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しおりを挟む夕方の王宮は、金色の光に包まれていた。
高窓から差し込む陽が、王妃の部屋の大理石の床に長く影を落としている。
私はその光の中、車椅子に座っていた。
深紅の絨毯の上を静かに滑るように進み、窓辺で止まる。
風がカーテンを揺らし、遠くで鳥の声が聞こえた。
扉が開く音がして、クラウドが入ってきた。
黒の上着を脱ぎかけたまま、私の姿を見て足を止める。
私は振り返らずに言った。
「説明してくれない?」
彼は黙ったまま、ゆっくりと近づいてくる。
私は手元の書類に視線を落とした。
足の骨折を除いて回復した私は、車椅子で戸籍の手続きに行った。
自分の身分を購入するために。
でも、そこに記録されていたのは──
「私、奴隷になった経歴が1度もなかったの。
エルノワール侯爵令嬢のままだった」
ファニーの言葉が脳裏をよぎる。
“白金貨1千枚でも買えなかった”と。
あれは、こういう意味だったのか。
クラウドが静かに答えた。
「戸籍のことか」
「他に何が?」
私の声は、思ったよりも冷たかった。
彼は一瞬だけ碧眼を伏せ、そして言った。
「分かってるのなら、もういいだろ。君を奴隷に落としたことはない」
私はゆっくりと彼の方を向いた。
車椅子の肘掛けを握りしめながら、じっと彼を見つめる。
「これから落とすつもり?」
「はあ? 何故?」
「“何故”は、こっちのセリフなんだけど」
彼の顔に、困惑の色が浮かぶ。
私は息を吐きながら、クラウドの顔を見た。
彼の表情はいつも通り冷静に見えたけれど、どこか張り詰めたものがあった。
だからこそ、私は言わずにはいられなかった。
「ねえ、まさかと思うけど……私が泣きついてくるの待ってた、とか言わないよね?
最初から手放すつもりないのに、私の口から『あなたの妾にして』と言わせるために。そのために奴隷に落とすふりをしたなど──」
彼の肩がピクリと跳ねた。
私は頬を歪め、静かに呆れたように笑った。
「はあ……呆れた。お父様もローリエも皆、あなたが私を愛してるって言うけど、嘘よ。
憎んでるが正解だわ」
「違う! 本当に僕は──」
「信じない」
私は彼の言葉を遮った。
「ともかく、実家に帰るわ」
そう言って車椅子を回そうとした瞬間、彼の声が鋭く響いた。
「行かせない。君は、制度上ずっと愛妾のままだ。僕の許可なく、王宮の敷地からは出られない」
私は動きを止めた。
ゆっくりと振り返り、彼を見据える。
「ほらね。愛してるなんて、やっぱり嘘だった。
本当に愛してるなら、苦しめないわ。
私はもう、あなたの顔も見たくない。関わりたくない。
妾でいろと言うなら、命を断つ。
そのくらい、あなたが憎い。もう、嫌いよ。
あなたが王命を出さなければ、娘は死ななかった。息子も行方不明にならなかった。私も死にかけなかった。家庭も人生も、壊れなかった。
直接、手を下してなくても、私にとって──あなたは仇だわ」
部屋の空気が凍りついた。
私は視線を逸らし、窓の外を見た。
夕陽が沈みかけていて、空が赤く染まっていた。
まるで、私の胸の中みたいに。
焼けるように、痛かった。
クラウドは、静かに膝をついた。
王の衣をまとったまま、私の前で、まるで罪人のように頭を垂れる。
その姿に、私は一瞬、息を呑んだ。
けれど、胸の奥に渦巻く怒りと悲しみが、それをすぐに押し流す。
「どうしたら……許してもらえる?」
彼の声は低く、震えていた。
けれど私は、冷たく答える。
「私に、許す理由もメリットもないわ」
彼は顔を上げた。
青い瞳に宿る痛みが、私の心を揺らす。
でも、もう遅い。
あの夜、あの選択、あの命。
取り返しのつかないものばかりだ。
「それは……何が望みだ?」
