聴こえない声たち

水守 葉

文字の大きさ
2 / 20
第二章

音の縁

しおりを挟む
その朝、蓮はふだんより早く目を覚ました。
窓の外はまだ青白く、街のざわめきも始まっていない。
目を閉じれば、遠くで新聞配達の自転車が歩道の段差を越える音、道に並んだ木々が風に揺れる音が、正確に距離を保ったまま耳に届く。

彼は、めったに街には出ない。
人の声が折り重なる場所にいると、音があまりに複雑で、意味を成さなくなるのだ。
色がない世界にいる彼にとって、音は思考そのものであり、触れられぬ感覚のかわりに世界をなぞるための手段でもある。
それが、ざわめきに掻き消されてしまうのが、こわかった。

けれどその日は、外へ出ようと思った。

理由はなかった。
いや、理由のない動きというのは、むしろ深いものだ。
森が理由なく芽吹くように、雲がかたちを変えるように。

彼は、耳を澄ませながら街路を歩いた。
アスファルトの冷たさも、店先にぶら下がった旗の揺れる布音も、目に見えるように感じ取れた。
道端にしゃがみこむ子どもがいた。白線に沿って小さな石を並べている。その小さな掌から石が離れるたびに、カツン、と乾いた音が響く。

蓮は、かすかに笑った。
その音に、規則があった。
子どもの中でだけ通じる法則。誰にも教わらなかったはずなのに、秩序が宿る。

「この世界は……言葉になる前の思考でできているのかもしれない」

思わずつぶやいたその言葉に、すぐ近くを通り過ぎた老婦人が一瞬、立ち止まる気配があった。
だが、彼女は何も言わずにまた歩き出した。
たぶん、彼の声は空に溶けるように、誰にも届かない程度の小ささだったのだろう。

蓮は、ある公園のベンチに腰を下ろした。
目の前には、街にしては珍しく手入れされた花壇がある。
何色の花が咲いているのかはわからない。
けれど、花が風に揺れるその音——茎がこすれ、花弁がかすれ合う、わずかに柔らかな音の層は、色彩以上に豊かな情報を運んできた。

そこに色があることは、彼にもわかる。
世界が息をしているのが、音のなかに生きているのだ。

「もし世界が静かすぎたら、人は自分の声に耐えられなくなる」

蓮はそう思った。
だからこそ、街には音が満ちている。
人々の会話、車のエンジン、買い物袋の擦れる音……それらは、他者の存在を確認するための「ざわめき」だ。
そして彼は、自分がそのざわめきの中では希薄な存在であることを、どこか安心して受け入れていた。

ふと、耳にひときわ澄んだ音が届いた。
チェロだった。
低く、深く、まるで大地の底から湧きあがるような旋律。
見ると、公園の一角で、一人の青年が古びたチェロを抱えて演奏していた。

蓮は目を閉じた。
その音は、触れたことのない感触を、心に模倣させた。
それは絹のようでもあり、湿った土のようでもあった。
音が彼に触れてくるのだ。

「世界には、音だけで伝わるものがある」

色のない彼の世界に、音がひとつの「縁(ふち)」を描く。
その縁は、記憶とも、夢ともつかない形をしていた。

蓮はそのまま、しばらく目を閉じていた。
チェロの旋律が、街のざわめきと溶け合っていく様子を、彼は静かに見送った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

処理中です...