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しおりを挟む自宅の居間に足を踏み入れた瞬間、空気が張り詰めた。暖炉の火がぱちりと弾ける音だけが響く中、父がゆっくりと立ち上がる。次の瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
「お前というやつは! ミルフィーユ公爵家の面汚しめ! 殿下に公衆の面前で婚約破棄されるなど!」
怒号が耳を打つ。私は痛む頬を押さえながら、ただ黙って立っていた。
その横で、従者に粉したジュリアンが一歩前に出た。
「殿下に『公衆の面前で婚約破棄するよう』唆したのはシャルロッテ様ですから、レティシア様の非ではないでしょう」
父の顔が怒りで歪む。
「なんだと? 従者の分際で意見するか!」
「お止めください。その方は王宮所属の使用人です。彼を殴るのは、王家に歯向かうことです」
私が制すると、ミルフィーユ公爵は舌打ちし、乱暴に手を振った。
「ふんっ。とっとと荷物を置いて帰れ!」
メイドが従者(王子)を案内し、私はその後を静かについていった。
案内された部屋に入ると、王子は目を見開いた。
「ここが公爵令嬢の部屋?」
狭い。家具も最低限。飾り気は一切ない。
メイドが薬箱を抱えて駆け寄り、私の頬を見て眉をひそめた。
「すぐ手当てします」
王子は私の顔を見つめ、低く問いかけた。
「大丈夫か?」
「あなたが、それを言うのですか?」
皮肉でも怒りでもなく、ただ事実を述べただけだった。
彼は苦しげに視線を落とす。
「……しかし、ミルフィーユ公爵が、あんなだと知ってたら……」
「知ってたら? だから『殴られる』と言ったではないですか。信じてなかったのですね」
彼は言葉を詰まらせ、部屋を見回した。
「……こんなに何もない部屋に薬箱があるということは、日常的に暴力をふるわれているのだろう」
「顔を腫らした状態で、何度も王宮に妃教育で上がってますけど」
彼は驚いたように目を見開いた。
「俺は会ってないから、気付かなくて当然だろう」
その言葉に、私は小さく息を吐いた。
「気付かなくて当然。そうですか。
では、この先も一生そのまま無関心でいてください。婚約破棄した後にしゃしゃり出られたら迷惑です」
彼は悔しげに眉を寄せた。
「婚約者だった時に、言えば良かっただろう」
「あなたは業務連絡以外話したことない仕事の関係者に、家の内情を相談するのですか?」
彼は一瞬言葉を失い、それでも反論しようとする。
「婚約者は単なる関係者じゃない」
「いいえ、婚約者とは単なる役職名です。政略結婚という名の仕事の関係者です」
その瞬間、王子の表情が痛いほど歪んだ。
だが、そこへ控えめなノックが入り、メイドが顔を出した。
「お嬢様、申し訳ありません。時間が……」
「ええ、ご苦労様。気をつけてね」
「はい、失礼します」
メイドが頭を下げて部屋を出ていく。
王子はその背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「……通いだったのか」
「そうです。
では食事を持ってきますので、どこかそれまで隠れていてください。従者がどうしたか聞かれれば、裏口から帰ったと言いますので」
王子は驚いたように私を見る。
「お前が持ってくるのか? 他にも使用人がいるだろう」
「私の世話をするのは、今のクロエだけです。
もっと言えば、彼女は私が雇ってるのでこの家のメイドではありません」
王子は完全に言葉を失った。
その顔は、これまで見たどんな表情よりも愕然としていた。
彼はようやく絞り出すように息を吐いたが、声は出なかった。
私はそんな彼を横目に、淡々と立ち上がる。
トレイに簡素な夕食を乗せ、私は部屋へ戻った。扉を閉めると、従者の姿をしたジュリアンがこちらを振り返る。私は淡々とトレイを机に置いた。
「私はパンを半分いただきます。残りは、どうぞ。
足りないかもしれませんが、イレギュラーなのでご辛抱ください」
王子は皿の上を見つめ、言葉を失ったように固まった。
パン1つ、薄いスープ、そして小さなチーズ。
「これが……夕食? 俺が婚約破棄したから?」
私は慣れた手つきでパンを半分に割り、口に運んだ。
「いつもこうですが? 殿下も私が『痩せすぎだ』と仰ってたではないですか」
「それは……体質だと思って」
「体質? 何を言ってるのです? 婚約した当時はまだ母が存命で、私は標準体型だったではないですか。病気で痩せたなら定期検診で引っ掛かってます。
私が痩せ始めたのは、継母が来てからです。それとも殿下は、私の母が亡くなったことも覚えてないのですか。葬儀に参列してくださったのに」
王子は息を呑み、視線を落とした。
「参列したのは覚えてる……しかし……いや、そうか。これ全部食べるといい。俺は1日くらい何ともない」
「そんなこと言われても食べにくいので、私には必要ありません。
では、湯を汲んできます」
私は部屋を出て、キッチンで沸かした湯をバケツに汲んだ。重さに腕が少し震えたが、慣れた動作だ。戻ってくると、王子は所在なげに立っていた。
「これで身体を拭いてください。終わりましたら、私も使いますので」
王子は湯気の立つバケツを見つめ、信じられないというように眉を寄せた。
「湯浴みは? これだけ?」
「この部屋の、どこにバスタブがあるのです? 夏は井戸の脇で水浴びもできますが、この時期はこうやって身体を拭くしかありません」
王子は言葉を失い、ただ沈黙した。
その沈黙が、どんな怒号よりも重く響いた。
廊下の向こうから、軽い足音が近づいてきた。私は反射的に顔を上げる。
「クロゼットに隠れて」
小声で告げると、王子は驚きながらも従い、狭いクロゼットの中へ身を滑り込ませた。扉が閉まる直前、彼の不安げな視線が一瞬だけ私を捉えた。
次の瞬間、部屋の扉が勢いよく開く。
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