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30.恋人

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『…今あけるので、あがってください』

オートロック式のエントランスのインターフォン越しの犬飼の声は肉声のときより硬質に感じた。それは機器ごしのものだからという理由だけでないことはわかっていた。

『どうぞ』

静かに開いたドアから入り、そのまま受付のコンシェルジュの前を通ってエレベーターに乗る。
いつもはうるさいほどにじゃれつく犬飼の不在が、無機質な廊下をさらに無機質に見せていた。
あがってくるタイミングを見計らっていたのだろう。
桐原が玄関のインターフォンを鳴らす前に扉が開き、犬飼は桐原を招き入れた。
すでに帰宅して寛いでいたのか、Tシャツにデニムといつもよりラフな格好になっている、

玄関の内側には入れはしたものの、犬飼は桐原の行手を阻むように玄関に立った。大きな体で立ちふさがられると、通れなくなってしまう。
通ろうとしてならず、桐原は犬飼を見上げた。

「話がある」

「…何のですか?改めてパートナー解消の話?」

空気がいきなり凍りつく。

「いいから、とりあえず入れろ」

「やです」
 
犬飼は珍しく拒否した。顔が強張っている。

「だって、桐原さん他の人とプレイしたんですよね。隠していても顔色見たら分かりますよ。」

「隠したつもりはないし、とりあえずそのあたりも踏まえて、話がある。入れろ」

だが、犬飼は壁になってしまったかのように動かなかった。
いつもは人懐っこい笑みを浮かべている顔は固く陰鬱だった。

「こういう時まで命令しないでくださいよ。だいたいパートナーでなければあなたと僕はただの上司と部下でしょ。しかも下っ端の俺は直属ですらない。話をするだけならここで充分でしょう。僕が部屋に入れるのはパートナーか恋人って決めてるんです」

分厚い壁と化している犬飼を、桐原はじっと見た。
体だけでなく、心にも分厚い壁がある。
苛立たせてなんとかおい返そうとこの若い男は考えているのだろうが、ひとまずその壁の内側に入る必要があった。

「じゃあ恋人になってやる」

「……はい?」
 
我ながら上から目線である思ったが、犬飼の意表をつくには充分だったらしい。
必死に築いていた壁は容易くひび割れ、素の表情が垣間見えた。

「…俺のことが好きって言ったのは、嘘だったのか?」

「あっ…え?いや…」

犬飼は急にしどろもどろになった。
焦り、戸惑い、苛立ちが順番にその顔をよぎるのを桐原はじっと見守った
戸惑いの中に、押し殺した期待とそれを取り上げられることを恐れが透ける。
一見犬飼の態度は変わらなかったが、言葉はだんだんと語調の強さを失ていった。

「からかうのはやめてくださいよ。俺とプレイするの、気が進まなそうだったじゃないですか」

「ずっとだったわけじゃないだろ」

嫣然と笑うと、桐原は肩で犬飼を押した。
ゆらぎ始めた壁は今度は簡単に彼を通した。


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