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番外編【桃緒と小梅】
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雨が降り続き、土砂が崩れて川の水が人間を何人も飲み込んだ。
そんなことが幾度も遭った年、私は十五になり、そして花嫁になった。
千年生きたという天狐様から見たら、痩せて出涸らしの骨のようだった私など、食べる気も起きなかったのだろう。
私は、そのまま生かされ、山神様の“花嫁”になった。
花嫁と言っても形式的な呼び名だけで、先に契りを交わしたという小梅も私も、ここで妻としての務めを果たしたことはない。
当たり前だ。山神である天狐は女。少女にも見える、見た目は私達とそう変わらない女神だったのだから。
たとえ神通力が使えようと千年生きていようと、同じ性の者と子を成すことはできないのだそうだ。
「えっそうなのか!?」
「そうだよぉー。だって明が来るまで梅が第一夫人だったんだからね!」
小梅がまた、間延びした喋り方で明をからかっている。
その小さな八重歯の端から、隠しきれない笑みが覗いてしまっているのに、彼は気づかないらしい。至極真面目な表情で、小梅の冗談のすべてに頷き返している。
そんなことをされると、こちらまでからかいたくなってしまう。
「ええ。明さんがご正妻になりましたから、小梅は第二夫人に降格です」
「そう!それで桃が第三側室ね」
「そうだったのか……俺のせいで、すまない」
綺麗に腰から折って頭を下げる少年の名は明。この山のあやかしすべてをまとめる我らが主様の、新しい花嫁だ。
嫁入りの順はこの三人の中で最後だが、彼はただひとり主様と男女の契りを成せる者なので、ご正妻ということにした。
私と同い年だと言うが、そうは思えないくらいとても世間知らずで、他人を信じやすいひと。彼の育った環境を考えれば仕方のないことかもしれないけれど。
あと少しからかったあと、常識を丁寧に教えてあげよう。
このひとは私の主様の、大事な正妻なのだから。
明が来るまでは、人間の男は嫌いだった。
良い思い出がないから。
水害の年に死んだ父は、母を失ってから酒浸りで仕事もせず、幼い娘を殴って憂さを晴らすような男だった。
父が洪水で亡くなったと聞いた時、ただただほっとしたのを覚えてる。
親を亡くしたあとも、優しくしてくれた村の男は一人もいなかった。花嫁に選んだのだって、邪魔な孤児を口減らしにしようと考えた男達だった。
男は、女をうまく使うことしか考えていない。
どうすれば女を自分のものにできるのか。自分のものにした女は、どうやって従わせ屈服させるか。
そんなことを考えているような男だったら、主が気に入っていようとなんだろうと、追い出してやる。
年上のわりに無邪気な小梅には黙っていたが、花嫁が男だと聞いたとき、私の胸の中はぐらぐらと煮え立っていた。
「冗談ですよ、明さん。小梅にからかわれています」
「えっ」
「明はまたすぐ騙されるぅー」
ころころと、転がる梅の実のように笑う娘に、怒る様子もない少年。
彼が、山神様の選んだひとで、よかった。
初めに社に来たときは、水の中で死んだ魚のような眼をしていたが、今では随分と生きた人間らしくなった。
「すまない……俺が無知で頼りないから、気を遣ってくれてるんだよな」
「いや、そういうつもりじゃないけど……」
彼は私を馬鹿にしない。どころか、自ら教えを乞うてくる。
世話を命じられて渋々会った時、今まで会ってきた人間の男とも、男神ともあやかしとも異なっていて、驚いた。
ひとことで言うなら、変な子ども。
顔は美形なのに妙に自分を卑下し、死にたがる。
ただ黄泉へ行くことだけを考えているのかと思えば、生にしがみつくように空を見て悲しそうな顔をする。
女を従わせようとする人間の男よりははるかにマシだが、これでは主様の花嫁など勤まるのだろうかと心配になった。
「では、主様のお世話は一日交代ということで、良いですね」
二人の様子に笑いながら、三人で談義していた内容を思い出した。
私達は名目上、山神様の「妻」だ。
主の着替えの手伝い、寝る前に飲み物を用意したり。ほとんどはばあやさんである雛罌粟さんがやってしまうが、仕事がそれなりにある。
小梅は頷いたが、明の方はなにやら考え込んでしまっている。
何を困ることがあるのかと思ったが、すぐに、気がついた。
