放蕩な血

星森

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 父が帰ったあと、私はふらふらと自分の生活部屋に戻った。  
 高級娼館の一角にあるその部屋は、見た目こそ整っているが、どこか仮住まいのような空気が漂っていた。  
 
 私は靴を脱ぎ捨てるようにして、ベッドに潜り込んだ。

 ──これから、どうしよう?

 頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。  
 でも、ひとつだけ確かなことがある。
 父をここに寄越したのは、クラウドだ。  
 ならば、臣下として礼と詫びの手紙くらいは書かなくてはならない。  
 そう思った瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。  
 私は重い体を叱咤して起き上がり、机に向かってペンを取った。

 振り返れば振り返るほど、私はクラウドを失望させてきたのだとわかる。  
 あの夜の控え室での言葉。  
「心がどこにあろうと自由よ」  
「貴族は結婚してから恋愛するのが常識」  
 あれらが、彼の心と面子を真っ二つに裂いたのだろう。  

 でも、だからといって──

 ここまでされる理由が、私にあっただろうか?

 もしあの時、彼が素直に言ってくれていたら。  
 "シンシアを愛しているのに、そんなことを言われたら悲しい"、と。  
 私は謝った。  
 本音を隠す努力だってした。  

 心がどこにあっても、私はクラウドと結婚するつもりだった。  
 彼には好意を持っていた。  
 ただ、それがラブじゃなくて、ライクだっただけ。

 なのに彼は、これ見よがしに公然と不貞を繰り返し、私を傷付け我が家門を侮辱した。  
 私の失言に対する報復なら、それで充分だったはずだ。

 けれど、妾にされてからの仕打ちは、もはや身内の揉め事の範疇を超えている。  
 直接、手を下したのが彼でなくても、子供を殺された。
 自分自身も殺されかけた。

 もちろん、私にも非はある。  
 下の子を死なせ、上の子に苦しい思いをさせたのは、私が逃亡したからだ。
 でも、私を逃亡に追い込んだのはクラウド。剣を振るったのは、オルガ。

 オルガのことだって、放っておいてくれればよかった。  
 愛人がいると知らなければ、円満に生きていけた。  
 どうせ、彼からは離婚できなかったのだから。

 ──全てを壊したのは、クラウドだ。  

 王妃になるはずだった私が、今は娼館の片隅で、奴隷として生きている。  
 子供を失い、家を失い、名を失い、誇りを失った。

 胸の奥に渦巻くこの感情を、言葉にするには、まだ時間が足りない。

 私は机に突っ伏し、目を閉じた。  


 コンコン、と窓を叩く音がした。  
 夕暮れの薄明かりの中、私は顔を上げる。
 そっと窓辺に近づくと、そこには小さな影があった。

 窓の外に立っていたのは、12歳くらいの男の子だった。  
 痩せてはいるが、目つきは鋭く、どこか見覚えのある雰囲気をまとっている。
 娼婦の誰かが連れてきた子供だろうか。
 私は、そっと窓を開けた。

「おいら、ファニー。トニーの息子さ」

 その名に、私は思わず声を漏らした。 
 
「えっ、トニーの?」

「大事な用があるから、失礼するぜ」

 そう言うなり、ファニーは身軽に窓枠をよじ登り、部屋の中へと滑り込んできた。  
 その動きはまるで猫のようで、私は呆気に取られながらも、彼の次の言葉を待った。

「えっとね、父ちゃんが"客として来ようとしたら断られた"って」

「知ってる。陛下が私の"3ヶ月分、買った"って」

 私は苦笑しながら答えた。

「んーん、ずっと"永久にダメ"って。
 それでねー、仕方ないから本体買取を申し込んだら断られたって」

 本体。つまり、私のことだ。  
 "永久にダメ"とは、どういう意味だろう?
 トニーの身分が低すぎたのか、それとも別の理由があるのか。

「お金が足りなかったんじゃ?」

 私がそう言うと、ファニーは大きく首を振った。

「『白金貨1,000枚以上、用意できる』って言ったって。姉ちゃんが預けたろ?」

 私は息を呑んだ。 
 鏡台のことだ──妾にされた時、実家から後宮に運んで貰った。  
 それ自体が高価な品だったが、中には王家から婚約者時代に下賜された宝石類も収められていた。  
 それを、私はローリエとトニーに預けていた。

