巫女姫はかく語る

境 美和

文字の大きさ
上 下
1 / 5

わたし、おにいさまがこわい

しおりを挟む
 その日、国を囲うようにしてある青々とした恵みの山々の、南一面の向こう側から閃光がほとばしった。瞬く間に轟音が広がり、恐ろしいの程の地響きは、神の守りのある山々を一斉に震わせ、うねる風は瞬く間に城下を荒らすと、隣国との境にある、堅牢な丸太で作った物見台まで揺すった。



 これは、事が起きてから間もなく、王と王妃の間に早馬で駆け付け駆け込んできた伝令兵が伝えたことだった。









 伝令の駆け込んでくる大分前、王は真昼に突如生まれた閃光と轟音に驚き怖れ、王城の中庭、湧き出る泉の前で祈りを捧げていた巫女姫を謁見の間に呼びつけた。兵の後ろに水色の惟神が見えるや否や、怒りで赤く染まった顔で玉座から乗り出し詰問する。



「巫女姫よ! 守護神様である”我らが君”に見出されし娘よ!!!

 この騒ぎは何事か!? よもやお前、”我らが君”のご不快を買うような事をしたのではあるまいな!?」



 傍で控える王妃は、王の慌てぶりにこちらも動揺しつつ、広間の真中に膝を折った巫女姫を、責めるような目で迎えた。



 巫女姫は、息せききって駆けてきた酷い動悸とめまいとを何とか抑え、心からの敬愛の礼を取る。

 立て膝になると両腕を左右に伸ばし、渦を巻く朱色の文様の浮き出る両手で惟神の裾を持つと、肩口から零れ落ちる豊かな栗色の髪も纏うヴェールも床に着けて、深々と頭を垂れた。



 一言、喋ろうとして声が出ず、二言目には、努めて平静に声を出す。



「おとうさま、おかあさま。どうぞ、落ち着いて下さいませ。

 昨夜からの祈りの中で、わたくしは確かに”我が君”より、この国への寿ぎと、わたくしの身を案じて下さるお声を賜っております。



 ――――婚礼の日が、楽しみである、とも。



 愚かなわたくしには、”我が君”の御身が案じられて仕方がないのです。

 すぐにおうかがいを立てたく存じますれば、今、一度、御前を辞す事を、わたくしにお許し下さいませ」



 静かな巫女姫の言葉に、王と王妃は幾分か安堵した様子だった。



 王は、打って変わって、急かして呼びつけた事や、日頃の祈りを労うと、すぐ巫女姫にうかがいを立てるように促した。



 そして、巫女姫が深い一礼のあと薄い水色の衣をはためかせ、舞うように足早に謁見の間を去ってから間を置かず王妃を伴い、神と巫女姫との睦言を確かに見届ける為、城内の祈りの場へと続いた。



 しかし、巫女姫は王や王妃のように安堵を抱いていなかった。



 彼女は、城内の真ん中、丸く空を切り取る中庭の草地に入ると、泉を囲む低い石垣の前に両膝をつき、謁見の間で王と王妃にしたように礼を取った。



 ついで渦を巻く朱色の草のような文様が浮き出る両手を草地に重ね、その上に額を置くと、神に向かい、語り掛けた。



「我が君。我が君。わたくしのいと高きお方。

 わたくしは、御身の安寧を願ってやまぬ者。

 昨夜のお優しき響きを、今、ひとたびわたくしに与えて下さいませ」



 一度唱えて、返事はなく。二度、三度目となろうか。



 昨夜は確かに降りてきた気配がない事に、とうとう、布靴を脱ぎ捨て、やや乱暴に石垣を超えて、足早に泉の中に入って行った。



 泉の真ん中までくると両膝をつき、更に濡れて重くなった惟神を、渦を巻く赤い文様が浮き出る両手で持ち上げ、深く礼をとる。それは巫女姫の体が殆ど水中に収まる程に深く。



 水色のヴェールが一瞬風をはらみ、ふわりと円状に広がると、緩やかに裾から沈んでゆく。



 巫女姫の豊かな栗色の髪もまた、両の柔い肩口から滑り落ち、水面に美しく広がった。

 巫女姫の苦悶に満ちてさえ美しくある横顔もまた、丁寧に水面に伏せられた。



 一拍。二拍。

 三拍。



 水中から静かに面を上げた巫女姫は、舞うように両手を水面に平らに重ね、その先に己の額を触れさせせる。落ちる雫を拭う事もせず、四度目の声を、張り上げた。



「我が君、我が君! 

