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第四章
触れなかった掌
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森に光が差し込むのは、いつも午後の少し前だ。
葉と葉のあいだにできた隙間から、まばらな光が斜めに射し込み、空気の粒を照らし出す。
その光の筋に、蓮はよく立っていた。
それは視覚ではなく、温度や色の代替でもない。ただ、音に対して輪郭を与えるものとして、光は彼の中に在った。
その日もそうだった。
立ち止まったまま、彼は一つの記憶を思い返していた。
それは、子どものころの、ある曖昧な出来事だった。
ある雨の夕方だった。
少年だった蓮は、濡れた靴のまま、祖母の庭に迷い込んでいた。
当時はまだ視覚も聴覚も今ほど鋭敏ではなく、色がないことや触れられないことへの違和感の正体を、言葉にできずにいた。
そのとき、不意に背後から、誰かが彼の手をとった。
手のひらは細く、あたたかく、やわらかかった。
彼は驚いて振り向いたが、そこには誰もいなかった。
けれど確かに、「手を握られた」と感じたのだった。
錯覚だと、大人たちは言った。
医者は神経の過敏か幻覚の一種だと告げた。
だが、蓮にとってその感覚は幻ではなかった。
音がしたのだ——皮膚の上に、何かがふれて、動いていくような音。
それが、蓮の生涯でただ一度の「触れた感覚」だった。
「それは……人だったのか?」
蓮は倒木の上で、呟いた。
あのときの掌が、本当に誰かのものであったなら——
それは、いったい誰だったのだろうか。
風が静かに吹きぬけ、木の葉が裏返る音が連鎖的に続く。
彼は思う。「触れられない」ことと「触れない」ことは、きっと違う。
触れられない者でも、誰かにとっては触れられる存在になれるかもしれない。
蓮は立ち上がった。
記憶は過去ではない。今もここに、音とともに生きている。
その時、ふいに森の奥から音がした。
人の足音だ。
重心を落とし、静かに歩く訓練された足取り。
滅多に人の来ないこの森で、誰かが近づいてくる。
蓮は耳を澄ませた。
葉を避ける音、土を踏む音、呼吸の間——そのどれもが、やさしかった。
そして、かすかに、かすかに。
あの記憶と同じ、手のひらの音がした。
蓮は目を見開いた。
それはあのとき、確かに自分の手を包んだ感覚と、寸分違わぬものだった。
今ここに、その音がある。
「……君か?」
言葉は音となり、空へ投げられた。
誰かに届くことを、彼ははじめて、願った。
葉と葉のあいだにできた隙間から、まばらな光が斜めに射し込み、空気の粒を照らし出す。
その光の筋に、蓮はよく立っていた。
それは視覚ではなく、温度や色の代替でもない。ただ、音に対して輪郭を与えるものとして、光は彼の中に在った。
その日もそうだった。
立ち止まったまま、彼は一つの記憶を思い返していた。
それは、子どものころの、ある曖昧な出来事だった。
ある雨の夕方だった。
少年だった蓮は、濡れた靴のまま、祖母の庭に迷い込んでいた。
当時はまだ視覚も聴覚も今ほど鋭敏ではなく、色がないことや触れられないことへの違和感の正体を、言葉にできずにいた。
そのとき、不意に背後から、誰かが彼の手をとった。
手のひらは細く、あたたかく、やわらかかった。
彼は驚いて振り向いたが、そこには誰もいなかった。
けれど確かに、「手を握られた」と感じたのだった。
錯覚だと、大人たちは言った。
医者は神経の過敏か幻覚の一種だと告げた。
だが、蓮にとってその感覚は幻ではなかった。
音がしたのだ——皮膚の上に、何かがふれて、動いていくような音。
それが、蓮の生涯でただ一度の「触れた感覚」だった。
「それは……人だったのか?」
蓮は倒木の上で、呟いた。
あのときの掌が、本当に誰かのものであったなら——
それは、いったい誰だったのだろうか。
風が静かに吹きぬけ、木の葉が裏返る音が連鎖的に続く。
彼は思う。「触れられない」ことと「触れない」ことは、きっと違う。
触れられない者でも、誰かにとっては触れられる存在になれるかもしれない。
蓮は立ち上がった。
記憶は過去ではない。今もここに、音とともに生きている。
その時、ふいに森の奥から音がした。
人の足音だ。
重心を落とし、静かに歩く訓練された足取り。
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蓮は耳を澄ませた。
葉を避ける音、土を踏む音、呼吸の間——そのどれもが、やさしかった。
そして、かすかに、かすかに。
あの記憶と同じ、手のひらの音がした。
蓮は目を見開いた。
それはあのとき、確かに自分の手を包んだ感覚と、寸分違わぬものだった。
今ここに、その音がある。
「……君か?」
言葉は音となり、空へ投げられた。
誰かに届くことを、彼ははじめて、願った。
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