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9.スパダリは1日にして成らず

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目がさめたら見知らぬ天井…

…ではなかった。
  
怜がはっと意識を取り戻すと、自分のデスクの横に椅子と椅子をくっつけて寝かされていた。

「あ、田中さん起きましたよ!」

視界の中女性社員たちがひょこひょこと心配そうに顔を出し、最後に牧野がのぞきこんできた。

「かちょお……?」

「田中さん、いきなり倒れたんだよ。貧血起こしたのか後ろに倒れてくるからびっくりしたよ。起きないでもうすこし寝ていなさい」

どこも痛くはないから、どうやら倒れたときに牧野が近くにいたので支えてくれて頭を打たないですんだらしい。
頭を打たなくてよかったと思いながら起きようとした怜を牧野は止め、ペットボトルを渡してくれる。
冷えたペットボトルがひやりととても気持ちがよかった。

「寝かせるのにベッドのほうが楽だとは思ったけど……」

牧野は言いにくそうに言葉を濁した。
社内でベッドのあるのは休憩室であるが、以前怜が清人と間違いを起こしてしまった場所なので気を使ってくれたのだろう。
あの時の事はあまり思い出せないが、ひたすら身体が熱かったことと、ぼんやりした飛び飛びの記憶が残っている。


――来宮の普段は冷たさを帯びた目に強い欲情が宿り、鋭く飢えた獣のような色を帯びた瞬間。

――その瞬間、身体の中に燃えあがった高揚感。

――上に重なった来宮の熱い身体。

――内側をぴったり埋めたαの象徴の脈動と、中を濡らされる感触がもたらした恍惚。

そして、本能が満たされた、たまらない充足感……

感覚が蘇ってしまいそうになり怜は淫猥な記憶にあわてて蓋をした。
快楽の記憶もあるが、同時に忍びよってくる不安を伴う場所でもある。
休憩室だと確かに色々な意味で心穏やかではいられなそうだったので、牧野の配慮をありがたく思った。

「今日は帰りなさい」 

牧野に穏やかだが確固として告げられてしまい、
でも…と、断ろうと思ったが周り一同も一丸となり早退するように言われ押し切られてしまう。
もう少し休んで充分回復してから退勤するように命じると牧野は心配そうに言った。

「田中さん、本当に大丈夫かな?」

「ありがとう…ございます」

「お母さん…いや、お父さん…うーん、田中さんが産んだからお母さんでいいのかな。お母さんは家庭の太陽だからね。いつもがんばってるんだからがんばりすぎたら駄目だよ。がんばらなくてよいときもあるからね」

その声は思いやりに溢れていて、最近直接的な優しさに触れてなかった怜は牧野の優しい声と言葉に涙が出そうになる。
自分でもナーバスになってるなと思う。
牧野には番のΩがいると聞いたことがあり、薬指にも指輪がはまっていて外しているのを見たことがない。
牧野のような穏やかで大人なαとその番のΩならきっととても穏やかな家庭なのかもしれない、なんだか羨ましいとふと思った。

「来宮が来週から出社しはじめるみたいだし、色々環境変わるから大変かもだしな」

「……実は僕はその話さっき知ったんですけどね…まだ本人から聞いてなくて」

家族である自分が会社の人より後に知るって、どういうことなのかと、怜はもう不貞腐れたい気分になった。

「…喧嘩でもした?」 

「喧嘩できればまだいいんですけどね…」

「あー、なるほど」

暗い顔になった怜に、牧野は得心いったというようだった。

「αってさ、優秀だって言われるし実際生まれつきそうなんだけど、その分めんどくさい生き物なんだよね。欠点ってどんな人にも1つはあるものなんだけどプライド高いから受け入れがたかったり、大事な人に弱い部分みせられなかったりとかさ」

「課長もそういう部分あるんですか?」

「…そりゃあね。今は年とったから少しはマシになったかな。まあスパダリは1日にして成らずだから」

「スパダリは1日にして成らず」

うまいキャッチフレーズのように言うので、怜は思わず笑ってしまった。
牧野は自嘲的な笑いを浮かべていた。
怜の知る中で最も完璧なα男性に見える牧野にそういう部分があるとは思えなかったが、慰めてくれているのだなあと解釈した。

「来宮は若いし、社会人なったばかりで経験が少ないまま家庭と子供もって、そういう折り合いをつけるのがまだ難しいんだろう。でもだからって田中くんが全部赦して耐えることもないとも思うし」

「耐えてるつもりはないんですけどね…」

家事、育児、仕事。
何となくやって、やれてしまって、そのままやってきたけれど、こうやって倒れてしまったのだから確かに無理をしていたかもしれない。
キツイとか、疲れたとかあまり思わなかったが…というか、がむしゃらにやってきて考える暇があまりなかったが、お互いにストレスを貯めて共倒れより前向きに距離をおく…という選択も考えてしまい、怜の心は乱れた。

「恋愛ってくっついたらクライマックスだけど、結婚は毎日の積み重ねだから大変だよね」

「ほんと、そうです…」

大変さの中にも幸せはちゃんとある。
だが、どうするのがベストなのかは答えがでなかった。
結局、答えなどないのかもしれなかった。


*


清人が復帰して会社に行き始めたのはその次の週のことだった。 

うららかな春の日――気がつけば立夏は歩きはじめていて、彼らふたりの息子はもうすぐ一歳になろうとしていた。

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