口の端から笑みがこぼれてしまうのを隠して、もう一度だけ、からかってやろう。
「あ、あのさ、夜のお世話ってことはやっぱり……」
「まあ!夜伽のことを女性に聞くなんていけませんよ、明さん!ねえ小梅!?」
「そうだよぉー!女の私達の口からは言えないねぇー桃緒!」
もちろん、私達は夜伽などしていない。
せいぜい、宵様が「眠れない」と幼子のような駄々をこねたときに、枕元で昔話をしてやるくらいだ。
あの方は案外、寂しがり屋でかわいいところがあるのを、妻の私達だけが知っている。
私達の芝居がかった様子に気付きもせず、彼は顔を真っ赤にして慌てた。
あまりからかってやるのもかわいそうなので、すぐに嘘であることを告げると、やはり少年は少しも立腹せず困ったように笑う。
素直で信じやすくて、ちょっと心配な弟みたい。
彼は私にとってははじめてできた男友達で、弟で、子供みたいなものだ。
私を救ってくれた、だいじなだいじな主様。
その主様の、だいじなひと。
今度は私が守らねば。
だいじな主と、まだまだ心配な、主様のだいじなひと。
どうかずっとずっと、末永く、めでたくいてもらいたい。
◇◇◇
最初の記憶はまっくらで、ただただ大きなお月様と、見えない星を探して泣いていた。
人間からの供物の中に赤子がいたと、雛罌粟が慌てて抱えて来たのが、まだ生まれたばかりの小梅だったそうだ。
赤子を捨てることへの心苦しさからか、それとも他の果物や野菜と同じ供物の一部と考えただけか、産着には梅の花が一枝差してあった。
山神様はまだ言葉も話せぬ赤子を小梅と名付け、あやかしの乳と神力を注いで育て、十五に成った年に花嫁として契りを交わした。
少し不満があるとすれば、十五になったのに、背が桃緒よりも低かったことだ。
「じゃあ、桃緒の時に四肢のない躯が山の麓に落ちてたってのは……」
「食べるものがなくて大変だと言うから、きちんと処理した猪肉を置いておいたのだ。人間は腑を取らないと肉が食べられないと聞いたのでな」
「なるほど。それで言い伝えが変な形になったのか」
「なに?変?私の何が変だと言うのだ?」
宵は明と二人の時だけ、幾分か砕けた口調になり態度もかわいらしくなる。明の整った顔を見つめる瞳など、同年代の恋する乙女と同じだ。
小梅はそんな宵が大好きだった。
育ててくれた母であり、守ってくれた姉であり、読み書きを教えてくれた師であり、時々かわいい妹みたいな存在。
そしてたったひとりの、小梅の友達。
寂しいと思ったことはない。
ここには、人間はいなくても、たくさんの神やあやかし達がいた。
人間と考え方が違うからか、あやかし達は小梅も桃緒も明のことも、文句は言うけれど虐げたり差別するものはいなかった。
小梅はここで暮らす百年のうちに、人間の友達が一人でき、今は二人になった。
家族だって増えた。
悪戯すると怒るばあやに、背は低いのに力持ちのじいや。美人の姉と、小梅より背が高くてちょっと口うるさい妹。それに素直で馬鹿正直な、見た目だけ立派な弟だ。
弟をあまりからかいすぎると姉から怒られるので、最近はすこーしだけ、控えるようにしている。
とは言っても、弟こと明はとても飲み込みがよく、もう小梅がここで教えてやるようなことはない。
あとは、もう少し自分に自信を持って、宵と本物の夫婦になってくれたら、言うことはないのだけど。
小鳥の囀りのように笑いあう二人を見て、小梅はこっそりと席を外した。
四季の制約もなく咲き誇る花で溢れた庭は、あの二人のお気に入りの逢引き場所だ。
山神である天狐の宵は、明にべた惚れだ。
千年生きてきてはじめての一目惚れだったらしい。
わからないでもないが、祝言を挙げてから……いや、一目見た日からずっと、小梅と桃緒の前でだけ明の惚気話をしてくる。
最初は慣れていなかった明もだんだんと宵の褒め言葉に慣れてきたようで、自身がついてきたようにも感じる。
そんな二人の様子を見ていると、それだけで小梅の心はぽかぽかとあたたかくなる。
とても不思議な気持ちだ。
はやく二人の間に子が出来たらいい。
宵の甘すぎる惚気から解放されるのと、小梅にはやりたいことがあるから。
御子が生まれたら、今度は、その子に教えてあげるのだ。
宵が小梅にしてくれたように。与えてくれたように。
だいすきな旦那様と明と、その子は小梅が守ってあげる。
ふと眩しさに見上げれば、お日様が西の空に沈んでいく。明の頬よりも赤い。
すぐに暗くなっていくけれど、もう、夜は怖くない。
