上州無宿人 博徒孝市郎

久保 倫

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三十五

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「兄ちゃん行ってきます。」
「考市郎兄ちゃん行ってきます。」
「考市郎お兄ちゃん、行ってきます。」
「気をつけてな。」
 治郎、小津次、悌五の順に挨拶して寺子屋に向かう。
 昨日は、さほど遅くならず帰って来れた。一刻ほどで栄五郎と要吉の賭け金は十両となり、軍吉が駒を揃えられず、賭場は閉められたのだ。
 無論、軍吉の評判が下がったのは言うまでもない。
 しかし、自分に向けられた視線が気になる。何か考えていたようだが、わからない。
 わからない故に怖いのだろうと考市郎は考えている。
 当面は身の回りに一応警戒しよう。そう思い定める考市郎だった。

 桑の葉を摘み、家に戻って一服していると戸が叩かれた。
「どちら様で?」
 日は高いが用心に越した事はない。
「考市郎、何しているんだ。さっさと戸を開ければいいだろう。」
 父が戸に近寄る。
 昨日のことを話しておかなかったことを考市郎は、後悔した。もし戸の向こうにいるのが軍吉の手下だったら。
「父さん、俺が開ける。」
 強引に父親を押しのけ戸に手をかけた。
「考市郎、どうしたんだ?」
「今、戸を開ける。」
 父親に答えず、わずかに戸を引いた。
 外にいるのは、三十くらいの男だった。みなりはぼろぼろでかなり汚い。
 顔に見覚えは無い。大きなアザがあるのは何らかの理由で負傷したのだろう。
 手に得物を持っている様子は無いことを確認して、戸を全開にした。
「失礼ですが、どちら様で。」
「吉平と申します。小津次と悌五の父です。二人がこちらに預けられていると大前田の親分に伺いまして参りました。」

 立ち話もなんなので家に招き入れた。
「小津次ちゃんと悌五ちゃんは、今寺子屋に行ってます。」
 家に入るや否やきょろきょろし出した吉平に母が言った。
「寺子屋にまで通わせて下さったんですか。申し訳ねえ。」
 足を濯いで上がるや否や、並んで座る両親に吉平は土下座した。
「それだけじゃねえ。親分は服を新調して綿入れまで用意したんだぜ。」
「そうだったんですか。」
 やっぱり言ってないか。
 博徒たるもの、己がなした徳業を他人に吹聴すべからず。
 栄五郎はその教えを実践している。
「考市郎、おまえが買い与えたわけではあるまい。吉平さんを責めるようなことは言うな。」
「はい。」
 父に言われ、浩一郎は黙った。
 だが、言ったことを反省はしていない。誰かが言わねば、栄五郎の善行は埋もれてしまうではないか。
「申し遅れましたが、私は弥五郎ともうします。こちらは妻のかえでございます。」
「かえ、でございます。」
「吉平です。息子二人が世話になりました。」
「大した世話をしておりません。あの二人は手のかからぬいい子でした。」
「親の出来の悪い分子供が出来が良くなったのでしょう。本当に情けないです。」
 頭を下げ吉平は涙を流す。
「失礼ですが、吉平さん今までどうしてらしたのですか?」
「江戸に姉がおりましたので、そちらを頼って出稼ぎに行っておりました。」
「金がなくなったからかい。」
「孝市郎、年長者に失礼だろう!」
 父が怒鳴るが、栄五郎や忠治と言った親分の怒りに比べればそよ風に過ぎない。
「おっしゃる通りで、軍吉親分の誘いに乗って賭場に行って散財して、家に大したものが無いと見るや栄五郎親分が配った米まで取り上げられて、そこでやっと目が覚めたんです。」
 勝手なもんだぜ。
 栄五郎が配った金や米は、大前田一家の金だけではない。要吉がこつこつ貯めた金もそうだが、子分が縄張り内の分限者の所を訪れ、必死に頼み込んで借りた金も含まれている。借用人の名義は栄五郎で、いずれは返済しなくてはならない金だ。
 栄五郎自身は、いつかは必ず帰ってくる。俺達博徒は百姓たちのおかげで生きているのだから、こんな時に力にならずどうするのだ、と言うばかりだった。
 そんな金や米を博奕に使いやがって。孝市郎にしてみればはらわたが煮えくり返る思いだった。
「姉に借金を申し込んだんですが断られました。代わりに居候させてやるから稼いで帰れと言われて、必死に食う者も食わず日雇いやらなんやらやって当面の生活費を稼いで戻って参りました。」
 そう言う吉平の服を見れば、すりきれ穴が所々に開いている。目じりを拭う手も傷だらけだ。
 江戸で稼いできた、といっても一方ならぬ苦労をしたことがうかがえる。
 すこしばかり頭が冷えてきた。
 考えてみれば、江戸のような華やかなところで誘惑に負けず稼いで帰ってきたのだ。それは認めるべきだろう。
 そう思うと吉平を許す気持ちになってきた。
「もう、博奕なんぞに手を出すんじゃねえぞ。」
「わかってます。親分にも殴られました。」
 顔のあざは栄五郎につけられたようだ。さぞ吹っ飛ばされたに違いない。
「俺、二人を迎えに行ってくるよ。そろそろ寺子屋が終わる時間だと思うし。」

