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夫の追手
しおりを挟む昼休憩の合図とともに、馬車が緩やかに止まった。
使用人たちが手際よく椅子とテーブルを並べ、白布をかけてランチボックスを並べていく。
春の風が草の香りを運び、遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
私は椅子に腰を降ろした。
ランチボックスの蓋を開けた瞬間、ふわりと懐かしい香りが鼻をくすぐった。
「美味しい……実家の味だわ」
口に運んだ煮込み野菜の優しい味に、思わず笑みがこぼれる。
ヴィクトルも向かいの席で、同じようにフォークを進めながら尋ねた。
「王宮では、食事はちゃんと出るのか?」
「いやだわ。インチキ吟遊詩人じゃあるまいし、王宮で残飯なんか出ないわよ」
私が肩をすくめると、義兄はくすりと笑った。
「そのぶん、毒には気をつけないと」
「義兄様ったら、過保護ね」
「うちには男兄弟しかいないから、女の子の扱いはわからないんだ」
ヴィクトルは分家の伯爵の長男で、実弟が2人いる。
「そんなこと言ったって、デートの1つぐらいはあるんでしょ?
それに、もうすぐお見合いさせられるわよ」
私がからかい半分に笑うと、彼は苦い顔を浮かべた。
──私が結婚するまで、婚約者を決めない。
それは、ヴィクトルの意思だけではない。
万が一、カイザーに何かあった場合、私がアストリア公爵家を継ぐ可能性がある。
そのとき、義兄は元の伯爵家に戻らなければならない。
もし、すでに他家の貴族と婚姻していれば、相続を巡って揉めることになる。
「それは義父上にも言われたが、まだヴィオが怪我で戻る可能性があるだろう。だから、保留になった」
義兄は、ぽつりと呟いた。
「ごめんなさい。私のせいで……」
私が俯いて言うと、義兄はすぐに首を振った。
「違う。俺は、結婚したくないんだから。いいんだよ」
「ふうん……」
その言葉に、私は思わず彼の横顔を盗み見た。
好きな人がいるのかしら。
それとも、モテすぎて女嫌いになったのかしら。
──まあ、いいけど。
そのときだった。
「危ない!」
ヴィクトルの声と同時に、風を裂く音が耳を打った。
矢が、私たちのすぐ横をかすめて突き刺さる。
使用人たちが悲鳴を上げ、護衛の騎士たちが一斉に動き出す。
「襲撃だ! 反撃しろ!」
護衛騎士の怒声が響き、剣が抜かれる音が連なる。
義兄はすぐに私を抱き上げ、馬車の中へと押し込んだ。
「中から鍵をかけるんだ。俺がいいと言うまで、絶対に出てくるな」
その瞳は、いつになく鋭く、そして真剣だった。
私は息を呑み、ただ頷いた。
扉が閉まり、内側から鍵をかける。
外では、剣戟の音と怒号が交錯していた。
カーテンの隙間から、そっと外を覗いた。
陽光がまだ柔らかく降り注いでいる。
義兄は剣を抜き、馬車の外で野盗に斬りかかる。
濃紺の髪が風に舞い、鋼の刃が陽光を弾いた。
──白昼堂々、それも王都を出てすぐの場所で襲撃なんて……。
しかも、こちらの護衛の数を見越して動いている。
これは、偶然の奇襲ではない。
私は足元を見下ろした。
まだ骨折している足では、走って逃げることはできない。
ならば──戦うしかない。
座席の下に手を伸ばし、隠してあった短剣と小型のボーガンを引き出す。
公女たるもの、護身術は一通り叩き込まれている。
公爵令嬢も、王女も、妃も、命を狙われる確率は、平民の比ではないのだから。
ヒュン──
放った矢が風を裂き、敵の首筋に突き刺さる。
1人、また1人と倒れしていく。
馬車から矢が飛んでくるとは思っていなかったのだろう。
敵は混乱し、次々と隙を晒した。
私は冷静に狙いを定め、8人目を仕留めたところで戦闘は終わった。
「ヴィオ! 無事か!?」
義兄の声がして、扉が開かれる。
剣を手に、息を切らせたヴィクトルが、私の顔を覗き込んだ。
「ええ。……そっちは?」
「問題ない。……っていうか、何人倒した?」
「さあ? せっかくの昼食が台無しね」
私はボーガンを座席の下に戻しながら、肩を竦めた。
手柄など主張するものに非ず。
義兄は苦笑しながら、剣を鞘に収める。
「片付けがあるから、待っててくれ」
私は頷いた。
ふと視線を落とすと、テーブルも椅子も、ぐちゃぐちゃになっていた。
ランチボックスはひっくり返り、スープは地面に染み込んでいる。
──これは、夕方まで食事にありつけないパターンかしら。
内心がっかりしながらも、私は表情を崩さなかった。
冷静に見えるだろうが、襲撃を受けた際の訓練は、毎年受けてきた。
だから、あまり慌てなかっただけ。
それでも、怪我してる身では、じわじわと疲労が広がっていた。
馬車の中、夕暮れの光がカーテン越しに差し込んでいた。
私は窓の外をぼんやりと眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……王都に戻るかと思ったわ」
ようやく再出発したのは、日が傾き始めた頃だった。
義兄は隣で腕を組み、低い声で答えた。
「襲撃犯の1人が、カイザーの元護衛騎士だった。
顔は手術で変えていたが、太刀筋がそっくりで、間違えようがないと報告を受けた」
私は目を伏せた。
今、私たちを守っているのは、王子妃付きの護衛──つまり、王宮から派遣された騎士たちと、公爵家の私兵。
当然、カイザーの騎士たちとも面識がある。
「だから、王都に戻るのは危険だ。
公爵家に追加の兵を派遣するよう、伝書鳥は飛ばした。
宿で休んでるうちに追いつくだろう」
私はただ、静かに頷いた。
襲撃そのものよりも──
その背後に、カイザーの影が見えることに、どうしようもない疲労感が押し寄せていた。
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