初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)

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ウサギのぬいぐるみ



 夜。ホテルの寝室には、柔らかな灯りがともっていた。  
 俺はベッドの上で書類をめくっていたが、扉がそっと開く音に顔を上げた。

「……マレッタ?」

 小さな影が、もじもじと立っていた。  
 パジャマ姿のマレッタが、こちらを見上げている。

「一緒に寝て」

 その一言に一瞬、言葉を失った。

「……スフィアがいないとダメだ」

「どうして?」

「えっと……俺がもし、変態だったら困るのはマレッタなんだ」

「キアヌは変態なの?」

「ち、違うよ! 違うけど……」

「だったら、いいじゃない」

 マレッタは当然のように言って、ベッドの端にちょこんと腰を下ろす。

「……あー……何て言うのかな。  
 マレッタは“淑女”だから、男と一緒に寝ないんだ」

「しゅくじょ?」

「うん、えーと……お姫様みたいな、立派な女の人のこと」

「じゃあ、お母さんもしゅくじょ?」

「もちろん。スフィアは、超一流の淑女だ」

「ふーん……でも、私はまだ"しゅくじょ"じゃないし、キアヌは変態じゃないからいいでしょう?」

 俺は頭を抱えた。  
 この子の理屈は、正しい。だが、困る。

 そのとき部屋の隅にいたメイドが、そっと口を開いた。

「私がソファーで寝ますから。お嬢様が安心して眠れるなら、それが一番です」

 助け舟に感謝しながら、マレッタの頭を撫でた。

「……じゃあ、今日は特別だ。ちゃんと寝るんだぞ」

「うん!」

 マレッタは嬉しそうに布団に潜り込んだ。  
 その横顔を見つめながら、俺はそっと灯りを落とした。

 メイドがソファーに横たわり、毛布にくるまる。  

 マレッタは、ぽつりと呟いた。

「私もしゅくじょになる」

「うん、すぐになれるよ」

 俺は一息置いて、口を開いた。

「なあ、マレッタ」

「うん?」

「キアヌっていうのは、傭兵として働く時の名前でね。正式な名前は、ロキアっていうんだ」

「名前が、いくつもあるの?」

「ああ、ややこしくてすまない。これからは“ロキア”って呼んでくれるか? そっちのほうが、より親しい名前だから」

「わかった」

 そのとき、マレッタの目が何かを見つけて輝いた。

「あ、私のうさぎ!」

 ベッドの端に転がっていたぬいぐるみを見つけると、マレッタは身を乗り出してそれを抱きしめた。  
 ホテルに置いていったものだ。

「要らなくて捨てていったんじゃないのか?」

 マレッタは首を振った。

「まさか。あの時は、お母さんが急に出発するって言って、急いで馬車に乗ったの。
 なんだか怖くて……忘れたって言えなかった」

 その言葉に、胸が締めつけられた。

「それは……俺が悪いんだ。昔、スフィアに酷いことを言ったのを、彼女が思い出したんだ。
 だから、お母さんを恨んじゃダメだ」

 マレッタは少しの間、黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「わかった」

「いいこだ」

 そっとマレッタの頭を撫でた。  
 マレッタはうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、安心したように目を閉じた。

 静かな夜の中、ふたりの呼吸が重なっていく。  




 翌日から、仕事の合間を縫ってマレッタをあちこちに連れ出した。  
 公園、博物館、菓子屋、そして植物園。  
 辺境伯代理としての職務は山ほどあったが、それでも時間を作った。  
 帰る前に、マレッタに少しでも多くの思い出を残したかった。

 その日も、夕暮れの植物園から戻ってきたところだった。  
 ホテルのロビーに入ると、そこに威厳ある人物が立っていた。

 ローズハント公爵。

 マレッタが、ぱっと顔を輝かせて駆け寄る。

「おじいちゃん!」

 公爵は微笑み、しゃがんで孫を迎えた。

「マレッタ、元気だったか?」

「うん! 植物園に行ってきたの!」

「そうか、良かったな」

 そのやりとりを見守っていた俺は、自然と背筋が伸びた。  
 だが次の瞬間、公爵の視線がこちらへ向けられる。

「ところでノミート卿。いつまでも孫を預けておくわけにはいかない」

「……はい」

 ついに、連れて行かれる時が来たのだ。  
 これで、お別れだ──そう思った矢先。

「だから、ホテルを引き払って、うちに滞在してくれないか」

「は?」

 思わず間の抜けた声が出た。  
 俺は慌てて言い直す。

「いえ……私が邸に入るわけには……」

「当主が頼んでいるのにか?」

 公爵の声は穏やかだったが、拒絶を許さない重みがあった。

「どうして移動しちゃダメなの?」

 マレッタが不思議そうに首をかしげる。

 俺は一瞬、言葉を失った。  
 まさか、あのローズハント公爵から直々に“滞在の申し出”があるとは思ってもみなかった。

「……いえ、ダメというわけでは。ただ、私のような者が公爵の屋敷に上がるのは……」

「くだらん。君は恩人だ。……それに、スフィアも了承している」

「……!」

 その言葉に、俺の胸が大きく波打った。

 マレッタが、手をぎゅっと握る。

「ねえ、ロキア、いっしょに来てよ。おじいちゃんの家、おっきくてね、お庭もあるんだよ!」

 その無垢な瞳が、まっすぐに俺を見つめていた。  
 拒む理由は、もうどこにもなかった。

「……本当に、よろしいので?」

「当然だ」

 俺は深く頭を下げた。

「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

「やったー! いっしょに住める!」

 マレッタが歓声を上げる。  
 彼女を抱き上げ、くるりと一回転してみせた。

 その笑顔は、秋の夕暮れよりもあたたかかった。



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