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新たな旅立ちの予定でした
しおりを挟む夜中。私は、ようやくベッドに身を沈めていた。
心も体も限界で、目を閉じた瞬間、意識が闇に沈んでいく。
「妃陛下!」
扉が乱暴に開かれ、メイドの叫び声が飛び込んできた。
「火が本宮に燃え移りました! 避難してください!」
私は跳ね起きる間もなく、フォレスが駆け込んできた。
餡緑色の髪が揺れ、鋭い目が私を見据える。
「お嬢様、失礼します!」
彼は私を抱き上げ、そのまま廊下を駆け出した。
遠くで火のはぜる音が聞こえる。
外に出ると、王宮の一部が赤く染まっていた。
夜空を焦がす炎。燃え上がる塔の影。
──マティアスは、最後にひどい置き土産を残していった。
けれど、それはまるで「自分を忘れるな」と言っているようでもあった。
火は3日間、燃え続けた。
王宮は半焼し、かつての威厳は黒煙の中に消えていった。
私は、自分が経営しているエステ店に寝泊まりしていた。
国民たちは、成り行きを静かに見守っているようだった。
マティアスは王子時代、ほとんど公務を行っていなかった。
それに比べて、ティエルはきちんと勤めていた。
──だから、彼の心証は悪くなかった。
けれど、まだ油断はできない。
王国は、ようやく再び歩き出したばかりだった。
1週間後の朝。空は高く澄み、風がやさしく髪を揺らしていた。
「本当に行くのか?」
ヴァネッサが腕を組み、じっと私を見つめていた。青碧色の髪が陽に透け、凛とした顔がどこか寂しげだった。
私は頷いた。
「また、いつか戻ってくるよ」
「そうか……まあ、店は任せろ」
私は微笑み、バッグから1枚の紙を取り出した。
「そうだ、これ」
ヴァネッサが受け取って広げると、青い目を見開いた。
「……ドレスの2ピース?!」
「うん。亡命前に、フローディアの弁護士に預けてあったの。結婚式に合わせて送ってくれたのを、宝石箱の中に一緒に入れておいたの」
ヴァネッサに預けた宝石箱だ。
だから火事で燃えることもなかった。
そのデザイン画には、上下が分かれたドレスの構造と、細かい縫製の指示が描かれていた。
「この国には、必要だしね」
前に頼んでおいたマグネットボタンやファスナーモドキも、ようやく完成した。これを使えば、メイドの手を借りずにドレスの脱ぎ着ができる。
「貴族は、手間がかかるドレスを着るのがステータスなんだぞ」
「急な来客や……密会の時は?」
ヴァネッサは一瞬黙り、そして小さく笑った。
「……確かに。わかった。これを作って、エステ店で売ればいいんだな?」
「待合室にカタログ置いとけば、勝手に売れるよ」
「わかった。本当に、そちは商才が素晴らしい。遠い異国で、どこまでいけるか見物じゃ」
私は笑って、ヴァネッサの手をぎゅっと握った。
「ふふ、ありがとう。じゃあ、手紙書くね。バイバイ」
風が吹き抜ける中、私は背を向けて歩き出した。
新しい世界へ。
でも、心のどこかに、いつもこの国がある。
潮風が頬を撫で、空はどこまでも青かった。
私は船の手すりにもたれ、背後の気配に振り返る。
「……皆、ついてきてくれたの?」
フォレス、トーレン、バズ、ディノ、アレク。見慣れた顔ぶれが、当然のように甲板に立っていた。
てっきりティエルの仲間になったかと思ってた。
「元々、俺らお嬢様のものじゃないっすか」
トーレンが、にやりと笑う。
「それは……そうね」
私は苦笑しながら、再び海へ目を向けた。
陽光が波にきらめき、心が少しだけ軽くなる。
「気持ちいい……前回は寒かったから。ああ、またフォレスに稽古つけてもらおうかな」
その時、船がぐらりと揺れた。
ガタンッ!
「海賊だー! 海賊だぞー!」
甲板の向こうから、叫び声が響く。
「よっしゃ、腕が鳴るぜ!」
トーレンが剣を抜き、フォレスが私の前に立った。
「お嬢様は、客室に戻ってください」
「私が、ここにいた方が早く終わるでしょ?」
「さっさと行くっす!」
トーレンが背中を押し、フォレスがため息をついた。
「……危なくなったら、逃げてくださいね」
その時、海賊の1人がこちらを指差した。
「王妃だ! アルセインの王妃がいるぞ!」
一斉に視線が集まり、海賊たちがこちらへ殺到してくる。
──マズい!