 私が元・王の婚約者で、侯爵家の出身であっても、白金貨1,000枚という破格の金額を提示されれば、普通は売る。  
 白金貨1枚で、平民向けの小さな家1軒買えるのだ。
 それでも断られたというのは、どう考えてもおかしい。

 ファニーは続けた。

「それでね。
『金は準備してるから、役所に行って身分を買った方が早い』ってさ」
  
 役所で白金貨100枚を支払えば、奴隷でも平民になれる。  
 それは知っている。けれど──

「出たいのは山々なんだけど、お客様との外出以外、出られないの」

 奴隷の身では、単独での外出を許されていない。  
 たとえ身分を買い戻す金があっても、それを持って役所に行く手段がない。  
 王の買い占めがなければ、トニーが客として来てくれれば、方法はあったかもしれない。  
 でも今は、すべての道が塞がれている。
 本当にクラウドは、私にとって疫病神──いや、死神に他ならない。



 娼館に来て、ちょうど3ヶ月が経った。  
 ついに『最初の客が来た』と聞かされた時、胸の奥がざわついた。  
 鏡の前で髪を整え、深呼吸をして待った。  
 扉が開き現れたのは、金の刺繍が施された外套に、香水の匂いが強く漂う男──エルマー子爵。  
 薄く笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。

 彼は私に近づくなり、何の前触れもなく私の肩を突き飛ばした。

「いたっ、な、何をするんです!」

 床に倒れた私の耳に、彼の低い声が突き刺さる。

「あの時は、よくもやってくれたな。報復してやる」

 その言葉が落ち、背筋が凍りついた。  
 ラウザール国に関する会議で、私は彼を政治の舞台から追い出した。  
 それを、逆恨みされている。

「やめて……来ないでっ! いやあああ!」

 叫び声が部屋に響いた。  
 扉が勢いよく開き、黒服のセキュリティが数人、なだれ込んできた。

「お客様、こちらへ」

「な、なんだ貴様ら! 俺は金を払って──」

「この館では暴力は、いかなる理由でも許されません。
 商品を傷つけて、タダで済むと思うか!」

 エルマーは抵抗する間もなく、腕をねじられ、引きずられるようにして連れていかれた。  
 扉が閉まると、部屋には静寂が戻った。

 私はその場に崩れ落ち、肩で息をしていた。  
 手が震えている。  
 恐怖と怒りと、どうしようもない無力感が胸を締めつけた。


 待機部屋に戻り事情を話すと、ロザリンドが鏡の前で髪を巻きながら、ちらりと私を見た。

「そういうこともある」

「え?」

 私の声はかすれていた。

「逆恨みは勿論、暴力ふるうのが好きな客もいるってこと」

「で、でも、それは……」

 ロザリンドは肩をすくめた。  
 その仕草は、まるで「何を今さら」とでも言いたげだった。

「あなたは、ちゃんと叫べたからいい。
 馴れてない新人は、1ヶ月も使い物にならないくらい殴られて、店から罰金とられるよ」

「はい? 暴行されて罰金?」

「契約の内容によるけど、最初に契約した日数、出勤できなければ罰金になる」

「そんな……」

 私は言葉を失った。  
 暴力を受けた側が、さらに金を取られるなんて。

 ロザリンドは鏡越しに私を見て、ため息をついた。

「あなた、よっぽど優しい世界で生きてたのね。でも、甘すぎる」

 その言葉は冷たくもあり、どこか現実を教えようとするようでもあった。  
 私は唇を噛み、震える手を膝の上で握りしめた。  
 ここは、そういう場所なのだ。  
 地位も名声も権力も、守ってくれるものは、もう何もない。  
 私は何もわかってなかった。
 ロザリンドの言うとおり甘かった。
 だけど、後悔はしていない。
 王の妾になるよりいい。



 ──翌日。  
 客の手に引かれ、私は娼館の門を出た。  
 観劇と聞いていたが、馬車が向かったのは劇場ではなかった。  
 石畳の裏通りを抜け、人気のない路地の奥。  
 重い鉄の扉が開くと、香と酒の混じった濃密な空気が流れ出てきた。

