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第1章 密室の切り裂きジャック
第2話 一耳惚れ夕焼けファルセット
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放課後、俺たちは第二音楽室に集まった。
あんな事件が起きては練習どころではない。俺たちは重い空気を引きずったまま駄弁っている。話題はもちろん、美由のグローブが切り刻まれた事件だ。
グローブはカッターのようなものでズタズタにされていた。悪戯なんて生易しいものじゃない。切り刻まれたズタズタのグローブからは、美由に対する強い悪意を感じた。
美由は裏表のない、明るくて優しい子だ。誰かから恨みを買うような性格ではないが……無邪気で正直者の彼女だからこそ、知らないうちに誰かを傷つけてしまったのかもしれない。
「ひどいことするよね……」
静香が悲しそうに目を伏せる。彼女と小日向姉妹は特に仲が良い。俺たち以上に胸を痛めているはずだ。
「美由、みんなに気をつかって笑ってたな」
大輔の言葉に、静香が黙って首肯する。
美由は俺たちに心配をかけまいと、いつもの調子で「へーきへーき!」と明るく振る舞っていた。本当は悲しいくせに。美由のヤツ、普段は能天気でへらへらしているくせに、そういうところは察しがいいから困る。
「私、やっぱり許せない!」
普段は大人しい静香の語気が荒い。
「ああ。たとえ美由に文句があるとしても、ああいうやり方で不満をぶつけるのはムカつくな」
「だよね、だよね! ねぇ、貴志くん、大輔くん。私たちで犯人を捕まえよう!」
「ああ……え?」
ちょっと待て。
今、犯人を捕まえようって言ったのか?
「いや、俺たちができることなんて、せいぜい美由を元気づけてやることくらいだろ。俺たち軽音楽部だし、犯人捜しなんて無理だって」
「それじゃ私の気が収まらないよ! むかつくもん!」
静香が顔を近づけて、むっとした表情で俺を睨む。おもわず気圧され、一歩後ろに下がった。
穏やかな性格の静香がこんなに怒るとは……よほど腹が立っているのだろう。
とはいえ、俺に何かできるわけではない。どうにか納得してもらって、犯人捜しをやめさせよう。
こういうときは多数決が有効だ。俺は大輔を味方につけようと試みる。
「おい大輔。お前からも、静香に犯人捜しはやめろって言ってやれ。俺たちのできる範疇を超えている――」
「よし! 俺たちで犯人を捕まえようぜ!」
「ちょ、大輔!?」
しまった。本人は隠しているつもりだろうが、大輔は静香のことが好きだ。だから、静香のお願いならなんでも聞く。くっ、作戦の選択を間違えたか。
「ねぇ、貴志くん! お願い、知恵を貸して!」
「貴志! なんとかしてくれよ!」
子犬のように愛らしい目で俺の顔を覗き込む静香と、やけに熱い視線を送ってくる大輔。こいつら、どうして俺に期待しているんだ。意味がわからない。
興奮した二人は、鼻先がぶつかりそうなくらい顔を近づけてくる。
「ねぇ貴志くん! 美由ちゃんの力になってあげるでしょ?」
「おい貴志! やらないなんて言わないだろ?」
「わ、わかった! 顔近いから、とりあえず離れろ!」
二人のおでこを指でつんと押すと、大人しく引き下がった。
はぁ、仕方ない。犯人捜しに協力するしかないか。
それに……俺だって美由が傷つけたヤツに苛立っていないわけじゃない。あんなやり方、絶対に間違っている。
「わかった。俺たちで犯人を見つけよう」
そう言うと、二人の表情にぱあっと花が咲く。
「ただし、犯人捜しと並行してボーカル探しと練習もするからな。というか、後者がメインだから。それでもよければ、俺も協力する。いいな?」
「うん! それでいいよ、ありがとう! やったね、大輔くん!」
静香は大輔と手を取り合って喜んでいる。対する大輔は、好きな子に手を握られたせいか、照れくさそうに笑っていた。思春期の中学生かお前は。
それにしても、犯人捜しか……まるで探偵だな。
ただの高校生バンドマンの俺たちが、犯人を捕まえられるかはわからない。でも、引き受けた以上は本気で謎に挑もう。
「とりあえず、明日の昼休みに作戦会議だ。状況を整理してみようぜ」
