王子と悪役令嬢の12時間

星森 永羽(ほしもりとわ)

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 自宅の居間に足を踏み入れた瞬間、空気が張り詰めた。暖炉の火がぱちりと弾ける音だけが響く中、父がゆっくりと立ち上がる。次の瞬間、頬に鋭い痛みが走った。

「お前というやつは! ミルフィーユ公爵家の面汚しめ! 殿下に公衆の面前で婚約破棄されるなど!」

 怒号が耳を打つ。私は痛む頬を押さえながら、ただ黙って立っていた。

 その横で、従者に粉したジュリアンが一歩前に出た。

「殿下に『公衆の面前で婚約破棄するよう』唆したのはシャルロッテ様ですから、レティシア様の非ではないでしょう」

 父の顔が怒りで歪む。

「なんだと? 従者の分際で意見するか!」

「お止めください。その方は王宮所属の使用人です。彼を殴るのは、王家に歯向かうことです」

 私が制すると、ミルフィーユ公爵は舌打ちし、乱暴に手を振った。

「ふんっ。とっとと荷物を置いて帰れ!」

 メイドが従者(王子)を案内し、私はその後を静かについていった。




 案内された部屋に入ると、王子は目を見開いた。

「ここが公爵令嬢の部屋?」

 狭い。家具も最低限。飾り気は一切ない。  
 メイドが薬箱を抱えて駆け寄り、私の頬を見て眉をひそめた。

「すぐ手当てします」

 王子は私の顔を見つめ、低く問いかけた。

「大丈夫か?」

「あなたが、それを言うのですか?」

 皮肉でも怒りでもなく、ただ事実を述べただけだった。  
 彼は苦しげに視線を落とす。

「……しかし、ミルフィーユ公爵が、あんなだと知ってたら……」

「知ってたら? だから『殴られる』と言ったではないですか。信じてなかったのですね」

 彼は言葉を詰まらせ、部屋を見回した。

「……こんなに何もない部屋に薬箱があるということは、日常的に暴力をふるわれているのだろう」

「顔を腫らした状態で、何度も王宮に妃教育で上がってますけど」

 彼は驚いたように目を見開いた。

「俺は会ってないから、気付かなくて当然だろう」

 その言葉に、私は小さく息を吐いた。  

「気付かなくて当然。そうですか。
 では、この先も一生そのまま無関心でいてください。婚約破棄した後にしゃしゃり出られたら迷惑です」

 彼は悔しげに眉を寄せた。

「婚約者だった時に、言えば良かっただろう」

「あなたは業務連絡以外話したことない仕事の関係者に、家の内情を相談するのですか?」

 彼は一瞬言葉を失い、それでも反論しようとする。

「婚約者は単なる関係者じゃない」

「いいえ、婚約者とは単なる役職名です。政略結婚という名の仕事の関係者です」

 その瞬間、王子の表情が痛いほど歪んだ。  
 だが、そこへ控えめなノックが入り、メイドが顔を出した。

「お嬢様、申し訳ありません。時間が……」

「ええ、ご苦労様。気をつけてね」

「はい、失礼します」

 メイドが頭を下げて部屋を出ていく。  
 王子はその背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。

「……通いだったのか」

「そうです。
 では食事を持ってきますので、どこかそれまで隠れていてください。従者がどうしたか聞かれれば、裏口から帰ったと言いますので」

 王子は驚いたように私を見る。

「お前が持ってくるのか? 他にも使用人がいるだろう」

「私の世話をするのは、今のクロエだけです。
 もっと言えば、彼女は私が雇ってるのでこの家のメイドではありません」

 王子は完全に言葉を失った。  
 その顔は、これまで見たどんな表情よりも愕然としていた。

 彼はようやく絞り出すように息を吐いたが、声は出なかった。  
 私はそんな彼を横目に、淡々と立ち上がる。



 トレイに簡素な夕食を乗せ、私は部屋へ戻った。扉を閉めると、従者の姿をしたジュリアンがこちらを振り返る。私は淡々とトレイを机に置いた。

「私はパンを半分いただきます。残りは、どうぞ。
 足りないかもしれませんが、イレギュラーなのでご辛抱ください」

 王子は皿の上を見つめ、言葉を失ったように固まった。  
 パン1つ、薄いスープ、そして小さなチーズ。

「これが……夕食? 俺が婚約破棄したから?」

 私は慣れた手つきでパンを半分に割り、口に運んだ。

「いつもこうですが? 殿下も私が『痩せすぎだ』と仰ってたではないですか」

「それは……体質だと思って」

「体質? 何を言ってるのです? 婚約した当時はまだ母が存命で、私は標準体型だったではないですか。病気で痩せたなら定期検診で引っ掛かってます。
 私が痩せ始めたのは、継母が来てからです。それとも殿下は、私の母が亡くなったことも覚えてないのですか。葬儀に参列してくださったのに」

 王子は息を呑み、視線を落とした。

「参列したのは覚えてる……しかし……いや、そうか。これ全部食べるといい。俺は1日くらい何ともない」

「そんなこと言われても食べにくいので、私には必要ありません。
 では、湯を汲んできます」

 私は部屋を出て、キッチンで沸かした湯をバケツに汲んだ。重さに腕が少し震えたが、慣れた動作だ。戻ってくると、王子は所在なげに立っていた。

「これで身体を拭いてください。終わりましたら、私も使いますので」

 王子は湯気の立つバケツを見つめ、信じられないというように眉を寄せた。

「湯浴みは? これだけ?」

「この部屋の、どこにバスタブがあるのです? 夏は井戸の脇で水浴びもできますが、この時期はこうやって身体を拭くしかありません」

 王子は言葉を失い、ただ沈黙した。  
 その沈黙が、どんな怒号よりも重く響いた。

 廊下の向こうから、軽い足音が近づいてきた。私は反射的に顔を上げる。

「クロゼットに隠れて」

 小声で告げると、王子は驚きながらも従い、狭いクロゼットの中へ身を滑り込ませた。扉が閉まる直前、彼の不安げな視線が一瞬だけ私を捉えた。

 次の瞬間、部屋の扉が勢いよく開く。



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