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三章・長い夜へ
神との契約(2)
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戦争が始まり、酷い話が北から伝わってくるたび母は心を痛めた。七年もの間一緒に暮らしたイリアムのことも我が子のように大切に想っていたから。
やがて床に臥せるようになった。母も若い頃から心臓に軽い疾患を抱えており、それが悪化した結果だ。兄がかつて傭兵になる道を選んだのは、そんな母に無理をさせられないと思ったからでもあったらしい。
ノーラは母の介護にかかりっ切りになり、兄は何故かラウラガの研究室に入り浸る日々。滅多に帰って来なくなって、帰って来たとしても常に暗い顔をしている。
ある日、陰鬱に黙り込む姿を見かねて訊ねた。
『兄さん、どうしたの……?』
『なんでもない』
返って来た答えはそれだけ。その後も何度か同じやり取りをしたが、変わらなかった。そのうち師のラウラガと激しく口論をしていたという話は人伝に聞いた。イリアムが帝国の凶行に関わってしまったことで師弟関係にも亀裂が入ったのかもしれない。そう思ったが、兄はけっして自分達に事情を話してくれようとはしなかった。ノーラもそのうち、向こうが話してくれるのを待つことにしようと諦め混じりに態度を変えた。
そして開戦から四ヶ月後、ついに兄の苦悩の理由、その一端を知る。ただし兄の口からではなく、予想外の人物の来訪によって。
『ノーラ、この大陸の平和のため、その身を捧げてくれ』
人にものを頼んでいるとは思えない尊大な態度。いきなり来てそう言ったのは初めて彼女達の家を訪ねて来たラウラガだった。
背が低く、幅広な体型。服は黒いローブ。彫りが深く立派なヒゲをたくわえていることもあって、そこはかとなく威厳を感じさせる。兄の留守中を狙ったかのようなタイミングで数人の兵士と共に訪ねて来たかと思うと、挨拶もそこそこにこれである。相変わらず苦手な性格だと思った。
『なんですか急に……?』
問い返すと、人目を気にした彼は兵士達に人払いをさせ続きは中でと言った。警戒したものの兄が世話になっている人物だと思い出し、渋々招き入れてお茶を出す。
すると彼は、その茶には全く手を付けずに話を続けた。
『イリアムが作った生物兵器は古の魔獣を再現したものだ。あれに勝つには、こちらも神代の時代のものを蘇らせる必要がある。そうでなければ大陸は帝国のみを残して滅ぶだろう』
まだ噂程度でしかないが、そういう話は聞いていた。帝国の兵士達が使役する異形の獣や虫達は圧倒的な強さで他の国々の軍隊を蹂躙し、赤子ですら容赦無く手にかけ、大虐殺を行いながら南下を続けていると。
近いうち、この聖都まで踏み荒らされる可能性が高い。そう聞いて早くも南方へ避難する者達が続出している。現在各国の軍隊が集まりつつあるこのオルトランドが陥落したなら、結局は逃げた先にも帝国軍がやって来るだろう。そんなことはわかっていても、眼前まで迫った恐怖に抗える人は少ない。
ノーラもそうしたかったが、兄がなかなか聖都を離れたがらなかった。多分帝国の凶行を止める算段を立てているのだと思う。親友であるイリアムのために。そういう人なのだ。
そんなノーラの推察を、ラウラガの言葉が裏付ける。
『お前の兄は他の錬金術師や軍の者達と協議を重ね、魔獣に対抗できる新兵器を生み出そうとしている』
やっぱりと思った。さらにその後の言葉に対しても。
『だが無駄だ。今さらそんなものの開発を始めたところで遅すぎる。そもそも現在の技術水準では、どう足掻いたところで魔獣に対抗しうる兵器など造り出せん。それを奴等は理解しておらん』
だからと、老人は厳めしい顔つきで語る。
『お前の協力が必要だ、ノーラ。私の長年の研究の成果、それを世に出すためにどうしてもお前の協力が要る。他の者達では足りない。適性が不足している』