「逃げましょう!」
アレクが私の肩を抱え、走り出す。
フォレスたちが応戦するが、数が多すぎる。
「きゃっ!」
私は引き倒されそうになりながらも、必死に踏ん張った。
「やめろ!」
アレクが剣を振るうが、海賊たちは止まらない。
「王妃を連れていけ! 金になるぞ!」
「私はもう王妃じゃない!」
その瞬間──
ザシュッ!
黒いマントの男が、私を掴んでいた海賊たちを次々に斬り伏せていく。
鋭い動き、隙のない剣筋。風に揺れるマントの下から、金の瞳が覗いた。
「ありがと……ええっ? あなた……」
「久しいな」
その声に、私の目が見開かれる。
「おじょ……あなたは、ガダンファル殿下!」
フォレスが驚きの声を上げる。
「いかにも」
「なぜ、ここへ?」
「ミシンを大量購入するため、直接交渉に行った。だが“順番待ち”と言われ、10台しか予約できなかった」
私は思わず吹き出しそうになった。
「……わかりました。では御礼に、私の持ってるミシンをお譲りします」
「恩に着る」
「こちらこそ」
海風が再び吹き抜ける。
──旅は、まだ始まったばかりだった。
客室の天井を見上げながら、私はため息をついた。
「船酔いするなんて、信じられない……」
「船酔いでしょうか」
フォレスの声が、妙に慎重だった。
「え?」
「前回、1度も船酔いなさらなかったのに……なぜ急に? 本当に“船酔い”ですか?」
「……あ」
その瞬間、扉がノックされ、船医が入ってきた。診察のあと、穏やかに告げられた言葉に、部屋の空気が凍りついた。
「おめでたです」
「……え?」
一同、絶句。
「嘘っす! お嬢様の結婚式の日に合わせて、マティアスを射ったっす! 初夜前っす! 誤診っす!」
トーレンが叫ぶ。私は気まずく視線を逸らした。
「……なんすか、その顔。あの男の何が良かったんすか。信じられねえ……!」
「とりあえず静かにしろ」
ディノが低く言い、トーレンの肩を押さえる。
「お嬢様は……きっと脅されて、仕方なく応じたんだ」
フォレスが震える声で言った。私はさらに気まずくなり、視線を泳がせる。
「……ぁあ……」
フォレスが膝から崩れ落ちた。
「お嬢様、男の趣味悪すぎですよ……」
バズが頭を抱え、アレクは天に向かって何かを祈っていた。
「マンリョウ国で降りて戻りましょう」
バズの提案に、私は口を開こうとして──
「うっ……」
洗面所へ駆け込んだ。
──戻りたくない。でも、このツワリが続くなら、オナモミ国まで行くのは……正直、辛い。
私は渋々、承知した。
──まさか、こんな旅になるなんて。
夏。エステ店の待合室は、今日もにぎやかだった。
私はカウンターの奥で帳簿を見ていたが、入り口から聞き慣れた声が響いた。
「おやあ? 見たことある人がいるぞ? いつぞや別れた友人に似ておるなー。早くも挫折したんじゃろか?」
ヴァネッサが腕を組み、にやりと笑っている。
私は無言で、お腹が膨らんだジェスチャーをしてみせた。
「……誰の子じゃ?」
ヴァネッサが男たちを見渡す。
フォレス、トーレン、バズ、ディノ、アレク──全員が一斉に首を振った。
「しかし、お嬢様の子供は、我々で育てます。皆が父親です」
「孕んでも逆ハーレムを維持するとは……恋愛指南本でも書いたら、どうじゃ? そちの商品の中で、それが1番売れるであろう」
ヴァネッサが肩をすくめる。私は苦笑しながら、視線を逸らした。
エステ店の近くに、新しい住居を探していたその帰り道。
背後から、聞き慣れた声がした。
「フリージア」
振り返ると、ティエルが歩いてきていた。
肩までのイエローベージュの髪が風に揺れ、翡翠の瞳がまっすぐ私を見つめている。
「妊娠したと聞いた」
私が周囲を見渡すと、フォレスたちは気まずそうに目を逸らした。
「どちらにせよ、すぐわかることだ。彼らを責めるんじゃない。
それより……子供は、僕の子として育てる。だから王宮に戻って」
「っ、何ですって?!」
「王家の瞳は必ず翠になるし、髪がシルバーブロンドでも君のホワイトブロンドに似てるから、誤魔化せる」