私はゆっくりと息を吸い、はっきりと言った。
「私の身分を、奴隷に落として。
そうすれば、一生あなたの妾にならずに済む」
クラウドの目が見開かれる。
彼はしばらく言葉を失い、やがてかすれた声で問い返した。
「君は……僕の妾でいるより、罪人奴隷として娼婦でいる方がいいと?」
私は頷いた。
迷いはなかった。
「もちろん。
私は、あなたのものにはならない。もう、2度と」
クラウドは、唇を噛んだ。
そのまま、膝をついた姿勢で、ただ私を見上げていた。
私はその視線を受け止めながら、心の奥で静かに決意を固めていた。
「君はわかってない」
クラウドの声は低く、けれど確信に満ちていた。
「奴隷になっても、買えば済む。後宮に入れられなくても、別宅に囲えばいい」
私は息を飲んだ。
その言葉の意味が、あまりにも重くて、あまりにも冷たくて。
彼の“愛”が、私の自由を奪う鎖にしか聞こえなかった。
「……私が生きてるだけで幸せだって、言ったのは嘘だったの?」
問いかける声が震える。
でも、彼は迷いなく答えた。
「それとこれは別だ。
2度と、他の男に触れさせたくない」
「おかしいわね。
婚約破棄すればいいって言ったのは、あなたでしょう?」
彼の顔が歪んだ。
苦しげに、悔しげに、唇を噛む。
「あの頃は……絶望していた。
“放蕩の血”に抗って、君だけを愛し続けるのが、どれだけ苦行か……。
君はまるで理解せずに、フェルゼンに……」
彼の声が途切れる。
私は、静かに目を伏せた。
──控え室での言葉。
彼の怒りと、私の無神経さ。
でも、それでも。
私は、あのときの自分を責めることはできても、今の彼を許すことはできなかった。
私の人生を壊したのは、彼の絶望であり、彼の選択だったのだから。
「例え、その時がそうでも……」
私は言葉を噛みしめながら、彼を見つめた。
「あなたは公然と不貞を繰り返して、我が家門を貶めた。
それでも怒りが収まらずに、無理やり妾にして──あの仕打ち? 納得できるはずないでしょう」
クラウドの表情が揺らいだ。
でも私は止まらなかった。
胸の奥に溜め込んできたものが、今ようやく言葉になって溢れ出す。
「何故、あなたは自分の気持ちばかりで、私の気持ちは省みないの?
私に好かれたいなら、歩み寄るべきだった。
私に求めるものがあるなら、相談すべきだった。
夫婦になろうと言うなら、尚更よ」
彼は何かを言いかけて、けれど声にならなかった。
私は静かに、でもはっきりと告げた。
「……もう、何もかも手遅れだけどね」
その言葉は、私自身の胸にも突き刺さった。
愛されていたかもしれない。
でも、愛され方を間違えられた。
沈黙を破ったのは、クラウドだった。
「……わかった。君の望む通り、身分を奴隷にしよう」
クラウドの声は、静かで、冷たく澄んでいた。
「そして僕が、君と君の息子を買い取る」
「……は?」
私は思わず聞き返した。
何を言っているの、この人は。
「君の心を手に入れることが無理なら、諦めて体だけ所有する。
何と言われようと、誰にも渡さない」
その言葉に、私は凍りついた。
愛してると言いながら、私の意思を無視して、私の人生を“所有”しようとする。
それが、彼の愛の形だというのなら──
「……最低ね」
私は静かに、そう言った。
怒鳴ることも、泣くこともなかった。
ただ、心の奥で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
彼は、私を愛してなどいなかった。
ただ、手放したくなかっただけ。
それは、愛じゃない。
それは、呪いだ。
私は目を伏せ、震える指で車椅子の肘掛けを握りしめた。
「君が奴隷になる前に、聞きたい」
クラウドの声は、かすかに震えていた。
「どうして……僕を、愛してくれなかった?」
私は目を伏せた。
その問いは、あまりにも遅すぎた。
