雪冤の雪(せつえんのゆき)

碧井永

文字の大きさ
1 / 8

序 それぞれの邂逅

しおりを挟む
 鵞毛のような、優しい雪が降っている。
 ここは北方の山を越えたその先に広がる、人の住まない原野。
 いつものように男は、果てのない白銀一色の雪原を散歩していた。幾月もかけて降り積もった厚い雪に足をとられることもなく、男はただひたすらに歩いている。男にはこれといってすることがないので、無心で歩くことが日課のひとつとなっていた。
 雪雲に覆われた今にも落ちてきそうな重そうな空には、降る雪にかまうことなく一羽の雀が飛んでいる。その色は青と金。時折、金色が雪に反射して、微かな輝きを放っていた。
 空を飛ぶ雀の輝きが近くなった気がして、男はふと立ち止まった。降る雪をたどるようにして空を仰げば、ちょうど雀が前方に舞い降りてくるところだった。
 珍しいこともあるものだと、男は思う。
 この雀は雪の積もった大地が苦手なのか、散歩のときは男の差し出した掌にしかとまらない。そんな雀に悪い気はしなかったので、男もそれをとがめることなく好きにさせていたのだが、今日はどういうわけか雪原に降りたのだ。
 けれど、雀の行動にそれほど興味があるわけでもないので、再び歩きだした男の歩調はかわらない。別段急ぐわけでもなく雀に近づいていくと、男は器用に片方の眉を跳ね上げた。そこに一人の女が倒れていたからだ。
 俯せで倒れている女は褞袍(うわぎ)を着ているものの、雪山に入るような恰好でもない。どうして民家のない雪原で倒れているのかわからず、女の事情に関してまったく興味がなくても、行き倒れている原因はわかった。
 空腹と凍傷だろう。
 すでに死んでいるかと、男は片膝をつく。
 覗き込んでみればなかなか若い女で、男は目を瞠った。女の下には、庇われるようにして赤子がいたのだ。どちらもまだ、生きていた。
 生まれたばかりのように見える眠る赤子と女を見比べていると、女が濃い睫を震わせて目蓋を上げた。絡み合った運命の糸をふりほどくようなその眼差しに、男の視線は知らずしらずのうちに吸い寄せられる。
「……この子を、どうかお護りくださいませ」
 たまゆらのような、さやかな女の声音。それはしかし、女の命がほどなくつきることを男に教えた。
「お願いでございます、……この子だけはどうかお見逃しを」
 男は散々迷い、結局は動かない。
 女の双眸に男が映っているのかも判断できないような死の淵で、女はいくつかを語った。
 そして最期に。
「わたくしのことはよいのです。できますことなら、あの御方をお助けくださいませ」
 女は男の声を一度も耳にすることなく、雪の中でひっそりと息をひきとったのだ。
 人の命が絶えても、想いを無視して雪はかわらず降り続く。
 それは葬送のように。
 あのときぽつりと胸に湧いた感情に、男が名をつけることのできぬまま。

 時だけがゆらゆらと流れていく――。

 琅邪(ろうや)郡の北側にそびえる馬嵬山(ばかいさん)に入って、半日が経っていた。
 左右を草木におおわれた山道は、ゆるやかな上り坂が続いていて馬に乗ったままでも踏み込んでいけるので、そう疲れてはいない。早春の柔らかな陽射しを身に受けながら、ひと気のない山道を青年はゆっくりと馬を進めていく。
 ふわりと吹き抜けた春風に額髪を煽られた直後、宙に舞うなにかが青年の視界をかすめた。それは青と金に輝くもので、なんだろうと青年は馬を降りる。
 生い茂る草にためらうことなく、青年は山道を逸れて山の奥に足を踏み入れた。しばらく歩くとそこは崖になっていて、さてどうするかと青年は崖の縁に立つ。
 先程の青と金に輝くものは、風に舞った花びらではないかと青年は思っていた。それにしても珍しい色のとり合わせだったので、どんな花なのか一目でも見たかったのだ。しかし見回してもそれらしい花はない。では崖に生えているのかと、青年は下を覗き込む。
 ほぼ垂直な険しい崖は、二階建ての建物よりも高さがあるような気がする。花はどこかと、更に身を屈めたとき、
「ちょっと貴方っ!」
 突然に声をかけられた。
 身をかがめたままで声のしたほうへ首を回すと、そこに一人の少女が立っている。互いの視線が絡んだ刹那、青年の中で時が巻き戻り、うかつにも崖の縁に立っていることを忘れて足を踏み出してしまった。
「うっ、わッ」
「ええっ、うそでしょ」
 叫んで走り寄った少女が手を差し延べてくれたものの間に合うはずもなく、青年は見事に落下した。