 わたくしのいと高きお方。この国を幾世と寿いで下さりしまこと尊きお方!



 貴方様に選ばれし、テュティは、御身の安寧をただただ願ってやまぬのです!



 どうぞ、我が君。

 お声を、お声をお聞かせ下さいませ!!!」



 巫女姫の、雅な行動の奇怪さは、何より張り上げられた声には、切願と焦りが滲んでいる。



 その様は、柱の陰から巫女姫の様子を窺っていた王と王妃を、そして護衛としてついてきた兵を、テュティ付の侍女達の不安を、更に掻き立てた。



 とはいえ、中庭の草地に神の赦しのないものが入ることは禁忌。泉に抱かれる巫女姫に声をかける事もまた、禁じられていた。

 それが幾星霜とこの国を寿いできた神の怒りを買うと、数え切れぬ先人たちが既に証明している。



 その禁を犯す程までは、王も王妃も、その場にいる誰も、愚かではなかった。





 巫女姫の切なる呼びかけに、やがて、ああ、と。天から地から、とどろきが返る。





 その声は巫女姫の顔を輝かせたが。

 続く言葉は、彼女の想像し得ぬものだった。







――――ああ、ああ――――

――――我が花嫁と選びし娘。幾年幾瀬の巫女は、みな美しかったが、汝より美しきものはおらぬぞ。テュティよ――――



――――まこと――――



――――まこと、汝だけでも、連れてゆきたいものよ。口惜しき……。まこと、口惜しきや……――――



――――しかし、仕方のないこともある。既に時が赦さぬ。赦さぬのだ……――――





――――ああ、汝だけでも連れてゆけたらのう……。誰より美しき我が妻となったであろうに――――









 声は、一方的に切れた。



「どういうことですか”我が君”」



 困惑し動揺し、涙を湛え、ついには金切り声に近く問う巫女姫の声など構わず、一方的に語り、ついで、消えた。

 彼女は、漠然と、この神がこの地を去ったと知った。

 この、”我らが君”の最後のとどろきは、後の兵の伝えるに、国の境まで響いたという事だった。



 伝えられた時、恐らく隣国にも響いただろうことを察してか、王妃は蒼白に、いまや病の床にある。



 王やその家臣は、神に捨てられた国の行く末を案じつつも、民の憂いや諍いを収める事に大半の労力を費やした。

 南の山々の向こう側の、あまりの変わりようを気に掛ける余裕もなく。





 南の山々の向こう側は、広大な森と草原とが果てもなく広がり、幾重もの低い丘に阻まれて容易と見通せぬ筈が、この国の南の山を一つ越えたふもとの辺りで大地が枯れてゆき、後は一面、毒々しいまでに赤い砂が広がる景色になっていた。

 それは、確かにこの国の領土であった場所も。





 何が起きたのかは、今や誰にも計り知れぬことであった。





 神ほど残酷で恐ろしいものはないと、この国の者たちは知っている筈だった。

 幾星霜と前から度々、一方的に加護と約束を突き付けてきては、逆らえば死や災いを与う存在。

 少なくともこの国では、それが、”我らが君”守護神。



 一方的な約束は、そして一方的に破られた。





 この日より、この国ならずこの世に確かにあった多くの神々の姿も形も消えた。

 しかし、そんなことを狭い見識のこの国の者達が分かる筈はなかった。





 ただ、多くの者が。

 この国は神に見捨てられたと、絶望した。

 













 神の花嫁に選ばれたのは、テュティが数えで六つの歳だった。



 渦を巻く朱色の草のような文様が、胸元から臍まで、また、両肩から両手の中指の爪の先まで、両足の太腿から親指の先まで、一晩にして浮き上がった事がその証明だった。

 テュティは、もうずっと前から、王家の血を引く娘は国の守護神に嫁ぐ事もあると教えられていた為、文様が浮き上がった夜、微か、こわい、と思った傍ら、とても安心したのだった。これで、最悪の事は起こらない、と。



 テュティには、何よりも、誰よりも怖い存在がある。

 それは、”我らが君”、”我が君”、と呼ぶ名も知らぬ神ではなかった。

 神の機嫌に一喜一憂ばかりで、実の娘であるテュティの事をあまり顧みない王と王妃の事でもない。二人についてテュティは、優しい所もある事を知っているし、確かにテュティの為を思って言葉をかけてくれる事もまた知っている分、嫌いではなかった。



