二人で癒す孤独

路地裏乃猫

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健吾

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 これじゃあ、何のために生き残ったンだか。
 そんなことを一人ごちながら、手元の猪口をちろりと舐める。
 大の男が五人も並べば一杯の、掘っ立て小屋に廃材が渡されているだけの粗末なおでん屋の片隅で、田沢健吾は、もう半日近く不味い手酌酒を呷りつづけている。
 三月初旬の、春と呼ぶにはまだまだ夜風の冷たい季節だが、程よく酒が効いているせいか、とりあえず寒さは感じない。
 隣では、ほとんど乞食同然の復員服姿の男が、おでんの皿に突っ伏したままぐうぐうと鼾をかいている。
 もとはカーキ色だったはずのそれは、今は醤油で煮しめたような妙な色をしている。すでに全体が襤褸布と化しており、あちこち破れた布地からは、お世辞にも衛生的とは言えない饐えた臭いを放つ包帯が無造作に覗いている。
 もともと帰る家がないのか。それとも、失くしてしまったのか。
 帰る場所があれば、あるいは待つ人がいるのであれば、帰還船の渡し板を踏む間も惜しんで駆け戻り、互いの無事を喜び合っていたことだろう。
 そうではなく、こんな薄汚い飲み屋街でだらしなく酔いつぶれているということは、自然、帰る場所を持たない人間ということになる。
 そんな男の姿を一頻り心の中で憐れんだ後で、自分も似たような恰好と境遇だったなと思い出し、言葉にならない虚しさにふと憮然となる。
 残りの酒を一気に干すと、健吾は襤褸布のような暖簾をくぐって店を出た。
 新宿駅前のバラック街には、やはり廃材を合わせて拵えた掘っ立ての屋台が何十軒といわず立ち並んでいる。どこの店も覗いても、薄汚れた復員服姿の男でごった返しているのは、それだけこの街には今、帰る場所を持たない男たちがあぶれているということだろう。
 胸の物入れから、財布代わりにしている巾着を取り出し、中を覗く。薄汚れた小銭が数枚、袋の底で虚しく転がっているのが余計に物悲しさを誘う。
 帰還船で日本に戻ってもう三日になる。
 その三日というもの、健吾は帰還時に支給された毛布や被服を闇市に売っては金に換え、その金で酒を買うという乞食同然の暮らしを続けていた。その支給品も、しかし、いい加減底をつき、と言って、今さら古巣に戻る気にもなれず、健吾は行くあてもなくひたすら雑踏の中をうろついていた。
 ふと、路地裏の暗がりで大柄な米兵と洋パンの女が乳繰り合っているのが見え、何となく眺めていると、こちらの視線に気づいた米兵が挑発するような視線を送ってきた。
 思わず拳を固めかけた健吾は、しかし、ここで殴って後でMPに捕まっても面倒だと思い、何とか自分を諌める。そんな健吾の及び腰に調子づいた米兵は、さらに見せつけるように深い口づけを女と交わした。
 そんな米兵に、健吾はしかし黙って背を向ける。所詮、俺たちは敗残者なのだと、らしくもない虚無的な台詞で自らを慰める。
 昔は、これでも色街を歩けば女の五人や六人は袖を引いてきたもんだ。
 日本人にしては背が高く、また目鼻立ちも凛々しく整った健吾は、色街ではそれなりに知れた顔だった。細い顎にすっきりと通った鼻筋。頑固な性格を思わせる、ややへの字に曲った薄唇。直線的でしっかりとした眉は尻の方が大きく吊り上がり、いやでも意志の強さを感じさせる。目尻の切れ上がった、やや三白眼気味の目も。
 映画会社のスカウトを受けたことも一度や二度ではない。が、当時、新宿を本拠とするヤクザの若頭を務めていた健吾は、舎弟の手前、そんな軟派な仕事ができるかと、スカウトマンが来るたびに塩をまいて追い返した。
 そんな、映画会社も垂涎の美貌はしかし、長年の軍隊生活ですっかり擦り切れ、衰えてしまった。
 復員以来ほとんど当たっていない髭は、顎の稜線をぽつぽつと覆って汚らしく、捕虜の期間中伸びるに任せた髪は、今では掴んで引っ張れるほどに伸びきっている。召集前は長髪を後ろに撫でつけていたことが多かったから、あの頃に戻ったと思えばまぁいいのだろうが、その後の軍隊時代はずっと坊主だったので、どうも今の頭は落ち着かない。そもそも、ポマードの一つも手に入らない品不足の今、いくら髪を伸ばしたところで洒落っ気も何もあったものじゃない。