「ありがとう、貴志くん。さすがリーダー。頼りになるなぁ」
賛辞の言葉を贈る静香の隣で、大輔が「ま、任せろ静香! 貴志より先に俺が犯人捕まえてやるから!」と対抗心を燃やしてきた。だから思春期かって。
こうして俺たちはボーカル探しと並行して、美由のグローブに悪戯をした犯人を捜すことになった。
◆
あの後、少しだけ練習をして解散という流れになった。ボーカル不在なので、イマイチ練習にのめり込めなかったが、やらないよりはマシだろう。
校門まで来たとき、大事なことを思い出す。
「あ、楽譜忘れた」
しまった。音楽室の譜面台に置きっぱなしだ。
「しょうがねぇなぁ。待っててやるから、早く取って来いよ」
「私も待つよ、貴志くん」
「悪いな、大輔、静香。ちょっと待っててくれ」
俺は急いで来た道を戻った。職員室で第二音楽室の鍵を借り、階段を一段飛ばしで上っていく。
二階にたどり着いた。第二音楽室は三階にある。さらに加速して、階段を駆け上がろうとした、そのときだった。
「……歌?」
二階まで上ったとき、微かに歌声が聞こえた。よく聞き取れないが、女性の声であることは間違いない。
二階にある第一音楽室はジャズ研が使っていたと思ったけど……誰か残って練習しているのか? いや、たしかあいつら、今日は早めに解散していたはず。それにジャズ研は楽器の演奏がメインで、ボーカルはいない。
……じゃあ、誰が歌っているんだ?
気になった俺は三階には行かず、二階の廊下に出た。声の主がいるであろう、第一音楽室を目指して。
歩を進めるたびに、歌声が鮮明になっていく。美しい高音がよく響く、透き通った声。上手いってレベルじゃない。感情を揺さぶるような、途方もない熱量が歌声に込められている。
そして歌はサビに入り、強烈な裏声(ファルセット)に変化を遂げる。
「――――」
おもわず手に持っていた鞄を手放した。夕暮れの第一音楽室から漏れる歌声が、俺の意識を根こそぎ奪い取ったから。
音楽室のドアは半分開いていた。
吸い込まれるように中を覗き込む。
窓際にある黒いピアノの隣に女の子が立っていた。夕陽に濡れた長い黒髪は、カーテンと一緒に揺れている。
歌声が室内にしっとりと響く。総身が震えた。彼女のファルセットが俺の全身に溶けていく。歌声の欠片が、俺の体のあちこちで燃えているのがわかる。
どくん、と鼓動が胸を突き上げる。
声をかけずにはいられなくなった俺は、ベースケースを廊下に置き、ドアを全開にした。
「ボーカル……見ぃぃつけたぁぁぁ!」
瞬間、彼女の線の細い体がビクンと跳ねる。
俺の存在に気づいた彼女――小日向綾はきょとんとした顔で俺を見た。
「た、貴志くん?」
疑問の声には一切反応せず、第一音楽室に入る。綾に近づき、肩をがっしり掴んだ。
「へっ? な、何?」
「最高にいい歌だった! すごいよ、綾! お前にこんな特技があるとは思わなかった!」
「あの、少し落ち着いてくれる?」
「いや落ち着けとか無理だろ! だって俺たちボーカル不在で、綾はめっちゃ歌上手くて、これって運命――」
「……ねぇ。肩痛いのよ、さっきから」
「あ、悪い」
俺は綾の肩から手を離し、改めて握手を求める。
「第一印象から決めてました。綾の歌声に一目惚れ……いや、一耳惚れしたんだ。俺と一緒にバンド組んでください! お願いだ、俺たちのバンドを救ってくれ!」
頼み込むと、綾は目をぱちぱちと瞬かせる。
しばらくして、穏やかな笑みを浮かべた。
「えっと……お断りします」
ぺちっ。
握手を求めた手を軽く叩き落された。
「あの……だ、駄目かな?」
「うん。嫌だ」
「せめて文化祭だけでも」
「嫌だってば」
「試しに一回だけ合わせてみるとか」
「今の君の嬉しそうな顔が、みにく……生理的に苦手なのよ。だから嫌」
「おい。今、醜いって言いかけたよな?」
しかも、言い直した言葉のほうがダメージでかいんですけど。何この子。断り方ちょっとエグくない? 俺のメンタル殺す気かよ。
「お願いだ。うちのバンド、ボーカル不在なんだぞ?」
「知らないわよ、そんなの」
「ククク……いいのか? このままだと綾が加入しなかったせいで、俺たちは今年の文化祭に出られなくなるんだぞ? そうなったら、全部綾のせいだな? あぁ?」
どうだ? こういう言い方をされると、罪悪感で胸が押し潰されそうだろ?
