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拒絶
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やめろ、と、どこかでロアの叫ぶ声が確かに聞こえた。
恐怖と困惑とに溢れたその声は、かつて一度もロアの口から聞いたことのない類の声色だ。ロアが強い恐怖を感じていることは、追いかける匂いから感じ取っていた。それでもリクの中では、まさか、という疑問の方が強かった。あのロアが、自分なんかに本気で怯えるはずがない、と。
でも。
今の声は明らかに、追跡者への恐怖を色濃く含んでいた。その、いよいよ突き付けられた事実にしかし、リクが感じたのは復讐者としての喜びでも優越感でもなく、ただ、腹の底が抜けるような寂しさ、それだけだった。
拒まれている……あのロアに。
思えばこれまで、ロアは一度もリクを拒まなかった。ついてくるなと口では言っても、その声はいつもリクを気遣ってくれていた。北国の旅で吹雪かれた夜、ロアはいつも無言で焚火に手招きしてくれた。それでもなお凍えそうな夜は、毛布を広げ、懐にリクを包みさえした。
密かに復讐を目論むリクを。
いや、今にして思えばその目論見もバレていたのかもしれない。それでもロアはリクを抱き寄せ、無防備な懐で温めてくれた。そのロアが、今は恐怖を孕んだ声でリクを拒絶している。……獣人だから? でも、その獣人に一度は身体を許したんじゃないか。ああいうことをしたんじゃないか。俺以外の獣人と。
どうして。どうして俺だけは。
「ロアーーーーーーーーーーー!」
闇の中、匂いのする方へとリクはあらん限りの声で咆哮する。胸に渦巻く感情が怒りなのか、あるいは違う何かなのか。それすらも判然としないままに。
返事は、なかった。ただ、漂う恐怖の匂いはいよいよ濃くなる。今の咆哮のせいなのか。もしそうだとして、やはり悲しい。復讐者として、仇に恐怖されることほど嬉しいことはないはずななのに。むしろそれを望んで、幼い日、危険を承知でロアの尾行を始めたはずなのに。
わからない。ロアだけじゃない、自分のことも。
「……ロア」
足を止め、森の奥をじっと睨む。そういえば、さっきに比べて少し視界が良くなっている。目が闇に慣れつつあるのか? ……いや、違う。よく見ると、重く垂れこめていた雲の隙間からちらほらと星が覗きはじめている。
やがて、その合間が青く輝いて、梢の隙間から清らかな光が差し込む。覗いた光の正体は、コインのように丸い満月。そういえば、いつの間にか雨が上がっている。獣人の鼻の天敵である雨さえ止めば、視界の利かない夜の森でも確実にロアを見つけ出せるだろう。
濡れた身体をぶるっと一振りし、体毛が吸った水を弾き飛ばす。獣人は身体を振れば濡れた身体をすぐに乾かせるから楽だなと言ったのは、確かロアだった。普段、獣人について語るときは憎しみを剥き出しにするロアが、あの時は珍しく愉快そうだった。
ああ。
さっきからロアとの想い出ばかり思い起こしている。思えば、この数年はずっとロアと一緒だった。辛いときも苦しいときも、もちろん幸せなときも。……おかしいな。確かにロアは仇のはずなのに、でも思い出してしまうのは、結局、美しく温かな記憶ばかりなのだ。
リクが生水を飲んで腹を下した時は、毒を薄めた薬を飲ませてくれた。
洞窟に入ると、危険なトラップの見つけ方を一つひとつ丁寧に教えてくれた。
町に立ち寄るたびに美味しいものをお腹いっぱい食べさせてくれた。
宿でベッドが一つしかない時は、自分は床に寝てでもリクにベッドを譲ってくれた。