 “秘密クラブ”──その名の通り、外からは何も見えない。  
 中に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。  
 視線、笑い声、手の動き──  
 すべてが“獲物”を見る目だった。

 私はすぐに気づいた。ここは、ただの遊興の場ではない。  
 逃げようと1歩下がった瞬間、背後の扉が音もなく閉まった。
 男達が血に飢えたドラキュラのように、詰め寄ってくる。
 そして、ドレスを引き裂いた。

「やめて……やめてください……!」

 声が震える。  
 足がすくむ。  
 誰も助けてくれない。  
 逃げ道は、どこにもなかった。

 その時──  
「王宮騎士団だ! 全員、動くな!」

 扉が破られ、銀の鎧をまとった騎士たちがなだれ込んできた。  
 男たちは次々に取り押さえられ、床に伏せさせられる。  
 空気が一変し、あれほど騒がしかった室内が、嘘のように静まり返った。

「この者たちを連行しろ」

 騎士団長が私の前に膝をつき、外套をそっと肩にかけた。  
 彼とは、子供の頃から顔見知りだ。
 その手は温かく、震える私の肩をそっと包んだ。

「お怪我は?」

 私は首を横に振るだけで、声が出なかった。  
 喉が焼けつくように痛く、言葉がどこにも見つからなかった。

 団長は静かに言った。  

「今回は事前に店へ話を通してなかったので、違法行為として逮捕できましたが……」  
 彼の声は低く、どこか悔しげだった。  
「店が承諾している場合は、例えシンシア様の意思に反していても、断ることはできません。それが“奴隷”なので。
 仮に今のあなたが殺されても、犯人はたいした罪には問われません。今回も、僅かな罰金刑で終わりです」

 私は目を伏せた。  
 何も言えなかった。  

 娼館に戻されたとき、私はただ、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。 
 誰かが声をかけても、返事はできなかった。  



 夕方、私は鏡の前で手を止めた。  
 顔色はひどく悪く、唇の色も薄い。  
 昨夜の“秘密クラブ”の出来事が、まだ体の奥に残っている。  
 次の客がどんな恐ろしい人間なのかと考えるだけで、胃がきしんだ。  
 扉のノックが鳴り、心臓が跳ねる。  
 そして、扉が開いた。

 入ってきたのは──クラウドだった。  
 約3ヶ月ぶりに見る彼は、相変わらず白いジャケットだった。  
 彼は私の顔を見るなり、眉をひそめた。

「顔色が悪い。真っ青だ。医者を呼ぼう」

 彼が踵を返そうとしたのを、私は慌てて引き留めた。  

「……大丈夫」

「大丈夫には見えないが」

 私は視線を逸らした。  
 彼の碧眼を見てしまえば、何かが崩れてしまいそうだった。

「その様は何だ?」

「え?」

「君は『奴隷になっても自力で切り抜けられる』と豪語していたはずだが? いつ、自分の身分を買うんだ?」

「……それは……」

 あなたが私の時間を買い占めて、営業の邪魔をしたせい。  
 これから馴染みの客ができるか、知り合いが来てくれれば、外へ出て役場で手続きできるのに。  
 そう言おうとした瞬間、彼の声がかぶさった。

「君は一体、どれだけ僕を失望させ続けたら気が済む?」

「私は……」
  
 いくらでも失望してくれていい。
 もう関わらないで欲しい。
 そう言いたかった。  
 けれど、それは次の言葉に飲み込まれた。

「君の子は、海外に売られて行ったぞ」

「なんですって?!」

 膝が崩れた。  
 床に手をつき、震える声で問い返す。

「なぜ……なぜ助けてくれなかったの!?」

「君は僕の正室どころか、妾ですらない。王命に反して逃亡した罪人奴隷だ。
 そしてその子供の命を、僕は2度救った。
 連座で処刑せず見逃し、瀕死状態に最高の医療を投じて延命させた。
 それを、なぜ責められる?」

