アイムホーム~あなたの家になりたい

路地裏乃猫

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ただいま

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「ただいま」
  その言葉を口にしたのは何年ぶりだろう。
  少なくとも月島優人が記憶するかぎり、それは、もう十何年も前の話だ。
  それを今、ふと口にしてみようと思ったのは、いうなれば単なる気まぐれにすぎなかった。そもそも、恋人もいない一人住まいのアパートで、「ただいま」などと口にしたところで答える人間は誰もいないわけで。
  だから。
 「おかえりなさい。優人さん」
  思いがけず部屋の中からそんな声が帰ってきたとき、優人は文字どおり凍りついた。
 「……は?」
  靴を脱ぐ足を止めたまま、信じられない気持ちで顔を上げる。目の前の、誰もいないはずの暗闇に明らかに人間の気配がする。
  ――まさか、泥棒……?
  咄嗟にスイッチに手を伸ばし、明かりをつける。
  ぱちりと灯った蛍光灯の下、古ぼけた2DKのダイニングにその男は立っていた。
  身長はゆうに一八〇を超えているだろう。カジュアルなTシャツとジーンズに包まれたその長身は、モデルか何かのようにすらりと均整が取れていて、どこぞのショーウインドーに立っていても恐らく違和感はないだろう。整っているのは身体だけではなく、ほっそりとした色白の顔立ちに、研ぎ澄ましたように細い鼻筋、くっきりと整った眉目は、まるでどこぞの芸能人か何かのようだ。
  ぱっちりと見開いた二重瞼の奥には、くりくりと、やけに楽しそうに光る黒い瞳。
  男でも見惚れるほどの美男子だ。ただ――見覚えはない、全く。
  ……不審者だ。
  おもむろに優人は後退ると、うっかり洗面所でゴキブリを見つけてしまったときの要領でそっと玄関の戸を閉ざし、それから、ダッシュでアパートを離れた。
  一区画ほど離れたところでようやく警察を呼ばなければと思い立ち、スーツの懐からスマホを取り出し一一〇番する。
 「もしもし、警察ですか――」
  待つこと約十分。近所の交番から駆けつけた警察官とともに再びアパートに戻った優人は、しかし、そこで妙なシチュエーションに遭遇することになる。
 「いないですねぇ」
  そう言って、怪訝そうに部屋の中を見渡す中年警察官の背中を優人は信じられない気持ちで睨みつけた。
  ――目の前にいるじゃねぇか。
  そう。警官とともに今一度部屋を覗き込んだとき、例の不審者は相変わらず部屋の中にいて、あまつさえ台所で溜まった汚れ物なんぞをわしわしと洗っていた。
  しかも、無駄に手際がいいときている。
 「あ、おかえりなさい。んもう、どこに行ってたんですかぁ優人さん。――あれ? そっちの方はお知り合いですか?」
 「……あの、すみませんが」
  不審者の不審な挨拶に答える代わりに、優人は警官に声をかけた。
 「あそこ。いるじゃないですか。ほら」
 「えっ?」
  振り返る警察官に、さらに優人は言う。
 「いや、え、じゃなくて……ほら、台所で洗い物してるでしょ、今」
  言いながら振り返ると、すでに男は台所から消えていた。だが、不審者の確かな痕跡として、シンク脇に敷いた吸水マットの上には、洗い終えた食器が丁寧に重ねられている。
 「ダメですよ優人さん」
  意外な方向から声がして、見ると、例の不審者が今度は洗面所の引き戸から顔を覗かせていた。
 「忙しいのは分かりますけど、洗い物はこまめに洗わなきゃ。――あ、お風呂の方はいま沸かしていますので、もう少し待ってくださいね」
 「なに……言って……」
  きみ、と肩を叩かれ我に返る。振り返ると、いつの間に手帳を取り出した警官が、怪訝な目で優人を見上げていた。
 「よければ、君が見たという不審者の特徴を教えてくれないかな?」
 「え? と、特徴なら……」
  目の前にいるだろう、当の本人が――と、喉まで出かかるのを優人は慌てて止める。
  どうもおかしい。何かが決定的に噛み合っていない。
 「ああ、見えないんですよ、僕」
  またしても不審者が口を開く。その場違いな笑顔に、優人は腹が立つのを通り越してなぜか怖くなる。
  見えない? 何が?
 「あの、一つ伺ってもよろしいですか」
  おそるおそる、不審者を指さしながら優人は警官にたずねた。
 「見えませんか、あれ」
  警官は、はて、という顔で優人が指さす方を一瞥すると、なお一層怪訝な顔で優人に向き直り、はぁ、と肩で溜め息をついた。
 「今回は大目に見てあげるけど、あまりオジさんたちをからかうと、下手すると公務執行妨害っていう罪に問われちゃうから、きみ、気をつけなきゃダメだよ」
  そして、お酒はほどほどにねぇと言い残すと、アパート前に停めてあった自転車に跨り、きこきこペダルをこぎながら街灯の届かない路地の闇へと消えていった。
  どういうことだ……?
  今の警官がふざけていたようには思えない。が、部屋に目を戻せば、相変わらず例の不審者が不思議そうな顔で優人を見下ろしていて。
 「あれ? もう帰っちゃったんですか? さっきの人?」
  しかも、相変わらず場違い感の半端ない呑気な口調で声をかけてくる。まさか、幽霊か何かか? ……にしては、とくに輪郭がぼやけているわけでもなく、何より足もきちんと二本揃っている。
 「……なぁ」
  おそるおそる、優人は不審者に声をかけた。相手の実在を認めるようで、できることならかけずに済ませたかったのだが。
 「あんた……何者だ?」
  すると不審者は、
 「はい。優人さんが現在お住まいの、ここ朝比奈ハイツ一号室です」
  当たり前のように天井を指差すと、男にしては紅さの目立つ唇をニコリと緩めた。
 
