聴こえない声たち

水守 葉

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第一章

無彩の森

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朝靄が、山裾から静かに立ち上る。
湿った空気の層が森を包み、音の輪郭がにぶく、けれども深くなる。鳥のさえずりも、葉がそよぐかすかな音も、鋭利な刃のように明瞭に聞こえた。

主人公——名を蓮(れん)という——は、森の入り口に立ち、足元の土を見つめていた。彼には視力があった。むしろ、常人よりも遥かに鮮明に世界を見る目を持っていた。

けれども、その世界には色がなかった。

赤も、青も、金も、彼にはわからない。
彼の世界は、濃淡と輪郭、光と影だけで編まれていた。

そして、触れるという感覚もまた、彼には遠い。
雨粒が頬を伝っても、それが冷たいのか温かいのか、彼には知る術がない。
ただ、音と形だけが、彼の世界を満たしていた。

「ここは……静かだ」

そう呟いた声は、自分自身に語るように、あるいは森に許しを請うように、やわらかく響いた。
蓮は言葉を大切にする。言葉には、重さと温度があるからだ。自分が持たぬ感覚を、言葉は補ってくれる。

森の奥へと一歩、また一歩、踏み込むたびに、音が変わる。
葉の擦れる音。小さな虫の羽音。足元の土が押し返す乾いた音。
それらの音が幾層にも重なりあい、一つの大きな呼吸のように、森という存在を語っていた。

蓮はふと、倒木の上に腰を下ろした。
腰掛けた感覚は、もちろんない。けれども彼にはわかる。木の肌理(きめ)の粗さ、太陽を浴びた温度、それらを音と空気の反射で、心の中に像として結ぶことができるからだ。

「……人間にとって、世界とは何だろう」

誰に問うでもなく、彼はまた言葉をつむぐ。
「色か。触れる感覚か。香りか。あるいは……記憶なのかもしれないな」

鳥が一羽、頭上を横切った。その羽ばたきの音は、研ぎ澄まされた刃のようだった。
彼はその音に美しさを感じた。それは、彼にとっての「色」だった。

しばらくして、風が木々を撫で、森全体が揺らめくような音を立てた。
蓮はその音に、誰かの深いため息を聴いたような気がした。

「この森には、触れられない優しさがある」

触れることができないからこそ、蓮は世界を遠くから見つめる。
だがその距離が、かえって物事の真芯を見通す静けさを生んでいた。

人は、触れられるものに安心し、色に喜びを感じる。
けれども、触れられないからこそ、壊れずに残るものもある。
色がわからないからこそ、純粋なかたちとして美しさを宿すものもある。

そして蓮は思う。
もし人生に「意味」があるとしたら、それは感覚に依存しない、もっと静かで深いところに潜んでいるのかもしれない、と。
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