52 / 68
2章
40話 さいしょのおしごと
しおりを挟む
いつぞやと同じく嶋野の車に乗り込み、まず二人が向かったのは練馬にある区美術館だ。
「そこの展示室で、現在、アマチュア画家を中心にしたグループの展覧会が開かれているんです」
ハンドルを操りながら、そう嶋野は語る。
「はぁ。てか……電車移動じゃないんすね」
正直に言うと、久しぶりに乗る電車を楽しみにしていたのだ。昔は毎日のように通勤ラッシュに揉まれながら大学に通っていたのに。……むしろ、だからこそ惜しかったのかも。失われた日常を追体験する機会が。
「ええ。すみません。当面はこれで」
車は目白通りをスムーズに西進し、三十分ほどで目的地に到着する。
練馬区立美術館は、区の美術館というわりに、なかなか立派な建物だ。敷地内のコインパーキングに車を停め、さっそく中に入る。入場料はかからない代わりに展示室の入り口で記帳を求められ、そこに、キュレーターになるに当たって支給された偽の名前を書きこむ。山中健太郎、って誰だそれ。つい噴き出したくなり、しかし、隣で同じく全くの別名を書きこむ竹上聡、もとい嶋野は何食わぬ顔でペンを動かしている。そうだよな、笑っちゃ駄目だよな。でも、秘密組織に属しているんだなというワクワク感だけはどうしても否めない。
展示室はなかなかの広さで、その四隅の壁に、大きさも描法もモチーフも、それに作家もまちまちの油彩画が無造作に並んでいる。
「こういう場所で、ギフテッドが見つかったりするんすか」
以前、高階から、嶋野はよくこういったマイナーな場所でギフテッド探しをしていると聞かされたことがあった。小さな個展や展覧会、果てはフリーマーケットでもギフテッド探しをしている、と。
「ええ。といっても、こうした場所で見つかるのは年に数人程度です。民間企業ならまずクビですね」
そうは言いながら、フロアの奥に進む嶋野は楽しそうだ。
「じゃ、君はそっちの列を」
「は、はい」
指示を受け、さっそく嶋野とは反対側の壁に並ぶ作品のチェックを始める。作品の多くは油彩画だが、モチーフは風景画、人物画、静物画と本当にまちまちだ。それに……こう言っては失礼だが、全体的に、上手い、とはお世辞にも言えない。当然、ギフトをそなえた作品など見つからず、目が虚しく滑るうちにあっという間に壁の一面分を見終わってしまう。
見ると、嶋野はまだ受け持ちの壁にある作品を眺めている。しかも、まだ半分ほど残して。……正直、作品のレベル的には漣が受け持った列と大差はない。何が面白くてそう熱心に眺めているのか。背後からそっと歩み寄ると、嶋野は、今まさに一枚の風景画にじっと見入っている。
「ひょっとして、新しいギフト……?」
すると嶋野は我に返ったように振り返り、それから、照れくさそうに苦笑いをする。
「あ……いえ、この空の色がきれいだなと」
「空?」
「ええ。タイトルは『春の夜明け』、とありますが、実際、大気に湿度と粉塵を含んだ春の空ならではの柔らかな色彩が、じつによく表現されています。コーラルをベースに、青や緑、黄色とさまざまな色彩を点描で乗せたタッチが功を奏していますね」
「えっ、ああ……そっすね」
「それと、構図や空気遠近法を駆使した奥行きの表現が素晴らしい。春の朝の柔らかな空気を、鑑賞者と共有したい、という気持ちがキャンバスから伝わってきます」
キャンバスを見つめながら、そう、しみじみ呟く嶋野は心底楽しそうで、漣は、白けた気分でさっさとチェックを終えた自分を密かに反省する。そうだ、それぞれのキャンバスに込められた気持ちや願いは、かつて漣が壁の落書きに込めたそれと変わらない。
どこかの名も知らぬ誰かが、やはり名も知らぬ誰かに届いてほしいと絵筆を手に取り、キャンバスに託したイメージや願い。それを、一つでも多く拾い上げようと手を伸ばす嶋野。彼が忙しく外を飛び回るのは、そんな声を一つでも多く拾い上げるため、なのかもしれない。