 飢えて頬の削げた顔はどこか野良犬めいていて、ただでさえ人並みに較べて大きな双眸が、痩せくぼんだ眼窩の中でぎろりと浅ましく光っているのが自分でも気味が悪くて仕方ない。
 こんな姿じゃ、ヒモにだってなれやしねぇ……
 そんなことをぶつくさ呟きながら歩くうち、いつしか健吾はバラック街を抜けて焦土の中に出ていた。
 月明かりの下、いっそ気持ちいいほど何もない焼け野原がどこまでも広がっている。
 おそらくは昨年三月の空襲で焼かれたのだろうが、その頃すでに南方に送られ、名も知れない無人島で飢えや渇きと戦っていた健吾に、当時の街の惨状を思い浮かべるすべはない。ただ、虚しく夜空を衝く炭化した柱や、焼け跡の中に無惨に散らばる屋根瓦から、何となく想像することしか許されない。
 そんな焼け跡の中を、健吾は酒臭い息を吐きながらとぼとぼ歩く。
 あからさまに挙動の妙な男を見かけたのはそんな時だ。
 男は、懐中電灯を手に落ち着きなく辺りを見回しながら、やがて一町ほど先にある、半ば崩れかけた神社の鳥居をくぐっていった。
 時計を見ると、すでに時刻は夜の十二時にさしかかろうとしている。こんな時間、こんな場所に若い男が人目を忍んで訪れる理由といえば、健吾は一つしか思いつかない。
 覚えず下卑た笑みが浮かぶ。
 さては逢引か。だとすれば――
 飲み屋街で散々米兵に見せつけられてから、ここまで惨めな気分を噛みしめてきたが、どうやら報われる時が来たらしい。そう思うと、一度は萎えかけた欲情がむくむくと頭をもたげてくるのが人間の現金なところだ。
 ここで男を殴り倒し、その隙に相手の女を……
 一方、そんな健吾の企みを知らない男は、足音を忍ばせつつそろりそろりと境内を横切ってゆく。どこぞの会社員なのか、このご時世にしてはやけに形の良い背広を着込んでいる。洒落ていると言えば聞こえはいいが、今の情勢を考えると、どうも不自然だ。
 鳥居の陰に身を隠し、その陰から男の様子をそっと伺う。
 やはり昨年の空襲でやられたのだろう、境内は、本殿から鎮守の森に至るまで悉く焼き尽くされ、無惨にも崩れ落ちていた。わずかに残った柱木も完全に炭と化し、月のおかげで青味がかった夜空の下、そこだけ闇夜の空を固めたような漆黒の影を晒している。
 そんな、無惨にも焼け落ちた境内の隅に男はいた。
 もとはご神木だったのだろう、一つだけ格別に太い立木の燃え跡のそばに、男は一人で佇んでいた。女は――まだ現われていないようだ。
「んだよっ」
 当てが外れた悔しさも手伝って、男に聞こえないよう小さく吐き捨てる。
 とはいえ、待っていればそのうち現われてくれるだろう。何より、どうせ待つ者も帰る家もない気楽な独り身だ。待つことは、だから決して苦にはならない。
 さて、どんな女が現れるか。
 男の身なりから考えるに、相手もそれなりに良い家柄の女と見ていいだろう。いやむしろ、ああいう身分の男だからこそ、卑しい女との道ならぬ恋のために泣く泣く人目を忍んでいるのかもしれない。
 どちらにしろ、後で健吾が掻っ攫うという筋書きは変わらないが。
 勝手に期待を膨らませる健吾をよそに、男は辺りの焼け跡を見渡すと、瓦礫の中から太い木材の燃えさしを見つけて運び出し、それを枝の下にどすんと置いた。
 さらに、危なっかしい足取りで木材の上に乗り上がり、懐から何かを取り出す。
 見ると、どうやら紐のようだ。しかも、その先端はカウボーイの投げ縄のように輪っかを形作っている。
 それを枝に引っ掛け、軽く引いて強度を確かめると――
 まさか。 
 気付いた時には、早くも健吾の身体は鳥居の陰から飛び出していた。
 安酒の酔いはとっくの昔に醒めていた。敗戦以来忘れかけていた、血が沸騰するような感覚に追い立てられるように境内を駆ける。そして、
「どういうつもりだてめぇ!」
 問答無用で男を押し倒し、その躰に馬乗りになる。シャツの胸倉を掴み、激しく揺さぶると、男の撫でつけた前髪が乱れてはらりと顔にかかった。
 が、今の健吾には、そんなものは目にも入らない。
「言え! てめぇ今、ここで何してやがった!」
 男は、うう、と苦しげに呻くと、恨めしげな視線をのろり上げた。
 折しも雲が晴れ、蒼白い月光が男の顔を照らし出す。
 瞬間――健吾は思わず息を呑んだ。
「……こいつは」
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