でも、嘘はつきたくなかった。
「好きだったわ」
彼の碧眼が見開かれる。
「は?」
「ラブじゃなくて、ライクだっただけ。
そもそも……」
言いかけた私に、彼が静かに言った。
「言ってくれ」
私はゆっくりと息を吸い、言葉を選びながら続けた。
「政略結婚だと思ってたの。
クラウドから婚約の打診をしてくれたって、知らなかったのよ。
だから……優しくされても、それは“婚約者としての義務”でしてるんだって、ずっと思ってた」
彼の顔から、色が引いていくのがわかった。
私は続けた。
「あなたが私を選んだ理由も、私の家柄や立場が必要だったからだと思ってた。
だから、どれだけ尽くされても、どれだけ笑いかけられても、“これは仕事の一環なんだ”って、自分に言い聞かせてたの。
……そうじゃないと、怖かったから」
「何故……怖かったの?」
クラウドの声は、まるで迷子のようだった。
静かで、弱くて、答えを求めるように私を見つめていた。
私は視線を逸らし、窓の外に目をやった。
夕暮れの空が、金から藍へとゆっくり色を変えていく。
その移ろいの中で、私はそっと口を開いた。
「そんなの……だって……」
言葉が喉の奥でつかえて、少しだけ間が空いた。
でも、もう隠す理由なんてなかった。
「あなたは、光り輝く美貌を持つ未来の王で……私は、ただの平凡な侯爵令嬢だもの。釣り合わないわ」
胸の奥がじんと痛んだ。
あの頃の自分の不安と、孤独と、諦めが、今もまだ残っている。
「それに……貴族は“結婚してから恋愛する”って、親も周りも、みんなそうだった。
あなたも結婚したら後宮に、たくさん女性を囲うんだろうなって……先代みたいに」
握りすぎた手が白くなる。
血が通っていない。
「最初から、期待しないようにしてたの。
あなたに恋なんてしたら、きっと私は壊れてしまうと思ったから。
だから、心に蓋をしたの。
あなたがどれだけ優しくしてくれても、“これは義務だから”って、自分に言い聞かせて」
私の心の奥にあった“怖さ”は、ようやく言葉になった。
でも、それを伝えたところで、過去は戻らない。
「僕の努力は……全部、無駄だったんだね」
クラウドの声は、静かだった。
怒りでも、皮肉でもない。
ただ、ぽつりと落とされたその言葉に、私は胸を締めつけられた。
彼の目は、私を責めていなかった。
それが、余計に苦しかった。
「それは……ごめんなさい」
私は唇を噛みながら、言葉を絞り出した。
「私……わかってなかったの。
あなたがどれだけ、私のためにしてくれてたか……。どれだけ、私を見てくれてたか……。
全部、後になってからじゃないと、気づけなかった」
声が震えていた。
でも、謝らずにはいられなかった。
私は、彼の手を見た。
かつて、私のために差し伸べられていた、その手を。
けれど今は、もう届かない場所にある気がした。
私たちは、すれ違い続けて、ようやく本音を交わせるようになった頃には、もう戻る温もりがなくなっていた。
「どちらにせよ、君はここから出られないよ」
クラウドの声は、か細く弱っていた。
「まだ君は、愛妾のままだし──奴隷になる手続きをしても、僕が買うだけだ。諦めて」
その言葉を残して、彼は静かに背を向けた。
扉の前で1度も振り返らず、重い扉を開けて、音もなく出ていった。
部屋に残された私は、しばらく何も言えなかった。
ただ、静寂の中に取り残されて、心の奥がじわじわと冷えていくのを感じていた。
──諦めて、だって?
私は唇を噛んだ。
あの人は、私の言葉を聞いた。
私の気持ちも、過去も、恐れも、全部。
それでもなお、彼は“所有”を選んだ。
愛していると言いながら、私の自由を奪うことに、何のためらいもない。
それが、彼の“愛”の形なのだとしたら──
私は、どうすればいいの?
どうすれば、人生を取り戻せるの?