『適性……?』
『私は三柱教と共に、女神アルトルを蘇らせるための研究を続けて来た』
『えっ』
神話に出て来る、全てを見通す女神様? 突然出て来た名前に困惑する。たしかに言い伝えでは異界から来た邪悪な神々との戦いで戦死したと言われているが、人の手で神を復活させるなど荒唐無稽な妄想にしか思えない。
でもラウラガは嘘を言っているようには見えなかった。彼の目は恐怖すら感じさせるほど強烈な確信で満ち溢れている。絶対にそれは可能だと訴えかけて来る。
それから彼は自分の研究について詳しく語り出した。他の場面で、あんなに饒舌に語る彼の姿を見たことは一度も無い。ただ、その話は難解すぎてノーラには一割も理解出来なかった。
二つだけ理解出来たのは、彼の長年の努力が実っても女神が完全な形で蘇るわけではないということ。それはおそらく本来の彼女ほど強大な存在ではなく、不完全で弱々しい姿になる。
けれど、だとしても『天士』を生み出す機能は発揮できるかもしれない。それこそが彼の狙いであり人々の希望。
『伝承が正しければ、一柱の神から四十九人の天士が生まれる。一人一人が神から授かった強力な加護を持つ一騎当千の戦士だ。彼等がいれば戦況は逆転できる』
たったの四十九人で? そう思ったが神話の時代も神様は三人しかいなかった。その三人の神様が抱える四十九人ずつの兵力で魔獣の大軍勢と渡り合ったそうだから、たしかに言い伝え通りなら大きな戦力になってくれるだろう。でも、やはりわからない。
『……どうして、私なんです?』
すぐには頷けなかった。まだ疑念の方が大きいし、そもそも彼の申し出は自分に人生を捨てろと、死ねと言っているのと大差無い。成功しても失敗しても、おそらく自分の未来は失われる。
兄は怒るだろう。母も生きていたら止めるはず。
けれどラウラガは言った。彼女の心を大きく揺さぶる一言を。
『このままでは、イリアムは罪を重ね続ける。止めてやりたいとは思わんか?』
そう、利用された。まだ残っていた彼への恋心を刺激され、我が身を顧みない自己犠牲の精神を抱くことになった。
兄と同じように、元々そういう願望は持っていたのだ。イリアムはきっと望まぬことをさせられ苦しんでいる。だから救いたい。止めてあげたい。
――そして、あわよくば自分の方に振り向いてもらいたい。この胸の中で泣いて、共に贖罪の道を歩んで欲しい。
見抜かれて指摘を受けた。彼のため世界のために、その身を捧げるべきだと説得された。
だから兄を責めるのはお門違い。兄はこうなることを恐れて、関わらせないよう必死に遠ざけてくれていたのだと、この瞬間ようやく気付いた。
それでも決めたのだ。自分の意志で、ラウラガをまっすぐに見据え、頷き返して。
『引き受けます』
この日、ノーラの人生は終わった。兄が知って止めに入った時には、もう手遅れ。
オルトランドには二つの石が密かに保管されていた。存在自体知る者が少ないそれは一見するとただの丸い石。真っ黒で完全な球体であるという以上の特徴は皆無。
だが、その正体は女神アルトルの眼球。ラウラガは長年その解析を続け、適合する因子を持つ者に移植した場合のみ『神の眼』としての機能を取り戻せると突き止めた。
彼がその事実をどんな方法で解き明かしたのかは知らないし、知りたくもない。その実験に兄やイリアムが関わっていたのかも。
想い人が狂い、母は臥せって、兄に遠ざけられた。ノーラは自分で思っていた以上に深く傷付き、弱っていたのかもしれない。
彼女にとって、それは自殺と同じだった。けれど自分の死によってイリアムや兄に救いがもたらされるなら、それでいいと思ってしまった。元々彼等に救ってもらった命なのだから。
ノーラはラウラガの研究と、それによって蘇るかもしれない神にその身を捧げた。本来の眼球を摘出され、代わりに真っ黒な石を二つ埋め込まれた。
何故、彼女だったのか?