「あなたが、私の家庭を壊したのよ」

「子爵には愛人がいた。最初から家庭などなかった。
 君の劇場に、周りが付き合わされていただけだ」

「そっとしておいてくれれば良かったじゃない! オルガの愛人に気付かなければ円満だったし、気付いても別居すれば済んだのに!」

「君は8年に渡り王妃教育を受け、公務と政治に参加し、国家機密情報を得た。 
 情報漏洩防止の観点からも、人材育成への投資回収という点からも、君が後宮に召し上げられるのは既定だった。
 婚約破棄後も監視対象だった。そのくらい、わかるだろう」

 私は言葉を失った。  
 それは、そうだ。
 彼の声は冷たく、そして正確だった。

「僕は最大限譲歩し、選択肢を与えてきた。
 言っただろう。君は自ら地獄に突き進んでいる、と。
 なぜ、そうまで浅慮なのか」

「だから……私はオルガの言う通り、王妃の器じゃなかった。
 あなたが私なんかを選ぶから……」

 彼の碧眼が細くなる。  

「なるほど。手紙にあった謝罪は、嘘だったのだな」

 私が婚約者時代にオルガに夢中だったせいで、クラウドの心と体裁を傷つけ申し訳なかったと書いて送った。
 紛れもない本心だった。

「それは……ごめんなさい、嘘じゃないわ。でも……」

「もう信用ならない」

 彼の声が切り捨てるように響いた。  
 ──もういい。話しても無駄だ。
 私が妾にされることが最初から決まっていたことだったとしても、私が彼を過去に傷つけたとしても、クラウドの仕打ちは度を超えている。
 この人のせいで、2歳の娘が死んだのは事実だ。
 それは覆らない。
 でも──これだけは、知りたい。

「わかった。なら、最後に1つ教えて」

 歩き出していた彼の足が止まる。  

「わざと、なの? 私をオルガと結婚させてあげようとして、わざと婚約破棄するよう仕向けたの?」

 彼はゆっくりと振り返り、静かに言った。

「君は勘違いしてる」

「……?」

「僕は君を、フェルゼン男爵に与えてやったことなどない。一時的に貸しただけだ。
 君の所有権は、ずっと僕にある。この先も一生」

 私は、その場で固まった。  
 言葉が、息が、思考が止まる。  
 彼はそれ以上何も言わず、再び出口へと向かって歩き出した。  
 
 ──何て言ったの? この人、今。

 笑いが、喉の奥からこみ上げてきた。  
 止めようとしても止まらなかった。  
 自分でも、なぜ笑っているのかわからなかった。  
 ただ、あまりにも滑稽だったのだ。  
 この男が、私を「所有している」と言い切ったことが。

 クラウドが驚いて振り返る。 
  
 ──ああ、やっぱり奴隷を選んで正解だった。  
 長男のクリスも、もし後宮に引き取っていたら、すでに殺されていたかもしれない。  
 あの愛妾たちなら、そのくらいするだろう。
 売られただけなら、簡単には殺されない。  
 だから、私は──こいつのものにだけは、絶対にならない。