窓の外は、もう夜の帳が下りていた。
王妃の部屋に灯る燭台の光が、私の影を長く引き伸ばしていた。
その影の中で、私は静かに目を閉じた。
逃げ道を探すように、心の中で何度も問いかけながら。
天井から吊るされた銀の燭台が、揺れる炎を落とし、大理石の床に淡い光と影を描いている。
重たいカーテンの隙間から忍び込む夜風が、ラベンダーの香りを運んできた。
王妃の部屋に広がる静寂を破ったのは、ローリエの冷ややかな声だった。
「そもそもですね、前提が間違ってます」
私は思わず顔を上げた。
「え……?」
ローリエは、深緑の髪をきっちりと結い上げ、背筋を伸ばして立っていた。
整った顔立ちは年齢を感じさせず、琥珀色の瞳には一切の感情が浮かんでいない。
まるで、真実だけを告げる機械のように。
「婚約破棄した時点で、シンシア様は陛下の臣なのであって、パートナーでも準王族でもなくなりました。
本来、王命で妾に指名されたら『光栄です』と、頭を下げなければならないんです。単なる子爵夫人だったのですから。そこにシンシア様の感情は、関係ないのです。
過去に陛下の有責で婚約破棄となり家門が侮辱されたのを理由に辞退したいなら、フェルゼン男爵かエルノワール侯爵が正式に抗議する他なかったのです。女は当主の所有物ですから」
私は言葉を失った。
唇を噛み、視線を落とす。
「御子息が傷付いたのは、シンシア様の甘えです。
シンシア様が敬語を使わなくても、他の妾に挨拶せず嫌われても、逃走しても反発しても、全て陛下が許すと思ってるからこそできたのです。
本来そんなことすれば、一族連座で処刑されて当然です。
結局、陛下がシンシア様を愛してることに慢心してるからできたのです」
「それは……だけど……でも……私のせいで娘が死んだと認めてしまったら、耐えられない。完全に壊れてしまう……」
声が震えていた。
でも、ローリエの表情は変わらなかった。
「殺したのは、フェルゼン男爵です。
しかし、フェルゼン男爵が、そうしたのはシンシア様のせいです。
そして、シンシア様を追いこんだのは陛下です。
つまり、実行犯1人と間接加害者2人です。
陛下も、全く悪くないわけではありません。
貴族社会は面子です。その面子を過去に潰した相手を後宮に召し上げれば、社交界に様々な衝撃と憶測を生みます。
またシンシア様を後宮に入れた当初、貴族に相応しい待遇をしませんでした。
これは王政権力を越えた加虐行為です。その点では陛下も悪いです」
そう言われれば、確かにそうだ。
捕まっても「彼が私を殺すはずがない」と信じていたからこそ私は、あんなにも簡単に後宮から逃げ出せたのだ。
オルガには、そんな発想なかったろう。
「だから、私は『陛下がシンシア様を、愛している』と言ったではありませんか」
ローリエの声は、どこまでも静かだった。
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を並べるように。
「私……どうすればいいの?」
その問いは、夜の空気に溶けていった。
答えは返ってこなかった。
ただ、窓の外で風がカーテンを揺らし、遠くで鳥の羽ばたく音がした。
1人になった私は、窓辺にもたれかかっていた。
晩夏の夜風が頬を撫でるたび、心の奥に沈んだ何かが、かすかに軋む。
何も、うまく考えられなかった。
私……精神状態、おかしいのかしら?