たまたまだ。三柱教は民の健康のため定期的に無償での一斉検診を行っていたのだが、その本当の目的は『神の眼』に適合する因子を持つ者を捜すこと。
そしてノーラが見つかった。ラウラガの弟子であるシスの妹がそうだったのは本当にただの偶然でしかない。候補者は数名いたらしいが、彼女はその中でも群を抜いた素質の持ち主。
その理由は後に彼女自身の口から語られた。ただし、その『彼女』は最早ノーラではなくなっていたが。
『ノーラ……』
兄と再会したのは、彼女が彼女で無くなってしまった後。
眼前で涙を流すそれを彼女は兄だと認識していない。
ただの、少し変わった血が流れている人間。
『これも魂の重力の悪戯。まさか彼の血縁と、長い時を経てこんな形で見えるなんて』
ノーラでなくなった女は、容姿さえ全く違う姿になって彼に語りかける。侮蔑に満ちた眼差しを向けつつ。
『それで? 何を願うの、人の子よ』
やがて床に臥せるようになった。母も若い頃から心臓に軽い疾患を抱えており、それが悪化した結果だ。兄がかつて傭兵になる道を選んだのは、そんな母に無理をさせられないと思ったからでもあったらしい。
ノーラは母の介護にかかりっ切りになり、兄は何故かラウラガの研究室に入り浸る日々。滅多に帰って来なくなって、帰って来たとしても常に暗い顔をしている。
ある日、陰鬱に黙り込む姿を見かねて訊ねた。
『兄さん、どうしたの……?』
『なんでもない』
返って来た答えはそれだけ。その後も何度か同じやり取りをしたが、変わらなかった。そのうち師のラウラガと激しく口論をしていたという話は人伝に聞いた。イリアムが帝国の凶行に関わってしまったことで師弟関係にも亀裂が入ったのかもしれない。そう思ったが、兄はけっして自分達に事情を話してくれようとはしなかった。ノーラもそのうち、向こうが話してくれるのを待つことにしようと諦め混じりに態度を変えた。
そして開戦から四ヶ月後、ついに兄の苦悩の理由、その一端を知る。ただし兄の口からではなく、予想外の人物の来訪によって。
『ノーラ、この大陸の平和のため、その身を捧げてくれ』
人にものを頼んでいるとは思えない尊大な態度。いきなり来てそう言ったのは初めて彼女達の家を訪ねて来たラウラガだった。
背が低く、幅広な体型。服は黒いローブ。彫りが深く立派なヒゲをたくわえていることもあって、そこはかとなく威厳を感じさせる。兄の留守中を狙ったかのようなタイミングで数人の兵士と共に訪ねて来たかと思うと、挨拶もそこそこにこれである。相変わらず苦手な性格だと思った。
『なんですか急に……?』
問い返すと、人目を気にした彼は兵士達に人払いをさせ続きは中でと言った。警戒したものの兄が世話になっている人物だと思い出し、渋々招き入れてお茶を出す。
すると彼は、その茶には全く手を付けずに話を続けた。
『イリアムが作った生物兵器は古の魔獣を再現したものだ。あれに勝つには、こちらも神代の時代のものを蘇らせる必要がある。そうでなければ大陸は帝国のみを残して滅ぶだろう』
まだ噂程度でしかないが、そういう話は聞いていた。帝国の兵士達が使役する異形の獣や虫達は圧倒的な強さで他の国々の軍隊を蹂躙し、赤子ですら容赦無く手にかけ、大虐殺を行いながら南下を続けていると。
近いうち、この聖都まで踏み荒らされる可能性が高い。そう聞いて早くも南方へ避難する者達が続出している。現在各国の軍隊が集まりつつあるこのオルトランドが陥落したなら、結局は逃げた先にも帝国軍がやって来るだろう。そんなことはわかっていても、眼前まで迫った恐怖に抗える人は少ない。
ノーラもそうしたかったが、兄がなかなか聖都を離れたがらなかった。多分帝国の凶行を止める算段を立てているのだと思う。親友であるイリアムのために。そういう人なのだ。
そんなノーラの推察を、ラウラガの言葉が裏付ける。
『お前の兄は他の錬金術師や軍の者達と協議を重ね、魔獣に対抗できる新兵器を生み出そうとしている』
やっぱりと思った。さらにその後の言葉に対しても。
『だが無駄だ。今さらそんなものの開発を始めたところで遅すぎる。そもそも現在の技術水準では、どう足掻いたところで魔獣に対抗しうる兵器など造り出せん。それを奴等は理解しておらん』
だからと、老人は厳めしい顔つきで語る。
『お前の協力が必要だ、ノーラ。私の長年の研究の成果、それを世に出すためにどうしてもお前の協力が要る。他の者達では足りない。適性が不足している』
『適性……?』
『私は三柱教と共に、女神アルトルを蘇らせるための研究を続けて来た』
『えっ』