 また、テュティは、生薬に通じていた。日々、献身的に祈りを捧げる傍ら、専ら神の赦しを得て、城の書庫を漁るのが密かな楽しみであり、薬草の知識がその産物だった。



 テュティが、その知識を実践できたのは、神の花嫁となってから実に三年後。

 神の求めに従い、テュティにとっては生まれて初めて城外へ出た時だった。



 巫女姫を守る為、手練れと言われている兵士と、御付の侍女を伴い、馬車と、騎馬隊とで列をなし、南の山を一つ越えた地に神事に赴く。朝の早くに城を出て、その日の夕刻には、神事の行われる地の近くに建てられた館に入り、一晩を過ごしたのちに神事を行い、翌朝に館を出て夕刻には城に戻る。年に一度の、三日間の外遊であった。



 騎馬隊の誰も、神の供物であるテュティにも、その身の回りの事を務める御付の侍女達にも無体を働く者はなく、彼女を運び、護衛する者たちに災いが降りかかろうはずもなく。



 神事は、”我が君”のよすがにしている大きな泉の縁で、テュティが半日近く祈りを捧げる事を大半としていた。



 祈りを終えた後は、やはり神の赦しを得てではあるが、泉の周りを散策しては薬草をとり、仲の良い侍女と花冠作りに戯れることも出来た。

 城から出た事のないテュティにはそのどれもが楽しく、いくつ時を経てもそれは変わらなかった。



 花冠作りは神事ではなかったけれど、神の求めに応じて、毎年繰り返されるようになった。



 泉に花冠を捧げれば、花冠は見る間に泉へと吸い込まれ、その場に美しく輝く虹色の光を生む。その光は、泉の周りに適切に配置された護衛の面々にも届くほど眩く真昼の泉を照らし出し、とどろくような神の喜びの声と一緒に、くるくると円を描いて、テュティの文様に吸い込まれるのだ。

 その時に、恐らくは護衛の兵たちも、仲の良い侍女でさえも。テュティに深く深く、頭を垂れる。



 それが、テュティは少しだけ、嫌だと思っていた。

 光が体の内に入ってくる、皆が恐れ、敬う態度を取る。それらのことは、テュティに薄い嫌悪感と、同時に冷たいおぞけを抱かせることではあったが、それらは、まだ耐えられる範囲の事だった。



 勿論、散策先で出くわした虫やカエルやトカゲ、はたまた蜘蛛やヘビですらも、テュティの恐れるものではない。万が一、護衛や、侍女が蛇に噛まれても、テュティの薬草の知識が彼らを救う。

 薬草と、ほんの少し授かっている神の力が。



 薬草を適切に処置する際、うっすらと、しかし確実に。浮き上がる文様が熱を持つことは、仲の良い侍女にしか話してはいないけれど。



 その泉への通い、年に一度、春から夏に移り変わる季節のどこかで行われる神事のその道のりにも、神事のさなかにも、テュティの、長く辛い憂いと恐怖の種はなかった。





 或いは、帰りの馬車の中で。

 或いは、情報通の兵やお付きの者の言葉に。

 或いは、神事を終えて馬車を降りた時に。

 何時と言わず、日常のどこか。



『テュターン王子が待ちかねておいでです』





 この一言が、テュティの背中に氷柱を押し当てて、彼女の体温を瞬く間に奪ってゆく。朗らかでいたテュティの心は波立ち、恐怖に顔が引きつらないようにするのが精いっぱいになった。それは、もう数えで十と六つの歳になろうとも変わらない。



 いいや、歳を経るごとに、恐怖は増していくばかり。



 テュターン、とは。この国の第一王位継承者であり、テュティの二つ上の、実の兄である。

 ゆくゆくは、国の然るべき女性を王妃に迎える事が決まっているもの。



 または、長い間度々領地を争っていた隣国の神の守護が薄れたのか、隣国リザ国が急激な衰えを顕著にしている事から、テュティが数えで五つの時あたりから、我が国主導にて和平を結び、この国とリザ国の第一王女との婚姻を持って二つの国を一つにまとめる案が進められてもいるので、ほぼ、リザ国の第一王女を妻に迎える事が決まっている者でもある。



