、花妖を捕まえられないことにウサギは軽いショックを受けているようだった。と同時に、花妖が生きて別の牡丹に移ったことに、ホッとしているようでもあった。
「遥か昔にも香玉は、人の男と恋に落ちている」
「へえぇ」
「そのときも、香玉は愛した男と一度は別れさせられてしまうんだけれど、また廻り逢えたんだ。だが所詮、香玉は花の精。無能の人には見えない。男が抱き締めても影のようでつかめなかった」
 天清になにも告げることなく香玉が姿を消したのは、またどこかで逢えると信じていたから。それは人の考え方だろうか――そんな思いが、ふと龍一郎の脳裏をよぎっていく。
「ひょっとしたら、花に恋焦がれて溺れたのは天清ではなくて、香玉という花が天清に溺れていたのかもしれないな」
 己の身を削るほどに、天清に恋していた。
 そう思えば、花妖・香玉が男に薬を届け続けたことにも得心がいくというもの。
 花妖と天清の間になにがあったのかは、わからない。当事者ですら、知らずしらずのうちに落ちているのが恋だ。まるで落とし穴に落ちたように。気づいたときには、穴の底でもがいている。だから恋は厄介なのだ。
 瞑目めいもくして考えこんでいた龍一郎に、なにかを思い出したらしいウサギが声をかけた。
「ところでさ。彼女、いつ来るかな?」
 彼女とは香玉のことではない。夕方に知り合った、女子大学生のことだ。
「さあな、俺は別に来てもらわなくてもかまわないけど」
「ええぇぇぇ」
 ウサギが不満げな声を洩らすのには理由があった。

「ところで、ええっと、貴方は……」
 そう女子大学生に訊かれ、はじめて龍一郎は自分が名乗っていないことに気づいた。家にまであがりこんでおいて今さらだったが、それほどに巻き込まれたことを面倒に思っていたのだ。
 名乗ると、学生は律儀にぺこっと頭を下げた。
「この辺に用事でもあったんですか羽張さん?」
 問われた龍一郎は、そうだった、と膝を打った。
「そうそう、この辺りにたい焼屋があったはずなんだけど」
「たい焼?」
「鯛の形をした焼き菓子だよ」
「あー、……えと、それはわかりますんで」
「そこのたい焼は皮が薄くてパリッとしてて、つぶあんが頭からしっぽまでぎっしり詰まってるんだ。食べると、こう、あんがポロッとこぼれるほどにたっぷり入ってて」
 身振り手振りで語る龍一郎。
 気のせいではなく、トートバッグの中からも「ごくり」と唾を飲む音がした。
「すごい量のあんが入ってるのに、甘すぎなくて。その店は自宅から離れてるからたまにしか買いに来ないんだけど、他のたい焼を食べると、どうしてもそこノと比べちゃってね。久しぶりに食べたくなって、わざわざ出向いて来たんだ」
 あまりに好きすぎて力説していると、学生が「そういえば」と頷いた。
「おじいちゃまとおばあちゃまのご夫婦でやっていたお店がありましたね。でもそこ、ずいぶん前にお店をたたんじゃいましたよ」
「……え?」
 龍一郎の身体がぴたっと固まった。
「なんでも、おじいちゃまが亡くなられたとかで」
 まるでタライが天井から落ちて頭を直撃したように耳許みみもとには「ガーン」と音が響いている。龍一郎は再起不能になりかけた。
「……そっ、そうなのか。あのじーさん、亡くなってしまったのか。……あのフォルム、あの味、どれもが完璧な絶品だったのに。く……もう二度と食べられないとは」
 がっくり項垂れるというよりは、顔にドス黒い影を浮かべて絶望している龍一郎に、学生が苦笑した。それほどに龍一郎の姿は悲惨だった。
「あの、もしよろしければ、ですけど。私、おいしいたい焼屋さんを知ってるんです。たぶんご希望に添えると思うので、今度、買って届けますよ」
「……君が?」
「はい。今日、ご迷惑をおかけしたので。そのお詫びというか、お礼というか」
 どうしたものか龍一郎が返事に窮しているうちに、学生は手帳を取り出し、
「住所を教えてくれますか?」
 などと、質問攻めにする。断る素振りを見せれば、子どものように口を尖らせていた。
 断る隙も与えられずに詰め寄られ、大好物のたい焼がかかわっていることもあって、龍一郎はついうっかりマンションの住所を教えてしまったのだ。
 本来、隙がないのは龍一郎のほうなのに、そのうっかりはとても珍しいことだった。
 学生は「各務かがみ理科りか」と名乗った。

 人の生は短いな、と龍一郎は嘆息する。
 ほんの少し・・・・・会わない間に死んでしまうのだ。
 それほどに人はもろく、生き抜くことは難しい。
「彼女、たい焼いっぱい買ってきてくれるといいな」
 不満げな声を洩らしていたウサギを見てみれば、涎を垂らさんばかりの期待顔を浮かべている。喜びのせいか、態度はせわしない。
「あんまり期待するなよ。理科は学生だろ、そんなに金は持ってないだろうしな」
「ムダにお金持ちの君よりは、いっぱい買ってくれると思うけどっ」
 スーツを買いすぎてたい焼が買えなかったことを、ウサギはまだすねているようだった。許してくれたはずなのに心が狭いな、と龍一郎も少し意地悪をしたくなる。
「理科が来たとき、お前は一ミリも動くなよ」
「ふぬっ!?」
「だって、そうだろ。お前はピンク色をしたウサギのぬいぐるみなんだから」
「そっ、そうだけど。全然動かないなんてムリっ」
 その言葉を待っていた龍一郎はニヤりと笑った。
「なら、お前に禁呪きんじゅ呪言じゅごんを伝授しよう。この呪はな、気や念の力を使って身動きを封じる方術ほうじゅつだ。自分の体に、自分で金縛りの術をかければいい。そうすれば理科がここにいる間、ぬいぐるみになりきれる。いいな」
「ええぇぇぇ」
 ウサギの不満たらたらの声は、いつまでも続いていた。
 理科がここを訪れている間は隠れていればいいだけなのに。
 まだまだツメが甘いウサギに、龍一郎は朗らかに笑っている。




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