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12.一瞬の快楽
こんこん、と扉を叩くと、恐ろしいくらいに間延びした返事が聞こえた。
「はーい。トラシュだろ? 入っておいで」
本当に、こいつはどれだけ僕を馬鹿にする気なんだ。
扉に触れると、それは僕の魔力で勝手に開く。
すると、そこから見えるリビングで、あの男は一人で朝日を背にして立っていた。
「怒って帰ってこないかと思った」
「怒っています。それに帰ってきたんじゃない。僕の家は、ここじゃない」
「今日から、この部屋を家にしていいよ」
何を言っているんだ、この人は。
なんでこんな時にまで笑顔なんだ。
本当に……どこまでも人を馬鹿にする奴だ……
握っていた炎の剣が、僕の感情に応えるように黒く燃え上がり、一瞬でそいつまで伸びていく。
いつも余裕で僕の魔法を吹き散らしていたその男は、初めて後ろに下がって避けた。
炎が渦を巻いて燃え上がり、床と天井を真っ黒にする。焼けたところから、炎は爆発するように広がり、憎い男を包んだ。
「……本気で怒ってるんだ……」
炎の中で、その男は少しだけ顔を歪めて言う。その額から、汗が落ちていた。
冷や汗ってやつか? フュイアルさんがそんなものを流すの、初めて見た。
フュイアルさんの焦るその表情が、僕の腹の中に、さっきまでなかった感情を灯す。
快感だ。
体の中に生まれた炎に、全身がじりじりと焼かれているようだ。この炎は、きっと、僕を中から破壊していく炎だ。それなのに、気持ち良くてたまらない。
炎の剣が勢いを増す。
僕の感情が魔力を動かし、快楽が魔力の流れを早くする。
いつもより、自分の魔法が強化されていくのが分かった。
僕を包む魔力が、僕の身体能力を引き上げる。体がまるでなくなったかのように軽い。
弾け飛ぶ火の粉すら追い越して、僕は、フュイアルさんの懐に入った。
勝った。
そう確信した瞬間の悦楽は、今までの何より深く僕の体を犯し、そして堕落させてしまう。
速すぎる確信は、一瞬で打ち砕かれた。
後一歩でフュイアルさんに届くというところで、僕は横面を殴り飛ばされ、壁に減り込むくらい激しく打ち付けられた。
「いった……」
骨、折れたんじゃないかってくらい痛い。頭はクラクラするし、打ち付けた全身が痛くて、勝手に涙が出る。
いつの間にか、部屋中に広がっていたはずの炎も、全て消えてしまっていた。
「はい。残念でしたー」
パンパン手を叩きながら近づいてくるフュイアルさんは、間抜けな僕を見下ろして笑っている。
「後少しだったのにね。でも、今日は惜しいところまで来てたよ」
「……からかわないでください……」
……またダメか……でも、今回は結構いいところまでいった。
…………なんだか急にすっきりした。
部屋に広がっていた炎が消えたら、あれだけの怒りと憎悪が落ち着いたみたい。
……フュイアルさんを襲うのは、また怒りが燃えがった時、それでいいか。
「大丈夫? 強く殴りすぎた?」
不気味なことを言って、フュイアルさんは座り込んだままの僕に手を貸そうとする。
頬の痛みがすっと消えた。フュイアルさんの魔法だろう。
余計なお世話だ。
僕は、フュイアルさんの手を跳ね除け、立ち上がった。
「ちょっとは僕、勝ってました?」
「ちょっとだけね。ご褒美に朝食をあげよう。おいで」
手招きするフュイアルさんのそばのテーブルには、湯気を上げる食事が並んでいる。
「作ってたんですか?」
「うん。トラシュが帰ってくるといいなーって思いながら」
「……キモ……でも、今は機嫌がいいから食べてあげます」
テーブルにつくと、早速フュイアルさんは、コーヒーを二人分入れ始めた。
心地いい香りが広がって、気持ちが落ち着いていく。
僕とフュイアルさんはいつもこう。
たまに僕が本気で怒って襲いかかって、それでも勝てずに、だけど全力でやったら少しスッキリして、とりあえず今日はいいかって感じて、殴る気もなくなって、なんとなく、こうして二人でコーヒー飲んだりする。
ダストの前に、別の人と付き合ってた時も、そうだった。
「……あの……フュイアルさん」
「なに?」
「大通りでいきなりダストが消えたの、フュイアルさんの魔法ですよね?」
「そうだよ」
「前から聞きたかったんですけど、消えた奴ら、どこに行ってるんですか? 僕の前の彼氏も、そのまた前の彼氏も消しましたよね? 別の街にでも運んでるんですか?」
「んー? 秘密」
「なんでですか?」
「秘密だから。ミルクいる?」
「……いりません」
フュイアルさんが、こうして何かをはぐらかすことは珍しくない。そしてそういう時は、いつもだいたい笑っているけど、すごく凶悪そうな顔している。
でもまあいいか。そんなことはどうでも。だってもう別れたし。
早速出されたコーヒーを一口。
ちょっと苦いな……だけど今更ミルクくださいなんて言うのも嫌。
「コーヒーじゃなくて、紅茶ください」
「わがまま言わない。また吊るされたい?」
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