ギフテッド

路地裏乃猫

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2章

42話 デッサンと独善の関係

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 午後五時。ようやく最後の画廊での鑑賞を終えると、ようやく二人は帰路についた。

 夕暮れの商店街は、帰り路を急ぐ人の姿で溢れていた。駅の降り口から次々と吐き出される人、人、人。年齢も性別もまちまちな彼らに共通するのは、彼らには帰るべき家がある、ということ。

 とっくの昔に、漣が失った――いや、自ら捨て去ったぬくもり。

「そういえば……聞きそびれていたんですが、もう、僕の作品は見ましたか」

 画廊から車を停めたコインパーキングへと向う途中、ふと、隣を歩く嶋野がそんなことを聞いてきた。

「えっ? え、ええ、わりと最初の頃に……」

 というより、最初の審美眼テストで4に合格したとき、真っ先に閲覧申請をかけたのが嶋野の作品群だった。それから一週間後、ようやく閲覧が叶ったときの感動を、漣は今でもよく覚えている。

 それは、まさに完璧な素描ドローイングだった。

 しいて既存のアーティストに例えるなら、アンリ・マティスだろうか。描線と空白との調和。既存の表現の分解と再定義。理性と感性とによって鋭く研ぎ澄まされた表現は、確かに、マティスの影響をふんだんに感じさせる。ただ、デッサンのシビアさと正確さは、むしろ北斎のそれに近い。そうした先人たちの表現を下地に、嶋野の絵はさらに先へと進んでいた。たった一本の線で、どれだけの動きとかたち、時間と空間を表現しうるか。それを突き詰めた先に彼のドローイングはある。

 作品はドローイングが中心で、彩色画の類は一枚も見られなかった。それでも彼のアート群は、彩色画に引けを取らない鮮やかさをそなえていた。例えば人物画の場合、その細かな表情で彼が蒼褪めているのか、恥ずかしさに頬を赤らめているのかは一目瞭然だった。白いスケッチブックに黒い描線が走るだけの紙面には、じつに多彩な色が踊っていた。

 これが、描く、ということなのだと、打ちのめされる心の片隅で漣は思った。

「凄かったっす。ほんと。俺は……いつも面でざっくり色を乗せるだけなんで、あんなふうにシビアに輪郭を取れる人は、やっぱ憧れるっつーか……いいっすよね、デッサンが上手い人」

 すると嶋野は「そうですか」と微笑する。ただ、その笑みはどこかぎこちない。何となく、見てほしくなかったのかな、と漣は思う。ただ、彼の作品の鑑賞レベルは3。以前ならともかく、今の漣に影響はないはずだ。そもそも何かしらの影響が出ているなら、こうやって普通の会話はできていない。それこそ父のように、内心で怯えながら彼に相対していただろう。

 それとも単に、自信がなかった? いや、あのレベルで謙遜などされた日には、逆に漣の方が自己嫌悪に陥ってしまいそうだ。

「なんか、コツ……とかあるんすかね。いや、物量をこなせってのは大前提として、それ以外の……」

 すると嶋野は、一瞬、困った顔で漣を一瞥する。いちばん耳に痛い答えを先に潰してくる生徒に呆れたのかもしれない。

「……デッサンとは、本来、極めて独善的な行為なのだと僕は思います」

「は? ……独善?」

「はい。本来、輪郭線などというものは存在しない。そもそも物体というのは、視覚に捉えた角度や瞬間によって、いくらでもかたちを変えてしまう。そうした物体の多面性を、より誠実に表現しようと努めたのが、あなたが最も影響を受けるキュビズムの在り方です。……が、あれは巨大なアートの潮流の中では、あくまでも一つのカウンターに過ぎません。長い長いアートの歴史において、アーティストたちは、いかに正確な線で物体の形状を捉えるかに腐心してきました。正しくは……そう、世界から切り分けてきた」

「切り分ける……っすか」

 曖昧に相槌を打ちながら、何だか久しぶりだなと漣は思う。こうして嶋野の長い蘊蓄に大人しく耳を傾けるのは。

「ええ。本来は境界など存在しないはずの世界に線を引く。それがデッサンの本質です。世界と対象物。そして自分。そうやって切り分けることで、世界は理解される。僕にとってデッサンとは、世界に対する理解のプロセスに他なりませ――」

