聴こえない声たち

水守 葉

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第五章

風のほうへ

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誰かが、いた。
蓮の聴覚は、風の向こうから微かな足音を確かに拾っていた。
森の空気が張り詰め、音が冴える。
それは、葉の下に隠れていた小動物の足音とは明らかに違った。
土を踏む質量と、呼吸の音。
それは、「人間」の音だった。

蓮は、わずかに首をかしげる。
この森で、人と出会うことなどめったにない。
しかしその気配は、懐かしいほど自然に、彼の世界へ入り込んできた。

一歩、踏み出す音。
また一歩。
それは、彼の記憶の中にある「あの日の掌」が歩いているような錯覚すら抱かせた。
音だけが世界の輪郭を描く蓮にとって、それはもう、視覚よりも確かだった。

「……誰?」

問いかけた声は、風に押されて空へ逃げた。
返事はない。
けれど足音は止まらず、少しずつ、少しずつ彼に近づいてくる。

蓮の手が、無意識に動いた。
触れることはできない。けれど、なぜだか手を伸ばしてみたくなった。
音の持ち主に、掌のかたちを見せることで、自分がここにいると伝えたかった。

その瞬間、風が大きく森を揺らした。
木々がざわめき、葉が雨のように音を立てる。
そのすべての音の隙間を縫って、一つの声が届いた。

「あなたの声、森の音に似ているね」

蓮は、目を見開いた。
女の子の声だった。
やわらかく、けれど芯があり、蓮の声と同じように静かに言葉を選んでいた。

「……聞こえていたのか」

蓮の問いに、再び声が返る。

「うん。遠くから、何か呼んでるように感じたから。だから……来たの」

足音が、もう二歩ぶん近づいた。
だが彼女の姿は、まだ見えない。
逆光に紛れて、声と足音だけが、彼に届いている。

「あなたは……ここで、何をしてるの?」

少女の問いは、無垢だった。
しかし、蓮には深く刺さった。
何をしているのか。なぜここにいるのか。
蓮自身も、それを言葉にしたことがなかった。

「……世界の音を、聴いていた。
 それが、触れられるものだから」

蓮は答えた。自分でも気づかないうちに。

少女は、また一歩進んだ。
その音は、蓮の心の鼓動と重なったように感じられた。

「じゃあ、わたしの声も、触れられる?」

蓮は黙った。
答えは、彼のなかでずっと前からあった。
触れられる。確かに、音で触れられる。

「……君の声は、やさしい風に似てる。
 だから、ちゃんと届いてるよ」

少女は笑った。音でわかる。
乾いた葉の上で、かすかに体が揺れた音。
呼吸が少しだけ跳ねた音。

それは、色よりも確かな「反応」だった。

蓮はそのとき、ふと思った。
音は世界の「かたち」だけではなく、「関係」をもつくるものかもしれないと。
それが見えなくても、触れられなくても——たしかに生まれていくものなのだと。
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