 隣国、リザ国は、子にも恵まれず、テュティが知るには、運にも恵まれぬ国。

 いまや、年老いた王妃が国王の代わりとなり、王家の血を繋ぐ役を負っているのだ。

 第一王女のみが正当な王位継承者ではあるが、家臣にだけは恵まれたのか、皆、仮初の女王と時期女王を良く支えているとは聞く。

 しかし、海辺が近いからであろうか、度重なる水害に見舞われる事の多い国でもあった。



 テュティは、和平と、そして援助として、二国が力を合わせ、新たな国を築いていく、その案にいたく感激し、感動したものだった。

 むやみに流される血はない方がよい。豊かな我が国と共に一つの国となるなら、テュティにも漏れ聞こえてくる程の隣国の貧しきは、民の悲しいさまは、良くなるのではないか。



 隣国の第一王位継承者である姫君は、少しばかり声高だが、大層美しい方と聞いている、賢く、また心根の優しき方とも。なれば、なればこそ兄は大切にするのではないか。それが良い、それが正しき事だ。そうすれば、最悪の事態は免れる。



 そう思っていたのだ――――神が去るまでは。



 確かに優しかった兄が居た事を、テュティは既に、おぼろな記憶でしか思い出せない。親愛だと、兄妹愛だと、家族愛だと思っていた眸の中に、いつから別の色が混ざっていたのかも、いまだに分からずにいる。



 優しく城の庭の草木を、顔を出す動物を愛でていたその姿は確かにあった筈なのに、いつの間にか庭師の整えた花壇を荒らし、花を踏みにじり、毒餌で動物を捉えて弄ぶようになった兄は。







 テュティが数えで五つの冬の晩。

 もう眠ろうとベッドに入ろうとした、神の花嫁に選ばれる前のいつかの夜の出来事が、いまだにテュティを苦しめ、恐怖に縛り付けている。





 兄が、テュティの寝所に、寝る時の袖長の貫頭衣姿で現れ、こう言った。



『テュティ。美しい妹よ。俺は、お前を俺の妻にするぞ』



 無邪気に、一遍の曇りもない笑顔で。テュティの実の兄はそう言って、テュティの薄い体を頼りなげに覆う簡素な白い袖長の貫頭衣姿を、じっくりと上から下まで眺め渡すと、ぽかんとしている妹の、己と同じ色の、格段に艶めく美しい栗色の長髪に手を伸ばし、指に絡めて、口づけた。



 髪から伝わった微かな感触が、その時なぜかテュティには、背をなで繰り回されたように酷く気持ち悪く思えた。髪に口づけ、髪を手放すと、舌で舐めずるような目で頬を触ろうとする己と同じ深い紫の眸が、おぞましい。



 瞬間の、言い得ぬ、恐怖と嫌悪感。



 その時のテュティは、気づけば思い切り、兄を突き飛ばしていた。

 突き飛ばした兄が無言でしりもちをついたまま、貫頭衣の裾を乱した格好でいても、テュティは兄の傍に寄らず、強張る身を自身で抱き締めるばかり。声にだけは、悪い冗談を笑う親しみを込めて、何も言わない兄から、じりじりと後ずさる。



『ごめんなさい、テュターンおにいさま。おけがはない?

 けれど、おにいさまがわるいです。あまりにこわいことをおっしゃるから。



 わたしとおにいさまは、おなじおとうさまとおかあさまから生まれました。実のきょうだいでこどもをつくるのは、”われらがきみ”も、多くのかみさまたちも禁じている、たいざいです。



 どうしてそんなこわいことを言うの? このごろのおにいさまは、とても、こわい。



 わたしは、おにいさまのお妃さまにはならないわ。

 ”われらがきみ”のみこひめにえらばれなければ、おとうさまの、かしんのかたに下されますよ』



 何も言わず俯いたままのテュターンに、ひとしきり言い終えると、テュティは体の中に溜りに溜まった吐き気や恐怖を逃がすように、大きく、息をついた。

 そうして、テュターンが冗談であったと、このごろの悪戯の延長で、妹を少しからかってみただけなのだと、そう言ってくれるのを待った。

 謝っても欲しかったが、それはなくても別に良かった。冗談だとさえ、言ってくれれば。



 けれどテュティの望む言葉は与えられなかった。

 テュターンは、くつくつと喉の奥で笑いながら、立ち上がった。



『ならば今、俺の妻にしてやる』



 そして今まで一度も聞いた事のないようなどす黒い声と共に、テュティを傍のベッドへと引き倒しその上に乗り上げた。とっさ恐怖で嫌だと止めて欲しいと暴れる妹など構わず、貫頭衣をはぐようにまくり、薄い体を覆う下布も力任せに引きちぎる。



 抵抗する度に頬を張られ、今やテュティは、呆然自失、ただ、されるがまま、兄のうわごとのようなおぞましい声を聞いていた。



『禁じられた』『禁じられたら欲しくなるぞ』『神の供物だ』『神の供物よ』『美しい』『滴るような柔肌よ』『とろけてしまいそうだ』『これを誰に渡すものよ』『奪うのだ』『奪ってやる』