だって梅は、大人だもん。
それに、大きなお月様と、まだまだ儚い瞬きのお星様が、空にはいつでもあるから。
そんなことが幾度も遭った年、私は十五になり、そして花嫁になった。
千年生きたという天狐様から見たら、痩せて出涸らしの骨のようだった私など、食べる気も起きなかったのだろう。
私は、そのまま生かされ、山神様の“花嫁”になった。
花嫁と言っても形式的な呼び名だけで、先に契りを交わしたという小梅も私も、ここで妻としての務めを果たしたことはない。
当たり前だ。山神である天狐は女。少女にも見える、見た目は私達とそう変わらない女神だったのだから。
たとえ神通力が使えようと千年生きていようと、同じ性の者と子を成すことはできないのだそうだ。
「えっそうなのか!?」
「そうだよぉー。だって明が来るまで梅が第一夫人だったんだからね!」
小梅がまた、間延びした喋り方で明をからかっている。
その小さな八重歯の端から、隠しきれない笑みが覗いてしまっているのに、彼は気づかないらしい。至極真面目な表情で、小梅の冗談のすべてに頷き返している。
そんなことをされると、こちらまでからかいたくなってしまう。
「ええ。明さんがご正妻になりましたから、小梅は第二夫人に降格です」
「そう!それで桃が第三側室ね」
「そうだったのか……俺のせいで、すまない」
綺麗に腰から折って頭を下げる少年の名は明。この山のあやかしすべてをまとめる我らが主様の、新しい花嫁だ。
嫁入りの順はこの三人の中で最後だが、彼はただひとり主様と男女の契りを成せる者なので、ご正妻ということにした。
私と同い年だと言うが、そうは思えないくらいとても世間知らずで、他人を信じやすいひと。彼の育った環境を考えれば仕方のないことかもしれないけれど。
あと少しからかったあと、常識を丁寧に教えてあげよう。
このひとは私の主様の、大事な正妻なのだから。
明が来るまでは、人間の男は嫌いだった。
良い思い出がないから。
水害の年に死んだ父は、母を失ってから酒浸りで仕事もせず、幼い娘を殴って憂さを晴らすような男だった。
父が洪水で亡くなったと聞いた時、ただただほっとしたのを覚えてる。
親を亡くしたあとも、優しくしてくれた村の男は一人もいなかった。花嫁に選んだのだって、邪魔な孤児を口減らしにしようと考えた男達だった。
男は、女をうまく使うことしか考えていない。
どうすれば女を自分のものにできるのか。自分のものにした女は、どうやって従わせ屈服させるか。
そんなことを考えているような男だったら、主が気に入っていようとなんだろうと、追い出してやる。
年上のわりに無邪気な小梅には黙っていたが、花嫁が男だと聞いたとき、私の胸の中はぐらぐらと煮え立っていた。
「冗談ですよ、明さん。小梅にからかわれています」
「えっ」
「明はまたすぐ騙されるぅー」
ころころと、転がる梅の実のように笑う娘に、怒る様子もない少年。
彼が、山神様の選んだひとで、よかった。
初めに社に来たときは、水の中で死んだ魚のような眼をしていたが、今では随分と生きた人間らしくなった。
「すまない……俺が無知で頼りないから、気を遣ってくれてるんだよな」
「いや、そういうつもりじゃないけど……」
彼は私を馬鹿にしない。どころか、自ら教えを乞うてくる。
世話を命じられて渋々会った時、今まで会ってきた人間の男とも、男神ともあやかしとも異なっていて、驚いた。
ひとことで言うなら、変な子ども。
顔は美形なのに妙に自分を卑下し、死にたがる。
ただ黄泉へ行くことだけを考えているのかと思えば、生にしがみつくように空を見て悲しそうな顔をする。
女を従わせようとする人間の男よりははるかにマシだが、これでは主様の花嫁など勤まるのだろうかと心配になった。
「では、主様のお世話は一日交代ということで、良いですね」
二人の様子に笑いながら、三人で談義していた内容を思い出した。
私達は名目上、山神様の「妻」だ。
主の着替えの手伝い、寝る前に飲み物を用意したり。ほとんどはばあやさんである雛罌粟さんがやってしまうが、仕事がそれなりにある。
小梅は頷いたが、明の方はなにやら考え込んでしまっている。
何を困ることがあるのかと思ったが、すぐに、気がついた。
口の端から笑みがこぼれてしまうのを隠して、もう一度だけ、からかってやろう。
「あ、あのさ、夜のお世話ってことはやっぱり……」
「まあ!夜伽のことを女性に聞くなんていけませんよ、明さん!ねえ小梅!?」