綾が善良な人間なら、罪の意識に苛まれ、渋々メンバーになってくれるはず――。
「そっか。それじゃあ貴志くん、来年頑張ってね」
「お前ハート強すぎだろ」
即答だった。少しは悩めよ。
まさか精神的な揺さぶりが聞かないとは。この子、人として大事な何かが欠けているんじゃないですかね?
ちっ……今のが通用しないのなら、あれしかない。
正直、あれだけはやりたくなかったが、ためらっている余裕なんてない。今の俺は、尊厳も社会的地位も何もかもかなぐり捨てて、目の前のチャンスを掴むしかないんだ。
俺は「ククク」と不気味な笑い声をこぼしつつ、ポケットからスマホを取り出した。
「貴志くん、どうしたの? 笑い方と顔が気持ち悪いけど」
「笑い方はともかく、顔はこれが仕様なんだよ!」
なんなのお前。さっきから俺の顔面いじりすぎだろ。
小一時間くらい説教したい衝動を抑え、作戦を実行に移した。
「こほん……実は俺、さっきの綾の歌声を録音していたんだよね」
もちろん嘘だ。俺に盗聴の趣味はない。これは綾と交渉するためのブラフだ。
「お前の歌声を校内放送で流してもいいんだぜ? 自分のアカペラが全校生徒の耳に入るなんて恥ずかしいよなぁ? 流されたくなかったら、何をすればいいかわかるな? そうだ、俺たちのバンドに入れ!」
最低なことをしている自覚はある。自分でもちょっと引いているくらいだ。
だけど……どれだけ罵られようとも、俺は綾とバンドを組みたい。
何故なら俺は、あの声に惚れてしまったのだから――。
「別に私は放送されても困らないけど」
「そこは困れよ。頼むから」
ちくしょう。さっきから俺の予想を裏切りすぎだろ。
「というか、綾って帰宅部じゃなかったっけ? どうしてここにいるんだ? ソフトボール部は辞めたんだよな?」
元々、綾はソフトボール部で活動していたが、夏休みの途中で辞めたと聞いている。理由は言いたくなさそうだったから聞いてないし、詮索もしていない。
「ええ。私は帰宅部よ」
「じゃあ、なんで?」
「嫌なことがあると、歌を歌いたくなるの。少しは気分が紛れるから。だから、たまにここで歌うのよ」
嫌なこと……美由のグローブが切り刻まれた件だろう。
美由は今日、部活には参加せずに帰宅したそうだ。やはり気丈に振る舞っていても、落ち込んでいるに違いない。綾はそんな妹を見て、胸を痛めているのだろう。
「まぁそれはいいとして、軽音楽部には入らないわ。絶対によ」
「どんだけバンドに加入したくないんだよ……さてはお前、ステージで歌う自信がないな? 録音された歌声が放送されるぶんにはいいが、人前で歌えない照れ屋さんタイプと見た」
冗談のつもりだった。綾には「はいはい。そういうのいいから」と、軽くあしらわれる。そう思ったんだ。
だけど。
「馬鹿にしないで。私には歌しかないの。人前で歌えないとか、そんな中途半端な覚悟で歌ってない」
綾は急に態度を変えて、怒りをあらわにした。
歌しかない?
どういう意味だ?