おかしいのね、きっと。
子供を目の前で斬られてから、心の重心がどこかへ行ってしまった気がする。
何を見ても、何を聞いても、現実感がない。
まるで、私だけが別の世界に取り残されているみたい。
出家か、精神病棟か──どちらに行けばいいのかしら。
そうね、入院して、それから修道院に入ればいい。
どうして、そんな簡単なこと今まで思いつかなかったのかしら。
逃亡する前に、修道院へ行けるよう根回しすれば良かった。
父に、出家させてほしいこと。
クラウドには、入院させてほしいこと。
それぞれ手紙に書いて、ローリエに託した。
手紙を託してすぐに、湯あみをしている時だった。
突然、扉が乱暴に開かれた。
「きゃあっ!」
私の悲鳴と、メイドたちの叫び声が重なる。
湯気の中、金の髪が揺れていた。
「ちょっ、何? 出ていってよ!」
私は慌てて湯の中に沈み込み、胸を隠す。
けれどクラウドは気にも留めず、私の肩を掴んだ。
その手は熱く、強く、そして震えていた。
「……なんだ、正常じゃないか。
『僕から逃げようとしても無駄だ』と言ったろ」
怒りと悲しみが混じった目で、私を見下ろす。
──ああ、そうか。
私が“精神病院に入院したい”と書いたのは、嘘だと思っているのね。
「いいえ。おかしいのよ、心が。本当に。
それに、あなたも得するのよ?」
「どういう意味だ?」
彼の声が低くなる。
私は湯の中で、そっと息を吐いた。
「私、あなたに甘えてたって、ローリエに指摘されて初めて気づいたの。
だから……入院すれば、もう迷惑かけなくて済むでしょう」
彼の顔に、驚きが走った。
まるで、思いもよらなかったというように。
「ど、どういう流れで……何故そう思ったか、教えてくれるか?」
私は彼の碧眼を見つめながら、静かに言った。
「先に体を拭いて着替えるから、待ってて。
それとも、のぼせて気絶してほしい?」
クラウドは、しばらく黙っていた。
そして、しぶしぶと湯気の向こうへと姿を消した。
扉が閉まる音がして、ようやく私は、胸の奥に溜まっていた息を吐き出した。
湯の中で、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
湯あみを終え、私はネグリジェの上から薄手のガウンを羽織って部屋に戻った。
濃紺の絹が肌にひんやりとまとわりつき、濡れた髪が背中に張り付く。
クラウドは窓辺に立っていたが、私の姿を見るなり、目を見開いた。
「遅──それは……」
言葉の途中で、彼の視線が私の胸元に落ちる。
私は首を傾げた。
「どうしたの?」
彼は一瞬、言い淀んでから、ぎこちなく口を開いた。
「ぼ、僕に……放蕩な血が流れてるの、知ってるか?」
「ええ。だって、私の目の前でいろんな女性とイチャイチャしてたじゃない」
彼は黙り込んだ。
私はソファに腰を下ろし、濡れた髪をタオルで軽く押さえながら、ぽつりと続けた。
「さっき、ローリエに言われたの」
私は彼女との会話を、要約して説明した。
彼は何も言わなかった。
ただ、じっと私を見つめている。
「つまり私は、あなたの愛に甘えてたのよ。
これからは、甘えないようにします」
沈黙。
「……怒ってるの? いえ、怒ってますか?」
「いや……」
その声は、どこか遠くて、力がなかった。
私は小さく息を吐いた。
「とにかく、お父様にも修道院を探してくれるように頼んだので」
そう言って立ち上がると、彼の声が飛んできた。
「どこへ行く?」
「え、だって話、終わったんじゃ?」
「まだ終わってない」
仕方なく、私はまたソファに腰を下ろした。
沈黙が、部屋を満たす。
燭台の火が揺れ、影が壁を這う。
「僕が………………」
「……?」
彼の声があまりに小さくて、思わず聞き返す。
すると彼は、急に顔を上げて言った。
「ロ、ローリエは何処だ?」
「え? あ、ローリエは既婚者だから、愛人にし──」
慌てて言いかけた私に、彼は金の眉をひそめて遮った。
「そういう意味ではない」
彼は手元のベルを鳴らした。
澄んだ音が部屋に響く。
「ローリエを呼んでくれ」
その声は、妙に真剣で、どこか焦っていた。
私は思わず、彼の整いすぎた横顔を見つめてしまった。
ノックの音と共に、ローリエが部屋に入ってきた。
いつものように背筋を伸ばし、無駄のない動きで扉を閉める。
クラウドは、すぐに言った。
「隣に座ってくれ」
私は思わず声を上げた。
「だ、だからローリエは──」
「うるさい」
その一言に、私は息を呑んだ。
クラウドが、私に「うるさい」なんて……今まで1度も言ったことなかったのに。
──どうして?
どうして、こんなにショックを受けてるの、私……?
