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生きる義務
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「……ま……って」
「えっ?」
耳元で声が聞こえた気がして、弾かれたように健吾は顔を上げる。見ると、いつの間に気が付いたのだろう、敦の長い睫が、生まれたての小鳥のようにふるふると小刻みに震えていた。
「敦っ? おい敦っっ! 目ェ覚ませよちくしょうっっ!」
腕に抱えたまま、その躰を激しく揺さぶる。が、その瞼は今すぐに開くようでいて、そのくせ、いっこうに開く気配を見せない。
「敦ぃぃっ!」
「……だ」
「えっ?」
「……とり、は……いや、だ……ひとりは……」
紅の唇がおずおずと開閉をはじめる。蝋のようだった頬に生気が戻って――
そして。
「……あ」
薄い瞼の奥から黒水晶の瞳が覗き、ぼんやりと、だが、まっすぐに健吾を捉えた。
「た……ざわ……さん?」
「……敦?」
「ど、うして……出て行った……はず、では……」
その言葉に、ふと健吾は我に返る。
そういえば、なぜ自分はここに戻ってしまったのだろう。もう、ここに自分の居場所はないと思い、屋敷を出たはずだ――なのに。
気付くと事務所を飛び出して、この場所に駆けつけていた。
誰の声も、それに視線も気にならなかった。ただ敦の、敦一人のことばかりを想っていた。この世界に一人、さよならを告げようとする敦への、怒りなのか哀しみなのか、とにかく、何かに突き動かされて。
「う、うるせぇよっ! てめぇに……か、関係、あるかよっ」
と……その時だ。
敦の喉から、ふふ、と水晶の転がる声がした。どうやら笑っているらしいと気づいた時、その唇が、かすかに微笑の形に緩むのを健吾は見た。
「な……なに、笑ってンだよ、っ」
「あなたの……」
「えっ?」
「声が……聴こえた。僕を、呼ぶ声が……」
そして、さらに笑みを濃くする。今度のそれは、はっきり笑顔と分かる微笑だった。
表情が……心が、戻りつつあるのだ。
布団の中から水茎のような手がするりと伸び、健吾の頬を包み込む。何のつもりだと健吾が訝しく思った時には、その唇は、すでに敦のそれに塞がれていた。
応じるように深く絡めながら、敦の痩せた背中を強く抱き寄せる。痛々しいほど骨の浮いた細い背中を、いたわるように、しかし力強く掻き抱く。
「……やめとけ」
長い口づけの後で、健吾はそっと囁いた。
「これ以上は……止められなくなる。今は、無理をさせたくない」
そうは言いながら、躰の奥はすでに盛り上がり、その熱を止めることは難しい。我ながら柄にもない綺麗事だなと自嘲の笑みを浮かべたその時、敦が、健吾を見据えながらゆるゆるとかぶりを振った。
「無理でもいい」
黒い瞳が、何かを必死に希うようにじっと健吾を見つめる。
「今は……あなたが欲しい。あなたの熱が……その燃えるような生命(いのち)が、この躰に欲しい」
「……言いやがったな」
にやり健吾は口元を歪めた。露悪的な嗤笑はしかし、身内に溢れ出る歓びを押し隠すための健吾なりの強がりだ。
今、敦は言った。この俺が欲しいと――創一郎ではなく。
すまねぇな、と、胸中で顔も知らぬ男に向けて呟く。
生きたかっただろう。帰りたかっただろう。愛する人のもとに帰って、そして、飽きることなく愛し合いたかっただろう。
だが、それらの夢はことごとくジャングルに、あるいは海原の底に置き去りにされ、そして、それらを置き去りにしたまま我々は前に進もうとしている……いや、進まなければいけないのだ。振り返ると、もう、二度と動けなくなってしまうから。
今まで置き去りにした顔という顔が脳裏をよぎる。彼らは問う。貴様に、これからの世界を生きる価値はあるのか――
ある。
なぜなら俺には敦がいるから。敦を護り続ける義務があるから。
「そういうことなら……たっぷり注ぎ込んでやるから、てめぇ覚悟しろよ」