いろいろと引っかかることはあるが、それは後回し。何故なら、これは綾をバンドに入れる突破口だと思うから。
俺は綾を挑発した。
「でもさ、そう頑なに拒まれると、なんか疑っちゃうよな」
「貴志くん。これ以上私を怒らせないで」
「さっきは興奮状態だったから上手いって錯覚していたのかも。お前、もしかして歌上手くないんじゃないのか?」
「怒らせないでって言っているでしょ」
怒気を孕んだ声が空気を震わせた。
綾の剣幕におもわず後ずさりしそうになる。
でも、俺は負けない。綾と一緒に音楽がしたいから。
「じゃあ、上手いって証明してみろよ」
「ええ、いいわよ。で、どうすればいいのかしら?」
よし、こちらの提案にノッてきた。
俺は笑いそうになるのをこらえて、会話を続ける。
「うちの軽音楽部の仲間に聴かせて、上手いかどうか判定してもらおうじゃないか。二人の内、一人でも上手いと言ったら、証明できたことにしよう。ちなみにその二人の内、一人は静香だ。彼女の音楽的能力が高いことは、仲のいいお前なら知っているだろ? 優秀な審判だと思うぞ。どうだ?」
「ふん。望むところだわ。で、どこで歌えばいいの? カラオケでも行く?」
綾は強気な姿勢を崩さず、俺を睨んだまま説明を促した。
馬鹿め。俺は綾と演奏をしたいんだ。カラオケなんて行くわけないだろ。
「いや、第二音楽室に行こう」
「音楽室って……あ、まさか君……!」
綾は俺の真意に気づいたらしく、切れ長の綺麗な目を瞬かせた。
別に本気で綾の歌唱力が低いなんて思ってない。その歌声に惚れてしまったことに、今も疑問の余地はない。
嘘までついたのには、それなりの理由がある。
「そうだ――演奏は俺たちがやる」
綾の歌唱力をジャッジするという名目で、セッションをするのが俺の目的だ。
一度合わせてみれば、どんな演奏に化けるのか、身をもって体感できる。俺の予想では、最高にアガる体験になるはずだ。もしもいい感じに演奏できれば、綾も考えを変えてくれるかもしれない。そう思って、あえて挑発的な嘘をついたのだ。
綾はうんざりした顔で嘆息する。
「貴志くんって、顔の割に策士なのね。ちょっと驚いたわ」
遠回しにアホ面って言われた。さすがに怒ってもいいと思う。
「顔の割には余計だ。とにかく演奏はしてもらうぞ。いいな?」
「仕方ないなぁ。一回だけだからね」
苦笑する綾と一緒に、俺は第一音楽室を出た。
あんな事件が起きては練習どころではない。俺たちは重い空気を引きずったまま駄弁っている。話題はもちろん、美由のグローブが切り刻まれた事件だ。
グローブはカッターのようなものでズタズタにされていた。悪戯なんて生易しいものじゃない。切り刻まれたズタズタのグローブからは、美由に対する強い悪意を感じた。
美由は裏表のない、明るくて優しい子だ。誰かから恨みを買うような性格ではないが……無邪気で正直者の彼女だからこそ、知らないうちに誰かを傷つけてしまったのかもしれない。
「ひどいことするよね……」
静香が悲しそうに目を伏せる。彼女と小日向姉妹は特に仲が良い。俺たち以上に胸を痛めているはずだ。
「美由、みんなに気をつかって笑ってたな」
大輔の言葉に、静香が黙って首肯する。
美由は俺たちに心配をかけまいと、いつもの調子で「へーきへーき!」と明るく振る舞っていた。本当は悲しいくせに。美由のヤツ、普段は能天気でへらへらしているくせに、そういうところは察しがいいから困る。
「私、やっぱり許せない!」
普段は大人しい静香の語気が荒い。
「ああ。たとえ美由に文句があるとしても、ああいうやり方で不満をぶつけるのはムカつくな」
「だよね、だよね! ねぇ、貴志くん、大輔くん。私たちで犯人を捕まえよう!」
「ああ……え?」
ちょっと待て。
今、犯人を捕まえようって言ったのか?
