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不満というほどの不満ではない
しおりを挟む腹が立って仕方がないわけではない。
大喧嘩をしたこともない。
あいつは何でもそつなくこなして、当たり障りない対応をする。
だから喧嘩にすらならない。
けれど、好きでもない。
──いや、第一印象は良かった。
10年ほど前だ。
すぐに、つまらないと思ったが。
初めて会ったとき深いワインレッドの髪をきちんと撫でつけ、同じ色の瞳で静かに礼をした少年は、まるで絵画から抜け出したように整っていた。
高い鼻梁、冷たいほど端正な顔立ち。
完璧な礼儀作法。
誰が見ても、将来有望な公爵家の跡取りだった。
だが、一緒に遊んでいても「そこは危険だからダメ」だとか「王族としての振る舞いをせねば」とか、安全圏でしか動かない。
政務も公務も外交もすべて、そう。
そして、仮面を着けたような表情で、本心は何を考えているのかわからない。
王女の婚約者として、そして公爵令息としての“正しい振る舞い”だけをする。
──本音が見えない。
それを薄ら寒く感じてきた。
朝の光を受けて、馬車の窓が淡くきらめいていた。
揺れは少なく、王家専用の四輪馬車らしい静かな走りだ。
「殿下。孤児院の慰問の前に、被災地に関する会見でお言葉を述べていただきますので、スピーチに目を通してください」
低く落ち着いた声。
必要なことだけを告げる婚約者。
「わかった」
受け取った書類に目を走らせる。
整っている。誤りもない。
だが、当たり障りない定型文だ。
ダメではないが、胸に残るものもない。
「そちが作ったのか?」
「ええ。その方が早いので」
──だろうな。
完璧で、無難で、誰も傷つけず、誰の心にも刺さらない。
「そうか……ご苦労」
軽く礼を返したクラウスは、窓から差す光に照らされてなお表情を変えない。
氷の彫像に礼を返されたような感覚だけが残る。
馬車は学園の門をくぐり、ゆっくりと停まった。
王立貴族学園のロイヤルルームは、昼の陽光が大きな窓から差し込み、白いテーブルクロスを明るく照らしていた。
壁には王家ゆかりの絵画が並び、静謐な空気が漂う。
今日の昼食は好物ばかりだった。
香草を添えた白身魚のソテー、焼きたてのパン、甘い果実のタルト。
どれも私のために用意されたものだ。
けれど、あいつと2人で食べても楽しくない。
砂を噛むような──とまでは言わないけれど、味気がない。
向かいに座る婚約者は制服の襟を正し、姿勢を崩さず淡々と食事を進めている。
彫りの深い横顔は相変わらず無表情で、貴族の中の貴族といった顔つきだ。
フォークを持つ指先まで完璧で、そこに人間味というものがほとんどない。
私はタルトを一口かじりながら、胸の奥に沈む重さを持て余していた。
どうして、こうも心が動かないのだろう。
放課後。
校舎裏の静かな通路を歩いていると、古い倉庫の方からガタガタと不穏な音が響いた。
風ではない。
誰かが中で暴れているような、重いものが倒れるような音。
同級生にして側近のロザンナが、すぐに前へ出た。
鋭い琥珀色の瞳が、一瞬で戦士の色に変わる。
「下がってください」
「一体なんだ? 開けてみろ」
「安全なところまで、お下がりください」
言いながらも、彼女はすでに剣の柄へ手を添えている。
私は数歩だけ後ろへ下がり、扉が開く瞬間を見守った。
ロザンナが取っ手を引くと、勢いよく人影が転げ出てきた。
泥まみれで、制服は土埃にまみれ、膝も肘も擦りむけている。
淡いピンク色の髪が乱れ、光を受けてかすかに輝いた。
「あ……あ……助けていただいて、ありがとうございます!」
顔を上げた少年は、ピンク色の瞳を大きく見開き、怯えた小動物のように震えていた。
まつ毛が長く、泥だらけでも可愛らしい顔立ちだ。
「別に助けてない。そちが勝手に出てきたのだ」
「あ、えっと、そうですね……」
照れたように頬を赤くし、視線を泳がせる。
「……そこで何していた?」
「え、あ……その……話したこともない生徒に突然殴られ、閉じ込められてました」
見ればわかる。
だが、一応聞いた。
ロザンナが低く問う。
「どこのクラスの誰かわかるか?」
「いえ、今日編入してきたので……」
長い黒髪を揺らすナディアが、覗き込むように問う。
灰色の瞳は冷静で、状況を一瞬で把握する。
「ルネ・フィリップス男爵令息ですね?」
「えっ、ええ、よくご存じで……」
「生徒の基礎情報は把握しています。
今回の件は、こちらで学園には報告しておきます」
「ありがとうございます」
私は泥だらけの少年へ、手を差し出した。
「立てるか?」
「あ、その……」
頬を赤くして手を取る。
「……すみません」
「気にするな。何か困ったことがあると言うといい。
じゃあ、気をつけて帰るように」
少年は何度も頭を下げ、まだ震える足で歩き去っていった。
その背中を見送りながら、胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
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