神話に出て来る、全てを見通す女神様? 突然出て来た名前に困惑する。たしかに言い伝えでは異界から来た邪悪な神々との戦いで戦死したと言われているが、人の手で神を復活させるなど荒唐無稽な妄想にしか思えない。
でもラウラガは嘘を言っているようには見えなかった。彼の目は恐怖すら感じさせるほど強烈な確信で満ち溢れている。絶対にそれは可能だと訴えかけて来る。
それから彼は自分の研究について詳しく語り出した。他の場面で、あんなに饒舌に語る彼の姿を見たことは一度も無い。ただ、その話は難解すぎてノーラには一割も理解出来なかった。
二つだけ理解出来たのは、彼の長年の努力が実っても女神が完全な形で蘇るわけではないということ。それはおそらく本来の彼女ほど強大な存在ではなく、不完全で弱々しい姿になる。
けれど、だとしても『天士』を生み出す機能は発揮できるかもしれない。それこそが彼の狙いであり人々の希望。
『伝承が正しければ、一柱の神から四十九人の天士が生まれる。一人一人が神から授かった強力な加護を持つ一騎当千の戦士だ。彼等がいれば戦況は逆転できる』
たったの四十九人で? そう思ったが神話の時代も神様は三人しかいなかった。その三人の神様が抱える四十九人ずつの兵力で魔獣の大軍勢と渡り合ったそうだから、たしかに言い伝え通りなら大きな戦力になってくれるだろう。でも、やはりわからない。
『……どうして、私なんです?』
すぐには頷けなかった。まだ疑念の方が大きいし、そもそも彼の申し出は自分に人生を捨てろと、死ねと言っているのと大差無い。成功しても失敗しても、おそらく自分の未来は失われる。
兄は怒るだろう。母も生きていたら止めるはず。
けれどラウラガは言った。彼女の心を大きく揺さぶる一言を。
『このままでは、イリアムは罪を重ね続ける。止めてやりたいとは思わんか?』
そう、利用された。まだ残っていた彼への恋心を刺激され、我が身を顧みない自己犠牲の精神を抱くことになった。
兄と同じように、元々そういう願望は持っていたのだ。イリアムはきっと望まぬことをさせられ苦しんでいる。だから救いたい。止めてあげたい。
――そして、あわよくば自分の方に振り向いてもらいたい。この胸の中で泣いて、共に贖罪の道を歩んで欲しい。
見抜かれて指摘を受けた。彼のため世界のために、その身を捧げるべきだと説得された。
だから兄を責めるのはお門違い。兄はこうなることを恐れて、関わらせないよう必死に遠ざけてくれていたのだと、この瞬間ようやく気付いた。
それでも決めたのだ。自分の意志で、ラウラガをまっすぐに見据え、頷き返して。
『引き受けます』
この日、ノーラの人生は終わった。兄が知って止めに入った時には、もう手遅れ。
オルトランドには二つの石が密かに保管されていた。存在自体知る者が少ないそれは一見するとただの丸い石。真っ黒で完全な球体であるという以上の特徴は皆無。
だが、その正体は女神アルトルの眼球。ラウラガは長年その解析を続け、適合する因子を持つ者に移植した場合のみ『神の眼』としての機能を取り戻せると突き止めた。
彼がその事実をどんな方法で解き明かしたのかは知らないし、知りたくもない。その実験に兄やイリアムが関わっていたのかも。
想い人が狂い、母は臥せって、兄に遠ざけられた。ノーラは自分で思っていた以上に深く傷付き、弱っていたのかもしれない。
彼女にとって、それは自殺と同じだった。けれど自分の死によってイリアムや兄に救いがもたらされるなら、それでいいと思ってしまった。元々彼等に救ってもらった命なのだから。
ノーラはラウラガの研究と、それによって蘇るかもしれない神にその身を捧げた。本来の眼球を摘出され、代わりに真っ黒な石を二つ埋め込まれた。
何故、彼女だったのか?
たまたまだ。三柱教は民の健康のため定期的に無償での一斉検診を行っていたのだが、その本当の目的は『神の眼』に適合する因子を持つ者を捜すこと。
そしてノーラが見つかった。ラウラガの弟子であるシスの妹がそうだったのは本当にただの偶然でしかない。候補者は数名いたらしいが、彼女はその中でも群を抜いた素質の持ち主。
その理由は後に彼女自身の口から語られた。ただし、その『彼女』は最早ノーラではなくなっていたが。
『ノーラ……』
兄と再会したのは、彼女が彼女で無くなってしまった後。
眼前で涙を流すそれを彼女は兄だと認識していない。
ただの、少し変わった血が流れている人間。
『これも魂の重力の悪戯。まさか彼の血縁と、長い時を経てこんな形で見えるなんて』
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