私は言葉を失った。
「応じないなら──その子は“謀反人の子”として、処分しなければいけない」
その言葉に、私は深く息を吐いた。
──選択肢なんて、最初からなかった。
私は、静かに頷いた。
温い風が、吹き抜けた。
「どこへ行く」
慣れた敷地を進んでいると、背後から声がして足が止まった。
「後宮に住みます」
答えるとティエルは、すっとんきょうな声をあげた。
「何だって? 何故? 君は今まで通り、王妃の部屋に住むんだ」
「そこに住むと、私がまた王妃になると勘違いされます。だから後宮の1室をいただきます」
「後宮に、彼らは入れないぞ」
ティエルの視線が、少し離れた場所に立つ彼らに向けられる。
後宮は男子禁制。わかってる。けれど──
迷っていると、彼は短く言い残して立ち去った。
「決まるまで、客室で過ごすように」
庭に出ると、風が焦げた匂いを運んできた。
離れの跡地はまだ黒ずみ、焼けた木材の破片が残っている。
私の証言通り、地下からは複数の女性の遺体が見つかった。
奇跡的に見つかった所持品から身元が判明し、その中には私がアルセインに来るずっと前に行方不明になった女性もいた。
しかも、彼女はマティアスの母──前王妃に酷似していた。
その事実が、私への疑いを晴らした。
むしろ、同情の声が多く寄せられた。
でも、もう王妃には戻りたくない。
ティエルの側室たちも無事に戻ってきた。
私がここでやることは、もうない。
心が疲れきって、正直どうでもいい。
というか──あの時、私の目の前でセフィナを連れ去ったティエルの姿を思い出すと、胃が痛くなる。
「離宮は駄目なの?」
「出産時期をずらして公表するのに、陛下と別居していたら、おかしいでしょう」
フォレスの言葉に、私は頷いた。
「そうね……では、後宮に入ります。
あなたたちは此処では使用人部屋になってしまうかもしれないけど、城の外にも家を用意するから、辛抱してね」
灰色の風が吹き抜ける。
焦げ跡の向こうに、まだ何かがくすぶっている気がした。
夜の後宮は静まり返っていた。
灯りを落とした部屋に、布団の擦れる音が響く。
「ん……ひっ、んー」
目を覚ました瞬間、誰かが隣に滑り込んできた。
叫ぼうとした口を、すぐに手で塞がれる。
「ここは僕の後宮で、君は“僕の子を産む”のだから……一緒に寝るべきだろう?」
耳元で囁かれた声に、背筋が凍る。
「……2時間したら出ていって」
「朝までいるよ」
ベッドから出ようとした瞬間、腕を掴まれた。
逃げられない。
この人は、そういう人だった。
「君が僕を許せないのは、何?」
「……なぜ、私の口で言わせようとするの?」
沈黙が落ちる。
やがて、ティエルは低く問いかけた。
「確認するけど、君は僕の妻だろう?」
「今さら何を言ってるの? マティアスの妻よ」
──死んだけど。
「マティアスは、自分の心臓を捧げて君の心を得たらしいな。僕も同じことすれば、再び愛してもらえる?」
「あなたにはできない」
「できるよ」
「もう、あなたの愛は要らない。疲れた。セフィナでも、公妾でも、他でも……好きな人に捧げて」
彼は何も言わず、ただ翡翠の目を閉じた。
まるで、聞こえなかったかのように。
私は枕を拳で殴り、背を向けた。
涙は出なかった。
ただ、心が軋んだ。
翌夜も、彼は何も言わずにやってきた。
黙って布団に入り、隣に横たわる。
「いい加減にしてよ……うっ」
込み上げる吐き気に、私は洗面所へ駆け込んだ。
冷たい陶器に手をつき、肩で息をする。
「はあ、はあ……」
背中に、温かい手が添えられる。
振り返らなくても、誰かわかる。
「私が代わります」
メイドの声がしたが、ティエルは短く答えた。
「いや、いい」
落ち着いた頃、私は抱き上げられ、再びベッドへ運ばれた。
その腕は優しかったけれど、私の心には届かなかった。
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