「いや、俺たちができることなんて、せいぜい美由を元気づけてやることくらいだろ。俺たち軽音楽部だし、犯人捜しなんて無理だって」
「それじゃ私の気が収まらないよ! むかつくもん!」
静香が顔を近づけて、むっとした表情で俺を睨む。おもわず気圧され、一歩後ろに下がった。
穏やかな性格の静香がこんなに怒るとは……よほど腹が立っているのだろう。
とはいえ、俺に何かできるわけではない。どうにか納得してもらって、犯人捜しをやめさせよう。
こういうときは多数決が有効だ。俺は大輔を味方につけようと試みる。
「おい大輔。お前からも、静香に犯人捜しはやめろって言ってやれ。俺たちのできる範疇を超えている――」
「よし! 俺たちで犯人を捕まえようぜ!」
「ちょ、大輔!?」
しまった。本人は隠しているつもりだろうが、大輔は静香のことが好きだ。だから、静香のお願いならなんでも聞く。くっ、作戦の選択を間違えたか。
「ねぇ、貴志くん! お願い、知恵を貸して!」
「貴志! なんとかしてくれよ!」
子犬のように愛らしい目で俺の顔を覗き込む静香と、やけに熱い視線を送ってくる大輔。こいつら、どうして俺に期待しているんだ。意味がわからない。
興奮した二人は、鼻先がぶつかりそうなくらい顔を近づけてくる。
「ねぇ貴志くん! 美由ちゃんの力になってあげるでしょ?」
「おい貴志! やらないなんて言わないだろ?」
「わ、わかった! 顔近いから、とりあえず離れろ!」
二人のおでこを指でつんと押すと、大人しく引き下がった。
はぁ、仕方ない。犯人捜しに協力するしかないか。
それに……俺だって美由が傷つけたヤツに苛立っていないわけじゃない。あんなやり方、絶対に間違っている。
「わかった。俺たちで犯人を見つけよう」
そう言うと、二人の表情にぱあっと花が咲く。
「ただし、犯人捜しと並行してボーカル探しと練習もするからな。というか、後者がメインだから。それでもよければ、俺も協力する。いいな?」
「うん! それでいいよ、ありがとう! やったね、大輔くん!」
静香は大輔と手を取り合って喜んでいる。対する大輔は、好きな子に手を握られたせいか、照れくさそうに笑っていた。思春期の中学生かお前は。
それにしても、犯人捜しか……まるで探偵だな。
ただの高校生バンドマンの俺たちが、犯人を捕まえられるかはわからない。でも、引き受けた以上は本気で謎に挑もう。
「とりあえず、明日の昼休みに作戦会議だ。状況を整理してみようぜ」
「ありがとう、貴志くん。さすがリーダー。頼りになるなぁ」
賛辞の言葉を贈る静香の隣で、大輔が「ま、任せろ静香! 貴志より先に俺が犯人捕まえてやるから!」と対抗心を燃やしてきた。だから思春期かって。
こうして俺たちはボーカル探しと並行して、美由のグローブに悪戯をした犯人を捜すことになった。
◆
あの後、少しだけ練習をして解散という流れになった。ボーカル不在なので、イマイチ練習にのめり込めなかったが、やらないよりはマシだろう。
校門まで来たとき、大事なことを思い出す。
「あ、楽譜忘れた」
しまった。音楽室の譜面台に置きっぱなしだ。
「しょうがねぇなぁ。待っててやるから、早く取って来いよ」
「私も待つよ、貴志くん」
「悪いな、大輔、静香。ちょっと待っててくれ」
俺は急いで来た道を戻った。職員室で第二音楽室の鍵を借り、階段を一段飛ばしで上っていく。
二階にたどり着いた。第二音楽室は三階にある。さらに加速して、階段を駆け上がろうとした、そのときだった。
「……歌?」
二階まで上ったとき、微かに歌声が聞こえた。よく聞き取れないが、女性の声であることは間違いない。
二階にある第一音楽室はジャズ研が使っていたと思ったけど……誰か残って練習しているのか? いや、たしかあいつら、今日は早めに解散していたはず。それにジャズ研は楽器の演奏がメインで、ボーカルはいない。
……じゃあ、誰が歌っているんだ?