「面白いこと言うのね。私、あなたの玩具じゃないわ」

 次の瞬間、私は窓へ走った。  
 開け放ち、ためらいなく飛び降りた。

「やめろ! 待て!」

 クラウドの叫びが背後で響いた。



 目を覚ましたとき、ふかふかのベッドに横たわっていた。  
 天蓋のレースが揺れ、部屋には医者と看護士が数人、慌ただしく動いていた。

「目を覚まされました」

 看護士の声に、私は瞬きを繰り返す。

「……え?」

「目を上に向けて。頭痛は?」

 いつかの老医師が、私の顔を触って確かめる。

「特には……痛たっ」

「足を骨折してるから、動かないで」

「そんな……」

 老医者が長い眉をひそめる。

「覚えてないかい? 窓から飛び降りたんだ」

「あっ……」

「3階だったから、この程度で済んだが……打ち所が悪ければ死んでいたよ」

 私は天井を見つめたまま、息を呑んだ。  
 そうだ、私は飛んだのだ。  
 あの男の“所有物”でいるくらいなら、逃げた方がマシだと思って。

「こ……ここは何処で──」

 そのとき、廊下から激しい言い争いが聞こえてきた。

「なぜ、私が追い出されねばならないのですか!」

 王妃ベラドンナの声だ。

「妻と言っても白い結婚の上、君は公務もロクにやらないではないか!」

 こちらはクラウド。

「それは陛下が、私にカヴァネスをつけてくださらないからです!」

「言い訳するな! 『王妃教育に匹敵する高等教育を受けた』と言うから、正室に迎えたのだぞ!」

「それでも罪人奴隷に王妃の部屋を宛がうなど、正気の沙汰ではありません!」

「彼女は奴隷ではない」

「1度、堕ちれば下賤です! とにかく、私の部屋を返してください!」

「今後君は、このエリアへ立ち入り禁止だ。破れば廃妃する」

「何ですって?! お父様が黙ってるはずないでしょう!」

「黙らす方法など、いくらでもある!」

 私は呆然としたまま、声の応酬を聞いていた。  
 そのとき乱暴に扉が開き、クラウドがズカズカ入ってきた。

「気付いたのだな」

 そう言って、焦燥感ある顔に安堵の表情を浮かべた。

「何が……その腕は?」

 クラウドの左腕に、包帯が巻かれている。

「問題ない」

 そっぽを向いた彼に代わって、老医者が答える。

「あなたを掴み損ねて、一緒に窓から落ちたそうです」

「何ですって?! あなたは王なのよ! 護られる側であって、守る側ではないの!」

 彼は肩をすくめて笑う。

「その言い方、ルーベック女史にそっくりだ」

「笑い事では……ゲホゲホッ」

「大丈夫か? 誰かシンシアが起きてから、水を飲ませたのか?」
と、私の背中をさする。

「ま、まだです」

「何だと?」

「だ、大丈夫」

 そう言って宥めると、彼はメイドの持ってきた水差しを引ったくって、私に差し出す。  

「……ありがとう」

「ああ」

「何か食べられそうか?」

 私は首を横に振った。
 今すぐは無理だろう。

「そうか……」

「……ここは、その……?」

 私は彼の、窶れても整っている顔を覗き込み、恐る恐る訊ねた。

「王宮だ」

「ソウダヨネ」

 私は目を閉じた。  
 あまりの徒労感に、現実が遠く感じられた。  



「シンシア、シンシア」

 私は、うっすらと目を開けた。  
 額に触れる冷たい布の感触と、誰かの手が私の頬を撫でているのを感じる。  
 目の前には、クラウドの顔があった。  
 彼は私の汗を丁寧に拭いながら、心配そうに眉を寄せていた。

「うなされていた。痛むか? 痛むなら医者を呼ぶ」

 私は混乱したまま、周囲を見回す。 
 月明かりが重厚なカーテンの隙間から差し込み、白い天蓋のかかったベッドを淡く照らしている。  
 部屋は広く、壁には織物のタペストリー、香炉からは微かにラベンダーの香りが漂っていた。  
 ふかふかの枕、絹のシーツ、そして──なぜか、彼が私と同じベッドにいる。

「メイドは、どうしたの? 王が付き添いなど……」

 彼は少しだけ笑って、私のクリーム色の髪を撫でた。

「君は忘れたのか? 君が不調な時、いつも僕がいたこと」

 その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。  
 確かに、昔はそうだった。  
 でも今は──