煽るように囁くと、ふたたび健吾は、敦と深く唇を重ねた。
「えっ?」
耳元で声が聞こえた気がして、弾かれたように健吾は顔を上げる。見ると、いつの間に気が付いたのだろう、敦の長い睫が、生まれたての小鳥のようにふるふると小刻みに震えていた。
「敦っ? おい敦っっ! 目ェ覚ませよちくしょうっっ!」
腕に抱えたまま、その躰を激しく揺さぶる。が、その瞼は今すぐに開くようでいて、そのくせ、いっこうに開く気配を見せない。
「敦ぃぃっ!」
「……だ」
「えっ?」
「……とり、は……いや、だ……ひとりは……」
紅の唇がおずおずと開閉をはじめる。蝋のようだった頬に生気が戻って――
そして。
「……あ」
薄い瞼の奥から黒水晶の瞳が覗き、ぼんやりと、だが、まっすぐに健吾を捉えた。
「た……ざわ……さん?」
「……敦?」
「ど、うして……出て行った……はず、では……」
その言葉に、ふと健吾は我に返る。
そういえば、なぜ自分はここに戻ってしまったのだろう。もう、ここに自分の居場所はないと思い、屋敷を出たはずだ――なのに。
気付くと事務所を飛び出して、この場所に駆けつけていた。
誰の声も、それに視線も気にならなかった。ただ敦の、敦一人のことばかりを想っていた。この世界に一人、さよならを告げようとする敦への、怒りなのか哀しみなのか、とにかく、何かに突き動かされて。
「う、うるせぇよっ! てめぇに……か、関係、あるかよっ」
と……その時だ。
敦の喉から、ふふ、と水晶の転がる声がした。どうやら笑っているらしいと気づいた時、その唇が、かすかに微笑の形に緩むのを健吾は見た。
「な……なに、笑ってンだよ、っ」
「あなたの……」
「えっ?」
「声が……聴こえた。僕を、呼ぶ声が……」
そして、さらに笑みを濃くする。今度のそれは、はっきり笑顔と分かる微笑だった。
表情が……心が、戻りつつあるのだ。
布団の中から水茎のような手がするりと伸び、健吾の頬を包み込む。何のつもりだと健吾が訝しく思った時には、その唇は、すでに敦のそれに塞がれていた。
応じるように深く絡めながら、敦の痩せた背中を強く抱き寄せる。痛々しいほど骨の浮いた細い背中を、いたわるように、しかし力強く掻き抱く。
「……やめとけ」
長い口づけの後で、健吾はそっと囁いた。
「これ以上は……止められなくなる。今は、無理をさせたくない」
そうは言いながら、躰の奥はすでに盛り上がり、その熱を止めることは難しい。我ながら柄にもない綺麗事だなと自嘲の笑みを浮かべたその時、敦が、健吾を見据えながらゆるゆるとかぶりを振った。
「無理でもいい」
黒い瞳が、何かを必死に希うようにじっと健吾を見つめる。
「今は……あなたが欲しい。あなたの熱が……その燃えるような生命(いのち)が、この躰に欲しい」
「……言いやがったな」
にやり健吾は口元を歪めた。露悪的な嗤笑はしかし、身内に溢れ出る歓びを押し隠すための健吾なりの強がりだ。
今、敦は言った。この俺が欲しいと――創一郎ではなく。
すまねぇな、と、胸中で顔も知らぬ男に向けて呟く。
生きたかっただろう。帰りたかっただろう。愛する人のもとに帰って、そして、飽きることなく愛し合いたかっただろう。
だが、それらの夢はことごとくジャングルに、あるいは海原の底に置き去りにされ、そして、それらを置き去りにしたまま我々は前に進もうとしている……いや、進まなければいけないのだ。振り返ると、もう、二度と動けなくなってしまうから。
今まで置き去りにした顔という顔が脳裏をよぎる。彼らは問う。貴様に、これからの世界を生きる価値はあるのか――
ある。
なぜなら俺には敦がいるから。敦を護り続ける義務があるから。
「そういうことなら……たっぷり注ぎ込んでやるから、てめぇ覚悟しろよ」
煽るように囁くと、ふたたび健吾は、敦と深く唇を重ねた。
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