気になった俺は三階には行かず、二階の廊下に出た。声の主がいるであろう、第一音楽室を目指して。
歩を進めるたびに、歌声が鮮明になっていく。美しい高音がよく響く、透き通った声。上手いってレベルじゃない。感情を揺さぶるような、途方もない熱量が歌声に込められている。
そして歌はサビに入り、強烈な裏声(ファルセット)に変化を遂げる。
「――――」
おもわず手に持っていた鞄を手放した。夕暮れの第一音楽室から漏れる歌声が、俺の意識を根こそぎ奪い取ったから。
音楽室のドアは半分開いていた。
吸い込まれるように中を覗き込む。
窓際にある黒いピアノの隣に女の子が立っていた。夕陽に濡れた長い黒髪は、カーテンと一緒に揺れている。
歌声が室内にしっとりと響く。総身が震えた。彼女のファルセットが俺の全身に溶けていく。歌声の欠片が、俺の体のあちこちで燃えているのがわかる。
どくん、と鼓動が胸を突き上げる。
声をかけずにはいられなくなった俺は、ベースケースを廊下に置き、ドアを全開にした。
「ボーカル……見ぃぃつけたぁぁぁ!」
瞬間、彼女の線の細い体がビクンと跳ねる。
俺の存在に気づいた彼女――小日向綾はきょとんとした顔で俺を見た。
「た、貴志くん?」
疑問の声には一切反応せず、第一音楽室に入る。綾に近づき、肩をがっしり掴んだ。
「へっ? な、何?」
「最高にいい歌だった! すごいよ、綾! お前にこんな特技があるとは思わなかった!」
「あの、少し落ち着いてくれる?」
「いや落ち着けとか無理だろ! だって俺たちボーカル不在で、綾はめっちゃ歌上手くて、これって運命――」
「……ねぇ。肩痛いのよ、さっきから」
「あ、悪い」
俺は綾の肩から手を離し、改めて握手を求める。
「第一印象から決めてました。綾の歌声に一目惚れ……いや、一耳惚れしたんだ。俺と一緒にバンド組んでください! お願いだ、俺たちのバンドを救ってくれ!」
頼み込むと、綾は目をぱちぱちと瞬かせる。
しばらくして、穏やかな笑みを浮かべた。
「えっと……お断りします」
ぺちっ。
握手を求めた手を軽く叩き落された。
「あの……だ、駄目かな?」
「うん。嫌だ」
「せめて文化祭だけでも」
「嫌だってば」
「試しに一回だけ合わせてみるとか」
「今の君の嬉しそうな顔が、みにく……生理的に苦手なのよ。だから嫌」
「おい。今、醜いって言いかけたよな?」
しかも、言い直した言葉のほうがダメージでかいんですけど。何この子。断り方ちょっとエグくない? 俺のメンタル殺す気かよ。
「お願いだ。うちのバンド、ボーカル不在なんだぞ?」
「知らないわよ、そんなの」
「ククク……いいのか? このままだと綾が加入しなかったせいで、俺たちは今年の文化祭に出られなくなるんだぞ? そうなったら、全部綾のせいだな? あぁ?」
どうだ? こういう言い方をされると、罪悪感で胸が押し潰されそうだろ?
綾が善良な人間なら、罪の意識に苛まれ、渋々メンバーになってくれるはず――。
「そっか。それじゃあ貴志くん、来年頑張ってね」
「お前ハート強すぎだろ」
即答だった。少しは悩めよ。
まさか精神的な揺さぶりが聞かないとは。この子、人として大事な何かが欠けているんじゃないですかね?
ちっ……今のが通用しないのなら、あれしかない。
正直、あれだけはやりたくなかったが、ためらっている余裕なんてない。今の俺は、尊厳も社会的地位も何もかもかなぐり捨てて、目の前のチャンスを掴むしかないんだ。
俺は「ククク」と不気味な笑い声をこぼしつつ、ポケットからスマホを取り出した。
「貴志くん、どうしたの? 笑い方と顔が気持ち悪いけど」
「笑い方はともかく、顔はこれが仕様なんだよ!」
なんなのお前。さっきから俺の顔面いじりすぎだろ。
小一時間くらい説教したい衝動を抑え、作戦を実行に移した。
「こほん……実は俺、さっきの綾の歌声を録音していたんだよね」
もちろん嘘だ。俺に盗聴の趣味はない。これは綾と交渉するためのブラフだ。
「お前の歌声を校内放送で流してもいいんだぜ? 自分のアカペラが全校生徒の耳に入るなんて恥ずかしいよなぁ? 流されたくなかったら、何をすればいいかわかるな? そうだ、俺たちのバンドに入れ!」