「ほんと……好きなんすね。絵を見るのが」
「ええ。アートがなければ、こんな世界に生きる価値などありません」
「えっ」
どういう意味だ。ところが、すでに嶋野は次の絵に集中していて、漣は質問の機会を逸してしまう。そんな漣の耳にはしかし、今なお嶋野の言葉が――その底冷たい響きがはっきりと残っていた。
――こんな世界に生きる価値などありません。
気を取り直し、今度は楽しむつもりで作品を見直してみる。と、一つ一つの絵に仕込まれた工夫や意図がすんなり入ってくる。構図や色彩の工夫。下地にした過去の表現と、そこに積み上げた本人なりの新しい表現。作者がその一枚にこめた時間や手間暇、愛情。――それらの情報が、茫漠とした塊ではなく、腑分けされ料理されて頭の中に整然と並んでゆく。漣自身が学んだ知識によって。
「視える、でしょう」
不意に内心を見透かされ、漣はぎくりとなる。
「えっ、ええと……はい」
「一説によると、ギフトとは高度に圧縮された情報を指すそうです。キャンバスに落とされた絵具の一滴すら、ギフテッドのそれは自ずと高密度の情報を纏ってしまう。いわば圧縮ファイルのようなものですね。しかし、高度に圧縮されているということは、元は巨大なデータだったということ。それに応じた処理能力がなければフリーズしてしまう。その処理能力を、我々は審美眼と呼び、また情報の圧縮度を鑑賞レベルという名で表現している。アートの理論を学ぶことで審美眼が上がるのは、そういう仕組みだとされています」
「ああ、だから、ギフテッドでなくてもキュレーターにはなれるんすね」
実際、協会には非ギフテッドのキュレーターも数多く所属している。
「ええ、ギフテッドであるか否かは、審美眼とは何のかかわりもありません。……逆に言えば、全ての人間は審美眼を鍛えさえすれば、ギフトの恩恵を正しく受けることができるのです。あくまでも理論上は、ですが」
「そこの展示室で、現在、アマチュア画家を中心にしたグループの展覧会が開かれているんです」
ハンドルを操りながら、そう嶋野は語る。
「はぁ。てか……電車移動じゃないんすね」
正直に言うと、久しぶりに乗る電車を楽しみにしていたのだ。昔は毎日のように通勤ラッシュに揉まれながら大学に通っていたのに。……むしろ、だからこそ惜しかったのかも。失われた日常を追体験する機会が。
「ええ。すみません。当面はこれで」
車は目白通りをスムーズに西進し、三十分ほどで目的地に到着する。
練馬区立美術館は、区の美術館というわりに、なかなか立派な建物だ。敷地内のコインパーキングに車を停め、さっそく中に入る。入場料はかからない代わりに展示室の入り口で記帳を求められ、そこに、キュレーターになるに当たって支給された偽の名前を書きこむ。山中健太郎、って誰だそれ。つい噴き出したくなり、しかし、隣で同じく全くの別名を書きこむ竹上聡、もとい嶋野は何食わぬ顔でペンを動かしている。そうだよな、笑っちゃ駄目だよな。でも、秘密組織に属しているんだなというワクワク感だけはどうしても否めない。
展示室はなかなかの広さで、その四隅の壁に、大きさも描法もモチーフも、それに作家もまちまちの油彩画が無造作に並んでいる。
「こういう場所で、ギフテッドが見つかったりするんすか」
以前、高階から、嶋野はよくこういったマイナーな場所でギフテッド探しをしていると聞かされたことがあった。小さな個展や展覧会、果てはフリーマーケットでもギフテッド探しをしている、と。
「ええ。といっても、こうした場所で見つかるのは年に数人程度です。民間企業ならまずクビですね」
そうは言いながら、フロアの奥に進む嶋野は楽しそうだ。
「じゃ、君はそっちの列を」
「は、はい」