 と、そこでふと嶋野は言葉を止める。目の前に、二人の進路を塞ぐようにスーツ姿の男が立っていたからだ。単純に二人に用があるにしては違和感がある。声をかけるそぶりもなく、ただ、わけがわからないという顔でじっと二人を見比べている。

「あの、何か」

 すると男は、相変わらず戸惑いもあらわに、「すみません」と謝る。

「その、私にも、何が何だか……」

「は?」

 意味が解らない。とりあえず男の傍らをすり抜けようと横にずれると、今度は広げた手で進路を塞がれる。

「いや、何なんすかほんと、さっきから――」

「わかりません。ただ、あなたを捕えなくては」

「は?」

 問い返したそばから男に飛びつかれ、慌てて漣は後ろに飛び退く。一体、何が起きて――

「こっちへ!」

 見ると、嶋野はもう男の脇をすり抜けて走り出している。その背中に漣も慌てて続く。と、今度は別の男が、漣のと目が合うなり困惑顔で駆け寄ってくる。さらに、通りの逆側からは数人の女子高生が。まるでゾンビ映画だな、と、無我夢中で商店街を駆けながら漣は思う。

 ようやくコインパーキングに到着すると、すでに嶋野は料金を払い終え、運転席に乗り込むところだった。続けて漣も車の助手席に飛び込み、とりあえずほっと一息つく。助かった。あとはこのまま発進すれば――と思いきや、目の前でバン! と派手な音がして顔を上げる。見ると、さっきのサラリーマンが縋るようにバンパーに取りついていた。いや彼だけじゃない、さっき通りで見かけた連中が次々と。

「なな、何なんすかコレ!」

「くぐつ」

「えっ」

 振り返ると、運転席で嶋野が何やらスケッチブックに書いて――いや描いている。

「〝傀儡〟。アートを目にした人間に、任意の命令を吹き込むギフトです。おそらく渡良瀬さんの部下、矢原さんの仕業でしょう。君を見つけ次第、拉致するよう命令されていたんでしょうね」

「命令? って……じゃあそのアートはどこに、」

「わかりません。街頭広告に仕込まれていたのかもしれませんし、ネットで配信されていたのかもしれません。それを知らず知らず目にしてしまった人間が、ターゲットである君を見つけ、確保を試みたのでしょう。手段と倫理さえ問わなければ、この程度のことは我々ギフテッドには造作もありませんからね」

「手段と倫理さえ……」

 ――例えば、私がその気になりさえすれば、この国すら容易に牛耳ることができる。

 そういうことか、と、今更のように漣は嶋野の言葉を――その脅威を噛み締める。あの時は、いくら何でも盛り過ぎだろうと思った。が、あれが誇張でも何でもなかったことは、目の前の状況が証明している。

 ガン! と、耳元で派手ながして、見ると、先程の男が消火器の尻を助手席の窓ガラスに叩きつけている。

「わ、あああ、すみません!」

 泣きそうな顔で必死に詫びながらも、男が凶行を止めるそぶりはない。そのまま二度、三度と消火器を叩きつける男に、漣は怒りよりも恐怖を覚える。この状況の異様さ。これも、ギフトの影響だというのか。そう漣が身構える間にも、男は窓をぶち割り、ぽっかり空いた窓枠から乗り出すように手を伸ばしてくる。割れた窓枠から引きずり出そうとでもいうのか。本当に、まるっきりゾンビ映画じゃないか!

「し、嶋野さんっっ!」

「ええ」

 対する嶋野は、あくまでも落ち着いている。まさか、いつぞや妹の心をハックした時のように、あの絵で彼らを洗脳するつもりなのか。だが、美海の時は相手が正気だからよかった。今回の相手は、すでに別のギフトの影響下にある。そんな連中の心を、果たしてハックできるのか? ――などと漣が気を揉むそばから、嶋野はドアを開いて外に出る。そうして、今まさに車にたかる生きたゾンビたちにそれを向けた。

「道を空けなさい」

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