 貫頭衣の下のいたるところを無心に撫でまわされるおぞけは言うに及ばず、知っている筈の兄の声すらも、テュティには別人のように聞こえた。あまりに気持ちが悪くて涙が勝手にあふれ出た。





 と、唐突に、体の上に覆いかぶさっていたものが、退いた。



 急に体が自由になったことに、テュティは少し遅れて気付くと、貫頭衣の下、今や下の衣すら剥がれた所のたよりない肌寒さに、急いで身を起こした。めくりあげられていた貫頭衣の裾がはらりと落ちて、テュティの体を覆う。その感触ですら一瞬震え、足のつま先まで全部自分を庇い縮こまりながら、両手で両肩を抱いた。遅れてやってきた酷い震えの中、ゆっくりと、実の兄を見あげる。



 兄が、頭を奮って、何かを強く否定するように、ベッドの上からじりじりと後退していく様を。



『テュティ、は、おれの、いもうと…! いもうと! ごめ、ん、ごめ、うば、ちがう! い、やだ、おれは、俺は』



 テュターンは、何かを必死に否定しているようだった。





 それでも、テュティにはもう兄は怖い怪物だとしか映らない。

 今は、怪物の気まぐれで、自由になったのだと。

 兄が後ろ向きでベッドから落ちた時も、ただ、怖くて怖くて、震える身を抱きしめているよりほかなかった。テュティは兄から片時も目を離さず、早くこの怪物が部屋から出ていてくれることを切に願っていた。



 この時の怪物の顔がどんなであったか、テュティは、よく覚えていない。



 兄が去ってから、暫くして、テュティはようやく声を上げて泣くことが出来た。

 その泣き声は辺りに響き、すぐさま、侍女が来た。仲の良い侍女にすべてを話そうとする前に、乱れた衣服に何を感じたか、湯殿が整えられた。



 侍女にも手伝ってもらい、怪物に撫でまわされた肌を何度も何度も擦り洗い流した。温かなお湯に、やっと、強張っていた肌が開いていった。





 必要なことだから、と、侍女はテュティの足の間を少し探り、深く深く、息を吐いた後、安心しました、とテュティに教えてくれた。



『姫様の仰った通り、テュターン様は姫様の体を撫でるだけ撫でて、ご退室なさったようですね。

 姫様はどこも、なにも、汚されてはおりません』



 美しい緑の眸に、輝くような金の髪をした一等仲の良い侍女は、少しだけきつめの目元もにっこりとさせて、テュティの背を凍らせるような事を続けて話す。



『申し訳ございません、姫様。この度の事は、わたくしの不注意が招いた事でもありましょう。

 これからは、なにが有ろうと、わたくしは隣部屋に控えております故。どうぞ、ご安心召されませ』



 この、テュティのお気に入りの、テュティと七つ歳の違う侍女は、とても熱心にテュティの身の回りの世話をしてくれて、よほどの用が入らない限り、常に、テュティの近くに、隣部屋に控えている。



 その侍女が外す要件は己の母である王妃の事に手が足りない、どうしてもの時とテュティは知っているのだ。侍女頭が呼びに来る。



 逆を言えば、侍女頭はそれ以外ではテュティのお気に入りの侍女の手を借りない。



 そのどうしてもの時を、テュターンが狙ったのだとしたら。





 テュティは、思った事のあまりの怖さに、お気に入りの侍女に思わず抱きついていた。



『なら、おかあさまの用事のときは、わたしをいいわけにして、ことわって。

 わたしが、だだをこねて、リシアをはなさないって。リシア、お願い』



 テュティ自身も、とても我儘だと思うこのお願いを、リシアと呼ばれた侍女は快く引き受けてくれた。

 この日の事が、侍女頭を通じて王の耳にも入った為か、それとも元よりの手筈であったのか。



 それから三日と待たず、テュターンは隣国へと援助の名目で出向き、居を構えることが公務になった。





 神の花嫁に選ばれてからも、リシアという侍女は、テュティの傍を極力離れなかった。城の図書室へ向かう時も、日ごろの事も、神事の際も。

 テュティが、十七を迎えようという月の五日前。唐突に神の去った後の、混乱の中においても。





 神が去ってから、一つ月の巡る間もなく。





 テュティは、己の命をどう使うべきか、考えている。
しおりを挟む

処理中です...