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無理やり始まる新生活
しおりを挟むどうやって帰ってきたのか、記憶が曖昧だった。気が付けば家の前──アスファルトの上に立っていて、街灯の光が私の影を細長く伸ばしていた。頬に触れる風は夏の匂いがして、現実に引き戻されるたび胸がざわつく。
とにかく! 賃貸を解約しないと! 家賃が払えなくなる!
あのヒロイン、何してくれてるのよ!
私はスマホを握りしめ、不動産会社に解約の電話を入れた。画面に映る自分の顔は疲れ切っていて、目の下の影が濃い。けど、やるしかない。
それから自宅でパソコンを立ち上げ、クレジットカードの使用履歴を確認する。画面に並ぶ数字を追った瞬間、背筋が凍った。カードが止められていて、未払いが120万。
「ええええ……」
声が裏返った。3LDKのマンションに私の情けない声が響く。
白い壁、間接照明、生活感のない部屋。何年も働いて積み上げてきたものが、たった4ヶ月の不在で崩れ落ちるなんて。
──住所があるうちに動かないと終わる。
私は片っ端から派遣会社の面接を受け、即日働き始めた。
スーツはクリーニングに出す余裕もなく、皺を伸ばして誤魔化した。鏡に映る私は、髪をひとつにまとめ、目だけが妙にギラついていた。生き延びるための顔だ。
同時に、部屋にあるブランド品やインテリア家具を全てネットで売り払った。お気に入りのバッグも、奮発して買ったソファも、写真を撮って出品するたび胸が痛んだ。でも、カード破産せずに済んだ。
しかし、新しく借りられた家は築60年の4畳1間のシェアルームで、風呂もトイレも共用だった。薄い木の扉、軋む廊下、共同キッチンから漂う誰かのカレーの匂い。
派遣バイトは賃貸契約において無職に近い扱いで、保証人も預金もない私が借りられたのは、ここが限度だった。
布団を敷くと部屋の半分が埋まり、天井のシミが目に入る。私は深く息を吐いた。こんなはずじゃなかったのに。けれど、泣いている暇はない。生きるために、働くしかない。
銭湯からの帰り道、秋の夜風がまだ肌に残っていた。古いシェアルームの薄い扉を開けると、共同廊下の蛍光灯がちらついた。
私はコンビニで買った弁当をテーブル代わりの段ボール箱に置き、割り箸を割る。湯気の立たない冷めた唐揚げ弁当を口に運びながら、深くタメ息をついた。
この分じゃ今頃、異世界で改革したものも全部台無しにされてるだろう。あのヒロイン、本当にあり得ない。疫病神みたいな女。
私は弁当の蓋を見つめたまま、胸の奥がじわじわと熱くなるのを感じた。悔しさと、虚しさと、怒りが混ざったどうしようもない感情。けれど、ふと手が止まる。
でも……待って。あの時って確か、原作を読んで「私ならこうする」って強く思ったらミアに憑依したんだよね。ってことは、もう1度やれば……。
私は姿勢を正し、スマホを手に取った。画面に映る自分は、湯上がりで頬が少し赤く、髪はタオルドライのまま肩にかかっている。目だけが妙に真剣だった。
万一に備えて、クレジットカードと銀行は1つだけ残して解約しよう。公共料金の支払いは、全てコンビニか銀行引き落としにする。
スマホは、パスワード式のロックに変更。そう。面倒臭がって全部、指紋認証にしたから、こんな目に遭ったんだ。もう、しない。
私は弁当の最後の一口を飲み込み、空の容器をゴミ袋に押し込んだ。薄いビニールがくしゃりと音を立てる。狭い部屋の空気が、決意で少しだけ引き締まった気がした。
やり直せるなら、絶対に取り返す。あの世界も、私の人生も。
数日後。私は必要な準備を全て終え、古いシェアルームの薄い机にノートパソコンを置いた。蛍光灯の白い光が画面に反射し、狭い部屋が少しだけ明るく見える。深呼吸して、小説アプリを開いた。
ページが表示された瞬間、私は目を疑った。ストーリーが……変わっている。ヒロイン・ミアが、自分を虐げようとした相手を容赦なく叩き潰していくのだ。
──ドアマット・ヒロイン、どこ行った?
っていうか、これ、私の話じゃない?