「父ちゃん!」
「おっとぉ!」
 吉平を見るや否や、二人は飛びついた。
「父ちゃん、どこ行ってたのさ!」
「置いてかれた時さびしかったよぉ。」
「お前達、すまん。」
 吉平の胸に飛び込む二人の顔を見るとこみあげてくるものがある孝市郎だった。
「兄ちゃん、あの二人のお父ちゃん帰ってきたんだね。」
「あぁ。」
「よかったね。」
「よかったんだが……。」
 治郎が二人と仲良くしていたことを知る孝市郎にとって複雑だった。治郎にとって友達がいなくなるのは寂しいのではないか。
「そんなことないよ。兄ちゃんも父ちゃんも母ちゃんもみんないるもの。あの二人には母ちゃんがいないんだよ。」
「そう言えばそうだな……。」
「父ちゃんが仕事している時、母ちゃんの妹の所に厄介になっていたけど、あんまり楽しくなかったみたい。」
 たえのきつそうな顔を思い出した。
 だが、彼女は亭主や我が子が大事なだけの平凡な女性に過ぎない。
「そうか、あのお父さんもう二人から離れないから大丈夫だよ。」
「うん、兄ちゃん。あの二人堀越村に帰るんだろ、送って行こう。」
「そうだな。」

「それではこれで失礼いたします。長らくお世話になりました。」
「これからは二人を大切にしてやってください。」
「はい、承知しております。お前達もご挨拶なさい。」
 吉平が二人を促す。
「小津次ちゃん、悌五ちゃん、また遊ぼうね。」
 だが先に治郎が口を開いた。
「うんあそぼ。」
「遊びに来てね、僕も遊びに行くから。」
「約束だよ、指切りだ。」
 治郎が差し出した両方の小指に二人がそれぞれ小指を絡める。
「「「ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼん、のーまっす、ゆびきった!」」」
 三人が唱和する。
 それを見ている孝市郎の視界の片隅で誰かが動いた。
 そちらに視線を向けると孝市郎の方を見ている男がいる。
 確か先日茂三ともめた奴じゃねえか。確か名前は……大二郎とか言わなかったか。
 孝市郎と目が合うと、にやっと笑い、背を向けて歩き去った。
 なんだ、あいつ。
 気味が悪いが、向こうが去った以上、当面害はあるまい。
 しかし、早くこの場を去ろう。今は治郎もいる。
「治郎、帰ろう、お母さんもお父さんも待っている。」
「うん。」
 孝市郎は、治郎の手を握った。
「それでは失礼します。」
「「孝市郎兄ちゃん、治郎ちゃん、またね。」」
 二人の声を背に孝市郎は、背を向けた。薄気味悪い感触から逃げるために。
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