ローリエが、クラウドの隣に腰を下ろした。
すると、彼が何かを耳打ちする。
ローリエは一瞬、呆れたように緑の目を細めた。
「シンシア様、今は陛下の顔も見たくないほど憎くないですか?」
突然の問いに、私は戸惑いながら答えた。
「心の整理がつくまでは、率先して見たくはないけど……私も、いけなかったと思って……」
「大嫌いですか?」
「好きではない」
「妾のままにしたら、自殺しますか?」
「うーん……今は何とも言えない。心の整理がついてない」
ローリエは肩をすくめた。
「だ、そうです。もう失礼していいですか?」
クラウドが、彼女に何かを囁いた。
ローリエは、小さくため息をついた。
「なぜ、それを直接伝えないのです?」
クラウドは、また何かを耳打ちする。
ローリエは、さらに深くため息をついた。
「……明日、お祓いでもしていただいたらいいのでは?」
「そうだな。側近に、そのように伝えてくれ」
「承知しました」
ローリエは、すっと立ち上がり、静かに一礼して部屋を出ていった。
彼は、しまったという顔をしていた。
私と2人きりが気まずいらしい。
金の眉を寄せ、青い目を泳がせ、まるで子供のように俯いてモジモジしている。
「……さっきから、何してるのです?」
問いかけると、彼はますます視線を逸らした。
長身の彼が体を縮めているのを見ると、なんだか妙に可笑しくて、でも少しだけ胸が痛んだ。
そして私は、どうしてまだ、こんな彼に心を揺らされてしまうのだろう。
扉がノックされ、ローリエでないメイドが、そっと顔を覗かせた。
「シンシア様、夕食を召し上がっていないので……」
銀の盆の上には、小ぶりなサンドイッチが並んでいた。
私は首を横に振る。
「食欲がないの。陛下に勧めて」
「なっ……」
クラウドは、すぐさま皿を奪い、私の前に立ちはだかった。
そして、問答無用でサンドイッチを私の口に押し込んできた。
「んぐっ……! けほっ、けほっ……!」
喉に詰まって、涙が滲む。
なんとか飲み込んで、息を整えながら睨み上げた。
「はあ……はあ……何、す……」
「僕は……君が食事しないのがトラウマなんだ」
その言葉に、思わず返しかけた。
「それは、あなたが悪──いえ、気を付けます、陛下」
彼は黙ったまま、私の顔を見つめていた。
その視線が、どこか寂しげで、私は目を逸らす。
「もう僕の名前を呼ばないつもり?」
「私は一臣下であり、婚約者ではないので」
「まだ妾だと言っただろ」
「王妃でも側室でもない、ただの妾ではありませんか。それも、初夜すらしてない」
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「きゃっ……!」
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「何度も抱こうとした! できなかっただけだ!」
「……妾にした後、1ヶ月も部屋に来なかったではないですか」
「行けるわけないだろ。妾にすると言った瞬間、あんなにショック受けた顔して……」
「当たり前ではないですか! 家庭円満だったのに、元婚約者に……。
1ヶ月来なかったのも、私に怒りをぶつけたいだけに感じました」
「それは……そういう気持ちはあった」
私は、ため息をついた。
「どうぞ、後宮でお休みください」
「……は、離れたくない」
「最初から、そう言えば良かったのです。もう手遅れです」
「な、何でもする」
「では、実家に帰りたいです」
「僕から離れる以外」
「何でもではないじゃないですか!」
腹が立って大声を出す。
「しゅ、週に1度なら帰ってもいい」
「……」
「最大1・5回までだ」
私はまた、深く息を吐いた。
彼は、私の肩をそっと抱き寄せた。
「さっきの話……」
「え?」
「嬉しかった。僕の愛に甘えてたと」
「なぜ?」
「好きな女性に甘えられて、迷惑な男なんていない」
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「今は自覚したのだろう? これからは、意図的に甘えればいい」
「? そうしたら、成長しないではないですか。陛下と、共依存するつもりはありません」
「男女間の甘えは別さ」
「……承服致しかねます」
「強情だな、本当に」
「ですから、後宮をお勧めします。私は、とりあえず1・5回実家へ帰ります」
私は彼の腕をそっとほどき、背を向けて目を閉じた。
もう、何も言いたくなかった。
クラウドはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、私の背中にそっと寄り添ってきた。
「……」
そのまま、彼も静かに眠りについた。
私は目を閉じたまま、心の奥に残る小波の音を、ただ聞いていた。
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