最低なことをしている自覚はある。自分でもちょっと引いているくらいだ。
だけど……どれだけ罵られようとも、俺は綾とバンドを組みたい。
何故なら俺は、あの声に惚れてしまったのだから――。
「別に私は放送されても困らないけど」
「そこは困れよ。頼むから」
ちくしょう。さっきから俺の予想を裏切りすぎだろ。
「というか、綾って帰宅部じゃなかったっけ? どうしてここにいるんだ? ソフトボール部は辞めたんだよな?」
元々、綾はソフトボール部で活動していたが、夏休みの途中で辞めたと聞いている。理由は言いたくなさそうだったから聞いてないし、詮索もしていない。
「ええ。私は帰宅部よ」
「じゃあ、なんで?」
「嫌なことがあると、歌を歌いたくなるの。少しは気分が紛れるから。だから、たまにここで歌うのよ」
嫌なこと……美由のグローブが切り刻まれた件だろう。
美由は今日、部活には参加せずに帰宅したそうだ。やはり気丈に振る舞っていても、落ち込んでいるに違いない。綾はそんな妹を見て、胸を痛めているのだろう。
「まぁそれはいいとして、軽音楽部には入らないわ。絶対によ」
「どんだけバンドに加入したくないんだよ……さてはお前、ステージで歌う自信がないな? 録音された歌声が放送されるぶんにはいいが、人前で歌えない照れ屋さんタイプと見た」
冗談のつもりだった。綾には「はいはい。そういうのいいから」と、軽くあしらわれる。そう思ったんだ。
だけど。
「馬鹿にしないで。私には歌しかないの。人前で歌えないとか、そんな中途半端な覚悟で歌ってない」
綾は急に態度を変えて、怒りをあらわにした。
歌しかない?
どういう意味だ?
いろいろと引っかかることはあるが、それは後回し。何故なら、これは綾をバンドに入れる突破口だと思うから。
俺は綾を挑発した。
「でもさ、そう頑なに拒まれると、なんか疑っちゃうよな」
「貴志くん。これ以上私を怒らせないで」
「さっきは興奮状態だったから上手いって錯覚していたのかも。お前、もしかして歌上手くないんじゃないのか?」
「怒らせないでって言っているでしょ」
怒気を孕んだ声が空気を震わせた。
綾の剣幕におもわず後ずさりしそうになる。
でも、俺は負けない。綾と一緒に音楽がしたいから。
「じゃあ、上手いって証明してみろよ」
「ええ、いいわよ。で、どうすればいいのかしら?」
よし、こちらの提案にノッてきた。
俺は笑いそうになるのをこらえて、会話を続ける。
「うちの軽音楽部の仲間に聴かせて、上手いかどうか判定してもらおうじゃないか。二人の内、一人でも上手いと言ったら、証明できたことにしよう。ちなみにその二人の内、一人は静香だ。彼女の音楽的能力が高いことは、仲のいいお前なら知っているだろ? 優秀な審判だと思うぞ。どうだ?」
「ふん。望むところだわ。で、どこで歌えばいいの? カラオケでも行く?」
綾は強気な姿勢を崩さず、俺を睨んだまま説明を促した。
馬鹿め。俺は綾と演奏をしたいんだ。カラオケなんて行くわけないだろ。
「いや、第二音楽室に行こう」
「音楽室って……あ、まさか君……!」
綾は俺の真意に気づいたらしく、切れ長の綺麗な目を瞬かせた。
別に本気で綾の歌唱力が低いなんて思ってない。その歌声に惚れてしまったことに、今も疑問の余地はない。
嘘までついたのには、それなりの理由がある。
「そうだ――演奏は俺たちがやる」
綾の歌唱力をジャッジするという名目で、セッションをするのが俺の目的だ。
一度合わせてみれば、どんな演奏に化けるのか、身をもって体感できる。俺の予想では、最高にアガる体験になるはずだ。もしもいい感じに演奏できれば、綾も考えを変えてくれるかもしれない。そう思って、あえて挑発的な嘘をついたのだ。
綾はうんざりした顔で嘆息する。
「貴志くんって、顔の割に策士なのね。ちょっと驚いたわ」
遠回しにアホ面って言われた。さすがに怒ってもいいと思う。
「顔の割には余計だ。とにかく演奏はしてもらうぞ。いいな?」
「仕方ないなぁ。一回だけだからね」
苦笑する綾と一緒に、俺は第一音楽室を出た。
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