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しおりを挟む結界の中は静かで、広間の冷たい夜の空気がゆっくりと沈んでいく。
私は掛布の中で横になり、微睡みに落ちかけていた。
そのとき──
「……いつからだ?」
セディリオの低い声が闇に落ちた。
「いつからカイム・セルヴァンと、そうなった?」
私は目を開け、天井を見つめたまま答える。
「アーデン準男爵令嬢が、"自分こそ聖女だ"と言い始めた頃です」
ちょうど半年ほど前のことだ。
でも結局、聖女とは認定されなかった。
「……最近ではないか……」
「そうです。
不貞は殿下が先ですね」
セディリオは息を呑んだ。
アーデンとセディリオの関係は、すでに3年近くになる。
「それでは……俺と円満な家庭は望んでなかったのか」
「家庭?」
私はゆっくりと寝返りを打ち、背を向けた。
「王家に嫁いで、まともな結婚生活ができるはずありません。
そもそも政略結婚ですよ? ビジネスと同じでしょう」
「……ああ。お前の、そういう冷たいところが嫌いだ」
「でしたら、正当な理由で婚約破棄すれば宜しいかと」
セディリオは言葉を失い、沈黙が落ちた。
その沈黙は、これまでのどの時間よりも重く、痛々しかった。
私は目を閉じる。
セディリオが何か言いたげに息を吸う気配がしたが──結局、何も言わなかった。
結界の中に、夜の静けさだけが残った。
4日目の朝。
結界の外から足音が近づき、弟のルシアンが静かに頭を下げた。
「アーデン準男爵令嬢が吐きました」
その一言で、セディリオの肩がわずかに揺れる。
「殿下と結婚するために、人工的に虹を作って聖女認定を得ようとしたものの失敗したため──
姉(イレーネ)を悪者にしたそうです。婚約破棄すれば、自分が結婚できると」
淡々とした声。
しかし、その内容は広間の空気を一気に冷やした。
「現在、共犯者・関係者に召集をかけています」
セディリオは唇を震わせ、かすれた声を絞り出した。
「……メリィは、どうした?」
「辛うじて生きてはいます」
ルシアンの返答は、あまりにも冷静だった。
セディリオは拳を握りしめ、視線を落とす。
その横顔には、怒りとも後悔ともつかない影が落ちていた。
私は静かに朝食のスープを口に運びながら、ただその様子を見つめていた。
10日目の朝。
結界の中の空気は、もはや諦めと疲労が混じり合った重さを帯びていた。
私は朝食の準備を整え、席についた。
そのとき、視界の端に“布をまとっていない王子”が映る。
「……服を着てください」
セディリオは不機嫌そうに眉を寄せた。
「予備の着替えも、すべて臭いのだ」
「1日中、筋トレなさるからです」
「……」
セディリオは言い返せず、黙り込んだ。
私は気にせずスープを口に運ぶ。
「……干し肉が尽きた」
「それで?」
「俺が死んでもいいのか。処刑されるぞ」
私はため息をつき、魔法空間からアレを取り出して差し出した。
「……これは?」
「家畜用の藁です」
「おのれっ……!」
怒って掴みかかろうとした瞬間──
ビリッ!
「ぐあっ……!」
電撃が走り、セディリオはその場に膝をついた。
「この空間では暴行できません」
私は淡々と告げる。
「くそっ……お前は、どのくらい備蓄を用意してきたんだ?」
「1年分です」
「…………」
セディリオは完全に沈黙した。
そして、しばらくしてから、絞り出すように言った。
「……白い結婚と離婚以外は、条件を飲む」
「白い結婚も離婚も譲りません」
「俺が折れてやってるのに! 跡継ぎは、どうする?!」
「モーリス侯爵令嬢と、どうぞ」
セディリオが大嫌いな令嬢の名だ。
「っ、──彼女が不妊だったら?」
「では、ソリティア男爵令嬢とアニマ子爵令嬢を妾に」
これもまた、セディリオが顔をしかめる相手ばかり。
「……そんなに俺が憎いか」
「それは、こちらのセリフです」
セディリオは言葉を失い、ゆっくりと視線を落とした。
そして、干し草の袋を睨みつけたまま、しばらく黙っていた。
やがて、何かを振り払うように息を吐き、ぽつりと呟く。
「……お、俺はただ……お前が改心すれば、正室に戻してやるつもりだった。
メリィに王子妃は務まらない」
私は朝食の準備をしながら、ゆっくりと振り返る。
「何の改心です?」
「だ、だから……それは……」
言葉に詰まるセディリオを横目に、私は乾パンの入った袋を取り出し、彼に差し出した。
「貸しですよ」
セディリオは複雑な顔で袋を受け取った。
朝食後。私は本を開こうとしたところで、セディリオが声を上げた。
「……交渉を」
「今度は何ですか?」
「白い結婚は……お前の心境変化により解除可能。
離婚は、結婚5年目以降」
「その条件を、私が受け入れるメリットは?」
セディリオは一瞬だけ言い淀み、しかし覚悟を決めたように言った。
「……俺が間違っていたことを、公表する」
「そんなこと当然なのです」
「普通、隠蔽するだろう! 王族だぞ!」
「なら、陛下が隠蔽なさっても、殿下がきちんと発布すると契約内に含めますか?」
「いいだろう」
セディリオは、ほっと息をついた。
しかし、私は淡々と続ける。
「その場合、廃嫡されるかもしれませんよ」
「元々、次男だ」
「生計は、どうやって立てるのです?」
「あのな、公爵令嬢と結婚するのに、王家が俺を無一文にするはずないだろう」
「我が家門から、かなりの賠償請求されますが?」
「……なんとかなる」
セディリオは、深くうなだれた。
その姿は、もはや王子というより、ただの疲れ切った青年だった。
私は首を傾げる。
「殿下のその楽観主義が、今回の事態を招いたのでは?」
「短慮だと言いたいのか」
「筋トレより、お勉強なさった方が宜しいですわ」
「ぐっ……」
セディリオは悔しげに唇を噛む。
「……確認だが、俺の妻として、公務はするな?」
「しますが」
「なら、いい。新たな契約を結ぶ」
私は静かに微笑んだ。
「もう2~3日、ここにいましょう」
「な、何だと? ……まさか……俺と一緒にいたいの「今すぐ契約しましょう」」
私は魔法空間から、青い光を宿した契約の魔法石を取り出した。
セディリオは息を呑む。
私は魔法石に手を置き、契約文を述べた。
前に提示した結婚後の契約内容に、先ほどの王子の譲歩案を加えて。
光が弾け、空中に契約書が現れる。
その文字が淡く輝きながら、2人の体へ吸い込まれていった。
──契約成立。
結界の光が揺れ、静かに消えていく。
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