そんなことばかりを思い出しながら再び匂いを辿っていると、ほどなくして崖の淵にぶつかってしまう。どうやら崖を踏み外して落ちてしまったらしい。さらに匂いを追って慎重に崖下へと下りながら、まるであの日の逆だな、とリクは思う。あの時はリクが崖から転げ落ち、それをロアに助けられた。
思えばあれが、ロアとの時間の始まりだった。
ようやく崖下へと下りる。まず鼻についたのは、微かな血の匂い。それは、嗅ぎ慣れたロアのそれに違いなく、ほどなくリクは、崖下の岩場に横たわるロアを見つけた。が、リクが近づいても微動だにしない。さらに近づいてよく見ると、頭や腕から血を流している。崖から落ちた時に突き出た枝や岩で傷つけるなりしたのだろう。まさか、死……? だが、リクの優れた聴覚は、ロアのかすかな呼吸音をすぐに捕捉する。よかった、生きている。そう心の底から安堵しながら、改めてリクは、もはや誤魔化しようのない己の感情を思い知る。
ああ、そうだ。俺は……
「……ロア」
ロアの傍らにひざまずき、そっと肩を抱き上げる。鼻先に迫る血まみれの額。ただ、よく見ると傷自体はさほど深くはない。それをつい舐め取ろうとして、慌ててリクは思い留まる。以前ロアに、傷は舐めるとかえって予後が悪くなることを教わっていたからだ。実際、リクが怪我をした時も、ロアの言うとおり水で洗って薬草を塗り付けておいた方が治りはずっと早かった。
こんな知恵を、ほかにもたくさん、たくさんロアに教わった。
相変わらずロアは、リクの腕で死んだように瞼を閉じている。そんなロアの蒼褪めた顔を見つめながら、リクはなぜか堪らない気分になる。あの女たちに感じたものとよく似た、でも、決定的に違うこの感情を何と呼べば良いのか。
わからない。ただ、抱きしめたこの温もりは、もう二度と手離したくない。
やがて、リクの気配に応じるように、震えながらもゆっくりと開く瞼。そして――
「う、うああ゛あ゛あ゛あ゛アああ゛あああああああああああア!」
おおよそ人のそれとは思えない悲鳴が、夜の闇を切り裂く。
恐怖と困惑とに溢れたその声は、かつて一度もロアの口から聞いたことのない類の声色だ。ロアが強い恐怖を感じていることは、追いかける匂いから感じ取っていた。それでもリクの中では、まさか、という疑問の方が強かった。あのロアが、自分なんかに本気で怯えるはずがない、と。
でも。
今の声は明らかに、追跡者への恐怖を色濃く含んでいた。その、いよいよ突き付けられた事実にしかし、リクが感じたのは復讐者としての喜びでも優越感でもなく、ただ、腹の底が抜けるような寂しさ、それだけだった。
拒まれている……あのロアに。
思えばこれまで、ロアは一度もリクを拒まなかった。ついてくるなと口では言っても、その声はいつもリクを気遣ってくれていた。北国の旅で吹雪かれた夜、ロアはいつも無言で焚火に手招きしてくれた。それでもなお凍えそうな夜は、毛布を広げ、懐にリクを包みさえした。
密かに復讐を目論むリクを。
いや、今にして思えばその目論見もバレていたのかもしれない。それでもロアはリクを抱き寄せ、無防備な懐で温めてくれた。そのロアが、今は恐怖を孕んだ声でリクを拒絶している。……獣人だから? でも、その獣人に一度は身体を許したんじゃないか。ああいうことをしたんじゃないか。俺以外の獣人と。
どうして。どうして俺だけは。
「ロアーーーーーーーーーーー!」
闇の中、匂いのする方へとリクはあらん限りの声で咆哮する。胸に渦巻く感情が怒りなのか、あるいは違う何かなのか。それすらも判然としないままに。
返事は、なかった。ただ、漂う恐怖の匂いはいよいよ濃くなる。今の咆哮のせいなのか。もしそうだとして、やはり悲しい。復讐者として、仇に恐怖されることほど嬉しいことはないはずななのに。むしろそれを望んで、幼い日、危険を承知でロアの尾行を始めたはずなのに。