「そうだよぉー!女の私達の口からは言えないねぇー桃緒!」
もちろん、私達は夜伽などしていない。
せいぜい、宵様が「眠れない」と幼子のような駄々をこねたときに、枕元で昔話をしてやるくらいだ。
あの方は案外、寂しがり屋でかわいいところがあるのを、妻の私達だけが知っている。
私達の芝居がかった様子に気付きもせず、彼は顔を真っ赤にして慌てた。
あまりからかってやるのもかわいそうなので、すぐに嘘であることを告げると、やはり少年は少しも立腹せず困ったように笑う。
素直で信じやすくて、ちょっと心配な弟みたい。
彼は私にとってははじめてできた男友達で、弟で、子供みたいなものだ。
私を救ってくれた、だいじなだいじな主様。
その主様の、だいじなひと。
今度は私が守らねば。
だいじな主と、まだまだ心配な、主様のだいじなひと。
どうかずっとずっと、末永く、めでたくいてもらいたい。
◇◇◇
最初の記憶はまっくらで、ただただ大きなお月様と、見えない星を探して泣いていた。
人間からの供物の中に赤子がいたと、雛罌粟が慌てて抱えて来たのが、まだ生まれたばかりの小梅だったそうだ。
赤子を捨てることへの心苦しさからか、それとも他の果物や野菜と同じ供物の一部と考えただけか、産着には梅の花が一枝差してあった。
山神様はまだ言葉も話せぬ赤子を小梅と名付け、あやかしの乳と神力を注いで育て、十五に成った年に花嫁として契りを交わした。
少し不満があるとすれば、十五になったのに、背が桃緒よりも低かったことだ。
「じゃあ、桃緒の時に四肢のない躯が山の麓に落ちてたってのは……」
「食べるものがなくて大変だと言うから、きちんと処理した猪肉を置いておいたのだ。人間は腑を取らないと肉が食べられないと聞いたのでな」
「なるほど。それで言い伝えが変な形になったのか」
「なに?変?私の何が変だと言うのだ?」
宵は明と二人の時だけ、幾分か砕けた口調になり態度もかわいらしくなる。明の整った顔を見つめる瞳など、同年代の恋する乙女と同じだ。
小梅はそんな宵が大好きだった。
育ててくれた母であり、守ってくれた姉であり、読み書きを教えてくれた師であり、時々かわいい妹みたいな存在。
そしてたったひとりの、小梅の友達。
寂しいと思ったことはない。
ここには、人間はいなくても、たくさんの神やあやかし達がいた。
人間と考え方が違うからか、あやかし達は小梅も桃緒も明のことも、文句は言うけれど虐げたり差別するものはいなかった。
小梅はここで暮らす百年のうちに、人間の友達が一人でき、今は二人になった。
家族だって増えた。
悪戯すると怒るばあやに、背は低いのに力持ちのじいや。美人の姉と、小梅より背が高くてちょっと口うるさい妹。それに素直で馬鹿正直な、見た目だけ立派な弟だ。
弟をあまりからかいすぎると姉から怒られるので、最近はすこーしだけ、控えるようにしている。
とは言っても、弟こと明はとても飲み込みがよく、もう小梅がここで教えてやるようなことはない。
あとは、もう少し自分に自信を持って、宵と本物の夫婦になってくれたら、言うことはないのだけど。
小鳥の囀りのように笑いあう二人を見て、小梅はこっそりと席を外した。
四季の制約もなく咲き誇る花で溢れた庭は、あの二人のお気に入りの逢引き場所だ。
山神である天狐の宵は、明にべた惚れだ。
千年生きてきてはじめての一目惚れだったらしい。
わからないでもないが、祝言を挙げてから……いや、一目見た日からずっと、小梅と桃緒の前でだけ明の惚気話をしてくる。
最初は慣れていなかった明もだんだんと宵の褒め言葉に慣れてきたようで、自身がついてきたようにも感じる。
そんな二人の様子を見ていると、それだけで小梅の心はぽかぽかとあたたかくなる。
とても不思議な気持ちだ。
はやく二人の間に子が出来たらいい。
宵の甘すぎる惚気から解放されるのと、小梅にはやりたいことがあるから。
御子が生まれたら、今度は、その子に教えてあげるのだ。
宵が小梅にしてくれたように。与えてくれたように。
だいすきな旦那様と明と、その子は小梅が守ってあげる。
ふと眩しさに見上げれば、お日様が西の空に沈んでいく。明の頬よりも赤い。
すぐに暗くなっていくけれど、もう、夜は怖くない。
だって梅は、大人だもん。
それに、大きなお月様と、まだまだ儚い瞬きのお星様が、空にはいつでもあるから。
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