「今は……立場が違うのです。私は貴族ですらない」

 彼は一瞬だけ黙り、やがて静かに言った。

「君を王妃にするのは難しいが、愛妾にならできる」

 私は目を見開いた。  

「はい? そんな、まさか……」

「君が奴隷になったことを知るのは、ごく僅かだ」

「それは……でも、どこから漏れるかも……?」

「すでに手は打った。心配しなくていい」

 彼の声は落ち着いていた。  
 まるで、すべてを計算し尽くしているかのように。
 しかし、なぜ私がまた妾になる方向で話が進んでいるのか?
 断ろうとすると──

「こんなことが償いになるかわからないが、君の息子を探している。
  見つけ次第、保護するよう命じてある」

 涙が、ぽろぽろと頬を伝って落ちた。  
 止めようとしても止まらなかった。

「……ありがとう」

 私は涙を拭った。

「私も……酷いこと、たくさん言って、ごめんなさい。無神経だった」

 彼は私の髪に口づけるようにして、囁いた。

「君が生きてる限り、許すよ。死んだら許さない」

 私は顔を上げた。  
 彼の瞳は、昔と同じ優しい色をしていた。

「あなたがこれ以上、私を追い詰めなければ問題ないわ」

 強い口調で言い切ると、彼は一瞬、言葉を詰まらせた。  

「っ! ……言われなくとも、そのつもりだ」

 今のタイミングで妾になる話を断れば、息子の捜索を打ち切られるかもしれない。
 しばらく黙っていよう。


 朝の光が、カーテン越しにぼんやりと差し込んでいた。  
 瞼の裏がじんわり明るくなって、私はゆっくりと目を開けた。  
 ふかふかの枕、柔らかなシーツ、薬草の香り──ここが王妃の寝室だと思い出す。  
 そして、視界の端に映った金の髪。

「気分は? 痛むか?」

 彼の声は、思ったよりも近くて、優しかった。  
 私は瞬きをしながら、彼の少し窶れた顔を見上げる。

「……クラウド、いつ寝たの? 寝なくちゃ」

 彼を寝かせようと手を伸ばすと、そっと払いのけられた。

「僕のことは、気にしなくていい。体調を聞いている」

 その言い方に、少しだけ胸がきゅっとなる。  
 私は小さく息を吐いて、正直に答えた。

「……全身がビリビリする。あちこち歪んだみたい。クラウドは?」

「僕は君と違って鍛えてるんだ」

 私は彼の怪我した腕を、指でつついてみた。  

「いっ、この!」

「ふふふ、強がるからよ!」

「男が好きな女性の前で強がるのは、当然だ」

 ……え?  
 今更、そんなこと言われても。  
 もう遅いのに。  
 でも、言い返す気力もなかった。  

 困っていると扉がノックされて、メイドが入ってきた。

「失礼いたします。朝食の準備が整いました」

 クラウドは立ち上がると、自らナイフとフォークを手に取り、私の枕元に腰を下ろした。

「口を開けて」

「自分で食べられるよ」

「君は、まだ療養中だ。黙って」

 私は観念して口を開けた。  
 彼は満足げに微笑みながら、丁寧に一口ずつ食事を運んでくれた。  
 その仕草が、なんだかくすぐったかった。

 ようやく彼が執務に向かった、と思ったら──2時間後、また現れた。

「……何か忘れ物?」

「いや、君の薬の時間だと思って」

「メイドがいるのに?」

「口を開けて」

 また去っていった。  
 ──と思ったら、昼食時に戻ってきて、午後の会議の合間にも顔を出す。

「し、仕事しなくちゃ」

「している」

 むくれたように言う彼に、思わず笑ってしまった。


 夜。  
 また同じベッドに並んで、彼が私のクリームの髪を撫でる。

「また、うなされることがあれば、起こすから安心してお休み」

「あのね、あなたが寝てくれないと、安心できないんだけど」

「なぜ心配する?」

「確かに、あなたを恨んではいるけど、不幸を願ったことはないわ。
 このままだと体を壊してしまう」

 彼はしばらく黙っていた。  
 そして、ぽつりと呟いた。

「……以前、君に『浅慮だ』と言ったけど、それは僕もだった。
 君が生きててくれるだけで幸せなのだと、理解していなかった。
 ──愚かだった」

「私も……あなたが、どれだけ尽くしてくれてたか、わかってなかった」

 ──思い出す。  
 舞踏会がある度に、彼は必ず家まで迎えに来てくれた。
 何かを求められたことは、1度もなかった。  
 いつも笑って、私だけを見てくれていた。  
 必要なものは、すべて与えてくれていた。

 元夫は違った。  
 私の持参金を領地の補修に勝手に使い、実家の権力も王の婚約者だった頃に築いた人脈も、当然のように利用しておいて、感謝の言葉ひとつなかった。  
 それどころか、もっと働けと求めてきた。

 今になって、ようやくわかる。  
 どちらが私を愛してくれていたのか。 
 一目瞭然だ。  
 そして、私から見た元夫は──  
 クラウドから見た、かつての私だったのだ。






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