指示を受け、さっそく嶋野とは反対側の壁に並ぶ作品のチェックを始める。作品の多くは油彩画だが、モチーフは風景画、人物画、静物画と本当にまちまちだ。それに……こう言っては失礼だが、全体的に、上手い、とはお世辞にも言えない。当然、ギフトをそなえた作品など見つからず、目が虚しく滑るうちにあっという間に壁の一面分を見終わってしまう。
見ると、嶋野はまだ受け持ちの壁にある作品を眺めている。しかも、まだ半分ほど残して。……正直、作品のレベル的には漣が受け持った列と大差はない。何が面白くてそう熱心に眺めているのか。背後からそっと歩み寄ると、嶋野は、今まさに一枚の風景画にじっと見入っている。
「ひょっとして、新しいギフト……?」
すると嶋野は我に返ったように振り返り、それから、照れくさそうに苦笑いをする。
「あ……いえ、この空の色がきれいだなと」
「空?」
「ええ。タイトルは『春の夜明け』、とありますが、実際、大気に湿度と粉塵を含んだ春の空ならではの柔らかな色彩が、じつによく表現されています。コーラルをベースに、青や緑、黄色とさまざまな色彩を点描で乗せたタッチが功を奏していますね」
「えっ、ああ……そっすね」
「それと、構図や空気遠近法を駆使した奥行きの表現が素晴らしい。春の朝の柔らかな空気を、鑑賞者と共有したい、という気持ちがキャンバスから伝わってきます」
キャンバスを見つめながら、そう、しみじみ呟く嶋野は心底楽しそうで、漣は、白けた気分でさっさとチェックを終えた自分を密かに反省する。そうだ、それぞれのキャンバスに込められた気持ちや願いは、かつて漣が壁の落書きに込めたそれと変わらない。
どこかの名も知らぬ誰かが、やはり名も知らぬ誰かに届いてほしいと絵筆を手に取り、キャンバスに託したイメージや願い。それを、一つでも多く拾い上げようと手を伸ばす嶋野。彼が忙しく外を飛び回るのは、そんな声を一つでも多く拾い上げるため、なのかもしれない。
「ほんと……好きなんすね。絵を見るのが」
「ええ。アートがなければ、こんな世界に生きる価値などありません」
「えっ」
どういう意味だ。ところが、すでに嶋野は次の絵に集中していて、漣は質問の機会を逸してしまう。そんな漣の耳にはしかし、今なお嶋野の言葉が――その底冷たい響きがはっきりと残っていた。
――こんな世界に生きる価値などありません。
気を取り直し、今度は楽しむつもりで作品を見直してみる。と、一つ一つの絵に仕込まれた工夫や意図がすんなり入ってくる。構図や色彩の工夫。下地にした過去の表現と、そこに積み上げた本人なりの新しい表現。作者がその一枚にこめた時間や手間暇、愛情。――それらの情報が、茫漠とした塊ではなく、腑分けされ料理されて頭の中に整然と並んでゆく。漣自身が学んだ知識によって。
「視える、でしょう」
不意に内心を見透かされ、漣はぎくりとなる。
「えっ、ええと……はい」
「一説によると、ギフトとは高度に圧縮された情報を指すそうです。キャンバスに落とされた絵具の一滴すら、ギフテッドのそれは自ずと高密度の情報を纏ってしまう。いわば圧縮ファイルのようなものですね。しかし、高度に圧縮されているということは、元は巨大なデータだったということ。それに応じた処理能力がなければフリーズしてしまう。その処理能力を、我々は審美眼と呼び、また情報の圧縮度を鑑賞レベルという名で表現している。アートの理論を学ぶことで審美眼が上がるのは、そういう仕組みだとされています」
「ああ、だから、ギフテッドでなくてもキュレーターにはなれるんすね」
実際、協会には非ギフテッドのキュレーターも数多く所属している。
「ええ、ギフテッドであるか否かは、審美眼とは何のかかわりもありません。……逆に言えば、全ての人間は審美眼を鍛えさえすれば、ギフトの恩恵を正しく受けることができるのです。あくまでも理論上は、ですが」
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる