上州無宿人 博徒孝市郎

久保 倫

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「こんにちは。」
 孝市郎が本間念流の道場に入ると一人素振りをしている人がいた。
 母のお説教から逃げるために来たので、誰もいないと思っていたから意外だった。
「こんにちは。」
 その人も素振りを止めて挨拶を返してきた。見慣れない顔の人だった。
「初めまして、馬場村の孝市郎です。」
「どうも。百々どうどう村の忠次郎です。」
 歳のころは二十半ばくらいだろうか。精悍さと貫録が同居する顔立ちの青年だった。
「忠次郎さん、お一人で素振りですか?」
「あぁ、稼業の合間に顔を出しただけですから。先生は所用で外出してます。孝市郎さん、やけに早く来なさったな?」
「まぁ、ちょっと喧嘩して。親に怒られるよりはと。」
「いけやせん、親を泣かすような真似をしては。大事にしなせえ。」
 意外にも軽くお説教してきた。
「いや、友達をかばってのことで。」
「そうかもしれやせんが、親の言うことは、後で効いてくるもの、よく聞きなせえ。」
「冷酒とという奴ですか。」
「そうです。親は大事にしなせえ。」
 意外と親のことをいう人だ。幼い時に親を亡くしているのかもしれない。
「異論がありそうで。」
「いえ、そういうわけでは。」
「まぁ、いい。一人で素振りをするのも悪くないもんですが、相手がいるのも悪くない。一手ご教授願います。」
「一手御教授って、私忠次郎さんより年下ですよ。」
「あっしは稼業が忙しくて。ここに来たのも何年ぶりでしょうか。かなり腕が鈍っていますもんで。」
 そう言って面をつけ始めた。孝市郎も面をつける。
 道場の中央で一礼して向かい合う。
 何だよこの人、強いぞ。
 数年ぶりに道場に来たと言うが、構えに隙が無い。道場に来ない間も修練を怠らなかったとかいうものではない。武者修行の旅でもしていたのか、と言いたくなる。
「めぇぇぇーんッ!」
 裂ぱくの気合とともに忠次郎が打ち込んできた。竹刀で受け、はじき、鍔ぜり合う。
「きれいな剣ですな。基本を丁寧に体に覚えこませてらっしゃるようだ。」
「忠次郎さんこそ、お強い。腕が鈍ってるって嘘もいいところ。道場から離れて武者修行でもしてたんですか?」
「人生修行でさぁ。」 
 孝市郎が押された。忠次郎が竹刀を突き出してきた。
「めえぇぇぇんッ!」
 僅かに開いた隙を狙い孝市郎は、面を狙った。
「どおぉぉぉッ!」
 それを読んでいたかのように忠次郎は、首を傾けて竹刀を交わし、そのまま孝市郎の左わきを抜けつつ胴を打ち、後ろに抜けた。
 孝市郎は、そのまま前に歩み振り返って、忠次郎相手に間合いを取った。
「面をよく稽古されてますな。あっしの胴は紙一重だった。」
「面を打つのは基本ですからね。」
「しかし面を打つことだけが剣じゃありやせん。」
 確かにそうだ。
「勢いは素晴らしい。その勢いと速さで勝つこともござんしょう。ですが、剣ってのは相手あってのもの。」
「おっしゃる通りですが、私は剣で身を立てたいわけではありませんので。」
 忠次郎が言いたいことはわかるが、孝市郎は剣を極めようとか考えているわけではない。自分もいつかは父のように百姓となり、桑の木を手入れしたり、畑を耕す日も来る。
「剣だけじゃござんせん。何事も基本は大事ですが、それだけではやっていけません。色々学ぶことも必要ですぜ。」
「わかりました。それはそれとして、忠次郎さん。一手ご教授下さい。」
「よござんす。」
 考市郎は呼吸を整えるべく深呼吸した。
「やぁああああああッ!」
 忠次郎が打ち込んできた。かろうじて受けることはできた。
「ちょっと。」
「呼吸を整えさせて、ですかい。一手ご教授と言ってそれは通りやせん。」
 鍔迫り合いから押しかえす。
「きたねえ、とでも言いたそうで。世の中こういうきたねえ人間もおりやす。頭に置いておきなせえ。」
 お説教かよ。そう思いながら面を打ち続ける。
 簡単に受けられるが、計算のうちだ。
 そのうち胴打ちに来る。そこを狙う。
 忠次郎の首がわずかに揺れた。
 来る。
「こてぇぇぇッ!」
 そう思った瞬間、出ばな小手を打たれた。

 二人とも正座して面を取った。流れる汗を手拭で拭う。
「考市郎さん、果敢な面打ちで。お見事。下手な返し技がきくような面打ちではござんせんでした。」
「おほめ頂いて恐縮ですが、一本取れませんでした。」
「いや、その年であれだけの面打ちができれば大したもんです。まっすぐに真面目に稽古をしてらっしゃる。ただ孝市郎さん、駆け引きや技の組み立てを学びなせえ。剣だけでなく、人生色々。次の次まで考えて行動することが肝要ですぜ。」
「次の次ですか。」
「真面目なようですから、一つに習熟しやっていこうというのもわかります。あなたは、将来いい百姓になる。真面目にこつこつ働けるお人柄と見た。
 でもそれだけじゃどうにもならない時もありやす。そんな時、あっしの言葉を思い出して下せえ。」
 道場に人が入ってきた。二人が目を向けると、道場主の本間応吉が入ってきた。
「忠治……ろう、久し振りじゃな。」
「先生、お久しぶりでございます。久々に汗を流したくなりまして参りました。」
「稽古は構わぬが……。」
 応吉が、孝市郎に視線を向ける。
「孝市郎、やけに早いな。」
「はい、いささか事情がありまして。」
 喧嘩して親に説教されるのがいやで、とは言えない。
「待っている間、相手をしてもらっていました。先生のご指導の賜物でしょう。素晴らしい面打ちをなさるお人で。」
「いや、忠次郎さんに一本も取れませんでした。駆け引きや、次の次を考えろとご指導いただきました。」
「いや、一本取ることより、稽古することを重視してらっしゃるのがわかる面でした。真面目に正道を生きるお人でしょう。先生のご指導の賜物ですな。」
「忠次郎、そんなに持ち上げる物でない。ご両親や馬場村の卓玄和尚の躾の賜物。私は剣しか教えておらん。
 しかし、考市郎がそう言われるようになるとはな。」
 あっ、これは。
「すいません、ちょっと厠に行ってきます。」
 返事を待たず、足早に考市郎は道場を出た。
「ふふふ、あいつめ昔話をされるのが恥ずかしいと見える。」
「昔話でござんすか。」
「左様、あいつが初めてこの道場に来た時、『剣術なんて先に斬ってしまえば勝ちだろ。』などと申して、いかに相手に剣を当てるかだけに腐心しておったものよ。」
「おやおや。」
「素早く手足も長いせいか、同じ年頃の子にそれは通用した。しょうがないので私が相手をして非を悟らせたよ。」
「先生、自らですか。」
「素質はある。相手を冷静によく観察するのは見事だったからな。だが、剣そのものの形が悪いのでは勝てん。それを悟らせたのだ。」
「それで、稽古して基本を習得されたんですな。そうして真面目にやることの意義を学び取ったようで。」
「忠治、持ち上げてくれるな。学び取ったのは孝市郎だ。私はきっかけを作ったにすぎん。さぁ、久し振りに来たのだ。稽古をつけてやるとしよう。」
「ありがとうごぜえやす。ですが、先生。どうか他の弟子の前では百々どうどう村の忠次郎でお願いします。」
「堅気の前で『国定村の忠治』は名乗らない、か。」
「血の気の多い方に出入りの際の助っ人だの言わせるわけには参りません。」
「そうか、気を遣わせるな。」
「あっしの様な渡世人が気を遣うのは当然です。堅気の方にご迷惑をかけちゃぁいけやせん。」   
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