「嘘でしょ……」
私は画面に顔を近づけた。スクロールする指が震える。
私と入れ替わった後のヒロインは、ロベルトの子を妊娠していた。けれど夫婦仲は冷えきっていて、文章から漂う空気が刺すように痛い。
「お前は、ミアじゃない。ミアになりすました魔女だ」
ヒロイン──ミアは、夫のロベルトに言い返す。
「私が本物のミアです」
「いや、ミアはもっと強く、知略に長けている。それにキャラ弁も今までとデザインが、まったく違う」
「あれは! キャラ弁は、本当に私のアイディアで──」
「くそっ。俺の子を妊娠していなければ火炙りにしたのに」
「そんなっ」
ここまで読んで、私は思わず小説を閉じた。
「このままでいいんじゃない? なんか、ちょっとだけスッキリした。いや、まだムカつくけど……寝よ」
布団を敷いた4畳の部屋は狭いけれど、私はそのまま横になった。天井のシミを見つめながら、胸が軽くなるのを感じた。
派遣先のオフィスはガラス張りで、昼の光が差し込むと白く輝いて見える。
私はコピー用紙を抱えて廊下を歩いていると、スーツ姿の佐野原に呼び止められた。濃紺のスーツがよく似合う、渋い雰囲気の上司だ。落ち着いた茶色の目がこちらを向く。
「やあ、横田さん。頼みがあるんだが」
横田は私の名字。
「何でしょう?」
「正社員になってくれないか」
「え、もう、ですか? ……光栄です」
胸が少しだけ熱くなる。
この会社は単純に、時給が高いから応募した。まだ通って1週間なのに。
「仕事できすぎて困ってるんだよ」
「はい?」
思わず素っ頓狂な声が出た。佐野原は苦笑し、腕を組む。
「プロジェクト任せたくても、派遣だと途中で他の会社に行ってしまうかもしれないからね」
「それはそうですね。では、条件については人事部でうかがえば?」
「僕が直接、説明しよう。応接室へ」
佐野原の後ろについて応接室に入った。ガラスのテーブル、観葉植物、落ち着いた照明。派遣の私には少し場違いに感じる空間だった。
説明を聞きながら、胸の奥に1つの懸念が浮かぶ。
万一、プロジェクトの途中で、またミアと入れ替わったら、どうしよう……。異世界に飛ばされて、戻ってきたらSNSが炎上していた、なんて洒落にならない。
「どうかした? 条件に不満?」
「いえ……」
曖昧に笑って誤魔化す。かと言って、ずっと派遣でいるわけにもいかない。派遣は時給が高めに設定されているけど、ボーナスは出ない。生活を立て直すには、安定が必要だ。
「よろしくお願いします」
私は深く頭を下げた。佐野原さんの表情がわずかに緩む。応接室の空気が、少しだけ温かく感じられた。
仕事帰りのレストランは、木目調の照明が柔らかく落ちていて、テーブルの上のグラスが淡く光っていた。
私はコートを椅子に掛け、向かいに座る木沢を見る。グレーのスーツ姿が爽やかな後輩だ。
「もう仕事決まるなんて流石です」
「ありがとう。でも……」
私はおしぼりを持ったまま、胸の奥にある不安を言葉にした。
また向こうの世界に憑依してしまったら……。
「クレカはスマホでだけ使えるようにして、カードは処分すればいいですよ」
「それは対策したんだけど……仕事で、また迷惑かけるのが申し訳なくて……ずっと派遣でいようか迷ったんだけど」
木沢は少し考えてから、真剣な顔で言った。
「僕と一緒に住みます? そうすれば入れ替わった時、止められます。体調不良ってことにして閉じ込めておくとか」
「で、でも恋人や家族が困るでしょう?」
「家族は田舎で、恋人はいません」
「でででで、でも」
顔が熱くなるのが自分でも分かった。木沢は、そんな私を見てふっと笑う。
「部長もやっぱり、ちゃんと女の子なんですね。顔真っ赤ですよ」
私は仕事ばかりしてきた。バリバリ働いて、恋愛なんて遠ざけてきた。だから、こんなふうに言われると弱い。
結局、木沢とは“毎日連絡を取り合う”ことで決着した。けれど、そのやり取りは、どう考えても恋愛に発展しそうな雰囲気。スマホを見るたび胸がざわつく。
「でも木沢くん以外、頼れる人いないしなー」
私はグラスの水をひと口飲み、天井のライトをぼんやり見上げた。
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