 ぶつけた背の痛みのせいで、しばらく青年は落下したままの恰好で動くことができなかった。やっとのことで半身を起こした頃、先程の少女が青年の馬の手綱を引いて捜しにきてくれた。
「貴方、大丈夫?」
 青年を見つけてすぐに駆け寄ってきた少女が、心配顔で覗き込んでくる。
「……ああ、平気のようだ」
 蒼ざめる少女は目を見開いた。
「あの高さから落ちて平気なんて、貴方よっぽど頑丈にできてるか強運のもち主なのね」
 つくづく感心したように言ってほがらかに笑う少女の手が、すっと伸ばされる。
「なんだ?」
 とっさによけた青年に、少女が「頬と手の甲に切り傷があるから」と言った。
「この桜草を傷にあてがっておけば、ちゃんと手当てしなくてもすむの」
「それ、……本当?」
「あ、疑ってる? あたしね、巫祝(ふしゅく)のところで働いてるから薬の知識はあるのよ。今日はね、春先の薬草をとりに来てたんだ」
 脇に置かれている籠の中を見せて、気分を害した様子もなく少女は笑った。
「巫祝って、呪術使いのことだろう?」
 巫祝といえば、仙人と同じ摩訶不思議の方術を扱える者のことだ。
「あー、まあフツーはそう思うのかもね。でも、うちの巫祝は現実的なことしかできないよ。薬草を煎じたり、占ったり、風水の助言をしたり。そっち方面の腕なら確かで、とくに風水はご近所でも評判なのよ」
「……ふうん」
「それで貴方、こんな僻地の山になにしに来たの?」
「ああ、太原(たいげん)を見たくて」
 桜草を片手に、少女が安心したような息をついた。
「なんだ、よかった。崖を覗き込んでいるから、あそこから飛び降りるつもりなのかって」
 どうやら少女は、青年が身投げするとでも勘違いしたらしい。
「馬が乗り捨ててあったから。ごめんなさい、もしかしてあたしが声をかけたから驚いて落ちちゃった?」
 青年は苦笑した。少女のせいで落ちたのだが、それは声をかけられたからではない。
 それにしても、と青年は首を傾げた。
 先程見たときは確かに似ていると思ったのに、傍で眺めてみれば彼女の顔はごく普通なのだ。
「太原ね、まだ無理よ」
「そうなのか?」
「もっと暖かくならないと。馬嵬山を越えた向こうは、たぶん、まだ雪が降ってるもの」
 ならば出直すしかないだろう――手当てをしてもらった青年は、おもむろに立ち上がる。
「……ねえ貴方、本当に平気? 実は骨が折れてました、とか言わないよね?」
 本気で心配してくる少女に、青年は心からの礼を述べる。なんとなく離れがたい気もして、怪我のないことを主張するようにして山道の途中まで少女を送っていくことにした。
 その別れ際。
 歩きだした少女が足を止め、振り返ったときの顔には、崖から落下した青年に手を差し延べてくれた刹那と同じに相手への想いが溢れていて、青年は忘れることができなかった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています

浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】 ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!? 激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。 目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。 もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。 セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。 戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。 けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。 「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの? これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、 ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。 ※小説家になろうにも掲載中です。

【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。

ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。 彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。 婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。 そして迎えた学園卒業パーティー。 ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。 ガッツポーズを決めるリリアンヌ。 そのままアレックスに飛び込むかと思いきや―― 彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。

アラフォー幼女は異世界で大魔女を目指します

梅丸みかん
ファンタジー
第一章:長期休暇をとったアラフォー独身のミカは、登山へ行くと別の世界へ紛れ込んでしまう。その場所は、森の中にそびえる不思議な塔の一室だった。元の世界には戻れないし、手にしたゼリーを口にすれば、身体はなんと6歳の子どもに――。 ミカが封印の箱を開けると、そこから出てきたのは呪いによって人形にされた大魔女だった。その人形に「大魔女の素質がある」と告げられたミカは、どうせ元の世界に戻れないなら、大魔女を目指すことを決心する。 だが、人形師匠はとんでもなく自由すぎる。ミカは師匠に翻弄されまくるのだった。 第二章:巷で流れる大魔女の遺産の噂。その裏にある帝國の侵略の懸念。ミカは次第にその渦に巻き込まれていく。 第三章:異世界で唯一の友人ルカが消えた。その裏には保護部屋の存在が関わっていることが示唆され、ミカは潜入捜査に挑むことになるのだった。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

処理中です...