わからない。ロアだけじゃない、自分のことも。
「……ロア」
足を止め、森の奥をじっと睨む。そういえば、さっきに比べて少し視界が良くなっている。目が闇に慣れつつあるのか? ……いや、違う。よく見ると、重く垂れこめていた雲の隙間からちらほらと星が覗きはじめている。
やがて、その合間が青く輝いて、梢の隙間から清らかな光が差し込む。覗いた光の正体は、コインのように丸い満月。そういえば、いつの間にか雨が上がっている。獣人の鼻の天敵である雨さえ止めば、視界の利かない夜の森でも確実にロアを見つけ出せるだろう。
濡れた身体をぶるっと一振りし、体毛が吸った水を弾き飛ばす。獣人は身体を振れば濡れた身体をすぐに乾かせるから楽だなと言ったのは、確かロアだった。普段、獣人について語るときは憎しみを剥き出しにするロアが、あの時は珍しく愉快そうだった。
ああ。
さっきからロアとの想い出ばかり思い起こしている。思えば、この数年はずっとロアと一緒だった。辛いときも苦しいときも、もちろん幸せなときも。……おかしいな。確かにロアは仇のはずなのに、でも思い出してしまうのは、結局、美しく温かな記憶ばかりなのだ。
リクが生水を飲んで腹を下した時は、毒を薄めた薬を飲ませてくれた。
洞窟に入ると、危険なトラップの見つけ方を一つひとつ丁寧に教えてくれた。
町に立ち寄るたびに美味しいものをお腹いっぱい食べさせてくれた。
宿でベッドが一つしかない時は、自分は床に寝てでもリクにベッドを譲ってくれた。
そんなことばかりを思い出しながら再び匂いを辿っていると、ほどなくして崖の淵にぶつかってしまう。どうやら崖を踏み外して落ちてしまったらしい。さらに匂いを追って慎重に崖下へと下りながら、まるであの日の逆だな、とリクは思う。あの時はリクが崖から転げ落ち、それをロアに助けられた。
思えばあれが、ロアとの時間の始まりだった。
ようやく崖下へと下りる。まず鼻についたのは、微かな血の匂い。それは、嗅ぎ慣れたロアのそれに違いなく、ほどなくリクは、崖下の岩場に横たわるロアを見つけた。が、リクが近づいても微動だにしない。さらに近づいてよく見ると、頭や腕から血を流している。崖から落ちた時に突き出た枝や岩で傷つけるなりしたのだろう。まさか、死……? だが、リクの優れた聴覚は、ロアのかすかな呼吸音をすぐに捕捉する。よかった、生きている。そう心の底から安堵しながら、改めてリクは、もはや誤魔化しようのない己の感情を思い知る。
ああ、そうだ。俺は……
「……ロア」
ロアの傍らにひざまずき、そっと肩を抱き上げる。鼻先に迫る血まみれの額。ただ、よく見ると傷自体はさほど深くはない。それをつい舐め取ろうとして、慌ててリクは思い留まる。以前ロアに、傷は舐めるとかえって予後が悪くなることを教わっていたからだ。実際、リクが怪我をした時も、ロアの言うとおり水で洗って薬草を塗り付けておいた方が治りはずっと早かった。
こんな知恵を、ほかにもたくさん、たくさんロアに教わった。
相変わらずロアは、リクの腕で死んだように瞼を閉じている。そんなロアの蒼褪めた顔を見つめながら、リクはなぜか堪らない気分になる。あの女たちに感じたものとよく似た、でも、決定的に違うこの感情を何と呼べば良いのか。
わからない。ただ、抱きしめたこの温もりは、もう二度と手離したくない。
やがて、リクの気配に応じるように、震えながらもゆっくりと開く瞼。そして――
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