 優人がここのアパートに住みはじめたのは半月ほど前のこと。就職を機に一人暮らしを決意した優人は、隣県にある実家を離れ、職場まで四十分ほどで行ける今のアパートに引っ越した。
  築年数こそ二十年と年季が入っているが、大家の管理が行き届いているおかげで建物は小綺麗に保たれ、また、一階のわりには日当たりも決して悪くない。北側にキッチンつきダイニング。風呂とトイレは一人暮らしには贅沢なセパレートタイプ。南側の二間がどちらも畳の間というのが使い勝手として気になるところだが、おかげで家賃相場も低めに抑えられ、家計には優しい。
  そんなわけで優人は、この部屋に対しては不満らしい不満を一度も抱かずにここまできたわけだが……
 「で、要するにお前のことは、この部屋の精みたいなもの、と理解すりゃいいのか」
 「はいっ!」
 「はい、じゃねぇよっっ!」
  ヒーローショーの幼稚園児よろしく元気な返事をよこす自称部屋の精に、優人は全力で突っ込みを入れた。
  サービス残業を終えての仕事帰り。手元の時計はすでに夜中の零時半を指している。こんな状態で、得体の知れない侵入者を自宅で迎え撃つだけでも辛いのに、その上、相手が電波となると状況はさらにヘヴィだ。
  そんなくそったれな状況を跳ねつけるように、優人はさらに怒鳴る。
 「ふざけてんのかお前! 聞いたことねぇぞンな話! 地縛霊とかそういう話ならともかく、言うに事欠いて部屋の精って何だよ部屋の精って! つくならもっと真面な嘘をつきやがれ!」
 「だ、だって、本当のことですし、」
 「いいぜ。百歩譲って本当に部屋の精だったとしよう。じゃあ、俺がこの部屋に来てから今までの半月間、一体どこに隠れていやがったんだお前は!?」
 「い、いましたよ、ずっと」
  今にも泣き出しそうな顔で優人を見下ろしながら、自称部屋の精は答える。身長が一六〇と少ししかない優人に比べれば、その背丈は頭一つ抜けているのだが、だからこそ、この手の子供じみた表情を向けられると、優人の目には余計にフザけているように映るのだ。
 「本当のことを言うと、僕にも、どうしてあなたに僕の姿が見えてしまっているのか分からないんです。本来、僕は人には見えない存在ですし、実際、これまでの入居者さんの中に、僕の姿が見えたという人はいませんでしたから……」
 「嘘つけ。じゃあどうしてお前はこんなに平然としていられるんだ」
 「それは……まぁ、最初は僕も驚きましたけど、これはこれで僕としては嬉しい状況には違いないので、せっかくだからエンジョイしてしまおうと」
 「何がエンジョイだフザけんな! とにかく出て行け、今すぐ!」
 「無理ですよ、僕、部屋の精ですし」
  さも平然とばかりに答える自称部屋の精に、いよいよ優人は苛立ちを爆発させる。
 「ああもう! なんかお前と喋ってると頭おかしくなりそうだよ! いいから出て行け!」
  言いながら優人は、ほとんど力任せに男を玄関先に叩き出した。そのまま扉を閉じ、手早く鍵とチェーンをかける。
  とりあえず、これで安心だ……
 「あのっ」
 「え?」
  はっとして振り返る。瞬間、さすがの優人も今度ばかりは凍りついた。
  優人のすぐ背後に、たった今、外に叩き出したはずの不審者が悲しげにうなだれていたからだ。
  馬鹿な――
  南側の窓はすべて鍵をかけていたはずだ。よしんば窓の方、つまりアパートの裏手に回って鍵を破ったとして、こんなふうに一瞬で回り込むことはまず不可能だろう。
  唖然となる優人の内心はいざ知らず、相変わらず男はすまなさそうに俯いている。
 「すみません……ご迷惑なのはわかります。でも、ご覧のとおり僕は家の外に出ることができないのです。僕自身が部屋なので……部屋が部屋を出る、というわけにはいかないでしょう?」
 「じゃあ、あんた……本当に部屋なのか?」
  我ながら馬鹿な問いだと思いつつ問えば、
 「はい。先ほどからそう申し上げているのですが……あっ、」
 「な、何だよ今度は」
 「今ちょうどお風呂が溜まったので、ちょっとお湯を止めてきますね」
  そして男は、いそいそと風呂場の方に歩いてゆく。
  その背中を見送りながら、なぜか優人が思い出していたのは今現在の銀行の預金残高だった。言うまでもなく、引っ越しのための資金をどうするかという算段なのだが、どう考えても新しいアパートを契約し直すにはゼロの数が足りない。
  優人は心の中で、こんな事故物件を平然と紹介した駅前の不動産屋の人を食ったような狸親父を呪った。
 
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